50話 強いんだよ
沙紀はソファーから静かに立ち上がり、部屋の隅にあるクローゼットへと歩み寄った。扉を開けた彼女は、奥深くにしまわれていた何かを、そっと引っ張り出してくる。
それは、ひどく煤け、形の崩れたうさぎのぬいぐるみだった。
本来は真っ白だったはずの肌は、今ではすすでくすんだ灰色に染まり、生地のあちこちが焼け焦げて、破れた隙間からは黄色い綿が無惨に顔を覗かせていた。両目も片方が取れかけ、残ったもう片方もほつれて、どこか虚ろな表情を浮かべている。
沙紀はそのぬいぐるみを、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に抱きしめた。その腕にこめられた力は強く、まるでこの一体だけが、彼女を過去へと繋ぎとめる命綱であるかのようだった。
そして、声にならない息を吐き、くぐもった声音で呟いた。
「―――これが、さっき言ってたお母さんにもらったうさぎのぬいぐるみ。あの日、瓦礫の下から唯一見つかった……私の私物」
言葉を継ぐたびに、胸の奥に押し込めていた記憶が、じわじわと染み出してくる。
「……言わなかったけど、家も……あの日、燃えて、全部なくなったの。家具も、写真も、お母さんの声も……みんな、炎に呑まれて消えた」
沙紀は顔を伏せた。だがその腕の中では、うさぎのぬいぐるみだけが変わらず、静かに彼女の想いを受け止めていた。
しばらくの沈黙が流れた後、沙紀は顔を上げ、ほんの少し、目元を緩める。
「……だから、この子だけは、ずっと捨てられなかった。どんなにボロボロでも、どんなに壊れてても……これだけは、私の“帰る場所”だったから」
そう言って沙紀はそっと、ぬいぐるみの耳をなでた。その仕草には、過去に失われたものすべてを慈しむような、祈りにも似た静かな想いが滲んでいた。
直弥は掛ける言葉も思いつかず、ただ彼女のその仕草を眺めた。
沙紀はぬいぐるみを抱きしめたまま、しばらく沈黙を保っていた。彼女の指先は綿が飛び出した部分をなぞるように動いている。何度も何度も――まるで、その裂け目から過去を取り戻そうとしているかのように。
「……これだけだったんだ。あの日以前から残ってる、"私"がここにいたって証拠は」
沙紀はベッドの上に座る。その声は、かすかに震えていた。けれど涙は見せない。ただ静かに、内側で燃えるような悲しみを押し殺しているだけだ。
直弥はそっと立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろした。言葉の代わりに、その手にそっと触れる。すべてを理解しているわけではない。けれど、少なくとも今は――彼女のそばにいることだけはできる。
沙紀はほんの一瞬だけこちらを見たが、すぐに目を逸らし、再びぬいぐるみに視線を落とした。
「お母さんはさ、強くて、優しくて、誰よりも立派な人だった。戦いの中で、誰かを守るために最後まで立ってたって…後で聞いた。自分の命を賭けて、誰かを助けたって」
言葉を切った沙紀は、ぬいぐるみを抱く腕に力を込めた。
「でもね、それでも…やっぱり、帰ってきてほしかったんだよ」
そのひと言が、胸を貫いた。
直弥は彼女の手を再び包むように握り返した。言葉にならない感情が、胸の奥で熱を持って膨らんでいた。彼もまた、失ったものを抱えていた。けれど沙紀のように、それをまっすぐに誰かに伝えられたことはなかった。
「―――こんなこと、言っちゃいけないのは分かってる。ちゃんと分かってるんだけどね……」
沙紀は、少しだけ顔を歪めて笑った。けれどその笑みは、涙をこらえるために必死に作られた仮面のようでもあった。
「……私は、あのとき、シェルターの人たちが全員……たとえ、皆殺しの憂き目にあったとしても……それでも、お母さんと一緒に死にたかった。こんなふうに一人きりで残されるくらいなら、いっそあの時、お母さんの隣で……」
言いかけて、言葉が詰まる。震える声と、喉の奥に詰まる嗚咽が彼女を押し潰しそうになっていた。
「……今だって思うよ。私なんかより、お母さんが生きてたほうが、絶対に皆のためになったって。なのに、どうして……どうして私だけが、生き残ったの……?」
ぬいぐるみを抱きしめる腕が、ぎゅっと強くなった。
「守られるしかできなかった、泣いて、怯えて、誰かにすがることしかできなかった私が……なんで、生きてるの……?」
その言葉は、誰かに答えを求めているのではなく、ただ自分の胸の奥に刻まれた傷に問いかけているようだった。
直弥は、ただ黙って聞いていた。何を言っても、何をしても、その痛みが癒えることはないのかもしれない。それでも、せめてその痛みを一人きりで抱え込ませないために。
そっと、沙紀の肩に手を添えた。
「―――それでも、生きていてくれて……少なくとも、俺は嬉しい。」
それだけは、彼の心からの本音だった。
「それに沙紀さんは守られてばかりなんかじゃない。吉林省のときもそうだった。廃屋のところで俺達三人が魔族に襲われたとき、沙紀さんは魔族も想定外の方法で奴を瀕死にまで追いやったじゃないか。」
沙紀は、無言のままぬいぐるみに顔を埋めている。それでも直弥は続ける
「強いんだよ、沙紀さんは。俺がそう言うたびに君は強くなんかないって言うけれど、沙紀さんは自分が思ってる数十倍、いや数百倍は強い心を持ってる。君があの時、何もかもを諦めていたら、あの場にいた三人ともきっと死んでた。沙紀さんがいたから、俺も、白伊くんも、今こうして生きてるんだよ。」
沙紀は顔を上げなかった。けれど、その肩がわずかに震えているのを、直弥は見逃さなかった。
「……君が過去を思い出して、あの時のことを語ってくれたのは、俺にとってすごく大きなことだった。辛い記憶を、心を裂くような出来事を、誰かに話すってすごく勇気がいることだろ? だから俺は思う。沙紀さんは間違いなく――強い。」
その言葉に、沙紀はようやくゆっくりと顔を上げた。目は涙で赤くなり、鼻もすすっていて、決して綺麗な表情ではない。だけど、そこには、わずかに安堵の色が浮かんでいた。
「……ほんと…ずるいよ、直弥くんって。」
「え?」
「こんな時に、そんなふうに言われたら……泣くしかないじゃない……」
くしゃりと笑って、沙紀は顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ぬいぐるみを抱きしめ続けた。
しばらくして、沙紀はまるで胸の奥に絡みついた何かを切り離すかのように、ゆっくりと深く息を吐いた。そして、ほんの少し唇を震わせながら、ぽつりと呟いた。
「……ごめんね、直弥くん。こんな情けない姿、見せちゃって。」
その声には、まだ消え残る痛みと、ほんの少しの照れ、そして静かな覚悟が混ざっていた。
けれど直弥は、ゆっくりと首を横に振る。
「情けなくなんてないよ。誰だって、泣きたい時はある。むしろ、泣けるってことは……ちゃんと、大事なものを守ってきた証だよ。」
その言葉に、沙紀はまた少しだけ目を伏せて、そして今度は、ほんの僅かに微笑んだ。
「……ありがとう。直弥くん。」
二人の間に、ほんの一瞬だけ静寂が流れた。けれど、それはどこか優しくて、穏やかだった。まるで、嵐の後に訪れる風のない海のように――。
***
『…じゃあ俺、部屋に戻るね。』
『ああ、うん。また明日。』
扉が閉まる音。ほの暗い部屋で男はパソコンを閉じ、懐から携帯端末を取り出した。
彼は簡単な操作の後、それを耳に当てる。数コール後、男は口を開いた。
「―――朽宮様、ご報告がございます。」
電話口の相手は朽宮言真、世間では狂風卿と呼ばれている白虎隊の四堂だ。
普通なら四堂の実名を呼ぶことは許されないが、彼はなぜか朽宮と、そう言った。
「…ええ、八幡直弥のことです。…ええ、はい。…今すぐでございましょうか? …数時間ほどお時間をいただければ、お伺いできますが…はい…はい、承知いたしました。……では、失礼いたします。」
通話を終えた男は、端末をそっとポケットに戻した。表情に感情はなく、ただ淡々と立ち上がる。部屋の片隅に置かれたロッカーを開き、中から黒いコートを取り出して羽織ると、その内ポケットからは銀色に光る認証用のバッジが覗いた。
数分後、部屋の小さな灯りが落とされる。扉が音もなく閉まると同時に、男の気配もこの場から消えた。
続く…




