49話 厄災の日 -4- 〜 三田沙紀編 〜
赤い。
赤い。
赤い。
赤い、赤い、赤い、赤い、赤い。
空が赤い。
瓦礫が赤い。
倒れた人の手が、服が、目が――赤い。
叫び声が、赤い。
煙が、赤い。
風が、赤い。
焦げた空気が、赤い。
焼け爛れた景色が、赤い。
もう何もかも、全部、全部が――赤い。
赤い、赤い、赤い、赤い。
頭が割れそうだった。
視界が染まり、心まで染まっていく。
鼓動の音さえ、赤い。
涙が、赤い。
走るたびに響く足音まで、赤く聞こえた。
「――助けて」
誰かが叫んだ。私かもしれないし、違うかもしれない。
でも助けられない。
何もできない。
何もかもが、赤いだけだった。
それでも。
――赤い、赤い、赤い。
それでも、私は、必死に走った。
瓦礫に足を取られても、炎の熱に皮膚が焼けても、前へ。
振り返ることはできなかった。振り返ったら、罌粟須さんの言葉が嘘になる気がしたから。
『沙紀ちゃんは生きろ。生きて、お母さんに元気な姿、見せてこい。』
焼け落ちていく建物の間を縫って、私はひたすらに駆けた。
足の裏が焼けるように痛い。肺が焦げつきそうなほど苦しい。
けれど――止まるわけにはいかなかった。
見上げた先。燃えゆくユグドラシルが、崩れながらも天に伸びようとしていた。
あの白かったはずの曙光の宮の片方は、もう黒く炭と化し、巨大な骸骨のように空へ爪を立てていた。
だが、まだ――すべてが焼き尽くされたわけじゃない。
もう一方の、燃えていないユグドラシル。それを護る、巨大な防災施設。
生族を守るために建てられたあの建物だけは、辛うじて形を保っていた。
熱風と灰に覆われながらも、真白な外壁がまだかすかに見える。
――あそこに、母がいる。
きっと、まだ無事でいてくれている。
罌粟須さんが私を逃がしてくれたのは、このためだった。
「……お母さん……っ!」
小さく呟いた声が、煙の中に溶けて消える。
それでも私は、心の中で何度も叫び続けた。
待ってて、お母さん。
今行く。
絶対に、たどり着くから――
そのとき、背後で何かが爆ぜる音がした。
ただの爆発音じゃない。獣の咆哮のような、鉄が裂けるような、耳にねじ込まれる不快な音。
全身の皮膚が総毛立つ。
振り返れない。けれど、わかる。
何かが来ている。私を追って。背後から、悪魔が――
「来ないで、来ないでぇっ……!」
涙も、もう涸れ果てていた。
喉も焼けるように痛く、叫ぼうとしても声が掠れるだけだった。
それでも、走った。
逃げるためじゃない――辿り着くために。
燃え上がる道を、崩れゆく瓦礫の狭間を、ただひとつの希望にすがって、私は足を動かし続けた。
――お母さんに会うために。
身体は限界に近かった。酸素が足りない。視界が揺れる。それでも私は、あの黒煙を突き破ってでも行かなければならなかった。
燃え盛るユグドラシルへ。まだ崩れていない、あの建物の中へ。
そこに母がいると信じて――
だが、その瞬間だった。
――ドォンッ!!!
破裂するような爆音が空気を裂いた。
反射的に顔を背けた次の瞬間、全身に何かがぶつかり、私は右の方へ吹き飛ばされた。
「ッ――!」
地面に叩きつけられた衝撃で、肺から空気が抜けた。
何も聞こえない。耳の奥が、甲高い金属音のような耳鳴りに支配されていた。
何が起きたのか分からない。ただ、空がぐるぐると回る。赤い空が、黒い煙が、焦げた建物が、次々と視界の端を横切っていく。
どこかで自分が呻いたような気がしたが、それも幻聴かもしれなかった。
頬に触れたアスファルトが熱い。焼けている。
でも、痛みが現実だと教えてくれる。
――私はまだ、生きている。
震える腕を、必死に地面についた。立たなきゃ。進まなきゃ。止まったら、母に会えない。
――そのときだった。
視界の端で、何かが蠢いた。
不規則な動き。人間のものではない。
ぐちゃり、と水気を含んだような音がした。
私は、顔を上げる。
赤い空と黒煙の隙間に、"それ"はいた。
歪んだ肢体。泡立つように脈打つ表皮。
かつては人間だった――そう錯覚するほどの名残を、かろうじて残した"何か"。
けれど、今はもう違う。
理性も言葉も失った、ただの殺戮の獣。それが今、私の前で涎を垂らし佇んでいる。
「……嘘……」
立ち上がろうとした膝が震える。喉が鳴った。
私は声を出そうとするが、呼吸が浅くて言葉にならない。
――"それ"は、私を見ていた。潰れかけた目で、じっと。
擦れた銀の徽章が目に入る。煤けたその服は、今朝曙光の宮で見た人も着ていた軍服に見える。今となれば、それは瘴気にやられた玄武隊員が魔族化したものであるとわかるが、まだまだ幼く魔族という存在すら知らなかった当時の私は、なぜ異形が軍服を着ているのか理解ができなかった。
―――いや、それを考える余裕すらなかった。
「嫌……来ないで……来ないでぇっ!」
叫びとも嗚咽ともつかない声が、かすれた喉から漏れた。その瞬間、"それ"が地を這う。四肢――いや、それと呼んでいいのかも怪しい。異様に長い手足を地面にめり込ませながら、蜘蛛のような軌道で、けれど異様な速度で迫ってくる。
――死ぬ。
その言葉が脳裏をかすめた途端、世界が鈍くなった。時間の流れが歪んだように遅くなり、振り下ろされる触手の軌道が、まるで水中にでもいるかのように、ゆっくりと見えた。
目を見開いた。視界が震え、涙ではなく、血が滲んでいた。
……お母さん、ごめんなさい。
……私、会いに行けなかった。
震える指が宙をかく。地面の破片が風に舞い、触手があとわずかで私の額を叩き潰そうとしていた。
そのとき――
世界が、もう一度、爆ぜた。だが、それは火でも爆薬でもない。けれど、猛烈な爆音があたり一帯を震わせる。心臓が鷲掴みにされるような重低音――
それは、雷だった。
轟音と共に奔った閃光が、夜のように赤黒く染まった空に、一瞬、昼のような白を取り戻させた。
「―――雷術解放、天雷鳴鎚」
その言葉が、世界を裂いた。
瞬間、空間が震える。耳を焼くような雷鳴が、鼓膜を打ち抜き、全身の細胞が強制的に覚醒させられるような衝撃。
それでも、私はその声だけは、はっきりと聞き取った。
――聞き馴染みのある声。
胸の奥に、何度も夢で聴いたその声が、鮮やかによみがえる。
私がずっと、ずっと聞き望んでいた。
優しく、
優雅で、
けれど、どこか凛として、決して揺るがない声――。
稲光の中、空から降り立つように、その人は現れた。
一歩ごとに雷が地を這い、周囲の空気を浄化してゆく。
淡く輝く雷光を纏い、その身にまとう漆黒のマントが、稲妻の風に大きくひるがえる。
まるで雷神が、神話の帳から抜け出してきたような――そんな威厳と美しさを携えて。
「――遅くなってごめんね、沙紀。もう、大丈夫だわよ。」
その瞬間、時が止まった気がした。
雷鳴の音すら、遠くなる。
「あ……」
私は、声にならない声で、震えながら口を開いた。
視界が滲み、頬を涙が滑り落ちる。
「おかあ、さん……」
もう会えないと思っていた人。
二度と交われないと思っていた温もり。
――私の、お母さん。
その姿が、今ここにある。
雷光の中で、強く、美しく、
私のすべてが――私の前に立っている。
「お母さん!!」
もう何も考えられなかった。
崩れ落ちるように、私はその胸に飛び込んだ。
「おかあ、さっ……あかあさぁ…ん……っ」
堰を切った涙が頬を伝い、溢れ出す。
あたたかいぬくもりが背中に返される。
優しく、迷いなく、包み込むような抱擁。
「よしよし、大丈夫よ。もう、怖くないからね」
その言葉だけで、
世界のすべてが、救われた気がした。
――雷鳴はまだ、空を裂いていた。
だが私の胸の中は、静かだった。
ただひたすらに、母の腕の中にいるというだけで。
母の服装は、今朝方に見たスーツではなかった。
大きな黒いマントを翻し、その下には重厚な女性用の軍服。
胸元にはいくつもの勲章が光り、威厳と歴戦の証を物語っていた。
そして、深く被った軍帽がその表情を少しだけ陰らせる。
――まるで、別人のようだった。
けれど確かに、この腕のぬくもりも、声も、母そのものだった。
「逃げましょう、沙紀。走れる?」
その声はいつものように優しくて、けれど今はどこか鋼のように凛としていた。
私は初めて見る母のその姿に、目を奪われながらも、こくりと頷く。
「……うん、大丈夫」
母は微かに笑った。そして私の手を強く握る。
「いい子。ついてきて」
雷鳴が空を裂く中、母は私の前に立ち、まるで風を切るように駆け出した。
私はその背中を追いかける。毎日、何度も見たあの背中――
けれど今は、誰よりも遠く、誰よりも大きく感じた。
目の前を走る母は、私の知らない“誰か”でもあった。
けれど、その手のぬくもりは、いつもと何も変わらなかった。
走って、走って、走って――
そしてようやく、避難シェルターにたどり着いた。
その先の出来事は、以前吉林省の洞窟で直弥くんに語ったとおり。
母は、誰よりも強く、誰よりも美しく――
そして、誰よりも優しかった。
だがその優しさは、決して私だけに向けられたものではなかった。
母は、分け隔てなくすべての人に微笑み、敬意を払っていた。
だからこそ、あの日――
彼女は、自らの命を代償に、シェルターにいた全員を守り抜いた。
母の死因は、人術の代償。
私をシェルターに残し、一人外へと出たその瞬間、
母は自らの命脈と引き換えに、最後の術式を放った。
後に聞いた話では、彼女と相対した魔族の数は優に千体を超えていたらしい。
銃後の民を守るには、もはや自分を差し出すほか術がなかった。
母はきっと――あのとき本能で悟っていたのだ。
自分の命一つと引き換えに、百、千の命が救われると。
戦乱が去り、シェルターの扉が開いたとき、私は真っ先に外へ飛び出した。
そしてすぐに、それを見つけた。
―――道の中央で、黒軍服の女性が倒れていた。
目を疑った。けれど、私の目はごまかせなかった。
それは、私の――母だった。
体中は血と焼け焦げた布で覆われ、傷だらけで、息絶えていた。
けれど、その顔は不思議と穏やかだった。
安堵したように、微かに笑みを浮かべたまま、空を見ていた。
私はそのとき、母の傍に膝をつき、泣くことすらできなかった。
胸の奥が空っぽになったような、何も感じないのに全身が痛いような、
あの感覚だけは、今でも忘れられない。
厄災の日の戦乱で、玄武隊では約2万人の死傷者が出た。そしてその中には、当時の四堂と、八間だった母、そしてもう一人の八間の姿もあった。彼女たちは最後まで抗い抜き、敵の波を押しとどめながら――命を落とした。
被害は玄武隊に留まらず、ADF全体に及んだ。8本あったユグドラシルは半数が崩壊し、秩序が大きく失われた。オリオン兵の56%が死滅し、魔族との戦線は一時的に全面崩壊。でもそれに関しては、魔族側も大きな被害を被っていたから、しばらくは歪な平和が訪れた。しかしそれでも、あの日を境に多くの者が日常を、家族を、そして未来を喪った。
それからしばらくして、玄武隊の新たな四堂には、現在と同じ――佳人卿が就任した。八間の席には、あの瞳巍さんと罌粟須さんが選ばれた。
母以外に身寄りのなかった私は、その後、バクレンさんたちに保護され、静かな生活を送った。けれど、心の奥底ではいつも、あの日、母のあの姿が焼きついて離れなかった。
――気がつけば、私は母と同じように軍服を身にまとい、銃を握り、仲間と共に戦っていた。
―――私の命は、母がくれたもの。
だから私は、今を生きる。
母が繋いだ命の中で、何度でも立ち上がってみせる。
どんなに理不尽でも、痛みでも、憎しみでも――
それが私の、生きる理由だから。
続く…




