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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第参章
49/112

48話 厄災の日 -3- 〜 三田沙紀編 〜

「すごーい!」


 私は思わず、そう歓声を上げていた。


 目の前に広がる大きな水槽。その中では、ゆったりと泳ぐクジラの影が通り過ぎ、次の瞬間には、まるで銀色のカーテンのように、イワシの群れがきらめきながら旋回していた。


 無数の魚が、青い光の中で生きている。

 その光景は、どこか現実味を失っていて、夢の中に迷い込んだような心地がした。


「すっげえな。最近の水族館ってのは、よくできてる」


 隣で呟く罌粟須さんの声は、相変わらず低くて、でもどこか楽しげだった。

 私はその横顔をちらりと見上げてから、また水槽に視線を戻した。


 しばらく歩き進めると、館内の照明がぐっと落ちた。


 導かれるように進んだ先には、クラゲの展示エリアが広がっていた。


 暗がりの中、円柱型の水槽がぽつりぽつりと並び、その中で、透明なクラゲたちが、ゆっくりと、静かに漂っていた。

 まるで時間の流れそのものを忘れさせるような、静寂の空間。


「……きれい……」


 私は自然とそう呟いていた。クラゲは光を受けてほのかに青く、あるいは赤く輝きながら、ふわり、ふわりと身を揺らす。何のために泳ぐのかもわからないその姿が、不思議と心に沁みた。


「なあ、沙紀ちゃん」


 ふと、罌粟須さんが私を見た。


「クラゲって、心臓も脳もねぇんだってさ。けど、生きてんだよ。不思議だよな」


「うん……」


 私はクラゲから目を離さずに、答えた。

 まるで自分の中の感情を、クラゲにゆだねるように──言葉にならない何かが、静かに広がっていく。


 そのとき、水槽のひとつに、見たことのない種類のクラゲが浮かんでいるのを見つけた。

 細く長い触手が何本も垂れ、体の中心には、黒い斑のようなものがある。


 思わず、その水槽に近寄る。


「……ねえ、これ、他のと違う……?」


「ん? ああ、それ……なんだろうな。説明書き、ないな」


 罌粟須さんが眉をひそめた。

 水槽には他と違って、名前も情報もなにも記されていない。


 それでもそのクラゲは、まるでこちらを見つめ返すように、静かに、静かに漂っていた。


「お名前、ないのかな。私がつけてもいいのかな?」


 私がそう呟くと、罌粟須さんは水槽のガラスに片手をついたまま、ちらと横目で私を見る。


「名前?」


 私はクラゲをじっと見つめた。


 透き通る身体。ゆっくりと脈打つように動く触手。周囲の光を反射して、時折きらきらと輝いて見える。


 ――あのときの、ユグドラシルの葉みたい。


「……じゃあ、『ひかりちゃん』にする。光ってたから」


 罌粟須さんはわずかに口元を動かして、いつもの皮肉気な笑みを浮かべた。


「ははっ、なんだそれ。そのまんまじゃねぇか。」


 でも、その声色はどこか柔らかく、馬鹿にするというよりは――からかいに近かった。


 そう言って彼は再び水槽へと視線を戻す。水面に反射する青白い光が、彼の頬を淡く照らしていた。その表情は、ほんの一瞬だけ、優しかった気がした。


 私はまた、ぬいぐるみを抱きしめたまま、水槽の前でクラゲ――ひかりちゃんを見つめ続けた。


 まるで、世界に自分だけしかいなかったあのときとは違って、今は誰かと一緒にこの光を見ている。それだけで、少しだけ世界が広がったような気がした。


 そのとき、隣からぽつりと呟きが落ちてきた。


「……まあたしかに、そう見える」


「え?」


「お前が名前つけた、そのクラゲ。ひかり。――たしかに、そんな感じがした」


 不意に心臓がきゅっと鳴った。


 棘のある言葉ばかりだった彼の、そんな素直な言葉に、私は何も言えなくなってしまった。


 でも、それで十分だった。


 静かな水の中を、ひかりちゃんは変わらずゆらゆらと漂っている。


 水族館のざわめきも、遠くの子どものはしゃぐ声も、今は聞こえなかった。ただ、目の前の水槽と、隣に立つ罌粟須さんの気配だけが、静かに心の中に満ちていた。


「んじゃ、そろそろ行くか。どうする?昼飯食うか? それとも、アイスかなんか―――」
















 …ああ、そうだった。その後を思い出すだけで吐き気がする。


 罌粟須さんがそう言った12時26分、地獄は、そこから始まったんだ。私の人生を狂わした、私の平和を踏み潰した、私の―――


 ……私の、大事なものをすべて、根刮ぎ奪った地獄は。

















 突如、世界が呻いた。


 地面が、重く、唸るように揺れた。建物全体が軋み、まるで巨大な獣が身をよじらせているかのような、異常な振動。


 水槽の中で漂っていたクラゲたちも、一斉にその揺れに従い、大きく左右に振られる。光が乱れ、水がはじけ、世界が歪んだようだった。


「うぁっ!」


 目の前の水槽が鳴動し、ガラスがきしむ音に思わず息を呑んだ。


 一瞬、視界が斜めに傾いたかと思ったそのとき、私は立っていられず、思わず足を取られて転倒した。床に手をついた瞬間、鈍く冷たい衝撃が伝わってくる。


「大丈夫か!?」


 罌粟須さんの声がした。


 だが、その声に応じるより先に、私の耳に届いたのは――聞き慣れない、けれど本能が拒絶するような音だった。


 ――ぐ、ぐぉぉぉぉおおおおおおん……。


 不快な低音が地の底から湧き上がるように響き渡り、空気ごと震わせる。人の作った警報音ではない。動物の悲鳴でもない。例えるなら、地獄そのものが叫んでいるような、そんな音。


「……っ、け、罌粟須さん!」


 彼の名を叫んだ。


 そのとき、天井のガラスが崩れ落ちてきた。


 崩れ落ちる――いや、喰われるように落ちてくる、という方が近かった。


 光と影が反転したような空間の裂け目。そこから現れた“それ”は、形容しがたいほど不快な異形の影を連れていた。


 私は、うさぎのぬいぐるみを落としていた。


 声も出ないまま、ただ呆然とその“現実ではない何か”を見つめるしかなかった。


 世界が壊れていく音が、耳の奥でいつまでも鳴っていた。


「―――っ!!!」


 罌粟須さんに抱きかかえられ、私は間一髪ガラスの破片から身を守れた。


 だが、落ち着いてなどいられなかった。後ろから、断末魔に似た悲鳴が複数木霊したからだ。


 私はいまでも、その景色を忘れられない。そこには、醜い無垢の異形が、水族館に来ていた客を無差別に喰い殺していた。あたりに飛び散る血と、肉と、内臓と、手足と、それでいてまだ息のある客が、痛みに耐えられず絶叫するその姿。小さかった私にとって、それは恐怖という次元を遥かに超えていた。


 私は、呼吸を忘れていた。


 赤い。赤い。赤い――あたり一面が、鮮血に染まっていく。


 子どもが泣き叫び、大人が逃げ惑い、家族が手を取り合って潰されていく光景が、水の中のように鈍く、しかし確かに現実として目に焼きついた。


 生ぬるい液体が頬に当たる。それが汗なのか涙なのか、あるいは血なのか、わからなかった。


 そのとき、罌粟須さんが私の頭を抱き寄せた。


「見なくていい。走るぞ。……死にたくなけりゃ、歯ァ喰いしばれ」


 その声に、私はようやく、現実に引き戻された。


 震える足に力を込め、血の匂いが満ちる館内で、私たちは死の気配を掻い潜るように走り出した。ひかりちゃんの水槽が、音もなく崩れ落ちる音を、背中で聞いた気がした。



 館内はもはや秩序なき戦場と化していた。


 いや、戦場などという言葉は、まだどこかに「対等な抗い」の余地を残している。実際は違った。これはただの――一方的な鏖殺場だった。


 ガラスが割れる音。肉が裂ける音。誰かの骨が踏み砕かれる音。それらすべてが、館内に満ちた甲高い警報音と混ざり、私の鼓膜を刺し続けた。


 目に映るのは、逃げ惑う人々。その誰もが、死神の鎌を背後に感じながら、地獄の中を這いずり回っている。


 私は、そのとき、まだ世界を知らなかった。


 魔族の存在など夢にも思わず、託児所で習うどんな歴史や道徳の教科書にも、あの“異形”は載っていなかった。アニメや映画の中の「怪物」さえ、あれほどおぞましくはなかった。


 あの巨躯。あの爛れた皮膚。血を啜るたびに悦楽のように震える姿。……理解なんて、できるはずがなかった。


 恐怖よりも先に、ただ思考が止まっていく。


 目の前で誰かが引き裂かれ、後ろから誰かが引きずられていった。子どもも、大人も、老若男女の区別すら関係なかった。ただ、「そこにいる人間」が殺されていく。それだけだった。


 頭の中はぐしゃぐしゃで、心臓の音だけが不気味に大きく響く。


「――動け。いいから動けッ!」


 罌粟須さんの声が、遠くから雷鳴のように響いた。


 気づけば、私は立ちすくんでいた。震える膝、かすむ視界、ぬかるんだ床の血に足を取られて、それでもなお動こうとしない身体を、彼が無理やり引っ張ってくれた。


「考えるな。逃げろ。今はそれだけでいい!」


 その言葉に、ようやく、私は一歩を踏み出した。


 ――その瞬間、水槽の奥でまだ生きていたイルカが、鋭い鳴き声を上げた。それは、助けを求めているようで、それでいてまるで、私たちの逃走を後押しするかのようだった。


 そして次の瞬間、その巨大な水槽すら、音を立てて崩れ落ちた。


 轟音とともに、何十トンもの海水が怒涛のように館内へと溢れ出す。空気が一瞬で冷たくなり、視界は水とガラス片と光の乱反射で白濁した。


 小さな私の体は、逃げる間もなくその奔流に押し流されそうになった。足が宙に浮き、思わず悲鳴を上げかけた瞬間――罌粟須さんが、再び私を抱きかかえる。


「しっかりしろ!」


 そう叫んだ彼の声も、水音と悲鳴に掻き消されそうだった。


 彼は私を胸に強く抱いたまま、水の中を強引に進む。足元では、跳ね回る魚たちがぐちゃぐちゃに潰れ、床に散った。イルカが一頭、苦しげに鳴き喚いている。美しかったその肌には、ガラス片が深々と刺さり、そこから赤黒い血がにじみ出ていた。


「ぴぃ……ぴぃぃぃ……」


 聞いたことのない声だった。まるで泣いているようで、けれど助けることもできず――その声は、今でも耳の奥にこびりついて離れない。


 振り返ると、さっきまでいた客たちの多くは水に呑まれ、あるいは魔族に喰い散らかされ、もう原形を留めていなかった。血に濡れた水面が、照明の光を歪に反射し、まるで地獄の鏡のようだった。


 息をするのもやっとだった。罌粟須さんは息を吐きながら、それでも迷いなく進んでいく。私の手を握るその手は、震えていなかった。あのときの彼は、間違いなくヒーローだった――私にとって、唯一の。




 命からがら、なんとか水槽エリアを抜け、崩れかけた廊下を転がるようにして進んだ末、私たちはようやくエントランス付近に辿り着いた。


 水音が遠ざかる。だが安堵する暇などなかった。


 その時、私はふと、奇妙な違和感に気づいた。


 ……異様に、暗い。


 今はまだ昼のはずだ。それなのに、まるで夜の帳が一気に降りたかのような暗さが、辺り一面を覆っていた。


 なぜだ? 何かが――おかしい。


 私は、重くなった体を引きずるようにして、正面のガラス張りのエントランスに近づいた。


 そして――その答えを、見つけてしまった。





















 空が、真っ赤に染まっていた。





















 だがそれは、夕焼けのように人を郷愁に誘う美しさではない。


 血の色に似ていた。いや、正確には、腐りかけた血のように黒ずんだ、不気味で、凄惨な赤。


 空を覆い尽くすように、巨大な魔法陣が浮かんでいた。直径は……いや、大きさすらも想像できなかった。空という空すべてに、魔法陣の線が描かれていたのだ。まるで世界そのものが呪術の檻に閉じ込められたようだった。


 そして――そこから、降っていた。


 黒い何かが、無数に。雨のように。地面を、建物を、人々を貫きながら、次々と堕ちてくる。


 それらは、先ほど水槽エリアで襲ってきた異形たちとまったく同じ姿だった。牙と爪を備えた黒い影の群れ。人間の顔を模した仮面のようなものをぶら下げ、無表情のまま獣のような動きをする、人でも魔獣でもない“何か”。


 私は思わず足を引いた。喉の奥が冷たくなり、声が出なかった。


 世界が、壊れている。


 目の前で、現実が音を立てて崩れ落ちていた。


 罌粟須さんも呆然とその光景を見つめていた。口元がわななく。目は、あの空に浮かぶ異形と、地上を蹂躙する影に釘付けになっていた。


 そして、まるで肺から空気が抜けるような、乾いた声でこう呟いた。


「―――ユグドラシルが……」


 その言葉に私は無意識のうちに顔を上げ、視線を曙光の宮――二対のユグドラシルへと向けた。


 その瞬間、心臓が締め付けられた。


 目に映ったのは、真っ赤な炎が、地上から唯一見えるユグドラシル上部の葉を舐め尽くす、信じがたい光景だった。幹の途中から崩れ落ちた枝々が、大地に向かって雷のように突き刺さり、轟音とともに火花を撒き散らしていた。その先では、炎に包まれた光の葉が、ゆっくりと、ひとひら、またひとひらと、零れ落ちていく。


 それはまさに、燃え盛るユグドラシルから、光と命が削ぎ落とされていく瞬間だった。


「うそ…………」


 私の唇から漏れた声は、風にかき消された。全身が小刻みに震えていた。震えているのに、なぜか熱い。なのに、ひどく寒かった。恐怖、怒り、哀しみ、理解の及ばない無力感……すべてが渦を巻いて胸を締め付け、もはや言葉にならなかった。


 幸いというべきか、もう一本のユグドラシルは無傷だった。だが、それすら安堵には繋がらなかった。


 私の思考を支配していたのは、ユグドラシルの崩壊ではなく――もっと個人的で、もっと深い、不安だった。


「お母さん……」


 そのときだった。私たちが見上げる間にも、外周を取り囲む異形の群れが近づいていた。多脚の甲殻獣、翼のない飛翔体、泥のように蠢くもの……どれもが忌まわしい存在感を放ち、出口という出口を塞ぎ始めていた。


 気づけば、包囲されていた。


「……ッ!」


 息を呑む私の前に、罌粟須さんがすっと立ちはだかった。肩越しに見るその背は、あくまで静かだった。だが、拳はしっかりと握られている。


 彼は一瞬だけ私を振り返り、低く、だがはっきりとした声で言った。


「――俺がこいつらを引き付ける。沙紀ちゃんはその間に逃げるんだ。」


「え……」


 頭が追いつかなかった。何を言っているのか分からなかった。だけど彼の目は本気だった。命を張る者の目をしていた。


「待って……無理、だよ。無理だって、そんなの……!」


「だいじょうぶ。ちゃんと追いつくさ。」


 そう言った彼の声は優しくて、そして、どこか決別の響きを孕んでいた。


「でも……っ」


 私は、彼の腕を掴もうとした。けれど、彼はすっと私の手を払い、ひとつだけ、笑った。


「沙紀ちゃんは生きろ。生きて、お母さんに元気な姿、見せてこい。」


 その言葉とともに、彼は異形の中へと躍り出た。


 私は、どうすべきかわからなかった。だが、罌粟須さんの思いは無駄にできないと、私は決意を固め、異形の間をすり抜けるようにして出口を目指す。


 すぐそばで、異形による死の一撃が繰り出される。だがそれはすべて罌粟須さんが防いでくれていた。私はその時死に物狂いで、当時の状況は詳しく覚えていない。


 次に記憶があるのは、水族館を無事脱出し、ただひたすらに燃え盛るユグドラシルを目印に走る私の息遣いからだった。


(お母さん……お母さん………!!)



(死なないで…お母さん!)


 続く…

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