47話 厄災の日 -2- 〜 三田沙紀編 〜
パン屋を離れて、母と私はタクシーを止めて職場に向かう。
白髪の目立つ初老のドライバーは、目元に緊張感を浮かべながらルームミラーで母の顔を見つつ、尋ねてきた。
「あのぉ…もしや、光芒公であらせられますか?」
今日何十回目かのその質問に、母は一つも不快感を浮かべることなく笑顔で応じる。
「ええ、ご機嫌麗しゅう。今日も街は平和ですわね…」
ゆったりとしたその口調には、どこか気品すら漂っていた。車内の空気がすっと張りつめ、同時に、どこか温かみも帯びる。初老のドライバーはしばし呆けたように見惚れたのち、慌てて前を向き、姿勢を正した。
「は、はい! 安全運転でお送りします…!」
「ふふ、よろしくお願いしますね」
母は柔らかく微笑んでそう言いながら、私の手をそっと握った。その手はいつも通り、ほんのりと温かくて、でも心のどこかがきゅっと引き締まる気がした。
私は窓の外に目を向けながら、心の中で思う。
(お母さんって、やっぱりすごい人なんだな……)
街の景色は少しずつ流れていく。けれど、タクシーの中だけは、時間が止まっているかのように静かで穏やかだった。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「今日のお仕事、終わったらまた一緒にお買い物行ける?」
「ええ、約束しましょう。お仕事を頑張ったら、次は沙紀とたくさん遊ぶ時間よ」
その返事が、嬉しくてたまらなかった。私は少しだけ得意げに頷きながら、ぎゅっと母の手を握り返した。
そのままタクシーは静かに街を抜け、やがて曙光の宮の見える区域へと入っていく。
そこは一見すれば近未来的な都市機能を備えた整然たる街区だが、その実、ユートピア全域の行政・司法・立法を一手に担う中心地――実質的な「総監府」として機能する場所であった。
2つ並んだ巨大な円形の建造物は、白磁のように滑らかで冷たい光を放ち、それぞれその中央部からは、まるで地上に降りてきた天空の森のごとく、ユグドラシルの葉が濃緑の天蓋をなして覆いかぶさっている。その枝葉が、逆にこの場所の荘厳さと、異質なまでの静寂を際立たせていた。
ここで――お母さんは働いているんだ。
その事実が、車窓からの景色と相まって、胸の奥にゆっくりとしみ込んでくる。幼いながらも、私はふと背筋を正すような気持ちになった。
もちろん、母が“軍人”であることにはうすうす気づいていた。街の人々が一様に敬意をこめて「光芒公」と呼び、どこへ行っても振り返られる母の姿に、それなりの覚悟をしていたつもりだった。
けれど、それでも。
私の知る母は、家ではエプロンをかけて料理をし、眠る前には絵本を読んでくれる優しい人だった。私の名前を呼ぶとき、どんなに疲れていても、必ず笑ってくれる人だった。
だからこそ、戦う姿を一度も見たことがない母が、この巨大で重厚な施設の中で働いているという事実は、当時の私にとって現実味に欠けるどころか、まるでおとぎ話の続きを聞かされているかのような、どこか夢の中の出来事のようにさえ思えたのだった。
タクシーは無言のまま滑るように進み、やがて施設前に設けられた検問所で静かに停止した。
運転手に礼を告げ、母と私は車を降りる。湿度を含んだ外気が肌にまとわりつき、静まり返った空気がこの場所の緊張感を際立たせていた。
検問所の前には、鋼鉄製のバリケードと数名の兵士が待機しており、彼らの制服には金と白を基調としたユートピア特有の紋章が施されていた。兵士たちは私たちの姿を見るや否やすぐに姿勢を正し、敬礼の構えを取った。
「光芒公――おはようございます。」
先頭に立っていた若い兵が、やや緊張気味にそう告げる。
母はやわらかく微笑み、軽く手を上げて応じた。
「ええ、通してちょうだい。今日はこの子も一緒なの」
母がそう言うと、兵士は目を瞬かせ、私の顔をちらりと見てから敬意をこめた目つきでうなずいた。
「承知しました。どうぞ、お通りください」
兵士が端末に何かを入力すると、無機質な電子音とともに検問所のバリアが解かれ、バリケードが音もなく開いていく。その向こうには、曙光の宮の内部へと続く純白の回廊がまっすぐに延びていた。
私は思わず息を呑んだ。
そこはまるで聖域のように、清浄で、そしてどこか重々しい空気が支配していた。
壁は艶のある白で構成され、天井からは光源がまばゆく光を放っている。汚れ一つないその回廊は、まるで夢の中を想起させる。
母の背に続きながら、私は小さな歩幅で回廊の中へと足を踏み入れた。
足音が反響するたびに、空気の密度が少しずつ変わっていくのがわかる。まるで、ただの施設ではなく、どこか別の「領域」へと入り込んでいくような、そんな錯覚を覚えた。
自分の知らない場所へ足を踏み入れるというのは、不安もあるけれど、それ以上に胸の奥がざわめく。好奇心と緊張がない交ぜになり、喉の奥が少し乾く感覚。
この先に何があるのだろう。母は、どんな世界で生きているのだろう。
そう思いながら顔を上げると、正面の白い扉が音もなく開いた。
瞬間、まるで空気が入れ替わったように、別種の匂いが鼻をかすめる。金属と機械油、そしてなぜか淡い花のような香り。静けさの中に、かすかに感じる人の気配。
その先に広がっていたのは、巨大な吹き抜けのロビーだった。
天井は想像以上に高く、中央には無音で回転する光のホログラムが浮かんでいる。まるで宇宙の星々を模したようなその光景に、私は思わず足を止めた。
「すごい……」
思わずこぼれた声に、母が小さく笑った。
「ここは、総監庁舎の第一ロビー。まだ入口の一部よ」
その言葉に、私は改めて自分が足を踏み入れた場所の重みを実感した。
ここは単なる“施設”ではない。人類の未来を担う中枢。
母が、戦ってきた世界――そのほんの入り口に、私は今、立っているのだ。
母に連れられ、私はロビーの一角に設けられた待合ソファへと腰を下ろされた。革張りのクッションはひんやりとしていて、身体よりも心の緊張をすっと吸い取ってくれるようだった。
「少しの間だけ、ここで待っててね」
母はそう言って私の頭を優しく撫でると、すぐにその場を離れていった。
ロビーを行き交うのは、背筋の伸びたスーツ姿の大人たちや、肩章を光らせた軍服の人々ばかり。誰もが無言で、どこか切迫した足取りで、まるで私など視界に入っていないかのように素通りしてゆく。
母が離れてまだ数分しか経っていないはずなのに、私はもう、ひどく心細くなっていた。まるで、世界の中で自分だけが置いてけぼりにされたような――そんな寂しさが、じわじわと胸の奥に広がっていく。
その気持ちを少しでも紛らわせようと、私はリュックの中に手を差し入れ、お守りのようにいつも持ち歩いているうさぎのぬいぐるみを取り出した。少しくたびれているけれど、その柔らかさとぬくもりは、今の私には十分すぎるほどの慰めだった。
ぎゅっと抱きしめ、目を閉じて深く息を吐いた、そのときだった。
遠くから母の声が聞こえ、再びこちらへと戻ってくる足音が近づいてくる。
ふと顔を上げると、母の隣には見覚えのある男の姿があった。
―――あの人だ。
今朝家の前にいた、あの黒髪の男。
罌粟須とかいう、目元の鋭い、どこか影のあるような雰囲気をまとった人物。
軍服のような黒の上着を纏うその姿は、周囲の誰よりも異質で、けれど同時に、場の空気に溶け込むような圧倒的な存在感があった。
彼の視線が私と一瞬交わる。
その目は鋭いのに、どこか深く、そして静かだった。
何も言わず、彼は母と並んで私の前まで来る。
私は思わず、うさぎのぬいぐるみを抱きしめる手に、力を込めていた。
母は私の前でしゃがみ、頭を撫でながら言う。
「紹介するわね。この人は罌粟須 三津、今日一日、貴女のお世話係さんよ。ほら沙紀、ちゃんと挨拶しなさい。」
母の柔らかな手が私の頭をそっと撫でる。けれども、その手の温もり以上に、目の前の男が放つ空気の鋭さに、私は体をこわばらせていた。
罌粟須 三津――長い黒髪は後ろで一つに束ねられ、無表情とも冷淡ともつかぬその顔は、どこか人間離れしているようにも思えた。
母はそんな私の様子を感じ取ってか、微笑みながら言葉を続けた。
「大丈夫よ。こわい人じゃないの。ただちょっと、笑い方を忘れてしまってるだけなのよね?」
それに対して、罌粟須さんは目を細めるでもなく、ただ静かに頷いた。それが肯定なのか、否定なのかも分からないほど、無機質で。
私は迷った末、うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま、おずおずと口を開いた。
「……はじめまして。さきです。」
精一杯の声だった。けれど、その小さな挨拶に、罌粟須さんは微かにまぶたを伏せて、一言だけ応じた。
「……よろしく頼む。」
それは不思議と、冷たくは感じなかった。むしろ、とても丁寧で、まっすぐな言葉のように思えた。
母は続けて、今度は申し訳なさそうに呟く。
「ごめんねぇ沙紀、ずっと一緒にいてあげたいのだけれど、いまお仕事が立て込んじゃってて……」
母は言いながら、私の手を包むように握ってきた。あたたかくて、でもどこか急いている手。
私は不安を押し隠すように、ぎゅっとその手を握り返す。
「罌粟須くんと二人で、仲良くできそう?」
そう言って母が顔を傾ける。私の返事を待つその表情が、まるで「お願い」と言っているように見えた。
私はうさぎのぬいぐるみに視線を落とし、ほんの少しだけ、首を縦に振った。
「……うん、だいじょうぶ。がんばってみる。」
それを聞いた母は、安堵したように微笑んで、私の頬にそっと口づけた。
「ありがとう、沙紀。いい子ね。」
名残惜しそうに私の手を離すと、母は罌粟須さんに軽く会釈し、そのまま足早に廊下の奥へと消えていった。
私の世界から、あのあたたかい手がふっと遠ざかっていく。
残された私は、硬いソファに座ったまま、隣に立つ罌粟須さんを見上げた。
その視線は、どこか鋭くて冷たいもののように感じられて、私はまたぬいぐるみに顔を埋めた。
怖い──というより、どうしていいのかわからない。
この人が何を考えているのか、私にはまるで見えなかった。
けれど、その沈黙は長くは続かなかった。
やがて、罌粟須さんはふうと短く息を吐き、小さく腰を落とし、私と同じ目線に立つ。
「……沙紀ちゃん、だったか」
くぐもった声。低くて静かで、だけど、どこか耳に残る声だった。
私は少しだけ、ぬいぐるみから顔をのぞかせて、こくんと頷いた。
「おれは罌粟須 三津。……まあ今日一日だけだが、お前の面倒を見る役らしい。よろしくな」
彼はそう言って、小さく片手を上げた。
笑ってはいなかった。でも、怒ってもいなかった。
私はおそるおそる返事をする。
「……よろしく、お願いします」
その瞬間、罌粟須さんはふっと表情を崩した。
笑った、というよりは、呆れたように肩をすくめて、苦笑を浮かべたのだ。
「そんな丁寧に言われるような柄じゃねえよ、俺は。気楽にしてろ。……つっても、無理か。お前、かなりの緊張しいだな」
からかうでもなく、投げやりでもない。
まるで、自分の言葉で相手がどう感じるかを、ちゃんと見て言葉を選んでいるような声音だった。
それが少しだけ、意外だった。
この人、見た目ほどこわくないのかもしれない――と、私は心の中で思った。
罌粟須さんは立ち上がると、背後にあるロビーの自販機をちらりと見やった。
「……腹は減ってないか? なんか、甘いもんでも食うか」
その言葉に、私はわずかに目を見開く。
母以外の誰かに、そんなふうに気遣われるのは、少し久しぶりな気がした。
うさぎの耳をくるくると指でなぞりながら、私はためらいがちに答える。
「……チョコレート……あったら……」
罌粟須さんは片眉を上げ、にやりと笑った。
「チョコか。了解。任せとけ坊主」
「……坊主じゃないもん……」
思わず口から出たその言葉に、自分でも驚いた。
けれど罌粟須さんは笑いながら、「そうか」とだけ言って、自販機の方へと歩いて行った。
その背中を見つめながら、私はほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じていた。
戻ってきた罌粟須さんは、2つのパッケージを掲げて尋ねてきた。
「ミルクチョコと、クッキー入りのやつ、二種類あった。どっちがいい?」
そう聞かれて、私は少しだけ悩んでから、指をさす。
「……ミルクの方……」
「おっけー」
罌粟須さんはそれを私に手渡すと、もう一つを自分のポケットにしまい、ロビーのソファにどさっと腰を下ろした。
「……で、今日は何すっかな。お前、行きたいとこあるか?」
私はぬいぐるみを抱いたまま、そっと罌粟須さんの隣に腰を下ろす。
ほんの少し距離をとって。けれど、さっきよりは近づけた。
「……水族館……行ってみたい……」
その言葉に、罌粟須さんは少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに笑った。
「なるほど。魚、好きか?」
「……クラゲが……」
「お、渋いな。じゃあ決まりだ。水族館、行こうぜ」
そのとき初めて、私はほんの少しだけ、声を出して笑った。
それに気づいたのかどうか、罌粟須さんは口元を片方だけ吊り上げ、立ち上がる。
「……クラゲな。俺も、嫌いじゃねえよ」
そう言って差し出された手を、私は少し迷ってから、そっと取った。
その手は思ったよりも温かくて、大きかった。
その瞬間──
ユグドラシルの葉が、かすかにざわめいた。
まるで何かを察知したかのように。誰にも聞こえぬ風の声が、枝葉を通ってささやく。
クラゲのようにゆらゆらと、透明な運命の糸が、水面下で動きはじめていた。
続く…




