46話 厄災の日 -1- 〜 三田沙紀編 〜
13年前の7月7日。後に「厄災の日」と呼ばれる、大きな転換点の日。
その日は、どこかいつもより空気が張り詰めていた。蝉の声はやけに大きく、陽の光はやたらと白く鋭く感じられた――今思えば、それが“前触れ”だったのかもしれない。
目を覚ますと、窓の外はまるで絵に描いたような快晴だった。空は雲ひとつなく澄み渡り、光がカーテン越しに差し込んで部屋を淡く照らしていた。
当時、私はまだ4歳。幼さの中にも少しずつ自立心が芽生えはじめた頃で、その日は近くの託児所が臨時休業。母は仕事が休めず、私は急きょ、母の職場に連れていかれることになった。
その準備の最中、私は誇らしげに声を張り上げた。
「おかあさん! 沙紀ね、自分でお洋服、着れるようになったんだよ!」
いつものワンピースのボタンを一つひとつ、手こずりながらも懸命に留めていた。母は「すごいね」と笑って頭を撫でてくれた。そのぬくもりが、なぜか今も強く胸に残っている。
鼻歌まじりに、私は小さな手でせっせと荷造りをしていた。
母がいつかの誕生日に買ってくれた、ふわふわのうさぎのぬいぐるみ。それに、耳の大きなぞうさん、ちょっと強そうなライオン――お気に入りのぬいぐるみたちを、これでもかというほどピンク色のリュックサックに詰め込んでいた。
チャックが閉まらないのに、どうしても全部連れていきたくて、体重をかけてぎゅうぎゅう押し込みながら「まだ、入るよね」と笑っていた気がする。
あのときは、ただ楽しくて、ワクワクしていて――
まさか、そんな何気ない朝が、私の人生を大きく変える始まりになるなんて、想像すらしていなかった。
結局チャックは閉まりきらず、うさぎとぞうはリュックの入口からちょこんと顔を覗かせたまま。それでも私は満足げに頷き、母の手をぎゅっと握って玄関を出た。
家は高地の高級住宅街にあり、門を出た先の坂道からは街が一望できた。朝の光を受けて輝くビル群。そのふもとに広がる、何度も目にしたことのある見慣れた街並み。
私は思わずすうっと深呼吸する。土と木々、それからどこか懐かしい夏の匂いが鼻を抜けた。
ふと、そのときだった。
家の前に、一台の黒い車が停まっていることに気づいた。
ピカピカに磨かれた車体には、夏の青空がくっきりと映り込んでいた。静かな音を立ててドアが開き、中から二人の男が現れる。
どちらも黒のスーツに身を包み、一人は優しげな茶髪を後ろに撫でつけ、穏やかな目元が印象的だった。もう一人は対照的に、真っ黒な長髪を肩まで伸ばし、鋭い眼光で周囲を見渡している。
私は思わず母のスカートの陰に隠れた。知らない大人の存在に、胸がきゅっと縮こまる。だけど母は、まるで旧い友人にでも再会したかのような柔らかな微笑みを浮かべ、彼らに声をかけた。
「おはよう、瞳巍君に、罌粟須君。」
その声に応じ、茶髪の男――瞳巍と呼ばれた方が、静かに門をくぐって母に歩み寄ると、一礼した。
「おはようございます、光芒公。…おや、その子は娘さんでしょうか?」
母は頷き、私の肩にそっと手を添えた。
「ええ、沙紀です。今日は預けるところがなくて、仕方なく一緒に連れていくことにしたの。」
私が恐る恐る顔を出すと、瞳巍さんは優しく目を細めて微笑んだ。その表情は不思議と怖くなくて、少しだけ緊張がほどけた。
「沙紀ちゃんか、いい名前だね。…君のお母さんはね、とても強くて優しい人なんだよ。」
言われた意味はまだ分からなかったけど、なぜかその言葉は心に残った。
一方で、罌粟須と呼ばれた黒髪の男は、口を開かなかった。ただ静かに、じっと私の方を見ていた。鋭いその視線は、子どもながらに少し怖かった。
でも、母はどちらに対しても同じように優雅で、どこか緊張感をはらんだ笑みを浮かべたまま、こう続けた。
「迎えに来てもらった身で悪いのだけれど、今日は娘と二人で行こうかと思っているの。あなた達は先に向かってちょうだい。」
瞳巍さんは驚いた顔で返事をする。
「お言葉ですが光芒公、娘さんと二人で護衛もなしにというのは些か…。それにここから曙光の宮までは随分離れていらっしゃいますよ?」
母はふっと目を細めて、まるで春の陽差しのような、しかし芯の通った笑みで瞳巍を見つめ返した。
「大丈夫よ。……今日は、少しだけお母さんに戻らせてちょうだいな。」
その言葉に、瞳巍さんは一瞬言葉を失ったようだった。何か言いかけて、しかし結局は押しとどめ、苦笑のような表情でうなずく。
「……承知しました。では我々は先に。」
もう一人の男、罌粟須さんは、初めから一言も発していなかった。ただ鋭い目を母と私に一瞥送り、何かを計るように一瞬視線を止めると、踵を返して車に戻った。
瞳巍さんもそれに続くようにして軽く会釈をすると、再び黒光りする車に乗り込む。そしてそのまま、ゆっくりと発進していった。
私は車が見えなくなるまで見送っていたけれど、母はその間もずっと、どこか遠くを見るような目で空を眺めていた。
「さあ、行きましょうか。」
そう言って手を差し出してきた母の横顔は、どこか疲れているように見えた。
10分ほど歩いて、街の中心へと出た。
白く輝く石畳の広場、噴水の水音、行き交う人々のざわめき——そのどれもが活気に満ち、どこか祝祭の空気さえ帯びていた。だが、その空気が、母の登場とともに明らかに変わった。
「お、おい……あれ、光芒公じゃないか?」
「えっ……光芒公って、あの八間の……?」
「そうそう……ほら、“曙光の宮の守護”と呼ばれてた……。まさか護衛もつけずに、街に?」
ざわつきが波紋のように広がっていくのがわかった。目を見開いて立ち止まる者、誰かに何かを囁きながら遠巻きに眺める者、通話端末で急ぎ連絡を取ろうとする者——まるで何か大事件でも起きたかのようだった。
だが母は、まったく気にも留めていないように、凛とした足取りで歩き続ける。その姿は、まるで高貴な鷺が群れをよけながら水辺を渡っていくかのようだった。
私はそんな母のすぐ横を歩きながら、誇らしげに胸を張った。街の大人たちがどんな言葉を交わしているのか、難しい言い回しはまだよく分からなかったけれど——
皆、私の母を尊敬し、畏れ、そして憧れている。
それだけは、確かなこととして理解できた。
「ねえ、お母さん。みんな見てるね」
そう言うと、母は少し笑って、私の頭に手を添えた。
「そうね。たまには、こういうのも悪くないわ」
すると、人混みの中から、ひときわ大きく、陽気な声が飛んできた。
「―――お? おいおい、沙紀ちゃんじゃないかぁ!」
その瞬間、胸の奥がぱっと明るくなるような感覚がした。思わず振り返ると、そこには見慣れた大柄の男性が立っていた。
がっしりとした体格に、くしゃっとした笑顔。厚手の作業着の上からでもわかる筋骨隆々の腕。そして相変わらずの、大声。
「あっ! バクレンおじさん!」
私は思わず声を弾ませて、ぱたぱたと駆け寄った。母の手を一瞬だけ離して、その懐に飛び込む。
「久しぶりーっ!」
「おお〜元気そうで何よりだ!」
バクレンおじさんは私を軽々と持ち上げ、ぐるりと宙を回してから、どすんと地面に下ろした。
「それにしても、こんなところで会うとはな。……おや、今日はお母さんと一緒か?」
私が頷くと、彼は表情を引き締め、母の方へぺこりと頭を下げた。
「お久しゅうございます、光芒公。街中でお姿を拝見できるとは、実に光栄です。」
すると母は、いつものように優雅で、それでいて少しだけ困ったような笑みを浮かべて言った。
「そんなに堅くならなくていいのですよ、バクレンさん。今はただの母親として、娘とお散歩しているだけですから。」
「ははっ、恐縮です」
そう言いながらも、彼の背筋はきっちりと伸びたままだった。周囲の人々もその様子に気づいたのか、さらにざわつきが広がっていく。
けれど私は、ただ嬉しくて、バクレンおじさんの袖をちょんちょんと引っ張った。
「ねえねえ、またうちに遊びにきてよ! 一緒に焼き芋食べたじゃん、あれすごくおいしかったよ!」
「おお、覚えててくれたか! 任せとけ、今度はもっとデカいやつ焼いてやる!」
バクレンおじさんは、にかっと笑って手を叩いた。
「お、そうだ沙紀ちゃん! 今から俺の店に来るか? 今なら焼きたてのパンがあるぞぉ?」
「ほんと!? 行きたい!」
私が目を輝かせて身を乗り出すと、バクレンおじさんはぐっと親指を立てた。
「よっしゃ決まりだ! 今日は特別に、ふわとろメープルの出来がいいんだ。いつもよりバター多めに仕込んだからな〜!」
「やったーっ!」
思わず手をぱちんと叩いて喜んだその時、後ろから母の静かな声が聞こえた。
「……パン屋に行くのもいいけれど、ちゃんと許可をとってからにしましょうね、沙紀」
「あっ、うん……!」
バクレンおじさんは頭をかきながら、苦笑いを浮かべて母に向き直る。
「へへっ、すみませんね光芒公……いや、奥さん。つい嬉しくなって」
「構いませんよ。せっかく街に出たのですし、娘が楽しめるなら何よりです」
その一言で、バクレンおじさんの表情がぱっと明るくなった。
「よーし、それじゃあ案内しよう! 焼き立ての香りでお腹鳴ること間違いなしだからな〜!」
そして私たちは、活気ある通りの一角――小さな煙突からほのかに香ばしい匂いが漂う、バクレンおじさんのパン屋へと向かった。
その後ろ姿を見送る人々の間では、静かに、けれど確かに「光芒公だ」「あの子が娘か……」という声が交わされていたが――
私はそんなこと、まったく気にならなかった。
ただ、焼きたてのパンと、バクレンおじさんの笑顔と、母の優しいまなざしだけが、胸いっぱいに広がっていた。
***
「―――あら! 光芒公ではありませんか!」
街角のパン屋の前から、明るい声が飛んできた。振り向けば、エプロン姿のミケルおばさんが袋いっぱいの焼きたてパンを手にして、目を丸くしていた。
「いえいえ、磊で結構ですよ。」
母は、ほんのりと微笑みながらそう返した。どこか芝居がかったような、しかし自然体で気品のあるその口ぶりに、ミケルおばさんは思わず頬をゆるめる。
「まあまあ、そんなこと言って…でも、公の姿しか知らない人が見たら腰を抜かしますよ?」
「ふふ、それならそれで、少しは街の平和を感じてくれるかしら。」
母のその言葉に、ミケルおばさんも「まったく、あなたって人は」と笑って応じた。
私はというと、バクレンおじさんの背中からぴょこんと顔をのぞかせて、
「ミケルおばさーん! こんにちはー!」
と手を振った。
「あらまあ、沙紀ちゃん! 今日もかわいいわねえ」
ミケルおばさんがそう言ってしゃがみ込み、私の頭をやさしく撫でた。手からはほんのりバターの香りがした。
「今日はね、ママとふたりでおでかけなの!」
「まあ、素敵ね。バクレン、ほら、お茶でも淹れておあげなさいな」
「おう! ちょっと待ってな!」
バクレンおじさんがパン屋の奥に駆け込んでいくと、母はふと街の奥を見た。澄んだ空に、ユグドラシルの葉がゆらゆらと光を反射して揺れている。
「こうして何でもない街角で、あたたかい会話ができる――それが、一番の贅沢かもしれないわね」
その言葉が、子どもだった私の胸にもなぜだか深く、あたたかく残ったのを、今でもはっきりと覚えている。
そうしてしばらく談笑していると、バクレンおじさんが湯気の立つカップを盆に載せて戻ってきた。香ばしい麦茶の香りが、パンの甘い匂いと混じって、ふんわりと鼻腔をくすぐる。
「ほれ、熱いから気をつけてな。磊さんは角砂糖いるか?」
「いえ、今日はそのままでいただくわ」
母は軽く頷いてカップを受け取り、一口すすると、その目がゆるやかに細まった。
「ふふ、変わらない味ね。バクレンさんの麦茶は、昔からとても優しい」
「そりゃあどうも。娘さんも、よく飲んでくれるしな」
そう言って、バクレンおじさんは私ににっこりと笑いかけた。私はふふんと胸を張って、こう返した。
「だっておいしいもん! うちのより、なんかこう…“ひみつの味”がするんだもん!」
「ひみつ、ねえ。なんだそれ、磊さん?」
「さあ……でも、たぶん人の手のぬくもり、とかじゃないかしら」
母の言葉に、バクレンおじさんは一瞬だけ照れくさそうな顔をし、それから少し声を落として言った。
「――俺が、あのとき磊さんに救われたからだよ。命じゃなく、心をだ」
その一言に、母は驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと、静かにうなずいた。
「……あの頃のこと、まだ覚えていてくれたのね」
「忘れるわけがねえよ。俺にとっちゃ、あれが始まりだったんだ」
空気がふと静まり、街の喧騒が遠のいた気がした。私には、その“あの頃”がどんな時代だったのか、まだよくわからなかった。でも、母とバクレンおじさんが交わした沈黙は、たしかに何か、大切なものを共有しているように感じた。
そのとき、ミケルおばさんが場の空気を察して、明るく声をあげた。
「まったく、この人ったら。昔の話になるとすぐ湿っぽくなるんだから! 磊さん、また今度、ゆっくりお話しましょうね」
「ええ、ぜひ」
母は微笑み、立ち上がる。そして私の手をやさしく取った。
「さあ、沙紀。もうひとまわりしてから、私のお仕事場に行くわよ。」
「うん!」
私は元気にうなずいて、母の手をきゅっと握り返す。振り返れば、バクレンおじさんとミケルおばさんがふたり並んで手を振っていた。
手を振り返しながら、私は思っていた。こんな平和が、一生続けばいいのにと。
………だが、残酷にも―――その平和は、わずか数時間後に完全に崩れ去ることになる。
続く…




