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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第参章
44/112

43話 それは突然に

 教官室に呼び出された沙紀は、緊張した面持ちで立ち尽くしていた。


 目の前にいるのは熊野璃久。普段は飄々として飄げた態度を取ることも多いが、今は違った。険しい表情に、寄せた眉間の皺。その空気の重さに、沙紀は背筋を伸ばした。


「―――三田。お前は柏谷に何かされたか?」


 低く鋭い問いかけに、沙紀はわずかに瞬きをした後、静かに答える。


「……胸ぐらを掴まれた以外には、特に。でも……」


 言い淀みながらも、沙紀は意を決して口を開いた。


「……教官、あの男。お知り合いなんですか?」


 璃久の瞳が一瞬、揺れた。だがすぐにため息をつき、無造作に頭をかく。


「ああ……まぁな」


 沙紀が目を見開いたのを見て、璃久は視線を逸らすようにして言葉を続けた。


「柏谷 きょう。あいつは元々、俺と同じ玄武隊の出身だった。訓練課程も、階級も、歩んできた道のりも、ほとんど同じでな。ある意味、腐れ縁みたいなもんだった」


 彼は少しだけ笑って、しかしすぐにその表情を消した。


「……でもある日、些細な口論がきっかけで、人術を使った本気の殺し合いに発展した。あいつは力を抑えられなかった。俺も……止めなきゃって思って応じたんだがな」


 璃久の声が次第に低くなる。


「結果として、俺の方が冷静に立ち回ったとされて……あいつは全面的に罰を受けた。階級はⅠ型からⅡ型に降格、隊も玄武から青龍に異動。同期たちはあの件以来、あいつを腫れ物みたいに扱うようになった」


 沙紀は黙って話を聞いていたが、やがて小さく口を開く。


「……でも、それだけであんなふうに?」


 璃久は少しだけ考えるように沈黙し、やがて静かに言った。


「正直、なにもわからん。なぜ士官学校に来たのかも、なぜあんなにもバチギレてたのかも。」


 しんと静まり返る教官室の空気が、どこか湿った重みを持ちはじめた。


 そして璃久は椅子の背にもたれしばし言葉を切り、天井を見上げるように目を逸らした。


「……だが、一つだけ言えるのはな。あいつは“壊れた”とか、そういう生やさしい話じゃねぇ。――壊れることすら拒んで、今もなお何かに縋ってる。俺には、そう見えた」


 沙紀はその言葉の重みに沈黙した。璃久の口ぶりからは、ただの怨恨ではない、もっと根深い過去の影が透けていた。


「……教官、あの人、直弥くんに何か……」


 沙紀の問いかけに、璃久はわずかに目を伏せた。次いで、遮るように静かに告げる。


「――やめておけ、三田。」


 短く鋭い言葉。そこには警告とも取れる冷たさが滲んでいた。


 沙紀は戸惑いながら一歩踏み出す。


「……どうして、ですか。教官。直弥くんは“ただの一般人”だったはずでしょう? 鳴矢高校の事件に巻き込まれて、それで偶然……」


「それは間違っちゃいねぇ。だが」


 璃久は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと腕を組む。まるで言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。


「――あいつは、未知の爆弾だ。ADFに保護され、今は味方であるからこそ、大きな可能性を秘めている。それこそ、戦局をひっくり返すような、な」


 沙紀の目が見開かれる。


「でも……爆弾って、そんな……」


「もし、あいつが敵に回ったら、どうなるかは俺にも想像がつかねぇ。だからこそ、“詮索するな”って言ったんだ。今のあいつは、まだ“目覚めてない”だけかもしれねぇ」


 その言葉の意味を、沙紀はすぐには飲み込めなかった。


 だが、璃久はさらに続けた。低く、誰にも聞かれたくないような声で。


「――三田。上層部は、お前が思ってるより遥かに深い闇を抱えてる。八幡直弥って名前の背後に何があるのか、俺も完全には知らされちゃいねぇが……一つだけ確かなのは、“何かを隠してる”ってことだ」


「……それは、“兵器”として……?」


 璃久は返事をしなかった。否定もしなければ、肯定もしなかった。


 ただ、静かに立ち上がり、背を向けると、ぽつりと背中越しに告げる。


「お前がそれ以上を知りたいなら、覚悟しとけよ。下手に触れば、今の居場所すらなくなるかもしれねぇ」


 沙紀は返す言葉を失い、ただ教官室の静けさの中で立ち尽くした。




 ***




『―――下手に触れば、今の居場所すらなくなるかもしれねぇ』


 一日中、その言葉が沙紀の頭から離れなかった。


 訓練中も、休憩中も、ふとした瞬間にあの重たい声が耳の奥で反響する。


 白伊―――りょうちゃんは、結局治りかけていた肋骨を再びやられてしまい、渋々病院へ逆戻りとなった。医務室で見舞いを終えた直弥くんは、顔にいくつも絆創膏を貼りながらも午後の訓練に復帰していた。どこか気まずそうに、でも無理に明るさを装っていたのが、見ていて痛々しかった。


 夕方、いつものように直弥くんと待ち合わせて、食堂へ向かった。


 沙紀のトレイには、変わらずカレー。直弥くんのトレイには、シーザーサラダと白身魚のフライ。


 ふたりとも座ってからしばらく、言葉はなかった。


 カレーのスプーンを動かしながら、沙紀はちらりと直弥くんの様子を伺った。頬に貼られた絆創膏、その下にうっすら見える腫れ。目の奥には、いつもよりずっと静かな影が差していた。


「……今日は、あんまり食欲ない?」


 そう尋ねると、直弥くんは少し驚いたように顔を上げた。


「え? いや、そんなことは……あ、でもちょっと、胃が重いかも。打撲のせいかな」


 そう言って、ぎこちなく笑った。


 沙紀はそれ以上何も言わず、視線を落とした。


 やっぱり、どこか無理をしている。身体だけじゃない。心も、なにかが壊れかけている気がした。


 璃久教官の言葉が脳裏に蘇る。


 ―――あいつは、未知の爆弾だ。


 それはつまり、彼自身も自分の“正体”を知らないということなのだろうか。


 それとも、すでに気づいているのに、誰にも言えないでいるのか。


 沙紀は、ゆっくりとカレーを口に運びながら、目の前の少年を見つめた。




 食事を終えると、直弥くんと連れ立って寮へと戻る。


 本来なら男子寮と女子寮は厳密に区分されているのだが、自身はりょうちゃんとともに「特別寮」と呼ばれる別棟で生活していた。特別寮は、成績上位者や特例に該当する訓練生にのみ与えられる待遇で、一般の共有部屋とは異なり、一人ひとりに個室が割り当てられている。


 現在、学年内で成績トップを争っている自分とりょうちゃんは、共にⅤ型ながらその例外として認められていた。過酷な戦闘訓練の合間にも、静かに過ごせる自室があることは、精神の安定にも大いに寄与している。


 直弥くんは本来、一般寮に所属するはずの身だ。しかし、現在は特例中の特例として、自分とりょうちゃんが使用する部屋の一室を共有していた。


 理由はいくつかある。ひとつは、男子寮に空きがないこと。そしてもうひとつは、彼が現在、自分とりょうちゃんのバディとして編成されているという状況だった。正規の手続きを経たわけではないが、上層部からの命令であり、誰も口出しできないことは明白だった。


 沙紀は廊下の窓から外を見やりながら、ひとつため息をつく。


 夜の帳が降り始めていた。特別寮の窓の外では、人工的に設計された夜空に月が浮かび、その周囲をまばらな星々が囲っている。あの空の裏には、地上の世界、そして魔族たちがうごめいているのだと思うと、どうしても気が重くなった。


 そうして歩いているうち、部屋についた。りょうちゃんとは隣の部屋で、その部屋主は今頃病室で眠っているだろうから、しばらくは直弥くん一人で使うことになるだろう。


 沙紀はドアを静かに開け、自室に入った。廊下の足音が遠ざかっていく。直弥くんの部屋――いや、元はりょうちゃんの部屋――のドアが閉まる音も聞こえた。


 部屋に灯りを点けると、いつものように整えられたデスクとベッドが迎えてくれる。けれど、どこか空気が重い。まるでさっきの言葉が、部屋の空間にまで染みついているかのようだった。


「……爆弾、か」


 独りごちるようにそう呟き、制服のジャケットを脱いでベッドに腰を下ろした。


 直弥くんが爆弾?ちょっと天然で、優しくて、でも時々、不思議な沈黙や妙に鋭い言葉を口にする彼のどこに、そんな不穏な要素があるというのか。


 確かに、彼は普通じゃない瞬間があった。あの日、模擬訓練で初めて一緒に戦場で戦ったとき。

 あのときの直弥くんは、まるで別人のようだった。全身から立ちのぼる殺気と、瞬間的な判断力、そして躊躇のない手の動き。


 ……気になる。どうしても気になる。

 このままでは訓練に身が入らないどころか、バディとしての連携すら、崩れてしまうかもしれない。


「……でも、だからって、何ができるのよ……」


 思わず口を突いて出た呟きに、沙紀は自分でも答えられなかった。


 ベッドに仰向けになり、天井をぼんやりと見上げる。

 天井のライトは感知式で、微かな動きを捉えて優しく光を落とす。人工の空、人工の街、人工の生活。

 すべてが整いすぎていて、逆に心はどこか、浮いてしまいそうになる。


 ――彼の何が、本当なの?


 まぶたを閉じた先で、直弥の穏やかな笑顔と、あの戦場での無表情が交互に浮かぶ。

 わたしは、彼の何を知ってるつもりでいたのだろうか。


 そのとき、不意にドアがノックされた。


「沙紀さん、起きてる?」


 直弥くんの声だ。

 驚きとともに跳ね起き、制服の上着を羽織ってドアの前に立つ。ドアを開けると、そこには、薄手のTシャツにジャージ姿の直弥くんが、どこか気まずそうに立っていた。


「ごめん、お風呂の調子が悪くて……貸して、くれないかな……?」


 髪が少し湿っている。どうやら途中まで使っていたようだ。額にはうっすらと汗がにじみ、目元はどこか困惑している。

 何か……話しづらいことでもあるのだろうか。あるいは、これも演技? いや、でも――。


「……うん、いいよ。使って」


 そう言いながら、内心では警戒心が膨らんでいた。

 “爆弾”。その言葉が、頭の奥で何度も木霊している。


「ありがとう、ほんと助かる……!」


 直弥はふっと笑って、どこかほっとした表情を浮かべた。その笑顔は、やっぱり“あの直弥くん”だった。

 でも今の沙紀は、もう無防備には信じきれない。


「タオルとか、洗面所の棚にあるから、自由に使って」


「うん、ありがとう。すぐ出るから」


 彼が浴室の方へ向かうのを見届けると、沙紀は静かにドアを閉め、深く息を吐いた。


 もし――もし本当に、彼の中に何かが潜んでいるのだとしたら。

 今この瞬間にも、わたしの背後で、誰にも知られずに何かが進んでいるのかもしれない。


 浴室の扉が閉まる音。そのすぐ向こうに、彼がいる。

 ただの偶然か、あるいは意図的な接触か。


 沙紀はそっと、ベッドの脇の引き出しから、小さなデバイス――簡易盗聴器を取り出した。


 ――知りたい。彼の正体を。


 手のひらに収まるほどの黒い小型デバイスを握りしめ、沙紀はゆっくりと立ち上がった。

 これは監察局から貸与されている、任務用の簡易探査器だ。音声だけでなく、魔力の揺らぎもわずかに感知できる。


 数歩離れたところで、沙紀は息を潜めた。

 耳に装着した受信器からは、シャワーの流れる音だけが聞こえてくる。


 特に、異常は見受けられなかった。

 ずっと耳を澄ませ、物音ひとつ聞き逃すまいと神経を尖らせていた沙紀だったが、次第にその緊張が解けていく。


(……なにやってんだろ、私。直弥くんに限ってそんなこと、あるはずないのに)


 溜息交じりにそう思いながら、耳から受信器を外し、浴室の扉に設置していた探査器にも手を伸ばす。


 ――そのときだった。


「……っ、あ゙アアアあ゙……」


 くぐもった、しかしあまりにも苦痛に満ちた声が聞こえた。

 それは、確かに浴室の中からだ。


 考えるよりも先に、体が動いた。反射的に扉を開け放つ。


「直弥くん!?」


 視界の奥で、シャワーの水が虚しく床を叩いている。

 その中に、膝をついてうずくまる直弥くんの姿。髪は水に濡れ、体は震えていた。


 彼は頭を抱えていた。その両手は硬く、まるで頭蓋を抑え込もうとするように。


 次の瞬間、直弥くんの体がぐらりと傾き、床へと崩れ落ちた。


 咄嗟に駆け寄り、彼の身体を抱き起こす。冷たい水に濡れた制服が肌に張り付いたが、そんなことはどうでもよかった。


「直弥くん!? しっかりして!」


 叫びかけて顔を覗き込んだ沙紀は、息を飲む。


 ――目から、青い血が流れている。


 それは汗でも涙でもなかった。明らかに、血液だった。

 だがその色は、まるで空を溶かしたかのような蒼――人間のものではない。


 さらに驚くべきことに、瞳孔の黒がすべて蒼に染まり、どこを見ているのかもわからない。

 呼吸は浅く、震えはひどく、まるで体の中で何かが暴れているようだった。


 この異常――いや、“異質”な光景に、沙紀の心が冷える。


(やっぱり……この子、ただの人間じゃない……)


 そう思った瞬間、直弥くんの口から、何かを訴えるような低い呻きが漏れた。


「う……ぁ……いか、ないで……」


 その声は、いつもの彼の声ではなかった。

 もっと深く、苦しみと恐怖に満ちた、心の奥底から絞り出すような声だった。


 沙紀はただ、その場で彼を抱き締めるしかなかった。

 凍りつく浴室で、冷たいシャワーの音が、なおも無遠慮に降り注いでいた――。


 続く…

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