41話 亡き兄の幻影
ふたりは病棟のエレベーターへと向かいながら、どちらからともなく歩調を合わせた。
病棟フロアは外来棟よりも静かで、廊下には人の気配がまばらだった。淡い青の床、無機質な白い壁、そして柔らかな照明が、まるで時間の流れをゆるやかにしているかのようだった
数分歩いた先の病室、その扉を白伊はゆっくりと開けた。
ベッドの上には、曹夢瑤が上体を少し起こして腰掛けていた。薄手の病衣に包まれた細身の身体。窓際から差し込む朝の光が、銀白の髪に柔らかな輝きを落とし、まるで彼女自身が発光しているかのように見える。
こちらに気づいた夢瑤は、ふわりと目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。
「……あれ、珍しい組み合わせ。ふたりで来たの?」
中国語でそう問いかける彼女に、白伊はわずかに肩を竦め、日本語で返す。
「……ああ、まあな。」
このやりとりには、奇妙な歪みがある。
白伊は中国語を理解できるが、喋ることはできない。夢瑤は逆に、日本語を理解できるが、口に出すことはできない。それでも、互いに相手の言葉の意味を受け取り合えるのだから、不思議なバランスで会話は成り立っていた。
だが、後ろで黙って立っている直弥は、完全に取り残されていた。日本語しか理解できず、中国語はまるで読めず聞き取れず、英語もようやく一般教養レベル。意味のわからぬ会話が飛び交う中、間の抜けた顔でぽかんと口を開けている。
夢瑤はそんな彼に気づいて、くすりと笑った。
「……その子、置いてけぼり?」
そう言って、視線を彼に向けたまま、手招きをする。
白伊は肩を叩いて促すようにすると、直弥はようやくはっとして前へ出た。
「え、あ……ど、どうも、お見舞い……です」
たどたどしく頭を下げると、夢瑤はそのぎこちなさがかえって可笑しかったのか、口元を手で覆い、声を漏らさぬようにくすりと笑った。
白伊は部屋の隅に置かれていた丸椅子を引き寄せ、夢瑤のベッドのすぐ脇に置いた。そのまま直弥のほうへ視線を向け、肩をすくめながら言う。
「……お前が『見舞い行こう』って言い出したんだろ?」
「あっ……う、うん。そうなんだけど……そっか、俺、中国語ダメだった……」
苦笑いを浮かべながら頭を掻く直弥に、白伊は呆れ顔でため息を吐いた。
「アホか。せめて翻訳アプリくらい入れてこいよ」
「……いや、それも電波悪くて繋がんなくて……」
「使えねぇ……」
白伊の皮肉に、直弥はすっかり縮こまる。だが夢瑤はそんなふたりのやり取りを、楽しげな瞳でじっと見つめていた。
そして、不意に直弥のほうに手を伸ばし、ゆっくりと指を差した。
「この子が、八幡直弥くん?」
白伊が代わって返事をする。
「ああ、まあ…ああそうか、そういや夢瑤、気絶してたからこいつとちゃんと対面するのは初めてか。」
夢瑤は小さくうなずくと、直弥の顔をじっと見つめた。観察するように、しかし敵意も警戒もない、ただ純粋な興味に満ちた視線だった。
「ふうん……優しそうな目をしてるわね。ちょっと頼りなさそうだけど」
その一言を、白伊が横で日本語に訳す。直弥は意味を理解した瞬間、戸惑いながら思わず肩をすくめた。
「えっ、あ、いや……そうかも、しれません……」
口の端が引きつり、目線が泳ぐ。頬がわずかに赤くなり、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせる。
そんな直弥の様子を見て、夢瑤は再び微笑んだ。彼女のその表情は、先ほどの張り詰めた雰囲気とは打って変わって、どこか姉のような優しさすら感じさせるものだった。
「…面白い子。恥ずかしがる仕草とか、少し兄に似てるわ」
そう言って、ベッドの背にもたれながら、ゆっくりと上体を起こした。まだ完全には回復していないのか、呼吸は浅く、時折小さく咳き込む。
白伊が苦笑しながら肩をすくめる。
「……あいつが恥ずかしがるとか、ちょっと想像つかねぇけどな」
夢瑤は少しだけ首を振る。
「子どもの頃の話よ。今のあの人じゃなくて――昔の、まだ人の弱さを隠しきれなかった頃」
その瞳に、ほんのわずかに懐かしさが宿る。だが次の瞬間には、再び瞼を伏せてそれを消した。
「でも…もう、あの頃には戻れないのよね」
言葉の端に滲んだ寂しさは、決して過去を美化するものではなく、確かな喪失を物語っていた。直弥はその表情を崩さず、ただ静かに夢瑤を見つめていた。
沈黙が流れる。だがそれは重苦しいものではなく、互いの内側を確かめ合うような、必要な間だった。
やがて夢瑤はゆっくりと顔を上げ、今度は真っ直ぐに直弥の目を捉えた。
「ねえ、直弥くん。あなたは――どうしてここにいるの?」
その声は穏やかだった。しかしその奥には、まるで核心を突こうとするような揺るがぬ意志があった。
「聞いたわ、噂。看護師さんから。鳴矢高校事件――でしょ? その後、ADFに保護されたって」
少し言葉を区切ってから、夢瑤は続けた。
「時も場所も違うけど……私と似た境遇よね。でも、あなたは闘う道を選んだ。どうして? どうして、あなたは武器を持つことを選んだの?」
問いかけは責めるようなものではなく、むしろそこには不思議な温かさがあった。過去を分かち合う者として、同じ痛みを知る者として。夢瑤はただ、直弥の“決意”を知りたがっていた。
白伊の訳を聞いて、直弥はしばらく黙っていた。だがその瞳は揺れていなかった。夢瑤の問いは、彼自身が何度も自問してきたものだったからだ。
「……俺も、最初は分からなかった。ここに来て、ADFのこと知って、訓練して……ただ流されるみたいに過ごしてた。でも……ある時、思ったんだ」
彼はゆっくり言葉を選びながら、口を開いた。
「――あの日、助けてくれた人がいた。俺よりも華奢な少女なのに、俺じゃ到底敵わないような、得体の知れない化け物を相手に、一歩も引かずに。……今でも、その背中が焼き付いてる。俺も、誰かを守れる人になりたいって、そう思ったんだ」
目を逸らさず、真正面から夢瑤を見据えてそう言い切った直弥の声には、迷いのない強さがあった。
夢瑤はしばらく彼の瞳をじっと見つめていた。まるで、その言葉の奥にある記憶の色まで見通すように。やがて、ふっと目元を緩めると、小さく微笑んだ。
「……やっぱり似てるわ。兄に。」
ぽつりと漏らしたその言葉は、懐かしさとも、寂しさとも、痛みともつかぬ響きを帯びていた。
「強がってて、無茶ばっかりして……でも、いざって時には絶対に背を向けなかった。どれだけ怖くても、誰かのためにって、真っ直ぐに前だけを見てた。……あの人がそうだったように、あなたもそうなのね」
そう言って、夢瑤は目を伏せた。手のひらをそっと胸元に添え、その指先はかすかに震えていた。唇はかすかに噛みしめられ、まるで抑えていた思いが、いまにも溢れ出しそうだった。
「…ねぇ、私、どうするべきかな」
不意に、その声は震えを帯びていた。
「お兄ちゃんは死んで、紅旗の仲間たちもあれから音沙汰がない。みんな、生きてるのかどうかも分からない……母国に帰ったところで、軍か公安にでも捕まって、きっと口封じに殺される。そんなの、分かってる」
夢瑤は自嘲するように、苦く笑った。
「でも……私、怖いの。兄や八幡くんみたいに、命を賭けて戦うって、そんな強さ、私にはない。いざとなったら逃げてしまいそうで……誰かを見捨てて、自分だけ助かろうとするかもしれない。そんな自分が、怖いの……」
肩がかすかに揺れた。張り詰めていた感情が、静かに崩れはじめていた。
「正しいことをしたいって、心では思ってる。でも正しいって、なに? 紅旗のみんなを裏切った祖国への復讐のために死ぬのが正しいの? それとも、魔族の脅威を止めるための誰かの盾になって、兄みたいに……」
そこで言葉が途切れた。嗚咽になりかけた声を、夢瑤は必死に飲み込んだ。けれどその瞳には、堪えきれぬ涙がじわりと滲んでいた。
やがて、彼女は小さく俯いたまま、震える声で続けた。
「……ねぇ、八幡くん。あなたは、どうしてそこまで戦えるの? 何を支えに、怖くても、前を向けるの……?」
その問いは、彼女自身が最も知りたいことであり――失われた兄に、ずっと聞けなかった最後の問いでもあった。
苦々しげに訳した白伊の言葉を聞き、直弥は黙り込んだ。声も表情もないまま、ただ夢瑤を見つめている。
室内の空気が一瞬、固まったようだった。
何かを言うべきだとわかっているのに、言葉が出てこない。だが次の瞬間、彼の中にあるものが静かに溢れた。
直弥は、ゆっくりと夢瑤のそばへ歩み寄った。そして、静かに口を開いた。
「……俺も、怖い。毎日誰かが死ぬかもしれない生活なんて。…実際曹―――あなたの、お兄さんが目の前で死んだ時……俺のせいでって、限界まで思い詰めました。」
声は淡々としていたが、その奥にある熱が言葉に宿っていた。夢瑤が顔を上げると、彼の目がまっすぐに自分を見ているのがわかった。
「でも……それでも、沙紀―――俺の仲間と、支え合って、なんとか生きて帰ってこれた。」
その言葉には、まだ完全に癒えていない傷の痛みと、それでも歩き続けようとする意志の両方が滲んでいた。
「……俺は、誰かのために戦ってるって言えるほど、カッコよくなんかない。だけど……もし俺が動かなかったせいで、誰かが死んだらって思うと、いてもたってもいられないんだ」
直弥はぎゅっと拳を握りしめた。夢瑤の前で格好をつけようという気持ちは微塵もなかった。ただ、自分が今までやってきたことと、これから進もうとしている道を、正直に、誠実に伝えたかった。
「だから俺は、怖くても前に出るしかない。逃げたくなる時もある。でも……そんな時、背中を押してくれる仲間がいる。沙紀さんや、白伊くんや……今日、こうして話せた夢瑤さんも」
言葉に、嘘はなかった。夢瑤の問いに、真正面から向き合おうとするその姿勢に、白伊がわずかに息を止めるのが感じられた。
「誰かのために生きるって、綺麗事じゃ済まない。でも、それでも――もし俺の存在が、誰かを救えるなら、それだけで、俺がここにいる意味はあるって思えるんだ」
夢瑤は、まるでその言葉を噛みしめるように、じっと直弥を見ていた。彼の言葉は、過去の傷を否応なく掘り起こしながら、それでも新たな選択肢の光を照らすようだった。
そして、しばしの沈黙の後、夢瑤はそっと目を伏せ、かすかに笑った。
「……本当に、不思議な人ね。怖いってちゃんと言えるのに、逃げることは考えないのね」
そう呟いた声には、かすかな安堵と……羨望が混じっていた。
「……でも、ありがとう。少しだけ……心が軽くなった気がする」
その言葉を訳すばかりの白伊が、やれやれといった様子で声を上げた。
「……あー、俺、あんましんみりした雰囲気苦手なんだけど。そろそろ帰っていいか?」
その言葉に、直弥と病床の夢瑤が顔を見合わせる。そして、どちらともなく吹き出した。
「うははっ……ほんと、そういうところが白伊くんらしいわね」
「空気読めてるのか読めてないのか、絶妙なんだよな……」
笑いながらそう言った直弥の声には、どこかほっとした響きが混じっていた。白伊は肩をすくめ、手をひらひらと振る。
「どういたしまして。俺の存在が救いになるなら安いもんだ。じゃ、夢瑤、もうすぐ巡回くるだろうし、おとなしく寝とけよ。点滴抜くなよ?」
「えー、もう帰っちゃうの? せっかく久しぶりに会えたのに」
ぷくっと頬を膨らませて拗ねる夢瑤に、白伊は少しだけ表情を緩めた。
「病人は安静にしとけ。余計なことして悪化させたら、呼び出しくらうのは俺なんだよ。……それに」
白伊は少し言葉を切り、照れ隠しのようにそっぽを向いてから、ぽつりと続けた。
「また来るよ。元気になったって報告しに行く奴が居たほうが、ちゃんと生き延びようって気にもなるだろ。」
夢瑤の瞳が、わずかに揺れた。
「……うん。待ってる。頑張って元気になるから、その時はお茶でもご馳走してね」
「それまでには毒見役でも雇っとくんだな。」
軽口を叩きながらも、白伊の声には確かな優しさがあった。
「ほら直弥、帰るぞ。あんまり遅いと、外出許可もらってても教官に怒られちまう」
「う、うん……」
名残惜しさを振り切るように立ち去る直弥。白伊はその背を追いながらも、足を止め、最後にもう一度だけ夢瑤を振り返った。
「……気休めにしかならないかもだけど、きっとどこかで――しぶとく生きてるさ、紅旗も。」
静かに、しかし確かにそう言い残して、白伊は歩き出した。
夢瑤は、誰にも見せないようにそっと目を伏せる。涙ではない、ただ熱を帯びた感情が胸の奥にぽつりと灯り、その小さな灯が、ようやく心を内側から温めはじめていた。
***
病院からの帰り道、薄曇りの空の下を歩いていると、白伊の支給スマホが震えた。
ポケットから取り出して画面を見ると、そこには士官学校の同期の名前が映し出されていた。
(なんだよ、こんなタイミングで……)
直弥と並んで歩いていた白伊は、そっと手で「静かにしていろ」と合図を送り、スマホを耳に当てる。
「――もしもし。」
『おい白伊!お前、今どこにいるんだよ!』
開口一番、焦りと苛立ちが混ざった声が飛び込んできた。白伊は眉をひそめ、足を止める。
「は? ただの病院だよ。別に外出許可はちゃんと取って――」
『ちげぇよ、バカ!お前の体のことなんざ今はどうでもいいんだよ!』
思わず眉が吊り上がる。
「じゃあなんだよ、いきなり怒鳴って……」
しかし、次の言葉で白伊の中に冷たいものが流れ込んだ。
『―――沙紀ちゃんが…!』
「…………は?」
続く…




