39話 血濡れの信念
「……一体これはどういうことです、狂風卿。」
血沼亜沙実は静かに怒気を滲ませ、鋭い視線で言真を睨んだ。
そこは玄武隊四堂が日常業務を執る書斎——本来ならば、佳人卿・桜田風音がその席にいるはずの場所である。だが今、白虎隊の四堂である朽宮言真が悠然と座っていた。
四堂八間会議の決定を受け、佳人卿および寛解公が謹慎処分となってから、まもなく二ヶ月。依然として空席のままだったそのポストに、暫定措置として任命されたのが、目の前に座す狂風卿・朽宮言真。そして、寛解公・四阿庸平の後任として八間の一席を任されたのが、彼の背後に控える若きオッドアイの男——青龍隊八間、強靭公・夏芽遼であった。
「……風音といい、四阿といい。ほんと、君たちって僕のこと好きだよねぇ。」
朽宮言真は机に頬杖をつき、どこか退屈そうに呟いた。
「話を逸らさないでください。」
その軽薄な態度に、血沼亜沙実の声が鋭くなる。
「……あの件への対処、私は到底認められません。」
そう言い放つや否や、彼女は書斎机の上に報告書の束を叩きつけた。重みのある紙束が鈍い音を立てて机上に跳ね、乱れた表紙には「吉林省事案 最終報告書」の文字が刻まれていた。
それは数日前、中国・吉林省で発生した一連の事件に関する詳細な記録だった。
主犯とされる魔族は、帝家に連なる血ではないにせよ、確実にそれに迫るほどの力を持っていた。人民解放軍の正規兵すら歯が立たず、すでに現地ではADFによる直接介入の必要性が複数回にわたり指摘されていた。
本来ならば、練度の高いⅡ型ないしⅢ型戦闘員の派遣が当然。最悪でも、実戦経験のあるⅣ型が投入されるべき状況だった。
——それにもかかわらず。
目の前の狂風卿は、まだ士官学校在学中のⅤ型戦闘員二名、しかも入隊して間もない者を八幡直弥とともにその現場に送り込んだのだ。加えて、その派遣理由が直弥の死刑回避のための「実績づくり」であったことも、端から見え透いていた。
結果として魔族は討伐された。だが、その代償として現地の一般人・軍人に多数の死傷者が出、派遣された隊員たちも八幡直弥を含め重傷を負った。
亜沙実にとって、八幡直弥の生死はどうでもよかった。魔族との混血の疑いがある以上、むしろ死んでくれたほうが話は早いとすら思っていた。
——だが、巻き込まれた隊員たちは別だ。
彼らはまだ若く、経験も浅い。それでも命令に従い、前線へ向かった。そして命を落としかけた。
戦争である以上、若者の死が避けられないことは重々承知している。だが、それが他部隊の思惑による使い捨てのような判断であったなら——そんなものは、断じて看過できるはずがなかった。
言真は薄く笑みを浮かべ、椅子に背を預ける。
「でも結果、主犯魔族は死んだよ? よかったじゃん、ハッピーエンドってやつだよ。」
その無遠慮な言葉は、火に油を注ぐようなものでしかなかった。
「――その過程で何人死んだとお思いで?」
静かだが、怒気を孕んだ声。亜沙実の眼差しは、切り裂くような鋭さを持ち始めていた。
だが、言真は眉一つ動かさず、飄々とした態度を崩さない。あたかもそれすら「些末な犠牲」にすぎないとでも言いたげな様子で。
「へえ、それを僕に言うんだ。じゃあ訊くけどさ、あの子達が“正しく”動いてたら、犠牲者もさほど多くなく済んだんじゃないの?」
「そういう問題じゃありません。Ⅴ型戦闘員をご自身の思惑だけで危機に晒すのは如何なものなのですかという…」
「そこはちゃんと考えてたよ?」
言真は肩をすくめ、どこか芝居がかった仕草で笑ってみせた。場に漂う緊張感とはまるで無関係の存在のように、その態度はあくまで軽薄で、無垢ですらある錯覚を与える。
「ほら、彼らの戦闘能力は君も知ってるでしょ? 三田沙紀は君も知っている通り、元八間の実の娘。白伊涼菟も経歴こそイレギュラーだけど、士官学校じゃ三田に次ぐ成績だった。君が彼らに信頼を置いていたように、僕だってそこは評価してたわけ。僕が多少遊び心を入れたって、そうそう死ぬタマじゃない」
その声音には、まるで自分の手の内にすべてが収まっていたとでも言わんばかりの自信と――同時に、命を賭けた戦いを「遊戯」に変換する冷酷さが滲んでいた。
「……ですが事実、現地の魔族対処機関はほぼ全員が命を落としています」
亜沙実の声は静かだった。だがその瞳に浮かぶ光には、もはや感情を覆い隠そうとする意思すらなかった。冷たい怒り――いや、憎悪に近い色さえ帯びていた。
言真は一瞬だけ黙った。けれどすぐに、あくび交じりの声で呟いた。
「犠牲は付き物でしょ、こんな戦いじゃさ」
まるで、自分は悪くないとでも言うように。その目には後悔も戸惑いもなかった。ただ、退屈を持て余す少年のような無関心があった。
亜沙実はその姿を、じっと見つめた。
「――貴方は、何も感じないのですね」
静かに、けれど突き刺すような声。白磁の面のような彼女の顔に、かすかな皺が寄る。握られた指先が白くなるほど、拳に力が込められていた。
「感じてるよ、ちゃんと」
言真はわざとらしく眉をひそめて、指先で胸を軽く叩いた。
「ほら、ここがチクチク痛む。うーん……そうだな、眠れない夜が三秒くらいあったかも」
それは明らかに、彼女の怒りを煽っていた。
だが亜沙実は、感情を爆発させることはしなかった。彼女の怒りは、氷のように冷たく、鋭く、内に秘められていた。
「その“痛み”の感覚が、いつか貴方自身の喉元に刃となって返らぬことを、私は祈っております」
「…怖いねぇ。風音に対してもいつもこんなだったのかい?」
言真の口元が、まるで煙のように曖昧な笑みを浮かべる。
だが、その目は、冗談めかした口調とは裏腹に、ぞっとするほど冷たい光を湛えていた。
「だったら、教えてよ。風音は——君のその正しさで、救えたの?」
一瞬、亜沙実の表情が翳る。口を開きかけて、何かを呑み込むように閉じる。そして、小さく、深く、息を吐いた。
「……貴方は、言葉で人を殺せると、本気で思っているのですね」
「うーん、どうだろう。人ってさ、物理的に壊すより、信念を折る方が手っ取り早いと思わない?」
それはまるで、焚き火の中に氷塊を投げ込んだような音のない衝突だった。亜沙実の胸の奥に、言真の声が冷たく突き刺さる。
「そうして貴方は、誰も彼もを試す。信念が本物かどうか、口先だけか、値踏みするように」
「試してるわけじゃないよ。僕は、ただ……綺麗事がどこまで本気か、見てみたいだけさ」
その瞬間、亜沙実の瞳の奥に、かすかにだが怒りとは違う色が灯った。怒りよりもずっと深い、呆れとも、諦めとも、あるいは——憐れみに近い光。
「……それが、貴方の生き方なのですね。まるで全てを高みから覗き見る、観察者のように」
「それしかできない人間も、いるんだよ」
言真は、どこか乾いた声でそう言った。
「僕の兄貴もそうだった。僕よりも捻くれてさ、理想とか正義とか……そういうものを信じては、勝手に潰れて、勝手に燃え尽きていった」
言真は小さく笑うが、その声音にはどこか苦みが滲んでいた。
「信じたものに裏切られて、自分で自分を壊して。それで死んだときも、周りは“立派だった”とか“犠牲に意味があった”とか言ってさ。笑っちゃうだろ? 死んだ本人にとっちゃ、そんな言葉、何の慰めにもならないのにさ」
亜沙実は黙って聞いていた。表情は変えない。だがその視線には、はっきりとした厳しさが宿っていた。
「……だから、貴方は信じることをやめたのですか」
「違うよ」
言真は首を横に振った。乾いた笑みを貼りつけたまま、しかしその目だけはどこか遠くを見ていた。
「僕は、信じるに値する“もの”しか、信じないと決めただけだ。人じゃない。“正しさ”でもない。たとえば、そうだな——人の“弱さ”とか、“愚かさ”とか。そういう普遍的なものだけを信じてる」
「それは、世界を諦めた者の目ですね。自分を守るために、先に全てを見限った」
「だったら君はどうなんだい、豊麗公」
その声音は、穏やかで、どこまでも残酷だった。
「まだ“正義”とか“命の重さ”とか、信じられてるんだね? だったら、それでどれだけ救えたのか、君自身は自信があるの?」
亜沙実の唇が、わずかに噛み締められる。
「……私は、私を信じてくれた者に対して、嘘を吐きたくないだけです。彼らが、命を賭けて託してくれた“希望”の重さに、背を向けたくない。それだけです」
言真はその言葉に反応せず、ただゆっくりと立ち上がった。書斎の窓の外をちらりと見やりながら、軽く手を振る。それは、まるで舞台の幕引きを知らせるかのような仕草だった。
「綺麗な言葉だ。まるで昔話に出てくる英雄のようだよ。だけどね、血の海に浮かぶその“希望”が、どれほど無慈悲か……君は本当に、理解しているのかい?」
淡々とした声音のまま、言真は亜沙実の背に回る。距離を詰めたその気配は、獣のように静かで冷たい。
「君が守った“希望”のために、いくつの命が失われた? 君が救った命の裏で、どれだけの人間が“切り捨てられた”と思う?」
「それでも——私は、選びます。迷いながらでも、誰かのために歩む道を」
後ろを振り返らずに答える亜沙実の声は、微かに震えていた。それは恐れではない。迷いでもない。ただ、決して消えぬ痛みの記憶が、彼女の芯に刺さっているだけだった。
言真は小さく笑った。
「“彼女”も、そう言っていたよ。……隠居する最後まで、自分の正しさを信じていた」
「佳人……卿のことですか」
「あぁ。君とよく似ていた。——だからこそ、僕は君に聞きたかった」
そこで、言真はようやく歩みを止め、静かに問いかける。
「その信じた正義が、やがて全てを裏切る日が来たとして。それでもなお、君はその手を伸ばし続けるのか?」
その言葉に、亜沙実は初めて振り返った。双眸が、真っ直ぐに言真を見据える。
「はい。私は——それでも、人の光を信じます」
その一瞬、言真の目が微かに揺れた。
だが、彼はすぐに薄く笑って肩をすくめた。
「……あぁ、やっぱり、君たちは救えないな。僕には」
それは諦念にも似た、どこか遠くを見つめるような言葉だった。
その背に、沈黙の帳が落ちる。 風の音だけが、窓の外から微かに響いていた。冷えた空気が隙間風となって書斎に流れ込み、カーテンを揺らす。そのささやかな音が、ふたりの間の重苦しい沈黙を、さらに際立たせた。
書斎の外では、灰色の空に霞むように、細かい雨が静かに降っていた。ユグドラシルの葉がしとしとと濡れ、まるでこの部屋の空気そのものを映しているかのように重苦しい。
亜沙実は、言真の背中を見つめたまま動かなかった。まるでそこに、取り残された“正しさ”の残響を聴こうとしているかのように。
やがて言真が、片手をポケットに入れたまま、わずかに振り返る。彼の視線が、まっすぐ亜沙実を貫いた。
「……それとも、風音があんなだったから、君のような八間にも、そういう甘い考えが生まれるのかな?」
その言葉に、亜沙実の内側で何かがはじけた。
まるで火山の噴火のように、怒りがせり上がる。理性の堰を突き破り、煮えたぎる感情が抑えきれずに噴き出す。
「……どういう意味です? それ」
亜沙実の声は低く、しかし確実に震えていた。その震えは怒りに支配された魂の叫びだ。
言真は少しもたじろがず、むしろ軽く肩をすくめるようにして言った。
「そのままの意味さ。風音は優しすぎる。人に対して、傷つけることを極端に避ける。だから、救おうとする。誰彼構わず、愚かしいほどに」
…無理だ。
亜沙実の内側で、何かが爆ぜた。冷たい理性が霧散し、熱に浮かされた怒りがすべてを塗りつぶす。
気がつけば、彼女は言真に向かって駆け出していた。表情は怒りというよりも、悲しみと焦りが綯い交ぜになったような、極限の叫びそのものだった。
「ふざけないでよ……!!」
その小さな身体から振り上げられた掌が、張り詰めた空気を裂いた。
だが——それが頬に届く寸前、すかさず近くにいた夏芽がその腕を掴んだ。無駄な力は使わず、しかし絶対に逃がさない、冷静で鉄のような拘束だった。
「離してっ……やめて、強靭っ……ッ!」
彼女は暴れた。全身で、必死で抵抗した。けれど夏芽の腕は微動だにせず、そのまま亜沙実をぐっと机の上に押さえつけた。書斎の上品な装飾が軋む音と共に、少女の涙混じりの声が響く。
「どうして……どうしてこいつを庇うの!? こんな奴、こんな……!」
「落ち着いて、亜沙実さん。それは“護るための怒り”じゃない。ただの自分勝手な衝動だよ」
夏芽の声は低く、そして静かだった。亜沙実を否定せず、けれど明確に抑え込む重みがあった。
押さえつけられながらも、彼女は顔だけを上げ、なおも睨みつける。
言真は、ただその様をじっと見つめていた。微笑むでも、挑発するでもない。何も感情の映らない双眸で。
その目は、まるで——誰よりも風音を知っている者の視線だった。
「——風音に心酔するのは勝手だけどさ、君そのままだと死んじゃうよ? 肉体的にも、精神的にも」
その言葉は、皮肉でも警告でもなく、ただの事実の提示にすぎなかった。抑揚のない声が、逆に胸の奥を突いた。
亜沙実の顔がわずかに引き攣る。呼吸が浅くなる。何かを言い返そうとした唇が震えるが、言葉にならない。
夏芽の手は、まだ亜沙実の腕を掴んだままだった。けれど彼女の力は、もはや制止というよりも、崩れかけた身体を支えるものに変わっていた。
「……何が、言いたいの」
絞り出すような声で亜沙実が問う。だが言真はすぐには答えなかった。ただ、一歩だけ近づいて、まるで哀れむように首を横に振った。
「君が抱えてる理想はね、綺麗すぎるんだよ。……だから風音に惹かれたのもわかる。でもね、風音は君が思ってるような“無垢な聖者”じゃない。彼女は——」
ふっと息を吐く。
「……何人も手にかけてる、血濡れた英雄さ。」
その言葉に、亜沙実の瞳が大きく見開かれた。夏芽の手が微かに強まる。
「それでも君は、彼女を信じたい? だったらそれでいい。でも——」
言真はそこで言葉を切り、視線を真っ直ぐぶつけてきた。
ふいに言真は口をつぐみ、肩の力を抜いた。そして、じっと亜沙実を見据える。その瞳の奥にあったのは、怒りでも侮蔑でもない。たった一つの、純粋な“興味”だった。
「…まぁいいや。本当なら君、上官に逆らうなんて即除隊か、最悪死刑だよ? まあでも――」
言真は目を細め、口角をわずかに上げた。
「いいもの見れたし。——大目に見てあげる。帰って頭冷やしてきな。」
それだけ言い残して、彼は踵を返す。残された亜沙実はただその背中を見送るしかなかった。胸の中に渦巻くものを、まだ言葉にできないままに——。
続く…




