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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第参章
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38話 聖樹が街

 バクレンは楽しげに笑い、厨房奥の小さな扉を開けた。そこには、木の温もりが感じられる簡素な食卓があり、棚には手製のジャムやチーズがずらりと並んでいた。陽の光が小窓から差し込み、室内をやわらかく照らしている。


「ミケルー、手伝ってくれー。お客さんに昼飯だ!」


 バクレンの大きな声が厨房に響き、しばらくして奥の階段からトントンと軽やかな足音が聞こえてきた。やがて姿を現したのは、腰まで伸びた黒髪を緩やかに束ねた中年の女性だった。落ち着いた色のエプロンの紐を直しながら、にこやかに二人に会釈する。


「こんにちは。旅人さんかしら? お父さんったら、また勝手に人を連れてきて……」


 ミケルと呼ばれた女性は、にこやかな声で言いながら一歩近づいたが、その視線が沙紀の顔に留まった瞬間、ふいに目を丸くし、口元に手を当てた。


「まあ、沙紀ちゃんじゃないの! まあまあ、いつの間にこんなに大きくなって……!」


 沙紀は少し照れくさそうに頬をかき、控えめに笑ってうなずいた。


「えへへ……ご無沙汰してます、ミケルさん。お元気そうで何よりです。」


「もちろんよ。あなたこそ……昔はあんなに小さかったのに、今じゃすっかり綺麗なお嬢さんになっちゃって。うちのお父さんのこと、よく叱ってくれてたわよね?」


「そんなこともありましたね」と、沙紀は苦笑する。


 ミケルは懐かしげに目を細めながら、ふと直弥の方をちらりと見やる。


「それで……その隣の男の子は、もしかして彼氏さん?」


 その問いに、直弥はぴしりと背筋を伸ばし、少し早口で返した。


「い、いえっ! 違います! 僕はただの同行者で……ご挨拶が遅れました。僕は八幡直弥といいます。沙紀さんにはお世話になっていて……今日は突然お邪魔してすみません。」


 直弥の真面目すぎるほどの応対に、ミケルは目をぱちくりとさせたあと、くすりと笑った。


「あらまあ、なんて律儀な子。そんなにかしこまらなくていいのに。……でも、可愛い反応するわねぇ。ふふふ、こりゃ沙紀ちゃん、モテてるわね?」


「ちょっとミケルさん!」と沙紀は笑いながら軽く抗議し、直弥は困ったように視線を逸らす。


「ふふ、ごめんなさいね。二人ともお腹すいてるでしょ? さ、座って座って。今日はたまたま焼き立てがたくさんあるのよ」


 ミケルは手際よくテーブルに布を広げ、その上にパンのかごを並べていく。くるみパン、チーズロール、香草入りの薄焼きパン……どれもふんわりと温かい香りを漂わせ、見ているだけで食欲が刺激された。


 バクレンも厨房からスープの鍋を運んで来て、「よし、できたぞ!」と誇らしげに腕を組んだ。


「遠慮せず食ってけ! どれも朝から仕込んだ自信作だぞ!」


「ありがとうございます。……いただきます」


 直弥は礼儀正しく手を合わせ、焼き立てのパンをそっと一つ手に取る。そのまま口に運ぶと、表面はほんのり香ばしく、中はふっくらと甘い。


「……すごく美味しいです」


 その素直な感想に、バクレンとミケルが揃って嬉しそうに笑った。


「だろう? 街のパンコンクールで三年連続銀賞なんだぜ」


「銀止まりってところが、この人らしいんだけどね」


 ミケルがからかうように言うと、バクレンは「うるせぇ」と照れたように鼻を鳴らした。


 そのやり取りを見て、沙紀も楽しげに笑う。

 直弥もまた、どこか胸の奥があたたかくなるのを感じていた。


 争いや瘴気のない、こんな時間があることに、少し驚いて――けれど、きっと誰もがこんな場所を守るために戦っているのだと、思い出すように。


「おかわり、いかが?」


 ミケルが焼きたてのパンを手に、穏やかな声で尋ねた。


「……いただきます」


 直弥は一瞬ためらいながらも、素直にそう答えた。

 その言葉と笑みが、この穏やかな午後に、静かに溶け込んでいった。




 バクレン、ミケル夫妻はその後接客に戻り、沙紀と直弥は二人でゆっくり食事を摂る。


「沙紀さん、さっきのお二人とはどういう関係で?」


「あー、昔お母さんと仲良くてね。」


 沙紀はパンをちぎりながら微笑んだ。


「その縁で、今でも私、この辺に来たときは必ず寄るようにしてるの。ここのパン、大好きなんだ。あと……バクレンさんたち、すっごく人情深い人たちだから」


 直弥は小さく頷きながら、まだ温かいバゲットを口に運んだ。外は香ばしく、中はもっちりとしている。口いっぱいに広がる素朴な小麦の香りとほのかな甘み。それはユートピアという地下都市の奥深さを、ほんの一片ながら伝えてくれるようだった。


「……本当に、おいしいです。こんな味、初めてかもしれません」


 礼儀正しく感想を伝える直弥に、沙紀はふふっと笑って、


「でしょ? アルカディアの方が都会だけど、こっちにはこっちの良さがあるってこと、少しわかってきた?」


「はい。少しだけ、ですが……」


 直弥の返事に、沙紀はどこか嬉しそうに頷いた。


「ここってね、いろんな人がいろんな理由で集まってるの。自分の居場所を探してる人もいれば、逃げてきた人もいる。だけど、そんな人たちが一緒に暮らして、働いて、笑って……それで“町”って成り立つんだと思う」


「…そういえば、“アルカディア”とか、そういう街って、どこにあるんですか?」


 ふと漏れた直弥の問いに、沙紀はティーカップを口に運びながら、くすっと笑った。


「んー、ユグドラシルの話は一応、聞いてるんだよね?」


「ま、まあ……粗方は。」


「なら話が早いかも。……世界に、もともと八本あったの。ユグドラシルっていう、生命そのものを司る、超巨大な聖樹がね。で、それは生族にとって、いわば命綱みたいなものだったの。だからこそ、それを守るために――というか、利用しつつ防衛するために建てられたのが、ADFの始まり。」


 沙紀は一度言葉を区切り、紅茶をひと口すする。


「でも……十三年前、そのうち四本が焼かれた。だから今はもう半分しか残ってないの。残った四本のユグドラシル付近には、それぞれ要塞都市が築かれてる。それが――アルカディア、ベンサレム、エルドラド、ユートピア。全てのADF戦力がそこに集約されてる。」


「要塞、都市……?」


「うん。都市って言っても、普通の街とは全然違う。軍事施設と居住区が一体になってる、いわば“戦うための国家”。で、それぞれの都市は、白虎隊、朱雀隊、青龍隊、玄武隊の四つの主力部隊が一つずつ担当してるわけ。」


 沙紀はスプーンで紅茶をかき混ぜながら、視線を直弥に向けた。


「知っての通り私たちが所属してるのは玄武隊。つまり、この“ユートピア”が私たちの拠点ってこと。」


 直弥は、少しだけ目を伏せるようにして考え込んだ。そして意を決したように、静かに口を開いた。


「……沙紀さん。以前も、少し話されてましたよね」


「ん? なにを?」


「十三年前のことです。……一体、何があったんで」


 がしゃん、と陶器のぶつかる音が響いた。沙紀が、持っていたカップをやや乱暴にテーブルへ置いた音だった。


 直弥は驚いて顔を上げる。沙紀はそのまま、顔を伏せていた。肩がわずかに震えている。


 数十秒、重苦しい沈黙が降りた。


 やがて彼女は、絞り出すように――だが、はっきりと口にした。


「……言いたくない」


 その声は、静かだったが確かに拒絶の色を含んでいた。


 直弥は何も言えず、ただ黙って沙紀を見つめていた。彼女の伏せた瞳は深く沈み、まるで触れてはいけない湖の底のようだった。


 静かな時間が流れる。店内の賑わいも、遠くの世界の出来事のように感じられた。


 やがて、沙紀はゆっくりと顔を上げ、微笑みともつかない曖昧な表情で言った。


「ごめんね。せっかく楽しく食べてたのに。」


「……いえ、こちらこそ無神経でした。」


 直弥は少しだけ頭を下げ、真摯に謝った。


 すると沙紀は、ふっと息をついて椅子にもたれた。


「…いつか、全部話す日が来るかもしれない。でもそれは、私が決めたいの。ね?」


「……はい、わかりました。」


 彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、沙紀の気持ちに寄り添うように静かに頷く。


 その後、二人はしばらく沈黙のまま食事を続けたが、不思議と気まずさはなかった。沙紀が少しずつ表情を和らげ、やがて穏やかな空気が戻ってくる。


「ねえ、直弥くん。」


「はい?」


「今度さ、また一緒にどこか行かない?」


「えっ……」


 唐突な提案に、直弥は一瞬だけ言葉を失った。だが、沙紀の視線がまっすぐに自分を見つめていることに気づくと、自然と表情が緩み、ゆっくりと頷いた。


「―――はい、行きたいです」


 沙紀はふっと目を伏せ、ひとつ息を吐くように笑った。


「今日ね、本当はりょうちゃんも誘ったんだけど……意地でも行かないって言い張っちゃって。でも、今度は三人で、美味しいものでも食べに行きたいな」


「……もちろん。ぜひ」


 そう答えた直弥の声は、どこかそっと包み込むような響きを帯びていた。


 沙紀もまた、小さく微笑む。その笑みには、消えない痛みの影がほんのわずかに滲んでいたが、それでも彼女は、前を向こうとしていた。


 ――それは、まだ閉ざされたままの過去と、わずかに開き始めた未来とが、静かに交差する一瞬だった。


 ***


「ご馳走様でした!」


 食事を終えて店を出るとき、沙紀は背筋を伸ばして明るい声を上げた。

 カウンター越しに手を振るバクレン夫妻に、小さく頭を下げる。


「いつも美味しいご飯、ありがとうございます。また来ますね!」


 その柔らかな笑顔に、店主のバクレンは目を細め、ミケルは嬉しそうに手を振り返す。


「いつでも待ってるよ。元気でな!」


「身体に気をつけてねえ!」


 沙紀はぺこりともう一度頭を下げ、直弥もそれに倣いつつ沙紀のあとをついていく。

 先刻のあの重苦しい空気はどこへやら、沙紀は気の抜けた声でぽつりと口を開いた。


「……はぁ、お腹いっぱい。もう一歩も歩けないかも」


 その背中がどこか、無理やり明るさを装っているように見えて、直弥は言葉を継げなかった。


 沈黙がまた二人の間に降りる。

 けれどそれは、さっきのように息苦しいものではなく、どこか柔らかく、遠くを見つめるような空白だった。


 やがて、沙紀がぽつりと呟く。


「……ありがとね。何も聞かないでいてくれて」


 直弥は一瞬、驚いたように目を見開く。だがそれでも、すぐに頷いた。


「……また、話したくなったら教えてください」


 沙紀はそれに返事をせず、ただ真っ直ぐ前を向いたまま、少しだけ足を速めた。


 ***


 そこから、二人はウィンドウショッピングを楽しんだり、沙紀のことを知っている街の住人と雑談したりしていると、気づけば日はほぼ落ちかけていた。


「あーやばいやばい、早く帰んないと教官に叱られちゃう。」


 沙紀は小走りで先を行く。直弥も慌ててその後を追いながら、やや息を弾ませて問いかけた。


「夜間外出の門限、何時までなんですか?」


「うーん、たしか二十時……いや、二十一時だったかな?」


「そこ、ちゃんと把握しておいた方がいいですよ……」


 思わず苦笑しながらも、直弥の声にはどこか楽しげな響きがあった。


 その様子に沙紀は振り返ってニッと笑い、肩越しにからかうように言う。


「じゃあ直弥くん、門限破ったら一緒に怒られてね?」


「えっ、それは……俺、まだ怒られたくないです……」


「ふふ、冗談だってば!」


 そう言って軽やかに笑う沙紀の背中を、直弥は少し遅れて追いかける。赤く染まる街並みに、ふたりの影が長く伸びていた。


 直弥は、少し息を弾ませながら笑う。


「ほんと、結構長く出てましたよね。こんなに街中にいたの、初めてかも」


「ふふ、でしょ? たまにはこういうのも大事なんだから!」


 軽快に振り返った沙紀が、夕焼けに染まる通りの向こうを指差す。「あっちが近道だよ、ついてきて!」と駆け出す彼女の背を、直弥は苦笑しながら追いかける。


 街の外れへ続く細い路地を抜けると、風がまた涼しく肌を撫でていった。夏の熱をほんのり残しつつも、夕暮れの風にはどこか一日の終わりを告げる静けさが混じっていた。建物の合間から見える空は、茜色から群青へと徐々に移り変わっていく。街のざわめきも次第に穏やかになり、ユートピアは夜の装いへと静かに姿を変えつつあった。


 直弥はふと立ち止まり、息を整えながら振り返る。通っている士官学校は小高い丘の上にあり、背後にはユートピアの町並みが広がっていた。


 視界の中央には、まるで都市にぽっかりと空いた深緑の空洞のように、巨大な森のような存在が鎮座していた。その周囲を取り囲むように、高層ビル群が無数の刃のようにそびえ立ち、さらに外周には、石畳の通りとヨーロッパ風の建築が連なる穏やかな街並みが広がっている。光と影が交錯し、街全体がまるで生き物のように呼吸しているかのようだった。


 夕陽が斜めに差し込み、街の一角を金色に染める。それを見たとき、直弥はようやく――あの苛烈な戦闘を乗り越え、こうして今ここに立っているという実感が、心の底から湧き上がってくるのを感じた。


 その横で沙紀も足を止め、街を眺めていた。そして、しばらくの沈黙のあと、静かに呟く。


「……あの中央に見えるのが、ユグドラシル。森みたいに見えるけど、実は全部“葉”なんだよ。ひとつひとつが数メートル以上ある巨大な葉で、あの中心の“幹”は、さらに数百メートル地下まで続いてるの。」


 直弥は目を見開いたまま、改めてその“森”を見つめた。確かに、遠目にはただの自然林のように見えたが、言われてみれば不自然なほどに整っていて、生命の塊のような威圧感さえ感じられる。


「……あれが、ユグドラシル……」


「うん。世界に残された、最後の四本のうちの一本。私たちは、その命の根を守ってるの」


 風が、ふたりの間を通り抜けていった。街の喧騒が遠くなり、夕焼けだけが静かに空を満たしていた。


 二人はしばらく無言で、その夕闇に染まる風景を眺めていた。だがやがて、遠くから鐘のような時報の音が響く。


「うわ、やばい! 本当に怒られるかも!」


「マジで急がなきゃ!」


 ふたたび笑いながら駆け出す二人。その背を、沈みかけた太陽の残光が静かに見送っていた。


 続く…

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