37話 陽だまりの中の平和
『あなたは、特別な存在』
『橋となるべき、崇高な存在』
『生きて、その身を捧げ、永久なる戦乱に終止符を。』
『神の子として果たすべき責務を。』
『あなたの痛みも、涙も、命も、全ては意味を持つ。』
『その終焉の瞬間までは。』
歌声が、聴こえる。
遠くに見える水面を、何の感情もなく見つめる。
五感が水に溶けていく。風の音に似たその歌声は、まるでこの世界そのものが奏でる、終焉の子守唄のようだった。
幾千年も昔から存在していたかのような旋律。
それは言葉を持たず、理を語らず、ただ静かに、抗いがたい終わりを告げていた。
水面は鏡のように波立たず、そこに映るのは空でも大地でもなく、
――ひとりの少年が歩んだ、決して振り返ることのできぬ軌跡。
歌はやがて、人の形を取るように広がってゆく。
音ではなく、質量でもなく、記憶の澱だけで織られた存在。
『生きよ。滅びの炎を抱いたまま。』
『捧げよ。あなたという器のすべてを。』
『そして終われ。誰にも理解されることのないままに。』
その“声”が、誰のものだったのかは分からない。
けれど確かに――八幡直弥の奥底で、何かが冷たく共鳴していた。
やがて彼は、空を仰いだ。
世界が終わる音が、静かに聴こえた気がした。
***
「………んっ…」
直弥はゆっくりと目を開けた。重たい瞼の奥から差し込む白い光――それは天井の蛍光灯だった。
鼻を突く薬品の匂い。機械の規則的な音。身体にまとわりつくような清潔なシーツの感触。ここが病院であることを、五感がゆっくりと教えてくる。
「直弥くん…! 目が……目が覚めたのね……!」
声がした。震えるような、けれど必死に押し殺した喜びの滲む声。
視線を巡らせると、ベッドの傍に小さな椅子があり、その上に、士官学校の制服のままの沙紀が座っていた。
目元が赤く、頬には乾きかけた涙の跡がある。
「沙紀さん……?」
喉が渇いていた。声は掠れていたが、それでも彼女の名を口にできたことに、どこか安堵する。
「うん、私……ずっとここにいたよ。医療班の人が“意識戻るかもしれない”って言ってたから……」
沙紀は少し照れたように笑い、直弥の手をそっと握った。
その手は冷たくて、けれど、どこまでもやさしかった。
「俺……どうなって……?」
「瘴気でしばらく昏睡してたの。白伊くんたちが必死でここまで運んでくれて、衛生兵の人たちがすぐ治療してくれて……」
「そっか……みんな、無事だったんだ……」
「うん。夢瑤さんも今は別室で療養中。でも、やっぱり直弥くんが一番重かったみたいで……ずっと、目を覚まさなかったから……」
沙紀は言葉の最後を飲み込んだ。
再び涙が滲むのを、懸命にこらえるように、唇をかみしめる。
「沙紀さん……泣かないで……」
直弥は笑おうとしたが、それより先に目尻の方が緩んでしまった。
「ごめん……でも、本当に怖かったんだよ……!」
その瞬間、張りつめていたものが決壊したように、沙紀の瞳から涙が溢れた。
彼女は俯き、ただただ、静かに泣いた。
直弥は握られた手に、そっと力を返した。
ありがとう、と言うにはまだ呼吸が浅く、
ごめん、と言うには、沙紀の想いが重たすぎた。
だから彼は、ただ目を閉じ、沙紀の手を離さずにいた。
――それが、彼にできる精一杯の“生きて戻った”という証だった。
***
沙紀の手をそっと離したあと、直弥は看護スタッフに促され、静かにベッドから降りる。まだ足元がふらつくが、しっかりと立っていられた。
「こっちです。医務官がお待ちです」
案内されたのは、隣室の簡易診察室だった。
中には、初日にカルテを持って現れたあの眼鏡の女性がいた。白衣を羽織り、長い黒髪を後ろでまとめた医師。冷たい印象があるが、その瞳の奥には常に冷静な観察者としての色が宿っている。
「やっと目を覚ましたか。時間かかったわね」
女性医師はちらりと視線を上げると、手元のデータパッドを操作しながら言った。
「……お久しぶりです。ご迷惑おかけしました」
直弥は椅子に腰を下ろし、わずかに頭を下げた。
医師はその様子に軽く鼻を鳴らすと、脈を取り、呼吸器を当て、いくつかの検査を淡々とこなした。
数分後、器具を片づけながら、ふう、とひと息ついた。
「――まったく、あなたみたいなのが現場に出るってだけでも医療班は胃が痛いのに、よくまあ生きて戻ったもんだわ」
言葉とは裏腹に、その口調はどこか安堵を含んでいた。
だが、次に彼女が口にした言葉には、皮肉ではなく静かな真実が含まれていた。
「君が、魔族との混血じゃなきゃ――とっくに死んでたよ」
直弥の目が静かに揺れる。
「体内の瘴気耐性、回復細胞の再生速度、それから神経伝達の応答。全部、人間の限界を越えてた」
医師はデータパッドを手に、真っ直ぐ彼を見た。
「……そう、ですか」
直弥はゆっくりと息を吐いた。自分の中にある異物が、こうしてまた一つ、命を助けたという事実。
それがありがたくもあり、どこか苦くもあった。
医師はそんな彼の沈黙に気づきつつ、やや表情を緩める。
「…ま、とはいえ今回は運が良かったって話。佳人卿と寛解公に救われた命、もう無茶するんじゃないよ。」
そうして診察室を出て そうして診察室を出て数歩、歩いたところで、廊下の壁にもたれるように立っていた沙紀の姿が目に入った。
「……沙紀さん」
声をかけると、彼女は振り返り、心なしかほっとしたような表情を浮かべた。
「大丈夫だった?」
「ええ、なんとか……命に別状はないみたいです。医師の話では、軽い衝撃性のショックと、一時的な代謝異常だそうで」
そう説明しつつも、内心ではまだ整理のつかない思いが燻っていた。体内に眠る得体の知れない力が、またしても自分の意思を超えて発動し、結果的に命を救ったという事実。それはありがたくもあったが、どこか釈然としない苦みが残っていた。
沙紀はそんな彼の心情には気づかぬまま、柔らかな笑みを向けてくる。
「よかった……もう倒れたりしないでよね? 見てる方がヒヤヒヤするんだから」
「気をつけます。……沙紀さんの前で倒れるのは、ちょっと格好悪いですし」
冗談めかして言うと、沙紀はくすっと笑った。
「ほんとよ。君、意外と心配かけるんだから」
直弥はその言葉に小さく頷きながらも、ふと視線を落とした。自分の中に潜む“異物”の正体を、沙紀はまだ知らない。知らずに、自分のことを案じてくれる――それがどこか、申し訳なくも思えてしまう。
だが今は、ただこの平穏なやりとりを壊したくはなかった。
「じゃあ……少し、外の空気でも吸いに行きませんか。ここ、少し息が詰まるので」
「うん、付き合うよ。せっかくだし、ゆっくり歩こっか」
二人はゆるやかに歩き出す。まるで、何事もなかったかのように。
***
「そういえば直弥くんって、ここユートピアの街、散策したことないよね?」
病院を出て陽の光を浴びたとき、ふと沙紀は思い出したようにそう言った。
「……言われてみれば、散策どころかここがどこなのかすら知りませんでした。」
「だよね。こっち来てからずっと、訓練と治療と訓練と戦闘ばっかりだったもんね」
沙紀は苦笑しつつ、思いついたようにして顔をほころばせた。
「ちょっとだけ寄り道しよっか。時間はまだあるし、私が案内してあげる」
「じゃあ、遠慮なく」
直弥は小さく肩をすくめながらも、その誘いに従って歩を進めた。街並みは驚くほど整っており、道端の花壇には季節に似合わない色鮮やかな花が咲いている。空を仰げば、まるで地上と変わらぬ蒼穹が広がっていて、地下にいるという実感はどこにもなかった。
「ここが“曙光の宮”って呼ばれてる理由、わかる気がするでしょ?」
「ええ。まるで、空そのものが生きているみたいです……」
街は高低差のある段状構造になっていて、石造りの小道が緩やかに続いている。建物の多くは白と淡いグレーを基調にしており、どこかヨーロッパの山岳都市を思わせる趣があった。
「この街の特徴はね、ただ美しいだけじゃないんだよ」と、沙紀が言う。
「玄武の街には人術の研究施設がたくさんあってね。最先端の技術も、古代の魔術理論も、ここで混ざり合ってる」
「……なるほど、だから“ユートピア”なんですね」
「うん。でもそれだけじゃないよ。ここにいる人たちは、ほかのユグドラシルの街の人たちよりも、ちょっとだけ――他者に優しい気がする」
その言葉に、直弥は不意に心を衝かれたように感じた。
自分の中の“異物”に怯えながら、それでも誰かを助けてしまう命。それが今も自分の胸の奥で、静かに息をしている。
「……優しさって、怖いですね」と、ぽつりと漏らす。
沙紀は足を止めて、振り返った。
「どうして?」
「それを踏みにじられたとき、人はきっと、戻れなくなるから」
沙紀はその言葉に、しばし沈黙する。
だがやがて、彼女は穏やかに、けれど真剣な眼差しで言った。
「それでも、私は優しいほうを選びたいな。戻れなくなったとしても」
直弥は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「…おっ、沙紀ちゃんじゃないかぁ!」
遠くから明るい声が響いてきた。沙紀はぱっと顔を上げ、声の主を探すように周囲を見回す。
「…あっ、バクレンさーん!お久しぶりです!」
沙紀が指さす先には、小さなパン屋の前に立つ、大柄で立派な髭を蓄えた中年の男性がいた。にこやかな笑顔で手を振っている。
「おお、久しぶりだな!元気そうで何よりだ。」
バクレンなる男は明るく声をかけるが、直弥に目をやった瞬間訝しげに続けた。
「……おや? この子は初めて見るな。沙紀ちゃんの友達か?」
沙紀は少し戸惑いながらも、にこやかに答えた。
「うん、こちらは八幡直弥くん。最近こっちに来たばかりで、まだ色々と慣れてないみたいです。」
バクレンは興味深そうに直弥を見つめた。
「ほーん、随分とまあイケてるじゃないか。どの辺住みなんだ?」
「…あー、えっと…」
直弥は言葉を詰まらせた。日本からわけあってADFに保護されているとは、なんとなく口にしてはいけないような気がした。だが良い言い訳も浮かばずに逡巡していると、その様子を察した沙紀がさっと間に入った。
「うーん、その、この人元はアルカディア生まれで、そこから色々あってユートピアに越してきたの!」
沙紀は楽しそうに言いながら、少し恥ずかしそうに視線を泳がせる。
バクレンはそれを聞いて「ほぉ、そうだったのか!」と頷いた。
「そうか、アルカディアかぁ。なかなかの都会っ子じゃないか。ならこのユートピアも気に入ってくれそうだな。」
バクレンは満面の笑みを浮かべて言った。
「お、そうだ。」
そう言うと一旦店の奥へと引っ込み、しばらくしてパンがぎっしり詰まった大きなパンかごを抱えて戻ってきた。
「ふたりとも、もう昼は食べたか?もしよかったらうちで食ってけ!」
その豪快な誘いに、沙紀は目を輝かせながら
「わあ、ありがとうございます!ぜひご馳走になります!」
と元気よく応えた。
直弥も少し照れながらも、
「ありがとうございます。いただきます。」
と答えた。
バクレンの人懐っこい笑顔が、ふたりの緊張をほぐしていくようだった。
続く…




