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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
36/113

35話 中国・吉林省 - 15 -

 痛みは――ない。


 貫かれたはずの四肢も、えぐられた腹部も、焼けた皮膚も、今ではまるで他人の記憶のようだ。

 鼓膜に届く仲間たちの叫びは、まるで遠く深い水底から聴くように、くぐもった音の塊に過ぎなかった。


 張天雄は、ゆるやかに意識を手放しながら、ある種の衝撃に包まれていた。


 ――死とは、これほどまでに静かなものなのか。


 彼はずっと、死というものを痛みの極致だと信じていた。

 肉体の限界を越え、感覚が焼き切れるその先にようやく辿り着く、そんな凄絶な終末を想像していた。


 だが違った。


 死とは、静謐だった。

 苦痛も、恐怖も、怒りも、すべてが霧のように消え去り――ただ、無機質な静けさと共にある。

 肉体を抜け落ちた意識は、もはや自我の境界さえ曖昧になり、世界と自分との境界が溶け合っていくような感覚に包まれていた。


 呼吸はとうに止まり、脈動は消えたはずなのに、意識だけが宙に取り残されていた。

 まるで死の“余白”の中にいるかのようだった。


 視覚情報を失う直前、魔族の身体が崩れ落ちていくのが見えた。おそらく、あの魔族らの活動が止まったのは、白伊らがもう一方の、花梅の母を化物に変えたであろう魔族に何らかの致命傷を与え、影響していた瘴気が急激に弱まったからだろう。これで、もう仲間が死ぬことはない。


 かつて命を懸けて守ろうとしたもの――部下たち、戦友たち、あの紅旗の面々の顔が浮かび、そして、遠く昔に見た、まだ何者でもなかった自分の背中を思い出す。

 張天雄は、死の淵にありながら、なぜか確信していた。


 これでよかった。


 ただの兵として始まり、ただの人として死ぬ。

 誇るべき栄誉も、歴史に名を刻む勲功も、彼には必要なかった。


 自分の死が、誰かの命を繋いだ――

 それが、何よりも重く、何よりも美しかった。


 …ああ、思い出した。


 崩れかけた意識の中、張天雄の脳裏に浮かんだのは、戦場でも、上官の言葉でも、任務の記憶でもなかった。


 それは、あの朝――


 妻が家を出ていった、取り返しのつかない別れの日。

 冷えた空気と、吐く息が白く曇った玄関先で、幼い娘が背後からそっと近づいてきた。


 スーツに袖を通し、ネクタイを締めていた彼に、パジャマ姿の小さな少女が、そっとスラックスの裾を握った。

 張は気づかぬふりをしようとした。だが、震える声がそれを許さなかった。


 ――「いかないで」


 たった一言だった。けれどその言葉は、銃弾より深く、刃より鋭く、張の心臓を貫いた。


 娘の声は今も鮮明だった。泣き出す寸前の、震え混じりの声。

 あのとき、自分は何を言ったかさえ思い出せない。ただ、言葉に詰まり、曖昧な笑みを浮かべた自分の顔だけが、悔いとして焼きついている。


「……すまない」


 声に出たのかどうかも分からない、最後の呟き。

 彼が本当に向き合うべきだったもの――それが、今さらになってようやく見えた。


 血に塗れたこの死も、彼女に何か届くだろうか。

 贖罪にもならぬと知りながら、それでも心のどこかで願ってしまうのだった。


 そして、すべての記憶が音もなく、静かに、闇に沈んでいった



 ***



 花梅は、叫んでいた。


 震える手で張の胸を押さえ、血に濡れた顔を覗き込む。何度も名を呼ぶ――まるで、その声に応えるように再び目を開いてくれると信じるかのように。

 だが、張天雄の瞼は、わずかに開いたまま、もう二度と動かなかった。


 彼の身体から、かすかな熱が消えていく。

 その変化は、残酷なほど静かだった。肌に触れる掌の下から、確かに「生」が抜けていく。鼓動は止まり、呼吸の気配すらもうない。


「……いや、いや、いやだ……」


 花梅の声がかすれる。目の奥に、潤んだものが滲んだかと思えば、堰を切ったように涙が頬を濡らす。

 魏も、呉も、韓も、誰も言葉を発せなかった。花梅の慟哭が、ただ耳に残る。


 それでも、誰の目にも明らかだった。


 ――張天雄は、もう還らない。


 尊敬され、畏れられ、そして何より部下に慕われていた指揮官は、あまりにも静かに、しかし絶対的な犠牲として、その場に在った。


 一同の間を、言い知れぬ喪失の沈黙が包み込む。


 それは、勝利の代償としてあまりにも大きく、あまりにも深い――

 まるで誰の鼓動も、張のものだったかのように、場の全てがその喪失に沈黙していた。


 そんな混乱の最中――呉杰龍は、ふと視線の端に違和を捉えた。


 崩れた土の斜面に、朽ちた蜘蛛型魔族に代わって身を横たえるひとりの女性。

 身体の一部には焼け焦げた痕が残り、衣服は瘴気と泥にまみれていたが、その姿は紛れもなく人間のものだった。


 呉は即座に駆け寄る。

 重たい足音を跳ね返すように、地面が鈍く軋む。泥のなかに手を差し入れ、女の体を慎重に起こした。意識は朦朧としており、脈拍も浅い。


「……誰だ?」


 呟いたのは、近くで顔を伏せていた韓だった。

 そして次の瞬間、それまで張天雄の亡骸に縋っていた花梅が、何かに気づいたように顔を上げた。


 呆然と、目を見開く。


「……お母……さん……?」


 その声は風に紛れるほど微かだったが、確かに場の空気を変えた。

 紅旗の面々は息を呑み、花梅を振り返る。魏の瞳が見開かれ、胡は傷の疼きも忘れたように立ち上がりかけ、韓の拳がわずかに震えた。


 それは、間違いなかった。


 蜘蛛型魔族へと変異していた花梅の母親は、今、瘴気の鎖を断ち切り、こうして人の姿を取り戻していたのだ。


 なぜそんな人が魔族に変貌していたかは、現紅旗生存者にはわからない。ただ呉は、その両肩をそっと支え直し、低く、柔らかい声で語りかける。


「……目を開けられますか。聞こえていたら、返事をしてください。あなたの娘さんがここにいます」


 わずかに、眉が震えた。

 そして、濁っていた瞳がゆっくりと開かれ、焦点の定まらぬまま空を漂い――やがて、花梅の姿を捉える。


 視線が絡んだ瞬間、花梅の唇が震える。


 その少女は母親の顔を、今ようやく目にしていた。

 人に戻ったその姿が、ようやくここにある。


 呉は、そっと頷いた。


「戻ってきたんですよ。あなたは、もう……魔族じゃない。人間です」


 ***


「アアああ゙ぁ…!っっあ゙アアあっ…!!」


 もはや、それは言葉ではなかった。

 魔族の喉から漏れ出る声は、構造崩壊に起因する“知覚中枢の悲鳴”であり、単なる痛覚反応をはるかに超えた――情報存在としての断末魔だった。


 胸元から立ち上る瘴気の奔流は濁流のように泡立ち、制御を失った死脈繊維が次々と弾け飛ぶ。

 そのすべてが、三田沙紀の術式、閃術によって断ち切られ、死者の情報網が根底から“無効化”されてゆく音だった。


 白伊は、沙紀の傍らで銃を構えたまま、何も言えずにその様を見つめていた。

 彼の指先は引き金にかかったままだったが、それを引くことはなかった。

 ――もはや、彼に撃つべきものは残されていなかったのだ。


 沙紀は肩口に深々と突き刺さったままの“死脈の糸”を掴み続けていた。

 その白い掌には既に血が滲み、術式の放射で焼け爛れた肌が見え隠れしている。

 それでも彼女は崩れず、ひたすら“構造の殺滅”に専念していた。


 一方、直弥は瓦礫の影からようやく身を起こし、傍らの夢瑤へと意識を向けていた。

 その表情には焦りが滲んでいる――彼女は未だ目を覚まさない。


(……早く、ここから連れ出さなきゃ)


 だが、まるでそれを遮るように、魔族が再び咆哮を上げる。

「グ、ウ゛ウ゛゛……ァア……アアアあああ゙あ゙ああッ!!」


 魔族の咆哮は、もはや言語を介した意思伝達ではなかった。

 それは存在そのものの崩壊に抗う、理性と獣性の混濁した拒絶反応――死を回避するための、あまりに本能的な衝動だった。


「……ッ!」


 直弥が微かに息を呑んだ次の瞬間だった。

 破砕されかけていた瘴気の“糸”が、再び形を取り戻し、二条の黒い閃光として空間を裂いた。

 目標は明白だった。


 ――曹夢瑤と、八幡直弥。


「あ――ッ!」


 沙紀が声を上げたときにはもう遅かった。

 振滅場の干渉波は、糸の中枢には作用しても、今この瞬間、辺縁から放たれた“新たな末端”までは届いていない。


 次の瞬間、直弥の脇腹と、夢瑤の肩口に黒く細い刃のような糸が深く突き刺さる。


「ぐ、あっ……!」


 呻くように直弥が片膝をつく。

 夢瑤は意識のないまま、糸によって体が引き寄せられるように浮きかけた。


「夢瑤ッ!!」


 白伊が怒声とともに銃を構え、空間を横断するように伸びた二本の糸へと即座に発砲する。

 銃声が響き、閃光のごとく放たれた弾丸が瘴気の糸を撃ち抜いた。

 黒い繊維は脆くも千切れ、夢瑤と直弥の身体は糸の拘束から解き放たれる。


 だが――それは明らかに陽動だった。

 糸に意識を奪われている刹那、魔族の姿が瘴気の彼方へと滑り落ちていく。

 まるで闇そのものと同化するように、地面を滑るようにして退き、構造崩壊しかけた身体に残る力を総動員して逃走していた。


「……チッ!」


 白伊は舌打ちし、銃を握り直して後退しようとする沙紀に目を向けた。


「沙紀! お前は直弥と夢瑤を頼む! 俺が奴を追うッ!」


 言い捨てるように叫ぶと同時に、白伊は足元を蹴るようにして疾駆する。

 すでに魔族の瘴気は乱調に波打ち、逃走の余波で地形ごと巻き込む可能性すらある。

 だが、あれを見逃せば――再び誰かが、曹辰偉の亡骸を弄ぶ術式の標的になるかもしれない。


 その想いだけが、白伊を突き動かしていた。


 ***


 くそっ……! くそっ……!!


 声にはならなかった。

 否、それを発する余裕も、意味もなかった。

 ただ胸中で――無音の咆哮として、悔恨と憤怒の念だけが繰り返される。


 全ては、完璧だったはずだ。

 計画も、擬態も、術式の安定性すらも――

 それでもすべては瓦解した。あの少女、三田沙紀によって。


(なぜだ……俺は、ようやく……)


 魔界での彼は、“身分の底”すら与えられぬ存在だった。

 “民”ではない。“道具”ではない。“魔”ですらない――

 ただ、そこに“ある”だけの、存在未満の影だった。


 虐げられることに慣れ、蔑まれることに抗う術も持たず、ただ日々を耐えていた。

 だがある日、限界を超える出来事が訪れる。


 それは帝家の下級役人が、自身の暮らす粗末なプレハブ小屋を突然訪ねてきたときのことだった。

「連行する」――

 その声は、有無を言わせぬ命令の音だった。


 数日前、近隣で発生した殺魔事件。その嫌疑を、身分が低いからという理由だけで自身に着せたのだ。


 ――難癖だった。冤罪であることは明らかだった。

 だが、反論は許されなかった。

 魔界における“下層”に、言葉を持つ権利などない。


 無理やり引きずられようとした瞬間、堰を切ったように怒りが湧き上がった。

 ――それは、原初的な衝動だった。

 役人は彼の魔術を放つ暇もなく絶命していた。何が起きたかすら、自身でも定かでない。


 ただ逃げた。

 恐怖に駆られ、怒りに背を押され、ただ走った。

 その日から彼の名は、魔界中に響く「反逆者」「殺官者」「破戒者」となった。


 捕まれば、ただの処刑では済まない。

 晒し斬り、肉体剥離、魂輪廻の断絶刑。


 救いはどこにもなかった。


 ――だが、あの存在に出会うまでは。


 その出会いは、まさに異界との境界にて訪れた。

 名もなき境界の崖縁。瘴気が濃く、魔族ですら足を踏み入れぬ空の裂け目。

 そこに“それ”はいた。


 白かった。

 髪も、ローブも、肌も、すべてが漂白されたように色を持たなかった。

 にもかかわらず、不健康さや虚弱さは微塵も感じさせなかった。

 ――むしろ“異常なまでの調和”が、その外観に宿っていた。


 それは、整いすぎているのだ。

 まるで自然界では絶対に形成されない、模型めいた人工の均衡。


 存在しているのに、存在していないようだった。

 匂いがない。熱がない。気配がない。

 視界に入っているのに、視覚情報が脳に届かないような錯覚。


 幽霊――という語が、しっくりとした。


 その者は、彼の戸惑いと畏怖を見透かしたように、ふと口を開いた。

 中性的な声――性別も、年齢も、種すら感じさせない音。


 そして、こう問うた。


 ―――「なにか、探し物かい?」


 最初は、帝家の密偵かと思った。

 だが姿かたちは人間に近く、口調も穏やかすぎる。あまりに自然すぎて、逆に不自然だった。

 だからこそ、警戒した。

 右掌にはすでに瘴気が滲み始め、死脈転写の第一接触術式がいつでも発動できる状態にある。


 ―――「……誰だ。」


 声は低く、抑えた。

 敵か味方か以前に、“何者か”すら分からぬ存在に対して、必要最低限の確認である。


 その問いに、相手は少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。


 ―――「別に、決まった名前はないさ。」


 それは答えであると同時に、何の情報も与えない拒絶の返答でもあった。

 種も所属も時代も名乗らず、ただ“そうである”というのみ。

 それだけで、この者の存在が常軌を逸していることを彼は理解した。


 白い者は、ふっと唇の端を上げると、宙を見やるように視線を逸らした。

 そして、独り言のように言葉を継ぐ。


 ―――「……まあ、そうだな。君がどうしても呼び名を欲するなら、ひとつ仮の名を与えてもいい。」


 一拍の沈黙ののち、彼は再び視線を戻し、こう続けた。


 ―――「最上シア(・・・・)……とでも、呼んでくれたらいいよ。」


 最上との出会いは、自分にとって――まさしく“革命”だった。


 魔界では虫けら同然の扱いを受け、存在として認められることすらなかった。

 だが、地上――人間界に逃げ延びてからは、世界が一変した。


 今度は、自分が“虐げる側”になったのだ。


 食もあった。寝床もあった。

 ストレスが溜まれば、それを適当な人間にぶつけて吐き出せばよかった。

 何をしても、誰に咎められることもない。殺しても、壊しても、泣かれても――恐怖を刻み込めばそれで済んだ。


 快楽ではない。だが、苦痛からの解放だった。

 もはや“楽”という言葉では足りないほど、それは自分にとって異質な生だった。


 最上曰く、ここは「中国」という国家の「吉林省」なる場所らしい。

 意味はよく分からなかったが、実際、生活に不自由はなかった。


 最上からは、地上の三種の言語を教えられた。

 エーゴ。チューゴクコ゚。ニホンゴ――

 その発音の曖昧さに最初は苛立ったが、術式と併用すれば会話はすぐに覚えた。

 死脈転写で外形を整え、人間社会に紛れるのも容易だった。


 自分は“異物”でありながら、そこに溶け込み、静かに人の姿を模して生きた。


 だがある日、最上は自分を連れ、ある小さな集落へと案内した。

 寒村だった。古びた民家が軋み、土の匂いが濃い。

 穏やかで、無防備で、あまりに脆い人間たちが住んでいた。


 そして、最上は何の感情も込めず、ただこう言った。


 ―――「皆殺しにしろ。」


 空気が凍ったように思えた。


 正直、人間を殺すことに抵抗があったわけではない。

 これまでも、娯楽や実験の名の下に数人は処してきた。

 だが、それはあくまで気晴らしの範疇だった。


 集落一つ分――何十人、あるいは百を超える命を、自らの手で葬るというのは―――

 …あまりに質が違いすぎた。


 だから、問いかけた。

 なぜ、そこまでのことをする必要があるのか。

 人間という種族に対して、何を望んでいるのか。


 最上は、語った。


 それは、まるで狂気だった。

 だが、一つとして冗談ではないことだけは、目を見ればわかった。


 新たな構造体アーキテクチャへの渇望、その最上の言葉に、嗤いや飾りはなかった。

 冷たく、正確で、壊れているのに美しかった。


 そして、恐ろしかった――心の底から。


 最上はそれ以上、何も言わなかった。

 白のローブが静かに風に揺れ、やがて彼の姿は森の奥へと消えた。

 残されたのは、古びた木造の家々と、自分――ただそれだけだった。


 井戸の水を汲む音。軒先で薪を割る音。

 ごくありふれた音が、異様なまでに耳に残った。


 このときばかりは、明確に選ばされた。

 集落一つを、消すという選択を。


 指が、震えていた。

 死脈転写の術式印は、何度も身体に馴染ませてきたはずなのに。

 ただ一本の黒糸が掌から伸びていく――それが、いつもと違って見えた。


 黒い糸が、家の扉に触れる。

 それだけで、世界が変質する音がした。


 最初に崩れたのは子供だった。

 悲鳴を上げるよりも先に、呼吸が止まり、目が見開かれたまま倒れた。

 次に駆け寄った母親が、嗚咽をあげようとした瞬間、喉に糸が絡み、声が潰れた。


 音が、一つずつ消えていった。


 耳を塞ぎたかった。

 だが、そんなことをすれば、自分が何者であるかも否定することになる。

 だから、見た。聞いた。

 泣き叫ぶ者。命乞いをする者。最期まで理解できなかった者。


 すると、どこから現れたのか、黒い野生本能丸出しの魔族がどこからともなく何体も現れだした。

 それらは家々を飲み込み、捻り潰し、燃やし尽くす。


 気配が静かになった。


 ――終わった。


 死がそこかしこに転がっているのに、風景は変わらなかった。

 血の匂いすら、すぐに風に薄れていった。


 だが、自分の内側は、まったく違っていた。


 呼吸が浅くなっていた。

 胸の奥にひやりとしたものが張り付き、戻れない場所まで来たと、身体が告げていた。


 快楽はなかった。

 誇りも、優越も、征服感もなかった。

 ただ、ただ――「恐ろしかった」。


 自分の手で、こんなにも容易く、世界が崩せてしまったことが。


 そのとき、最上が戻ってきた。

 その掌に巻き取られていたのは、村人たちの死脈――黒く撚られた繊維のような“情報”だった。


「……よくやった。」


 その声は、静かすぎて、かえって残酷だった。

 温度も抑揚もなく、まるで観察者が実験結果を確認するかのような声。

 称賛ではない。赦しでも、導きでもない。ただ――現象の記録だった。


 自分は、視線を上げることができなかった。

 惨劇の主導者でありながら、その中心にいたのは自分ではなかったことを、骨の髄まで悟っていた。


「……こレで、いいノだナ? ……最上シア。」


 喉奥が震え、声が割れた。

 恐怖と混乱と、認識の崩壊とが重なって、言葉がうまくまとまらなかった。


 最上は、血塗れの集落を眺めたまま、静かに言った。


「いいんじゃない?」


 あまりにも軽い。

 その声音の無重力さに、再び背筋が凍る。


 白いローブの裾が風に揺れ、彼の長い白髪が陽光に透けた。

 その姿はまるで、災厄そのものが人の形を取ったようだった。


 自分は思わず、頭を垂れる。

 敬意ではない。畏怖でもない。ただ、拒絶しきれなかった自分自身からの逃避だった。


「おまエの策……まことニ、恐ろしイ……この世界ヲ、飲ミ込ム、気カ……」


 最上はしばらく何も答えなかった。

 沈黙の中、ただ遠くの山裾と、焼かれた家屋の骸を見つめていた。

 その眼差しはまるで、彫像が風景を見ているかのような無機質さだった。


 そして、不意に口を開いた。


「……心外だな。君だって、随分楽しそうだったじゃない。」


 息が止まった。

 嘲りでも、責めでもなかった。ただ、事実を述べただけ――

 だからこそ、心の奥に突き刺さった。


 声を絞り出す。


「……俺ハ……たダ、平穏ニ暮らスタめニ……お前ニ、従ッてイルだけダ。」


 それは本心だった。

 奪われ続けたあの世界から抜け出し、ようやく見つけた静寂を守るため。

 最上の傍にいれば、誰にも屈辱を受けることはない。

 殺されず、餓えず、怯えずに生きられる――そう思っていた。


 だが、最上は、くすりと口元を歪めた。


「……平穏に、か。」


 まるで何か珍しい標本でも発見したかのような声音だった。


「おもしろいな。君たちにも、そういう感情があるんだね。」


 そうして最上は振り返った。何の感情も感じられない、虚無の目で。


「―――警戒しといてよ。そのうち武装警察とか、下手すれば人民解放軍もここに来るかもしれない。」


 頭上に飛ぶヘリの音がこだまする。その時にようやく気がついた。最上とは関わってはいけなかったのだ、と。



 最上の目的は最初から、集落の住人を皆殺しにすることではなかった。

 本当に欲していたのは、花梅――あの少女の身柄だった。


 最上は、彼女の母親に目をつけた。

 シェルターの外へ食料を探しに出たその女性に、瘴気を徐々に、だが確実に蓄積させ続けた。

 しかもそれは、外傷や変容を伴わない、不可視の侵蝕だった。

 花梅の母親は、誰にも気づかれぬまま少しずつ魔族化し、そしてある夜、ついに制御を失った。


 逃げ惑う花梅は、自身に保護されることとなった。

「君ノお母さンは、病気ナンだ。治すニは、特別な処置が必要デネ」

 その言葉に、花梅は怯えながらもすがるしかなかった。


 本来、自分の役目はそこまでだった。

 母親の魔族化の後始末を行い、花梅の追跡を補助し、引き渡す。

 それで終わるはずだったのだ――そのときまでは。


 だが、最上はふいに言い出した。


「もう一人、必要なんだよ。――派遣されてきたADF兵に、八幡直弥という男がいる。そいつも、攫え。」


 言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。

 花梅と無関係に見える、ただの人間の少年――それも、ADFの末端兵。

 なぜ、そんな存在が重要なのか。


 問いただす前に、最上はすでに姿を消していた。

 あの白い背中が、答える必要すら感じていないように見えたのが、妙に印象に残っていた。


 だが逆らえなかった。

 最上の思考は、自分の理解を遥かに超えていた。

 そしてその八幡直弥の捕縛という任が、すべてを狂わした。


 花梅には逃げられ、彼女の母親魔族も瘴気切れで動かせなくなった。無論八幡直弥らも取り逃がした。


 そして問題はそれだけではない。


 あの忌々しい女――三田沙紀。


 あの支援士風情が、ありえない構造干渉でこちらの“肉体構成そのもの”を狂わせてきた。

 死脈転写の伝達路を逆流され、触手に織り込んでいた死者情報の網が暴走。

 繊維は寸断され、神経伝達のように結合していた瘴気ルートが軋みを上げて崩壊した。


 筋肉は裂け、関節が逆に折れ、左脚は完全に反応を失った。

 それでも、痛覚すらも麻痺しかけた身体を引きずり、満身創痍で逃げ惑うしかなかった。


 ここまでの失態、これほどの損耗は想定外だ。

 何より、自分という“存在そのもの”が、いま初めて「壊される恐怖」にさらされていた。


「……くソッ、クそッ……」


 口から零れるのは、憤怒でも後悔でもない。

 ただ、制御不能の怯えだった。


 必死で逃げた。

 瘴気の濁流が内側から裂けるように揺れている。焦りと痛みが交錯し、もはや正気すら曖昧だった。

 それでも、あの白伊とかいうADF兵の気配が背後からかすかに追ってくる気がして、足を止めるわけにはいかなかった。


 ――今、ここで死ぬわけにはいかない。

 せっかく手に入れた、この自由、この快楽、この“人間界の生活”を、今さら放棄できるはずがない。


 視界が滲み、瘴気の流れも限界を訴えている。

 それでもなんとか、森の奥へと身体を滑らせ、開けた崖縁へとたどり着いた。

 そこで、彼は“それ”と出会った。


 軍服姿の男が、風にコートをはためかせながら立っていた。

 その服はADFでも、紅旗の制式でもない――しかし、間違いなく見覚えがある。


 黒地に、鋭く刺繍された鷹の紋章。


 ――鷹紋部隊。


 そして、その背中。その立ち姿。その圧。

 見間違えようがない。蘭峰、あの総司令官だ。


 なぜ、ここに。

 こんな辺境に、なぜ、軍の頂点がいる?


 混乱と本能が入り交じり、反射的に死脈転写の詠唱に入ろうとする。

 逃げなければならない。

 今すぐ、どこへでも――


 だが。


 両腕が、なかった。


 視界の中、何かが宙を舞っている。

 それが、自分の“腕”であると認識するのに数秒を要した。

 その切断面はあまりに滑らかで、痛みよりも“理解”の欠落が先に来る。


 ――何が起きた?


「……だめだねぇ、君は。」


 その声音。抑揚。絶対零度の冷たさと、ほんの微かに潜む愉悦。


 震える喉で問いかける。


「……最上、か?」


 男は、ゆっくりと顔を上げる。

 顔立ち、肌の色、瞳の形、そのすべてが――蘭峰だった。

 しかし、直感で感じたその“魂”だけは、違っていた。


 視線を交わした瞬間、理解してしまった。

 それは軍人ではなかった。命令に従い、国家に忠義を尽くす存在ではない。

 もっと深く、もっと根本的に、世界の構造そのものを見透かしながら嗤うような――


 虚無の申し子。


 “それ”は唇の端をわずかに持ち上げた。

 氷のように静かな、感情の欠片も宿さぬ笑み。


「―――ああ、そうさ。」


 その瞬間、魔族の胸に走ったのは、理屈を超えた本能的な戦慄だった。

 直感が脳髄に鋭く警鐘を鳴らす――殺される。


「ァあっ……ま、待ッてクれ……最上、俺ハ……!」


 声が掠れ、喉が引き攣れる。

 誇りも威厳も捨て去った、惨めな命乞いだった。


「俺ハ……ずっと……お前ニ従ッてきタ……!」


 膝を折り、瘴気混じりの血を吐きながら、魔族は這いつくばるように懇願を繰り返す。


「お前ノ計画に手ェ貸シた……花梅ノガキモ、攫ッテヤッた……俺は……俺ハ……」


 最上は、何も言わずにそこに立っていた。

 周囲の空気すら凍りついたかのように、風は止み、森は沈黙を守る。


 最上は、まるで死の象徴のように動かない。

 その存在が放つ“静けさ”は、むしろ騒音よりも圧倒的だった。


「なぁ……ナァ、俺ハモう……十分ヤッタろ……? 助けテクレよ……ナァ……」


 その言葉に、ようやく最上が口を開いた。


「……え? いやもういいよ、君。」


 その声音は、あまりにもあっさりとしていた。

 まるで使い捨ての紙片をゴミ箱に放るような――無関心の声。


 魔族の表情が一瞬にして凍りつく。


「な……何ヲ……言ッて……」


「いやだから、君の存在意義は既に失効したの。もっと分かりやすく言おうか? 君はもう、役立たずだ。」


「ま、待てッ――ッ話せバワかる、違ウンだ、誤解だ!俺ハマだ……!」


「誤解もなにも、もう何の役にも立たない君に何を期待しろって? 私は慈善家じゃないんだよ?」


 最上シアの顔には、微塵の情も浮かばない。


「…そんなに命を惜しむなら、初めから私に従わなければよかったのに。」


 それは、“裁定”ですらなかった。

 彼にとって、命は選別されるに値しない塵芥にすぎなかった。


 直後。


 ズシャッ――


 風を裂くような音とともに、魔族の胸を何かが貫いた。

 瞬きする間もなく、硬質な音が内側から響き、魔族の身体が一瞬にして硬直する。


「がッ……え、ア……?」


 視線を落とした先。

 そこには、少女がいた。


 17、いやもう少し若く見える細身の体格。無表情に近い端整な顔立ち。

 だが彼女の右腕は、肘まで魔族の胸に差し込まれていた。


 その掌が握りしめているのは――魔族核。

 生命の中枢。

 存在の維持を司る唯一の部位。


「……誰……ダ、お前……?」


 その問いに、少女は何も答えない。

 ただ、ほんの僅かに眉を動かしただけだった。


「いいよ、鷹觀たかみ。」


 最上が蘭峰の声で淡々と告げた。

 合図とともに、少女は指に力を込める。


 ギチ……ッ、バチィン――!


 魔族核が、砕けた。

 砕けたというより握り潰されたのだ。


 直後、身体から瘴気が一気に噴き上がり、そして崩れた。

 肉体が崩壊し、瘴気が空へと昇華していく中で、彼はただ悲しみと憎しみを抱え、跡形もなく消え去った。


 ***


 魔族の後を追い、ようやく崖縁へとたどり着いた白伊は、目の前の光景に一瞬言葉を失った。


 風が止んでいる。

 周囲に生物の気配すらなく、ただ森の奥で戦っていたはずの喧騒だけが嘘のように遠のいていた。


 そして、その中心。

 魔族の肉体が――ゆっくりと、音もなく崩れていく。


 皮膚が剥がれ、筋肉が裂け、骨格までもが砂塵と化して風に溶けていった。

 残されたのは、煤けた地面と、いくつかの物質的痕跡だけ。


「……自壊か……」

 白伊は眉をひそめた。


 三田沙紀による閃術の直撃を受け、すでに限界だったのは確かだ。だが―――


 …いや、今はいい。

 警戒を解かぬまま、ゆっくりと崖縁に近づく。

 慎重に視線を巡らせながら、地面に落ちていた一つの黒い物体に目を止めた。


 無線機。


 それは、まるで「見つけろ」と言わんばかりに、地表にぽつねんと転がっていた。


 訝しみながら拾い上げたその瞬間――不意にノイズ混じりの音声が漏れ出す。


『……応答……ろ、こ……熊野璃久。……生きて……るなら返事を……てくれ、どうぞ……』


 不明瞭な電波の中、だが確かに聞き覚えのある名が繰り返されていた。


 ――熊野璃久。


 白伊の瞳が微かに揺れた。


 すぐに無線の送信ボタンを押す。

 その動作には一切の逡巡もなかった。


「こちら白伊涼菟。生存を確認。現在地は森林南西部、座標は後ほど送る。どうぞ。」


 返答は、驚くほど早かった。


『こち……野璃久。3日間連絡がなかったが、何……あった。どうぞ』


 聞き慣れた声に、わずかに肩の力が抜ける。


 白伊は短く息をついた後、努めて冷静に言葉を紡いだ。


「情報が錯綜していた。2体以上の魔族に現地軍の介入もあり、ジャマーの影響で無線も使えなかった。現在ようやく、歯向かってくる敵はすべて沈黙した。――そちらは今、何をしている? どうぞ。」


 雑音の奥から、少しだけ安堵の色を含んだ返答が返る。


『しばらく連…がないため、急遽派遣を要請…れた。現在、輸送ヘリで救援に向か…いる。どうぞ』


 風を切るローター音が微かに混じる。

 どうやら熊野は本部からの指示で捜索行動を取っているらしい。


 白伊は唇を引き結び、周囲を見回した。

 朽ちた魔族の残骸、転がる装備、そして廃屋のあった場所で気を失ったままの直弥と夢瑤――判断は一刻を争う。


 白伊は低く、しかし明瞭に告げた。


「了解。こちら隊員3名、一般人1名、要回収。……5分後に目印として煙幕弾を発射する。視認可能か、どうぞ」


 数秒の間を置いて、無線の向こうから返答が返ってきた。


『可能…が、なるべく早くし…れ。ステルスヘリとは言…民解放軍に見つ…のは時…問題だ。』


 途中で幾度も雑音にかき消されながらも、要点は伝わった。

 ――早急な行動が求められる。


 白伊は短く「了解」と応答し、無線を切った。


 すぐさま無線機を腰に戻し、深く一つ息をつく。まだ終わっていない――あいつらのもとへ戻らねばならない。


 ふと、視線が自然と足元へ落ちた。


 そこには、かつて魔族だったものの“残滓”があった。瘴気に溶けた黒い砂塵が、乾いた土の上にわずかに積もっている。形も意志もなく、ただの塵と化したそれに、かつての憎悪や執着の面影はもはやなかった。


 白伊は顔を上げ、鋭く視線を森へと向け直す。


「……戻るぞ」


 足音を抑え、地を蹴る。

 さっき駆け抜けた密林を再び逆走する。


 そして、約三分間の全力疾走の末――白伊は、かつて戦火が吹き荒れた朽ちた廃屋へとたどり着いた。


 湿った苔と焦げ臭さの残る空気の中、視界に飛び込んできたのは、地面に横たえられた二人の人影。

 八幡直弥と曹夢瑤。彼らは意識を失い、まるで眠っているかのように静かだった。


 その傍らで、三田沙紀が必死に手当てを続けていた。

 その顔には、強張った焦燥と、今にも崩れそうな不安の色が滲んでいる。

 白伊はその表情に一瞬見惚れてしまう――

 だが、すぐにはっと我に返り、駆け寄った。


「璃久さんが来た! 引くぞ!」


 白伊の叫びに、沙紀が振り向く。目は潤み、声が揺れていた。


「でも……白伊くんを助けてくれたっていう軍人の人たちは!」


「――あいつらは、あいつらでなんとかやれるはずだ。少なくとも、張がいればどこかに逃げ切れはする。信じろ!!」


 張天雄――かつて紅旗の中で圧倒的な信頼と指揮能力を誇った司令官。

 その死を、白伊たちはまだ知らない。だが彼に対する信頼は、今も彼らの中で絶対だった。

 まるで生きているように、そこに「在る」と信じられるほどに。


「……わかった。でも直弥くんも夢瑤さんも、瘴気にどれだけ侵されてるか……今のこの状況じゃ判断できない。下手したら、避難中に魔族化する可能性もある……」


 その言葉に、場の空気が一瞬にして重く沈む。

 だが、白伊は一歩、彼女に踏み込んで叫んだ。


「卑屈になるな!! 生きて帰ることだけを考えろ!!」


 白伊の声は、場の空気を鋭く裂くように響き渡った。

 その叫びは、目の前の少女にだけでなく――おそらく、自らの胸奥に押し込めていた怯えや後悔をも叩きつけるようなものだった。


 沙紀は、その言葉に息を呑む。

 握りしめていた直弥の手をそっと離し、震える指で涙を拭った。


「……うん、わかった」


 その声はかすれていたが、確かな力があった。

 顔を上げた彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。


 白伊はそれを確認すると、頷き、ベルトポーチから小型の発煙筒を取り出した。


 金属の筒に指をかける。

 そして――ピンを引き抜く。


「……これで、帰れる準備は整った」


 白伊の手の中で発煙筒が唸りを上げ、次の瞬間、濃い赤紫の煙が勢いよく噴き上がった。

 それは林冠を突き抜け、曇りがかった空へと真っ直ぐに伸びていく――まるで救いの印を空へ刻むかのように。


 数十秒後、遠くの空から低く、重々しい音が地鳴りのように伝わってきた。


 ゴゴゴゴゴ……!


 その振動は、空気を押し裂き、大地すら揺らす。

 そして木々の上空に姿を現したのは、双発ローターを唸らせながら飛来するCH-47輸送ヘリだった。


 回転するメインローターの風圧が辺りの草木を大きくなびかせ、廃屋の屋根板すらわずかに軋んだ。


「来た……!」


 白伊は目を細め、手で煙の流れを追うように空を仰いだ。

 次の瞬間、ヘリの側面ハッチがゆっくりと開き、数人の兵士がロープを伝って降下を始める。


 ――救援の手は、確かに届いた。

 だが戦いが終わったわけではない。

 これは、ほんの一時の「帰還」に過ぎない。


 白伊は目の端で、未だ意識を取り戻さぬ直弥と夢瑤の姿を見やる。

 そして、懸命に二人の命を支える沙紀を見つめ、静かに息を吐いた。


「……全員、無事に乗せるぞ。絶対に」


 ***


 敵襲はなかった。

 奇跡のように、まるでこの瞬間だけが戦場から切り離されたかのように、静寂は守られていた。


 白伊たちは、慎重に、それでも急ぎ足でヘリの昇降ロープを登りきる。

 直弥と夢瑤の二人は、到着していた衛生兵に迅速に引き継がれ、機内の医療ユニットに収容された。

 人工呼吸器が装着され、瘴気対策の酸素と薬剤が同時に投与される。緊急の命は、ひとまずつながった。


 機体後部のハッチが自動的に閉まり、内圧が調整される。

 双発ローターの振動が機体全体に伝わり、CH-47は高度をゆっくりと上げ始めた。


 白伊と沙紀は、無言のまま互いを一瞥し、安堵と疲労が混ざった視線を交わす。

 そして、前方――操縦室へと足を進めた。


 防弾ガラス越しに広がる雲間の空。そのすぐ手前、副操縦席に座る男の姿があった。


 熊野璃久。

 ヘッドセットを装着し、計器を確認しながらも、気配を察してふと肩越しに振り返る。

 彼の顔に、ようやく緊張の糸がほぐれた安堵の笑みが浮かんだ。


「……間に合って、よかった」


 その短い言葉に、過去72時間の焦燥と混乱がにじんでいた。

 だが今はそれよりも、生きて戻ってきた彼らを“確かに”視界に収めた事実のほうが、何よりも大きかった。


 すると、不意にコックピット内に甲高い警戒アラームが鳴り響いた。

 機体内部に緊張が走る。

 モニターの赤い警告表示が次々と切り替わる中、操縦士が思わず声を張り上げた。


「――後方、Z-19攻撃ヘリ2機接近中、距離500!!」


 Z-19――中国人民解放軍が運用するステルス攻撃ヘリ。高機動性能と高火力を兼ね備え、空対空・空対地の双方に対応可能な脅威。

 その接近は、即ち撃墜のリスクを意味していた。


「回避機動!!」


 操縦士が警告と同時にスロットルを倒し、CH-47は大きくバンクを描いて左へ旋回。

 だが、機体の大きさと負傷者の搭載数を考慮すれば、限界は明白だった。

 ミサイルアラートが点滅し、赤外線シーカーの捕捉を示す信号が跳ね上がる。


 副操縦席の璃久が叫ぶ。


「フレア散布!後部迎撃システム起動!!」


 白伊は即座に後方ハッチに走り、防御用ハッチから後方を確認する。

 その眼に、荒れ地の上空を疾走するZ-19の鋭いシルエットが、確かに映った。


「――くそ、間に合わねぇ!!」


 その瞬間だった。


 ズドン!!


 地上から突き上がるような炸裂音。

 次の瞬間、1機目のZ-19が爆炎に包まれ、バランスを崩して墜落する。

 爆煙が尾を引きながら、機体は森の向こうに沈んでいった。


「……何!?」


 熊野が驚きの声を上げた直後、再び地上から重火器の轟音が響く。


 ――ドカンッ!


 2機目も同様に、地上からの対空砲火が命中し、Z-19の機体は激しく揺れた。

 胴体から黒煙を噴き出しながら、右へと旋回――制御不能のまま、斜面の樹木をなぎ倒し、轟音と共に墜落した。


 白伊は咄嗟に機体のハッチへ駆け寄り、揺れる視界の中で地表を凝視する。

 煙の向こう、かすかに――数人の影が見えた。


 遠すぎて輪郭までは読み取れない。だが、その“姿勢”だけは、確かに覚えていた。


 伏せ、隠れ、撃ち、再び走る。

 その“動き”は、誰よりも戦場に慣れた者たちのそれだった。


「……紅旗あいつら。」


 呟くようにそう言いながら、白伊は燃え盛るヘリの残骸越しに、地上の小さな影をじっと見つめた。


 焦げ付いた煙と炎の向こうで、彼らはまだ、生きていた。

 敵地の只中で、誰かの背を守るために、なお銃を取り続けていた。


 白伊は静かに目を伏せ、胸中で願う。


 ――どうか、生き延びてくれ。


 それは、かつて戦場で背中を預け合った戦友たちへの微かな、しかし強い祈りだった。



 続く…

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