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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
35/112

34話 中国・吉林省 - 14 -

「もう無理だ! 魏、あとどれくらいかかる!!」


 怒号混じりの叫びが、揺れる床を貫いた。

 外では胡と呉、韓が、救護所前に現れた蜘蛛型魔族との交戦を続けていた。

 銃声、閃光、破砕音。そのすべてが天幕を震わせる。


 史はテントの開口部を背に、弾薬ベルトを身体で庇いながら、左腕を押さえたまま後方に声を飛ばした。

「高がもう意識飛びそうだ! 瘴気が肺まで回ってる、持たねぇぞ!」


 簡易ベッドに横たわる高の胸部は激しく上下していた。

 瘴気汚染による血中酸素の低下と、体内に侵入した毒素性凝血の進行――どちらか一方でも致命的だったが、今は同時に発生していた。


「魏っ!!」


 史の叫びに応じたのは、振り返りもせず処置に集中する魏の冷徹な声だった。


「あと……一分。肺胞を焼かれる前に人工酸素注入と瘴気中和。どちらかでも抜けば二度と喋れなくなる」


 彼女の左義腕は、まるで生き物のように動いていた。

 掌部を開いた先からは、瘴気専用に設計された微細処置器具――四重ナノプローブが高の胸骨の隙間に入り込み、直接体内の瘴気凝集を焼却・洗浄していた。

 史は、外で交差する銃火の閃光に一瞬目をしかめながら、それでも視線を高の顔に落とした。

 その顔は既に血の気を失い、呼吸もかすかに掠れている。


「……血が足りない。輸血パックも、もう尽きた。これは、もう……」


 史が言いかけたその言葉を、鋭い怒声が寸断した。


「黙れ!!!」


 魏の叫びは、処置に没頭していたはずの背から放たれたとは思えぬほど鋭く、空間を震わせた。

 史の喉がひくりと鳴る。


 その声音には、怒りというよりも――激しい拒絶が込められていた。

 認めるわけにはいかないのだ。

 目の前で命が失われるという現実を、

 そしてまだ助けられるのに諦めようとする言葉を。


「高はまだ死んでない! 脈がある、呼吸もある、瞳孔も反応してる! ここで手を止めたら、それは“殺す”ってことだ!」


 魏の左義腕が駆動音を高めた。

 掌の複合パネルが回転し、内蔵された血液再合成用のバイオチャンバーが露出する。

 緊急時用自己再編血漿生成装置――彼女の義肢には、こうした“敗北を拒む仕組み”が詰め込まれていた。


 魏はそこに、わずかに残った高の採血サンプルを注入し、人工血漿生成を開始する。

 確かに、これは本来なら数分を要する行程だ。だが彼女はその数分すら無理矢理縮めるために、義肢の冷却機構を意図的に破棄していた。


「間に合う……絶対に」


 彼女の額には汗が滲んでいた。

 義手は過熱し、内部機構がかすかにきしむ音を立てる。

 冷却装置の警告が鳴るが、彼女はそれに応じない。

 医師である以上、この瞬間に優先すべきものは、自己保全ではない。




 蜘蛛型魔族は、既に中距離から視認できる距離にまで接近していた。

 その巨体は、先ほどまで展開していた鷹紋部隊を一撃で粉砕したことが嘘ではないことを、その殻を引きずる足音ひとつで雄弁に語っていた。


 嗅覚か、熱探知か、あるいは瘴気感知によるものか――いずれにせよ、奴は明らかに「ここ」を標的として進んでいる。

 治療班、そしてわずか数名の兵士が残されたこの仮設救護所は、もはや形骸に過ぎなかった。


 魏はそれでも処置の手を止めなかった。

 高の呼吸は既に浅く、肺胞の機能は三分の一以下に低下していた。体内に拡散した瘴気は生理機能の連鎖を阻害し、血液も凝固に傾きつつある。

 それでも、彼女は諦めなかった。

 血漿生成器の過熱アラートが赤く点滅し続ける。義肢の関節は音を立て、いまにも破断しかねない応力を抱えていた。


 そこに、唐突に、かすかな声が差し挟まれた。


「……やめろ、魏……。……俺は……もう……」


 高だった。

 彼の目がわずかに開き、充血した視線が魏の顔を探していた。


「処置は……もう……無理だ。……ここで、終わりなんだよ」


 その言葉は、力を振り絞ったというにはあまりに静かだった。

 それでも、その確信のこもった調子に、魏の手が止まる。


「……何を言って……まだ間に合う……まだ──」


 魏は呟くように否定した。だが、彼女自身、理解していた。

 今なお処置を続けることは、高の苦痛をただ延命させているにすぎず、義肢の強制過負荷によって自分の身体すら破壊しかけている。


 それでも、止められなかった。


「やめろ……魏……。俺のことは……置いていけ。お前は…生きろ」


 その言葉に、魏の中で何かが軋んだ。

 唇が震え、喉の奥から呼吸にならない音が漏れ出る。

 何か言おうとしたが、言葉にならない。


「……あんたが死んだら……誰が……俺たちを……」


 自分の頬を伝っている涙に、随分遅れて気がついた。

 魏は、泣いていた。


 彼女は歯を噛み、首を横に振った。

「……嫌だ、やめない。救えるのに……まだ、救えるはずなのに……っ」


「魏!!」


 背後から史の叫びが飛んだ。

 その瞬間、救護所の天幕が爆風のように揺れた。

 蜘蛛型魔族が放った瘴気の波が、周囲の空気を焼き、地面に蜘蛛脚の裂け目を刻み込む。もう時間はない。


 韓と胡が背後を守りつつ、史が中に飛び込んできた。


「もう時間がねぇ! 高は……高はわかってんだよ!」


 史は魏の肩を掴み、そのまま力ずくで彼女を引き上げた。

 魏は抵抗しようとしたが、その体は限界を超えていた。

 義肢は蒸気を上げ、皮膚には火傷の痕が浮き出ていた。


「置いてけ……! あいつの言葉だ、俺達が……生きるって決めるんだ……っ!」


 半ば強引に、史と胡が魏を両脇から支え、彼女を仮設救護所から引き出した。

 韓がジープの後部ハッチを開ける。

 それは鷹紋部隊が壊滅の直前、荷台に残したまま放棄していった車両だった。キーは差さりっぱなし、幸運にもまだ動く。


 魏は叫んだ。「やめて! まだ、まだ間に合うのにっ……!」


 だが、その声が届くことはなかった。

 もはや一言も発さぬ高の身体が、崩れるように静止したとき、魏はようやくそれを“理解”ではなく、“受け容れ”ることを強いられた。


「くそっ……なんでっ、なんでぇっ……!!」

 魏は、血の涙のような嗚咽を漏らしながらジープに押し込まれた。


 史が運転席に飛び乗る。

 エンジンが唸りを上げ、タイヤが砂利を掻いた。

 蜘蛛型魔族の影がテントを引き裂き、触肢が目前にまで迫る。


 そして次の瞬間、ジープは疾走した。


 ***


 蘭峰は、荒れ地と化した獣道をひたすらに逃げていた。脚を引きずり、右肩からは赤黒い血がしたたり落ちる。


 あれだけいたはずの部下は、一人残らず潰された。

 整列すら厳格だった鷹紋部隊が、まるで草を刈るかのように殲滅されていった光景が脳裏から離れない。

 無数の足音、悲鳴、肉が引き裂かれる音――地獄絵図だった。

 それを辛うじて抜け、蘭はこうして命だけを繋いでいた。


「くそ……なんなんだあれは……」


 荒く呼吸を吐きながら、蘭は木々の間に身体を滑り込ませる。

 木肌に背を預け、肩の傷を押さえた指先がびくりと痙攣した。出血は止まらない。瘴気に当てられた傷は、時間が経つごとに神経ごと侵されていく。


 こんなはずではなかった――。

 ただ紅旗の残党を、逃げた連中を始末するだけの任だった。

 それが、あの集落を襲った魔族の奇襲に遭遇し、部隊は壊滅。自分は無様に命乞いじみた逃走を繰り返す羽目になった。


 だが、心の中にあったのは恐怖ではなかった。


 怒りだった。


 あの忌々しい張天雄が、同じ戦区の士官候補だったあの男が、まるで英雄のように扱われ、組織の“顔”のように持ち上げられていることが、何よりも癪だった。


 あいつさえいなければ、自分が上に立っていた。張がいなければ、俺が今頃は――


 そんな澱のように沈殿し続けてきた思いが、ようやく火種となって燃え上がったのは、中央から紅旗殲滅の任が下された時だった。

 それは偶然などではないと、蘭は信じた。運命の巡り合わせが、ついに彼に正当な“報い”の機会を与えたのだと。


 ――張を消せばいい。

 それさえ成せば、今度こそ俺が“上”に立てる。

 この歪んだ序列を正すのは、俺しかいない。


 …だが、現実はどうだ。


 紅旗の残党すら仕留め損ね、張の姿さえ一度も確認できず、部下は皆殺し。

 鷹紋部隊の戦術すら通用せず、蜘蛛型の魔族によって蹂躙され、蘭はただ一人、生き延びたというより取り残されたにすぎなかった。


 怒りはもはや熱ではなく、粘性のある毒となって臓腑に滞留していた。

 自分より劣っていたはずの男に敗北し、誰にも知られぬまま朽ちていくという結末――それが現実になりつつあることに、蘭は耐えがたい屈辱を感じていた。


 そのときだった。


 思考の底に沈みかけていた怒念が形になりかけたその瞬間――

 空気が、揺れた。


 微細な違和感。風の流れがねじ曲がる。

 木々のざわめきが一斉に止まり、虫の羽音までもが凍りつく。

 自身を囲う森が、あまりにも不自然な沈黙に包まれた。


 背筋をつたう戦慄。

 ――何かが、いる。


 それは本能に近い領域で察知された。

 視界には何も映らず、ただ霧と闇、そして己の呼吸音だけが耳に残る。

 息を呑み、背後を振り向こうとした瞬間、右耳の鼓膜が破裂した。


「が、あっ――!?」


 音を立てて内側から何かが裂ける。

 鋭い痛みが脳に突き抜け、蘭は反射的に膝をついた。

 呻こうとした声は喉でせき止められ、口の端から赤黒い血が垂れた。


 次いで、左肩に何かが突き刺さる感覚。

 だがそれは「刺された」と認識するよりも前に、皮膚と骨の抵抗が意味を成さずに破壊される、異質な“侵入”だった。

 視界がぐるりと回転し、頭部の平衡感覚が崩壊する。


 なにが起こっている――?

 そう問いかける間もなく、防弾繊維ごと肉体が貫かれていた。

 音はない。風切り音すらなく、感触も希薄。

 ただ、血と苦痛の感覚が事後的に蘭に追いついてきた。


 逃げなければ――そう思考がよぎる。


 その矢先、首筋に、ひどく冷たい“息”がかかる。


「……あれだけ人の命を弄んでおいてこの死に様とは、ずいぶんと安っぽいな。」


 囁きだった。

 男か女か、老か若かも分からぬ、凍てついた声色。

 だがそれだけで、蘭は悟ってしまった。

 この存在は、明確な殺意や復讐の感情ですらなく、ただ“否定”のために動いていると。


 振り返ることは叶わなかった。


 次の瞬間、何かが頭蓋骨の内側へと侵入してくる。

 痛みではない。“輪郭の喪失”だった。

 神経接続が切断され、意識のパーツが一つずつ、何かに吸われていく。


 呼吸も、視界も、言葉も、名も。

 それらすべてが、深く濃い霧の中に沈んでいく。


 最期に蘭が思い出したのは、張天雄の横顔だった。

 その目の奥にあった、決して消えぬ「正しさ」が――

 何よりも、自分には決して到達できない地点だったことを、死の直前になって知った。


 ***


 張は、眼の前の光景に唖然としていた。


 かつて野戦救護所として機能していたはずの一帯は、いまや生者の痕跡すら拒絶する沈黙の領域と化していた。

 土壌はすでに鮮血に飽和し、斃れた兵の肉体は統一された死の秩序にすら従わぬまま、断裂し、捩れ、無造作に撒き散らされていた。


 肢体は四散し、臓腑は開かれ、眼球は潰れ、頭蓋は破砕されている。

 それらの断片が、木の枝や瓦礫に“吊るされて”いた。

 まるで殺戮者が視覚的残虐を“演出”する意図で構成したかのように――その配置にはあまりに過剰な意志性が滲んでいた。


 張は、鋭利な何かで内臓を抜き取られた兵士の残骸の傍らに膝をつき、静かに眉を潜める。

 手袋越しに死体の服地を払い、微かに残る部隊章を確認した。


「…やっぱり、鷹紋部隊か」


 張は、朽ちかけた襟章の一部を指先で摘み、血泥に汚れたそれを慎重に見やる。

 識別は困難だったが、残された意匠と装備規格から見て、中央軍直轄の影動部隊――紅旗の戦略情報統制室、通称 鳴鴉を襲った鷹紋部隊の残滓に間違いなかった。


 その末路を考えるに、状況は明白だった。


 この壊滅の残虐は、先刻遭遇した蜘蛛型の変異魔族、すなわち花梅の“母体”を素とした魔族体によるものである可能性が極めて高い。


 だが――それ以上に、張の胸を穿ったのは、“今ここにいるべき仲間たち”の姿がどこにも見当たらないという事実だった。


 救護所。


 彼らが身を寄せていたはずの仮設テントの残骸すら、あまりに異形に変わり果てていた。

 火器による破壊というよりも、地形そのものが抉られ、熔解し、異様な力で再構成されたような“歪み”が広がっている。

 土と骨と鉄が混ざり合ったような地層のねじれ――これは、人為の破壊ではない。魔族による干渉であろう。


 張は焦燥を見せぬまま、朽ち果てたテントの痕跡へと足を踏み入れた。

 視線は鋭く、歩幅は緩やかに、足元のあらゆる異変を拾い上げていく。

 死臭と鉄錆の入り混じる風が吹き抜ける中、彼は確かにかすかな“残滓”を感じ取っていた。


 薬剤の破片。破損した輸血パックの外装。

 そこには高規格の医療班が常備する特定の識別コードが刻印されていた。

 それは、魏安然が用いる医療ユニット特有の管理コードだった。


 己の思考を整える。

 やはりここで、高の応急処置が施された痕跡があった。だが処置の中途で何らかの外力が介在し、そのまま現場が放棄された。


 高のあの様子を見ていても、連れて行くことはできなかっただろう。片足も機能せず、意識すら失った状態で抱えて運んでいては、魔族に追いつかれるのは必然だ。


 足元に、微かに土が掘り返された痕跡があった。誰かが何かを隠そうとしたわけではない。ただ、そこには――沈黙と決意が滲んでいた。


 張はしゃがみ込み、その地表に触れる。わずかに圧痕のついた血痕、凹んだ医療器具の縁、そして泥に落ちた一本の折れた注射器――

 キャップは外されておらず、針先も未使用のままだった。


 〈痛み止め〉。

 末期の激痛を緩和するための、最終的な鎮静用薬。おそらく魏が高のために置いていったものだ

 その未使用は何を意味するのか――想像に難くない。


「……拒んだ、か」


 彼はそう呟くと、隣に落ちていた血染めの包帯を拾い上げた。

 無意識に力が籠もり、血の乾いた繊維が指先で軋む音がした。


 包帯の裏、わずかに薄い紙片が滑り出る。


 ――それは、小さなメモだった。


 血に濡れ、書き損じのような滲みもある。だが、そこには震える文字でこう綴られていた。


 > 「張、さきにいく。あいつらをたのんだ。」


 張の目元に、風が吹き抜けた。


 沈黙。

 誰も何も語らない。語ることが、許されない死。


 彼はゆっくりと立ち上がると、その場に黙して一礼した。

 軍人としてではない。一人の生者として、死者に対する最低限の敬意を込めて。


 やがて風向きが変わり、瘴気の潮が微かに戻り始める気配を感じた。


「……時間がないな」


 張は最後にもう一度だけ、地に残る足跡やタイヤ痕を確認した。

 それは北東へと続いている。

 ――まだ間に合う。


 彼は振り返らずに走り出した。

 その背に、花梅もまた、無言でついてくる。


 張はそれを止めない。

 彼女が見据えるべきものは、まだ遠い。


 ***


 轟くような振動に車体が軋みを上げ、ジープは瘴気に包まれた獣道を強引に突き進んでいた。

 無理な加速にサスペンションが悲鳴を上げ、鉄骨はまるで断末魔のような音を発し続ける。枯れ枝が鋭利な刃のように車体を叩きつけ、木々は光の尾を引く飛沫のように後方へと飛び去っていった。


 運転席の史建民は、唇を噛み、両の掌でハンドルをしがみつくように握っていた。霧のように滲む視界の先、瘴気が渦巻く闇の中に、ただ一筋の突破口を探す。その顔には、鉄でできたような沈黙と緊張が張り詰めている。


 助手席の韓渾一は車体の外に身を寄せ、拳銃を構えたまま一切の無駄を削ぎ落とした動きで周囲を睨んでいた。


 瘴気の密度が異様に波打ち、風もないのに木々が横倒れ、鳥も、獣も、あらゆる生の気配が忽然と消え失せていた。


「後ろ、来るぞッ!!」


 呉杰龍の怒声が後部座席から響き、彼の肩越しに胡兆安が追随するように火器を構えた。

 後退を許すまいとするかのごとく、連続して閃光と銃声が爆ぜる。

 銃身が焦げ、薬莢が車内の床を転がり跳ねる音が混じり、戦場の混沌が閉ざされた密室を侵していた。


 弾丸は瘴気の帳を切り裂いていく。だが、“それ”の全容は、なお影の向こうに潜んだままだ。


 その只中で、魏安然は後部座席の中央で膝を抱え込み、声もなく嗚咽していた。

 両の腕は、なお何かを抱いているかのように動きを止め、目の焦点は遥か遠くに置き去られている。


 ――現実が追いついていない。

 否、感情が、現実の受容を拒絶していた。


「なんで……なんで置いてきた……私が、私がそんなこと……っ」


 言葉にはならず、震える喉から漏れたのは、言語の体をなさない呻きだった。

 高濤の体があったはずの膝の空間は、今や冷え切った虚無でしかない。

「置いていけ」と、あの男は確かに言った――しかし魏にとってそれは命令でもない、決断ですらなかった。

 それはただ、彼女の心を引き裂いた“裏切り”として、焼き付いた。


「魏!! しっかりしろ、来るぞ!!」


 呉の声が、焦燥を滲ませて飛んだ。

 胡も弾倉を詰め替えながら、苛立ちを隠さず怒鳴る。


「魏!! 死にてぇのか!? 起きろッ!!」


 だが、魏の耳には届かない。

 彼女の瞳は深い濁りに沈み、どこか遠く――すでに手の届かない場所を見つめていた。


 そのときだった。


 車体が跳ねた。

 ――何かが、タイヤのすぐ背後で炸裂した。

 ただの段差ではない。明らかに“それ”の攻撃だ。瘴気の帳を裂きながら、無数の節足が獣道を這い鳴らす音が近づいていた。


 来る――否、もう足音が聞こえている。

 踏みしだかれる地表。風のない空気の震え。


 史は歯を喰いしばり、ギアを跳ね上げる。

 エンジンが咆哮を上げ、ジープはまるで命を宿したかのように狂った加速を始めた。


 血と鉄と絶叫が混ざり合う密室。

 誰もが言葉を失い、ただ祈るように、それぞれの名もなき想いを胸に押し殺していた。


 だが――それは唐突に訪れた。


 車体が軌道を逸れた。

 獣道の分岐点に激突した車輪が、激しく跳ね、ジープは傾いたまま空中に浮かび、そのまま制御を失って滑り落ちていく。


 未踏の斜面。滑る土。倒木。岩。


 ジープは幾度も横転し、悲鳴のような鉄の悲鳴が木霊する。

 車窓が割れ、ガラスの破片が夜闇を乱反射する中、全員が無慈悲な遠心力に引きずられ、車外へと放り出された。


 泥と血と、石と木の根。

 誰一人として無傷ではなかった。


 史は、生きてこそいるものの、横転したジープの運転席で頭から血を流し、意識を失ってハンドルにもたれかかっている。

 呉は、反射的に銃を庇うようにして転がり、泥の中から素早く身を起こす。

 韓は、顔面に泥を貼りつけたまま、朦朧としつつも握った拳銃を離さなかった。

 胡は、片目を潰され、呻きながらも立ち上がろうとする。


 そして魏安然は、地面に突っ伏したまま、壊れたように嗚咽していた。

 その身体は細かく震え、泥に塗れながら、なお腕は何かを抱くように固まっていた。


 瘴気に覆われた崖下の荒地。

 蜘蛛魔族の巨大な輪郭が、煙る闇の中から浮かび上がってくる。八本の脚が土壌を引き裂くたび、圧縮された空気が雷鳴のように炸裂し、地表を伝う無数の振動が、まるで大地が呼吸しているかのような錯覚を生んだ。


「来るぞ……っ!」


 韓渾一がそう唸ると同時に、蜘蛛魔族がいきなり跳躍した。

 地を蹴ったというより、地を「圧砕して」跳ね上がったその挙動は、質量の暴力だった。


「伏せろッ!!」


 呉杰龍の怒声とともに、弾幕が上空へと放たれた。自動小銃の発火が闇に連続する軌跡を描き、炸裂する銃声が瘴気を切り裂く。しかしそのどれもが、魔族の外殻を弾き、あるいは吸収されていた。


 着地と同時に、蜘蛛魔族の一肢が地面を薙いだ。


「――あぐっ!」


 胡兆安が弾き飛ばされた。辛うじて回避行動を取ったが、一本の脚の先端が彼女の肩を掠め、そのまま木の幹に叩きつけられる。体が折れたかのように軋む音が響いた。


「くっそ……! 装甲が異常だ、どこが抜ける!?」


 呉が吠える。彼は冷静さを保ちながらも、銃撃のリズムを変え、膝関節と腹部下の薄い接合部を狙った。

 韓もそれに呼応し、銃口を絞る。弾は的確に命中した――が、瘴気の濃度が高すぎる。貫通しても再生が早い。


「どこだ……死角は……!」


 そのとき、蜘蛛魔族が一瞬、姿勢を沈めた。

 背面部の装甲がスライドするように開き、そこから無数の糸が弾丸のように射出された。


「下がれ! 下が――ッ」


 呉が叫ぶが間に合わない。

 幾本かの糸が、韓の腕と脇腹を貫いた。まるで地面に縫い付けられるかのように彼の身体が拘束される。 


「――ぐっ……!」


 痛みではない。意識が引かれるような感覚。

 糸が脈動しているのだ。まるで脳波を読み取るように、精神を探るように。


「この糸……精神にまで……」


「離れろ、韓を助けろ!!」


 呉が叫び、体当たりのように韓のもとに突撃した。

 その間、胡は榴弾を投擲し、魔族の脚部を一時的に牽制する。


 炸裂。

 土煙が舞い、糸が引き裂かれ、韓の身体が自由を取り戻す――


 しかしその直後、瘴気に染まった地面から、人型の影が這い出してくる――死んだはずの鷹紋隊員たちだった。


 彼らの顔は判別不能なほど腐蝕していたが、着ている戦闘服や装備は、確かに中央軍のそれだった。瘴気によって再構成された操体が、蜘蛛魔族に従って前線に現れたのだ。


「くそっ……!後ろも前も敵だと……!」


 呉が吐き捨てる。背後から迫る隊員の一人を打ち倒すが、次々と立ち上がる人型の影は止まる気配がない。胡も韓も、複数に囲まれ、まともに前線を維持できない。


すると、呉の眼の前に蜘蛛型魔族が迫り、足を振り上げる。絶体絶命のそのとき――


「下がれ!」


 男が飛び出した。

 血に染まった衣のまま、ふらつく足取りをものともせず、蜘蛛魔族と操体の群れの前に立ちはだかった。


「張――!」


 呉が叫んだ。だが彼は振り返らず、魔族の眼前まで踏み込む。


 蜘蛛魔族が反応した。咆哮とともに無数の糸を放ち、張の全身を包み込もうとする。

 そのすべてを、彼はその身一つで受け止めた。


 左肩を穿たれ、右脚が斬り裂かれても、彼は後退しなかった。

 腹に喰い込んだ瘴気の糸を自らの手で引きちぎり、怒号のように吠える。


 まるでそれが合図だったように――蜘蛛魔族が、突如として動きを止めた。

 糸がたわみ、操体たちが膝から崩れ落ちる。

 瘴気の濃度が急速に減衰していく。


 紅旗の面々は一瞬呆気にとられる。あまりにも突然の出来事で、理解が追いつかなかった。

 だが張の身体が、ゆっくりと傾いたのを見て、面々は正気に戻った。

 背後から抱きとめる暇もなく、彼は地面に膝をつき、そのまま、泥の中に沈んでいった。


「……おじさん!」


 花梅が駆け寄り、彼の名を叫ぶ。彼は傷だらけの顔で、ただ虚無を見つめるだけだった。


 続く…

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