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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
34/112

33話 中国・吉林省 - 13 -

 何度も聞いた銃声が、ここ救護所でも絶え間なく響き渡る。


 胡兆安は、泥にまみれた頬を歪めながら必死に応戦していた。


 つい数分前、呉杰龍の放った携行ランチャーが敵ジープの一つを直撃。爆音とともに複数の鷹紋部隊兵が炎に包まれ、断末魔の叫びが轟いた。それが、戦闘の号砲だった。


 胡の目にはもう、恐怖やためらいはなかった。代わりにあったのは――怒りと、死地を前にした者の凄みだ。


 遮蔽を飛び出し、短距離を滑るように移動してから伏せ撃ち。正面の敵兵のフェイスガードを撃ち抜くと、すぐに体勢を変え、次のターゲットにスコープを合わせる。


 それでも、状況は絶望的だった。


 こちらの戦力はたったの3名。胡、呉、そして韓。対する敵は推定100〜150、しかも重火器と戦術車両を多数配備した正規軍の特務部隊だ。


「持ちこたえろ!」


 韓の怒号が混線する通信機の奥から響く。


 爆発音。土煙。視界が一瞬、真っ白に染まる。


 そんな中でも胡は叫び、撃ち、そして走った。


 もはや勝ち目などない。――だが、時間を稼ぐことはできる。

 この地獄から、一人でも多くを生かして逃すために。

 この殺戮の雨の中でも、まだ命の価値を諦めないために。


 すぐ近くで迫撃砲が炸裂した。

 轟音とともに地面が爆ぜ、凄まじい衝撃波が空気を裂いた。直後、視界いっぱいに土煙と土砂が舞い上がる。


「――っ!!」


 胡は反射的に身体を伏せた。爆風に吹き飛ばされた石片が頬をかすめ、熱と痛みが走る。


 耳が聞こえない。

 爆音の直後、世界からすべての音が消えた。代わりに耳の奥で、嫌な高周波のような耳鳴りが鳴り響く。

「ピー……」という鋭い音だけが、しつこく頭を突き刺していた。


 視界もぐらついている。息が詰まり、肺の中に砂混じりの空気が入り込む。


 胡は歯を食いしばり、這うようにして近くの遮蔽物――倒れた鉄製の装甲板の裏へと身を隠した。

 その間にも、鷹紋部隊の足音がどんどん近づいてくる。重く、確かな殺意を伴って。


 ――まだだ。まだ、ここで終わりにはさせない。


 胡は近くの倒木の陰まで這い寄って身を乗り出し、手榴弾のピンを静かに抜いた。

 短く息を止め――投擲。


 手榴弾は低く弧を描いて飛び、鷹紋部隊の兵士数名が身を寄せていた地点の足元に転がる。

 彼らが何かに気づいたときには、すでに遅かった。


 炸裂。凄まじい爆音と衝撃波が地を揺らし、閃光とともに血と肉片が四方に散った。

 金属片が皮膚を裂き、骨を砕く音が混じる。四肢や内臓の一部が焼け焦げ、周囲の木々や地面にへばりついた。


 胡は爆発の直後、低姿勢のまま遮蔽物から離脱し、木立の間を駆ける。

 着弾の衝撃で視界が揺れるが、彼女の足取りは止まらなかった。


 だが――混乱の中でも、一人の兵が即座に反応した。

 鋭い眼光で胡の動きを捉えると、彼は無言で自動小銃の引き金を引いた。


「――ッ!!」


 乾いた連射音が響き、胡の背中を銃弾がかすめる。

 一発が肩口を貫通し、鮮血が霧のように散った。


 瞬間、木の根に足を取られ、転んでしまう。

 足を盛大に擦りむいたが、それ以上に銃弾が貫通した肩の痛みのほうが勝り、思わず呻く。


 転けてしまったことでアドレナリンが切れたのか、身体の疲労感が急激に最高潮に達し、もはや立ち上がる気力すら失せた。後方から部隊員が近づいてくる足音が聞こえても、足が極度に震えてどうしようもなかった。


 這ってでも逃げようとするが、そんなことで逃げられるわけもなく、直ぐ側まで来た隊員に背中を踏まれて身体の自由を奪われる。


「こちら3班。残党の一人を確保。どうぞ。」


 鷹紋部隊の無線が耳に届く。すると他方から、こんな声も聞こえてきた。


「…おい、この女、もうどうせ抵抗できやしねえし、ここで一発マワさねぇか?」


 下品な笑いが周りから起きる。痛みを堪えて見上げると、獣のような男らの目線が自身を貫いた。


 男はいつでもそうだ。自分の欲求に忠実で節操がない。常に下心を滾らせ、自身の欲求を満たすために他者を穢しても良いと考える。行動そのものが野獣だ。


 彼らの手が自身の着ていた装備品を脱がし、肌を撫で始めた。両手でなんとかそれを振り払おうとしたが、肩の痛みでまともに動かない。


 そのうち、胡はもう抵抗するのをやめた。どうにでもなれと思った。どうせ死にゆく身だ、いくら穢されようがじきに何も感じなくなる。


 そうこうしているうちに下着が顕になった。下品な笑いがあたりに満ちる。そして彼らの手がそれに伸びようとする―――


 まさにその時だった。


 頭上から轟音が響いたかと思うと、地面が揺れ、木々が爆ぜた。


「な、なんだ!?」「上か……っ!?」


 隊員たちの一人が叫びかけた瞬間、蜘蛛の脚のように太く長い黒い影が、天から地へ突き刺さるようにして降りてきた。轟音と共に地面が弾け飛び、数人の鷹紋兵がその衝撃で空中に吹き飛ばされる。


「ッ……化け物!? 魔族か!? どこから……っ!」


 空気を切り裂くような甲高い咆哮が森全体を揺らす。

 木々をなぎ倒して姿を現したのは、人間の女の上半身と融合した巨大な蜘蛛型魔族だった。血のように赤黒く光る複眼、うごめく触肢、濃密な瘴気が辺りを侵食する。


 その姿に、胡は思わず目を見張った。


「ひ、引けっ!あれは……あんなの相手になるか!」


 恐慌状態に陥った鷹紋部隊の兵士たちが、まるで秩序もないまま後退を始めた。だがその背を魔族の長い脚が串刺しにし、肉片が散った。別の一人は糸で宙吊りにされ、嘲るような叫びと共に木々の奥へと引きずられていった。


 悲鳴、爆発音、断末魔。地獄のような光景。


 その混乱の隙に、倒れていた胡は懸命に身体を動かした。何も考えず、ただ這い、匍匐でその場を離れる。


「胡!」


 声がした。ふと顔を上げると、呉と韓が駆け寄ってきていた。呉が彼女の腕を抱え、韓が周囲を警戒する。


「立てるか?!」


「……うん、立てる。」


 呉が胡の肩を支えながら、そのまま倒木の陰まで引きずっていく。その背後では蜘蛛魔族が咆哮しながら鷹紋部隊を蹂躙していた。


「くそ……幸か不幸か、ってやつだな……」


 韓の呻き声に、胡はかすれた声で言う。


「どっちでも……いい。今は、逃げなきゃ……」


 彼らは互いの傷を確かめる間もなく、森の奥へと身を隠しながら再び移動を開始した。

 背後では、人知を超えた存在が、人間の軍隊を喰らい尽くす音だけが続いていた。


 ***


「……魏!史!無事か!?」


 突然、焦燥と安堵が混じったような声が飛んだ。魏安然は顔を上げる。薄暗く煙の立ち込める視界の向こう、傷だらけの姿で、韓渾一、呉杰龍、そして胡兆安が肩を支え合いながらこちらへ歩いてくるのが見えた。


 銃声は依然として森の奥で続いていた。だが、さっきまで戦線を維持していたはずの彼らがここへ戻ってきたということは――鷹紋部隊が戦っている相手は、もう紅旗の人間ではない。魏の脳裏に、嫌な予感が走った。


 しかし、今はそのことを考えている場合ではない。まずは手当だ。


「史、高の容態を頼む。一時だけ、外を見てくる」


 魏はそう言って手袋を嵌め直し、医療バッグを担いで外へ出た。


 外に出ると、胡兆安の姿が目に入った。呉や韓に支えられながらも、彼女はぎりぎりの意識で自力歩行を試みている。だがその姿はあまりに無惨だった。肩口には弾痕が穿たれ、服はところどころ捲れて、下着が覗くほど乱れていた。


 その姿に、魏の表情が強ばる。何があったのか聞かずとも、そして医者の目から見ずとも、おおよその想像はついた。


「胡、まずは座って。今診るから」


 胡はかすかに頷いたが、視線を合わせようとはしなかった。いつもの勝ち気な眼差しは、今は見る影もない。代わりに、彼女の目は虚ろで、どこか遠くを見ていた。


「……大丈夫、だから」


 その一言が、魏には痛かった。


「大丈夫な人間は、そんな顔しない」


 魏は静かにそう言って、彼女の肩に手を置いた。その掌が、胡の身体の震えと熱を確かに伝える。


「ここはもう安全じゃない。森の奥に――集落で襲ってきた、あの蜘蛛の魔族がいた。鷹紋がそいつに気を取られてるうちに、俺らは一旦引いてきた」


 そう呟いた韓の声は、これまでにないほど低く、重く沈んでいた。普段の彼からは想像もつかないほどに。


 胡の治療をしつつも、魏は反射的に周囲へ視線を巡らせる。木々の間に、断続的に瞬くマズルフラッシュ。その閃光の先に魔族の姿は確認できないが、鷹紋部隊がそれと交戦していることだけは確かだった。


 そして、その戦いがそう長くはもたないこともまた明白だった。鷹紋が全滅すれば、次に狙われるのは自分たち。それは火を見るよりも明らかな事実で、魏の背中を冷たい汗が伝った。


 だが同時に、魏は振り返ってテント内を見やる。そこには、簡易ベッドに横たわる高濤の姿があった。


 容態は安定している――ように見えるだけだ。止血はした。点滴も繋いだ。だが、それは「動かさない」ことを前提とした処置だ。今ここで彼を連れて避難を始めれば、振動や圧迫でまた傷口が開き、出血が再開する。


 彼は今、瀬戸際で命を繋いでいる状態なのだ。


 魏は唇をかみ、深く呼吸を一つ置いた。判断を迫られていた。


 ――高をこのまま置いていけば、魔族に食い殺されるのは時間の問題だ。だが連れて行けば、傷が開き、確実に死ぬ。


 逃げるか、残るか。生かすか、見捨てるか。


 考えたくもない選択肢が、まるで刃のように魏の胸を突きつけてくる。


 (……こんなこと、医者の口から言うべきじゃない。でも……)


 今の状況下、高濤は明らかに“重すぎる荷”だった。


 胡の応急手当を終えた魏は小さく目を伏せ、吐息とともに冷えきった声で呟いた。


「……動かすにしても、準備がいる。高に最低限の処置はしてやらないと……危険よ。」


 その声は、誰かに説明するというより、自分自身に言い聞かせるような響きだった。


 韓が一歩前に出る。肩の傷からはじんわりと血が滲んでいたが、それに構う様子はない。


「…何分、掛かる」


 問いは短く、感情を押し殺した調子だった。


 魏は一瞬黙り込み、無表情のまま応じる。


「最低でも10分。でもそれは――すべてが順調にいった場合。高の容態は不安定なの。血圧、呼吸、意識、全部が危うい。手間取れば……30分は覚悟してもらわないと」


 韓の眉がわずかに動いた。無言のまま、遠くで鳴る断続的な銃声に耳を澄ませる。


「……そんなに長くは、待てねぇぞ」


 絞り出すような声だった。怒鳴りでも嘲りでもなく、ただ現実を突きつけるような冷たい一言。


 その瞬間、魏と韓の間に沈黙が落ちた。


 救護所の壁越しに、鷹紋部隊と蜘蛛型魔族の激戦が、まるで地の底から響いてくるように聞こえていた。


 韓は、しばらく黙ったまま魏の顔を見つめていた。


 その視線には、怒りも焦燥もなかった。ただ、決断を迫る戦場の眼だった。


 魏はその視線を正面から受け止めると、口を引き結び、すぐに高の方へ向き直った。


「……できるだけ早くやる。誰も見殺しにはしない。……時間を稼いでくれ、それがなければ誰も助からない」


「…了解だ。呉、胡。残りの弾薬をまとめろ。防衛線を張る」


「もう余裕はねぇぞ、こっちは」


 呉が苦い顔をしながら言った。だが文句を言いながらも、彼は素早く動き始める。胡もまた、手負いの身を引きずりながら、残ったマガジンをかき集めていた。


 魏は、簡易モジュールを展開しながら、高の処置に集中しはじめた。


「……頼む、高。まだ、死ぬな」


 掠れた声で呟くと、魏の義手のアームが、再び高の胸にあてられた。電気ショックの準備。血液凝固剤の注入。出血を抑えるための局所冷却。


 すべての処置が同時進行で行われていく。


 その間にも、外では爆音が続いていた。魔族の咆哮。兵士たちの叫び。崩れ落ちる木々と、焼け焦げる肉の匂いが風に混じって救護所に届く。


 時間が過ぎていく。


 一秒でも早く、処置を終えなければならない。

 一秒でも長く、仲間が持ちこたえなければならない。


 彼らはまるで、針の穴を通すような希望にすがるしかなかった。


 ***


「避けろッ!」


 弾丸のごとく飛んだ触手が、直弥の喉元を狙って突き出される。

 白伊の怒号と同時に、直弥は咄嗟に身を沈めた。

 刹那、黒い軌跡が頭上を掠め、背後の壁に突き刺さる。粘性のある音とともに、触手の先端が石壁を容易く抉った。


 混戦状態だった。

 魔族に擬態された曹辰偉――否、その外見だけを纏った何かが、狭い地下室で容赦なく暴れ回っていた。


「沙紀、今だ! 夢瑤を!」


 白伊が叫ぶ。直弥と沙紀は互いに頷き、気絶した夢瑤の体を両側から支えるようにして抱え上げる。

 その間も白伊は単身で魔族の注意を引きつけ、至近距離で銃を乱射しながら、わざと間合いを誘導していた。


 魔族の攻撃は鋭く、容赦がなかった。

 触手が壁を砕き、瘴気が空気を濁らせる中、白伊は何発も弾を叩き込み、沙紀と直弥は夢瑤を抱えたまま、這うように地下通路を駆け抜ける。


「こっちだ、出口は!」


 照明の落ちた通路の先に、かすかに差し込む自然光。

 背後で聞こえる白伊の足音と、魔族の絶叫のような咆哮。

 生と死の境をなぞるような時間のなか、一行はようやく階段を駆け上がり、崩れかけた廃屋の床を蹴って地上へと飛び出した。


 眩い陽光が視界を焼く。


「……っ……」


 直弥が思わず声を失う。

 陽の光で顕になった魔族は皮膚は爛れ、剥がれ落ち、溶けている。

 筋肉は引き攣り、骨格は異様に肥大化し、背中から伸びた触手がまるで意志を持つように蠢いていた。


 もはや、そこに曹の面影はなかった。

 あるのは、彼の形を借りた化け物――本性を現した魔族だけだった。


 魔族はにたにたと笑いながら、触手を再び振り上げた。


「来るよ!!」


 沙紀が叫び、咄嗟に夢瑤を抱える直弥の前へと飛び出した。

 細い背中が、傷を負った彼を庇うように立ちふさがる。


 直後、白伊が構えた短機関銃の引き金を引いた。

 銃火が轟音とともに唸り、弾丸が一直線に虚空を裂く。


 乾いた連射音の中、数発の弾が魔族の心臓部――まさしく曹辰偉だったはずの胸に吸い込まれた。

 だが、血は流れない。

 肉が千切れる音もなく、弾痕はまるで霧の中に消えたように空しく埋もれる。


「……効いてない……?」


 直弥が呟く。白伊の表情がわずかに険しくなる。


 生体反応の不在が、むしろその存在の異形性を際立たせる。まるで、物理的損壊がいかなる意味も成さぬ構造体であるかのように。

 魔族はゆっくりと顔を上げた。

 破壊された胸の中央がぐじゅりと再生し、再び元の形を成していく。

 そして、唇を釣り上げ、歪な笑みを浮かべた。


「無駄ナ抵抗をスルな、人間。所詮貴様ラニ俺は殺せナい。」


 その口腔が動き、音とも言えぬ言語が漏れ出す。

 それは発話というより、死霊の遺響に近い――断続的に機械的なノイズを孕み、人語を模した模倣音が、空間に滲む。白伊が苛立ったように声を荒げた。


「舐めんじゃねぇよ、クソ魔族。死者を冒涜することしか能のねぇてめぇなんざ、今ここで相討ちになってでもぶっ殺してやる」


 吐き捨てるような声と共に、白伊は銃口をわずかに上げた。

 その手に握られた引き金は、今にも絞られそうでいて、しかし震えていた。

 怒気によるものか、それとも――かつて戦友であった男の名を愚弄の道具とされたことに対する、深層の感情反応か。それを識別するすべは、もはや彼自身にもなかった。


 そのときだった。魔族の胸元に開いた亀裂から、なにか異様なものが滲み出した。

 最初は内臓か、あるいは血腫かと思われたそれは、空気中にさらされるとともに滑らかに伸展し、やがては明確な“線”を成して蠢き始める。


 それは糸であった。

 だが、ただの繊維ではない。

 筋繊維に似た波動性と、黒曜石を彷彿とさせる光沢を帯びたその物体は、まるで自律神経のように空気を這い、壁を登り、空間全体に影を落とした。

 生命と非生命の境界を踏みにじるようなその動態は、見る者の生理的嫌悪と知的警鐘の両方を否応なく刺激する。


 この異様な現象こそが、魔族の行使した魔術――死脈転写(ネクロスレッド)である。


 魔族間では比較的汎用性が高いとされる構造型魔術であり、かの鳴矢高校事件において主犯格とされた帝家の魔族も用いたことが記録に残っている。

 だがその“汎用性”という言葉が意味するのは、単なる使用頻度の高さではない。死者の尊厳を意図的に踏みにじるという、倫理破壊的な“手軽さ”の象徴である。


 術式の原理は残酷なまでに明快だ。

 死者の肉体情報、神経残滓、記憶断片を、魔族の体内に宿る高濃度魔性因子を含んだ流体的情報体であり、物理法則への干渉を可能とするほか、生物の精神および記憶領域にも浸潤する性質を持つ瘴気を活用して繊維状に抽出し、それらを魔族自身の身体構造に“編み込む”。

 こうして生じた擬態個体は、外見・声質・挙動・口調に至るまで精緻に模倣され、極めて高い心理撹乱能力を発揮する。


 その模造性は完全に近く、生前の知人を前にすれば、大半の人間は即座に判断を誤る。

 さらに悪質なのは、糸が再現するのは“外形”にとどまらず、死者の言葉・思想・残された情念そのものにまで及ぶという点だ。

 このため、対象者は単なる擬態ではなく、“死者が語りかけてくる”という錯覚すら覚えさせられる。


 それは“なりすまし”ではなく、“精神的侵蝕”そのものだった。


 この禁呪の蛮行性は言を俟たない。

 いかなる大義が掲げられようと、死者を道具とし、他者の心を壊すために利用するこの魔術が許容される道理はない。

 それを振るう者の存在そのものが、倫理的に看過しえない“災厄”であるというほかない。


 そして今、その災厄が、再び人間の目の前で顕現しようとしている。


 魔族は一歩、地を踏みしめた。

 瘴気がわずかに脈動し、その身体から延びる糸の束が、一斉に撓む。

 空気が軋む。静音の中で、無数の繊維が空間を蠢き、次なる破壊を予告していた。


 そして、呟くようにその声が放たれる。


「―――織躯糸撃リビング・スレッド


 その言葉と同時に、糸が地を跳ね、壁を這い、空気を裂く――まるで数十本の鞭が同時にしなり、標的へと襲いかかるかのような咆哮。

 それはもはや糸ではない。神経と筋繊維を複合した“攻性触手”であり、記憶と瘴気の混交物であった。


 沙紀が反射的に横へ跳ぶ。白伊は地面へ転がり込みながら引き金を引くが、糸は弾丸の進路すら予測しているかのように軌道を逸らす。

 直弥は間一髪、廃材の陰へと身を投げた。


 全員が回避という選択肢しか取れなかった。

 それほどまでに、糸は空間そのものを支配していた。

 通常の物理攻撃に加え、糸一本ごとに死者の情報が宿っている。下手に触れれば、肉体の侵蝕はもちろん、精神への逆流干渉すら引き起こしかねない。


 織躯糸撃は、死脈転写の構造をさらに応用した技である。

 単なる操糸ではなく、死者の情報・情動・筋反射の再演をもってして、動的な攻撃パターンを生む擬似神経群を構築した術式だ。

 つまり、一撃ごとが死者の殺意の具現であり、視認・回避を困難にする意志性を帯びている。


「……本気で殺りにきたか、あの化け物……!」


 白伊が歯噛みしながら低く呻く。


 通常の接近戦術が通用しないこの状況――だが、沙紀の視線は、明確な光を帯び始めていた。

 彼女はすでに“糸の本質”を解析しつつあったのだ。

 あの繊維は物理的鞭ではなく、情報に基づく“演算行動体”――ならば、破壊すべきは物質ではなく、その根にある情報接続そのもの(・・・・・・・・)


「りょうちゃん! 一旦退いて!」


 鋭く通った声に、白伊は思わず振り返った。

 いつもの柔和な沙紀の声ではなかった。明確な意志と、どこか“焦燥”すら感じさせる、命令のような呼気。


「何言ってる! 丸腰のお前に何が――」


「いいからどけ!!」


 その瞬間、声に込められた圧力に、白伊の動きが一瞬止まる。

 彼女がこんな声を上げるのを、彼は一度も見たことがなかった。

 その異様さに気圧され、白伊は後退した。彼女が何をしようとしているのかを、察する余裕すらなかった。


 沙紀は一歩踏み込み、次いでもう一歩。

 足取りは迷いなき直進だった。

 当然、死脈の糸が反応する。獣の反射のように、幾本かの黒い線が彼女を正面から襲いかかる。

 鞭ではない。死者の筋肉情報が再現された“殺意の構造体”だ。


 白伊の目に映ったのは、沙紀の両肩に糸が突き刺さる光景だった。

 悲鳴が出そうになる。が、次の瞬間、思わず息を呑む。


 沙紀は――倒れていなかった。

 呻くように肩を震わせながら、それでも足を止めず、不敵に笑んでいた。

 そして、彼女の両手は、刺さった糸をそのまま、握っていた。


「……っ!?」


 魔族も明らかに動揺した。

 この糸は、触れた瞬間に瘴気を侵入させ、神経を焼く構造を持つ。

 だが今、その“侵蝕の通路”が逆に固定されている。


 沙紀は絞るように、静かに呟いた。


「―――閃術解放、振滅場(デクラライン)。」


 次の瞬間、彼女の全身から白い光が咲いた。

 それは“光”ではない。振動と波長を情報位相に変換した、断絶の結界。


 沙紀の身体を貫いた死脈の糸。

 通常、この瞬間に被術者の神経系は瘴気の侵入を許し、肉体機能は“溶解”ではなく“書き換え”られる。

 だが、その構造にこそ、彼女は術理的な盲点を見出していた。


 死脈転写とは、瘴気を媒介とした死者の情報再編構造体に過ぎない。

 すなわちその本質は、霊的な念写でも、死体操作の亜種でもなく――生体情報の擬似継承と、構造再演の動的ネットワーク制御である。


 問題は、この糸における情報の通過様式だ。

 魔族が瘴気で構成した“死者の糸”は、網のように広がるが、その一点一点は位相整合性に基づいた共鳴ノードによって統率されている。

 この共鳴ノードは、術者からの命令を忠実に再構築して死者の模倣を成立させる“情報演算中継体”にあたる。


 すなわち、沙紀はわざと“刺される”ことで、糸の情報伝達経路に己を挿入し、そのノード接続構造を逆流的に観測・干渉しようとしたのである。


 閃術とは、雷術から派生した瞬発・放電・運動エネルギーを操る術。主に空気を媒介に電流を走らせ、 雷撃・麻痺・EMPなど、動きに特化した戦闘型人術だ。


 とりわけ振滅場は、高振動波によって情報伝達位相を“非可逆的に干渉”する破壊系術式である。

 これはただの発光現象ではない。波長制御・媒質共鳴・構造撹乱を三位一体で運用する術理干渉型のワザであり、一般的な外部放射では死脈転写のような“内在構造型魔術”に対しては効果が薄い。


 だが、今――

 沙紀は、自らの肉体を共鳴ノードへの媒介体として用いた。


 糸の中に組み込まれた死者の情報ネットワークは、沙紀という“異質な構造体”の侵入によって位相整合性を維持できず、ノード間のエラー反響が連鎖的に発生する。


 つまりその宣言は、情報戦における構造レイヤー破壊の宣告だった。

 沙紀の身体から迸った光は、可視域を超えた高振動圧縮波。

 それは単に“焼き切る”のではない。ノード間の演算構文を“上書き不能なゼロ値”に初期化することで、死脈情報の再演を不可能にする。


 魔族の肩が痙攣めいて引きつり、瘴気が渦を巻いて逆流した。


 瘴気構造の中に隠された糸の束――死者の神経模写である“擬似中枢神経体”が、波形崩壊と同時に一本、また一本と断裂する。

 音もなく、情報が“千切れる”音だけが響いた。

 それは単なる物理的な破壊ではない。構造情報の意義が、存在そのものから剥ぎ取られていく感覚。まさに“術が死ぬ”という表現がふさわしかった。


「っあぁあ゙あアアあ゙っ!!……な、何ヲ、何ヲシた?!」


 魔族が呻きとも悲鳴ともつかぬ声をあげ、両膝を揺らす。

 叫びの中にあったのは、ただの痛みではない。

 理解の崩壊――“何をされたか分からない”という、魔術体系の崩壊に伴う認知破綻だった。


 瘴気構造体は通常、波長差異による干渉には強い。

 だがそれはあくまで、“外部からの攻撃”という前提の下において、内部構造が閉じている場合に限る。

 沙紀の行為は、その前提ごと裏返した。

 “接続されること”を利用し、術式の内側から自己崩壊を誘発した。


 たかが支援士クラスの術士が、魔族の深層魔術――それも死脈転写という擬似霊術を構造的に看破した。

 その現実を、魔族は受け入れることができなかった。

 自らの優位に立脚していた「情報の絶対性」が音を立てて崩れていく、その様を、ただ見届けるしかなかった。


 沙紀は、確かにそこに立っていた。

 糸に貫かれながらも、崩れぬ足取りで。

 侵蝕されながら、逆に術式の中枢を捕捉し、演算構造に干渉した者として。


 理論の正しさを、計算ではなく血肉で証明する者。

 構造への理解を、術ではなく行動で示す者。


 それが――沙紀だった。


 続く…

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