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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
33/112

32話 中国・吉林省 - 12 -

「…心停止! まただ!」


 対面にいた史建民が叫ぶ。その声は半ば悲鳴にも近かった。だが魏安然の表情は一切揺るがない。義手の指先が小さく変形し、AEDモジュールが展開される。


「クリア……!」


 バチン、と鈍い電撃音が響いた。高濤の身体がわずかに跳ねる。だが心電図のラインはまったく変わらない。画面に映る波形は一本の直線を描いたまま、ピーッという無機質な電子音だけが空間を満たしていた。


 魏はすぐさま胸骨圧迫に切り替えた。ゴム手袋越しに伝わる肋骨の軋む感触に、無情な現実が重なる。


「戻って、こい……! 戻れ、高っ……っ!!」


 全身の力を込めて圧迫を繰り返す。汗が額を伝い、義手の関節部からは微かに熱が立ちのぼっていた。だが、それでも波形は戻らない。


「……お前は、こんな、とこで……終わって、いい、男じゃ、ないだろ……っ」


 鼓動は返ってこない。だが魏の手は止まらない。呻き声のような喘ぎを漏らしながら、彼女はただ黙々と、高濤の胸を押し続けた。


 やがて――


「……!」


 心電図に、微かに揺れる波が一瞬だけ現れた。


 魏は見逃さなかった。


「脈拍……戻った! 心拍再開ッ!!」


 史が叫ぶ。緊張と絶望に染まったその場に、一瞬だけ、希望の光が差し込んだ。


 だが、それも束の間――救護所の外から、轟音と爆発音が響いた。


 魏はぎゅっと歯を食いしばり、高の胸にブランケットを被せた。


「……守ってみせる。もう、誰も死なせない」


 次なる地獄が迫る中で、彼女の目には決意だけが宿っていた。


 ***


 奥の林道の斜面から、エンジン音とともに軍用ジープが一台、ゆっくりと下りてきた。瘴気の立ち込める灰色の空気の中、その鉄の塊は異様なほど静かに、だが確実にこちらへ向かってくる。


「……来たぞ」


 韓渾一は短く呟くと、無言のまま愛用のスナイパーライフルを構えた。倒木の陰に片膝をつき、サイトを覗きながら射線を確保する。額からはまだ血が流れていたが、それを気にする暇はない。


 胡兆安もライフルを構え、呉杰龍は携行式ロケットランチャーを抱えている。双方緊張した面持ちで、それを見守っていた。


 ジープは50メートルほど先で止まり、中から迷彩服の武装兵4名が降りてきた。どれもフェイスガードで顔が見えないが、服の二の腕のところにある紋章―――鷹紋部隊に違いなかった。


 韓は、望遠スコープ越しにジープ周囲の状況を冷静に観察していた。武装兵たちは無言のまま周囲を警戒しているが、奇妙なことに――救護所の正確な位置を把握しているような動きではない。


「……偵察か?」


 韓が呟いた直後、武装兵のひとりが腰の無線機に手を当て、なにかを報告するそぶりを見せた。


「増援が来るな。今のうちに対応を決めなければ…」


 そう言って彼はスコープから目を離し、指示を出した。


「持ち場を変えろ。胡は左の高所、呉は正面に。俺はあの兵が後退しようとした瞬間を狙って撃つ。」


「了解」


「了解」


 三人の動きは速い。怒りと焦燥、恐怖の混じる空気の中、確かな戦場の呼吸だけが、全員をつなぎ止めていた。


 胡は森の左側に走り、倒れた樹の上に飛び乗ると、迷わずにスコープ付きライフルを構える。遮蔽と射線を兼ねた、狙撃に適した場所だ。


 一方、呉は正面から少し右に移動し、岩陰に伏せて構える。

 韓はなおも倒木の陰に膝をついたまま、最前線でジープの様子を監視している。さきほど無線に手をやった兵士――おそらく小隊長格の男――の動きに視線を釘付けにした。


「……いま、だ」


 韓がトリガーに指をかけると同時に、目の前の男がわずかに後退する。


 瞬間、静寂を切り裂く乾いた銃声。男の首筋から噴き出す鮮血。次の瞬間にはもう、地面に崩れ落ちていた。



「撃て!」


 韓の声に続いて、胡の狙撃が鳴り響く。次に構えていた兵の肩を貫き、そのまま木に弾かれて倒れる。


 呉は息を殺し、火器の照準を確認する。


「……まだ、だ……」


 第二波が来る。彼の感覚がそう警告していた。目の前のジープ――いまだに動きのない車体の裏――そこに隠れている連中が、どのタイミングで反撃に出るか。


 そして――


「来るぞッ!」


 韓が叫んだ。


 再びジープの後ろから、今度は手榴弾のような閃光と煙が吹き上がる。煙幕がジープを覆う中、呉がトリガーを引く。


 爆炎が巻き上がる。


 地面が揺れ、土と肉と鉄の破片が空を舞った。


「一掃ッ!」


 胡の短い声に応じて、韓は再度スコープを覗いた。


 だが――その奥。


 林の影から、まだ動いていない別のジープ。


 その脇に立つひときわ大きな影が、じっと此方を睨んでいた。


「……あれは」


 韓が唇を引き結んだ。


「指揮官が来たな」


 ***


 張から受け取った懐中電灯を頼りに、奥にあった扉を開ける。錆びついているのか、そう簡単には開かなかったが、白伊は身体で無理矢理こじ開けた。


 鈍い金属音とともに、重い扉が軋みをあげて開かれる。湿った空気とともに、奥の空間から腐臭と瘴気が一気に吹き出した。


 白伊は顔をしかめながらも、手にした懐中電灯を高く掲げ、闇を照らす。狭く曲がりくねった通路の先に広がるのは――


 コンクリート打ちっぱなしの、異様なまでに静かな部屋だった。壁には何本もの鎖が垂れ下がり、床には乾いた血の跡。何人もの人間がここで拷問されたことを物語っていた。


 そして――


「……ッ!」


 視線の先、奥の壁際。大の字に吊るされた二つの影。


 八幡直弥と三田沙紀だった。


 二人ともぐったりと首を垂れ、全身に無数の傷を負っていた。生きているのか、それすらも判然としない。


「直弥!! 沙紀!!」


 白伊は叫びながら駆け寄った。足元の水たまりが跳ね、錆びた鎖が揺れる音がこだまする。


 二人の名を呼びながら、その胸元に耳を寄せる。……心音。かすかに、確かに生きていた。


「……間に合った……!」


 白伊は安堵と怒りが混じった息を吐き、懐から折りたたみナイフを取り出す。


「今、助ける」


 手間取ったが、なんとか白伊は二人を拘束から解いた。そして一旦床に寝かし、肩をさする。


「おい…おい!しっかりしろ!」


 八幡直弥のまぶたが、かすかに震えた。


「……っ、は……?」


 かすれた声が漏れ、彼は重たそうに目を開けた。焦点が定まらないまま、見覚えのある顔を見つめる。


「白伊……くん……?」


「そうだ。お前らを迎えに来た。もう大丈夫だ……!」


 その言葉を聞いて、直弥の目尻にわずかに涙がにじんだ。彼の手は痙攣しながらも、わずかに動いた。


「……沙紀さん……沙紀さんは……」


「ここにいる。無事だ。まだ気を失ってるが、脈はある」


 白伊はもう片方に寝かせた沙紀の方にも手を伸ばし、その冷えた頬をやさしく叩く。


「沙紀、聞こえるか……!起きろ……もう終わったんだ……!」


 少しして、沙紀の指がぴくりと動く。


「……っつ……はっ……」


 彼女のまぶたがゆっくりと開き、痛みと涙が滲むような声で呟いた。


「………生きてるの……?」


 白伊は強く頷いた。


「生きてるさ、ちゃんと。まだ戦いは終わってねぇが――お前たちはもう、独りじゃない」


 その言葉に、沙紀の瞳がかすかに揺れた。そして、堰を切ったようにぽろぽろと涙がこぼれた。恐怖、絶望、安堵、すべてが絡まり合った涙だった。


 その静寂を破るように――部屋の一角から、かすれた呼吸音が漏れた。


「っ……は、ぁ……っ」


 白伊が即座に反応し、懐中電灯をそちらへ向ける。


 光の先にいたのは、血と泥にまみれた曹夢瑤だった。片腕を押さえ、壁に寄りかかるようにうなだれている。顔は蒼白で、唇は震えていた。服は破れ、腹部には深い裂傷が走っている。


「夢瑤――!」


 白伊が駆け寄ろうとしたが、夢瑤はゆっくりと顔を上げてかすかに微笑んだ。


「……お仲間さんが……無事で……よかった……」


 声はか細く、今にも途切れそうだった。


「喋るな、今すぐ止血する……!」


 白伊は素早く医療ポーチを取り出し、圧迫止血を施す。その手の震えが止まらない。夢瑤の出血量は明らかに危険域だった。


「……あれは……兄じゃ……なかった……わか、ってたけど……身体が、動か、なかったの……」


「もういい……もう喋らなくていい!」


 白伊の声が震える。直弥と沙紀も、必死に身体を起こしながら夢瑤のもとへ這い寄る。


 だがそのとき。


 地下全体が揺れ、きしむような音が響いた。


 爆発音。そして銃声。


 白伊はすぐさま立ち上がり、ナイフを構えた。


 揺れる地下でじっと待つ。耳を澄ましていると、扉の奥からコツ、コツと一定間隔で足音が響いていた。


 ナイフを握る手に力が込もる。床の軋む感触が足元から伝わり、壁のコンクリートにはひびが走っている。土埃が舞い、空気が重くなったように感じられた。


 コツ、コツ……


 規則的な靴音。硬い床を踏みしめる音が、やけに長く、深く響く。まるで音そのものがこの空間の隅々まで染み渡っていくようだった。


 白伊は息を殺す。直弥と沙紀は、傷だらけの夢瑤の身体を庇うように寄り添い、声もなくじっとしている。


 やがて――扉の隙間に、影が差した。


 その輪郭はまさに「人」。だが、その“気配”は紛れもなく異質だった。


 冷たい瘴気が地下の隅々まで染み込むように広がっていく。


 そして、ゆっくりと扉が開いた。


 現れたのは、“曹辰偉”だった。だが、その肌は蝋のように白く、目は光の届かない深淵のように黒い。口元は微笑んでいるが、それは人間の感情とはまったく無縁の“形”に過ぎなかった。


「……鼠ガ、入り込ンだミタいだナ」


 白伊の背筋が凍る。


 だが、逃げ場はない。


 ここで“それ”と――対峙するしかなかった。


 一歩、前に出た。

 足元は揺れている。だが心の軸はぶれなかった。


「死者を冒涜するな、クソ魔族。」


 ナイフを構えたその姿に、直弥と沙紀も目を見開いた。夢瑤は苦悶の声を漏らしながらも、必死に視線を上げる。その視線の先には、自分を庇うように立ちはだかる白伊の背中があった。


「……お前は……兄なんかじゃない……!」


 かすれた声で夢瑤が言った。それは、恐怖に震えながらも、ようやく絞り出した決別の言葉だった。


 魔族は、ゆらりと顔を傾ける。 


「悲しイコトをいウな、夢瑤。俺達ハ立派な家族ジャなイか。」


 その口調はすでに狂気の深みに染まり、兄の面影など微塵もない。


「てめぇのせいで何人死んだと思ってんだ!!」


 白伊が叫ぶ。震える声に、込められていたのは怒りか、それとも、もう取り返しのつかないものへの悲しみか。


 魔族は応えなかった。ただ静かに、歩み寄ってくる。ナイフなど意にも介さぬような足取りで。


 コツ、コツ――


 扉の先、暗がりの中から伸びたその影が、白伊の足元を覆うように重なった瞬間だった。


「くるぞ……!」


 白伊が低く呟いたその刹那、“それ”の口元が不自然に裂け、数本の細い触手が舌の代わりにうごめいた。


「踊れ溝鼠、最期ノ舞踏会ダ」


 その声と同時に、触手が伸びた。


 白伊は即座に飛び退き、ナイフで一閃。鋭く斬り払ったが、切れたはずの触手は、まるでヘビのように地面を這いながら再びこちらへ迫ってくる。


「っち……!」


 狭い空間では動きが制限される。白伊は壁を蹴って横に飛び、注意を引きつけたまま魔族の視線を引き寄せる。


 その隙に、直弥が夢瑤を抱え、沙紀が這うようにして隣に滑り込んだ。


「逃げ道を……探さねえと……!」


 白伊は息を荒くしながら、なおもナイフを握りしめたまま叫ぶ。


 “それ”はもう、言葉を発しなかった。


 ――ただただ、獲物を見つめる獣の眼で、白伊を睨んでいた。


 ***


「紅旗の残党共に告ぐ、張天雄を出せ。」


 人民解放軍内務軍 第五管区 総指揮官、藺鋒の声が響く。鷹紋部隊を束ねる男の声は、拡声器を通してもなお冷徹で、軍人としての威厳と凄みをまとっていた。


 胡兆安が苛立ちを隠せず、銃を強く握りしめた。


「……っ来やがったな、あの死神野郎が……!」


 魏 安然は苦々しい表情のまま、担架に載せられた高 濤の様子を確認していたが、眉間に深い皺を寄せた。


「張がここに戻っていないことは――やつらも承知のはず。それでも名指しで呼んだのは、見せしめのためよ」


 韓 渾一はライフルを構え、スコープ越しに前方の木立をにらみつけている。


「こちらの動き次第で、無差別に制圧に移るだろうな。紅旗を『公的に殲滅した』という実績が欲しいんだ、やつらは」


 そして藺鋒の声が、再び森に響いた。


「抵抗の意思を見せれば、この区域全てを制圧対象とする。住民の保護も、医療の提供も一切行わない。張天雄を出せ。これは最後の警告だ」


 その声には、命乞いすら許さぬ圧があった。


「魔族の脅威が迫ってるってのに、ここで人間同士争ってどうするってんだ…」


 呟いたのは、呉だった。

 ロケットランチャーを肩に担ぎながら、口元を強く引き結ぶ。

 血に濡れた額の包帯がずり落ちかけていたが、気にも留めない。


「……あいつらにとっては“魔族”なんざ二の次なんだよ。張天雄っていう“裏切り者”を裁くことが、今の中国の正義なんだ」


 魏 安然が低く返す。彼女の義手がかすかにきしむ音を立てた。


「ふざけてやがる……」胡 兆安が拳を握りしめる。「こっちは仲間を何人も失って、それでも生き延びて、必死に魔族と戦ってんのに……!」


 銃声と爆発の残響がまだ森にこだましていた。

 瘴気の濃度も限界に近い。人間が長くいられる環境ではない。


 それでも、やつらはやってくる。

 同じ人間であるはずの、自国の兵士たちが――命令一つで殺しに来る。


 膠着状態が続く中、鷹紋部隊の一団に不穏な動きがあった。


「――やはり強情だな。ならば、こちらも然るべき対応を取らせてもらう」


 藺鋒が隣の兵に目配せすると、兵は無言でその場を離れ、すぐに背後の装甲車から何かを引きずるようにして戻ってきた。


 それを見た瞬間、紅旗の面々は息を呑んだ。

 韓 渾一がライフルのスコープから目を離し、胡 兆安の指が震えた。


 その男は、両腕を後ろ手に縛られ、泥と血にまみれた軍服を身にまとっていた。顔は何度も殴られたらしく、腫れ上がっていて原型を留めていない。だが――それでも、誰もがその男を見間違えなかった。


 呂 少華。

 紅旗創設以来、張 天雄の片腕として戦場を駆け抜けた、不屈の副司令官。戦術と現場の両面を支えた、生きた伝説。


「……嘘だろ……」


 史建民が唇を震わせた。隣にいた呉杰龍が、無言のまま肩を支える。


 藺鋒はその様子を愉しむように見渡し、ゆっくりと言葉を継いだ。


「貴様らも見知っているはずだ。こいつは呂少華。かつては紅旗副司令と恐れられた男も、今やこの通り、虫の息だ」


 呂は肩で荒い呼吸をしていたが、かろうじて頭を持ち上げ、顔を上げた。片目は潰れ、もう片方の眼孔も充血していたが、その視線はまっすぐだった。


「張……聞こえてるなら……出るな……! これは罠だ……!」


 張本人に届いているのかもわからない声だったが、それでも呂の声には確かな意志が宿っていた。


 藺鋒が片眉を上げ、吐き捨てるように言う。


「……強情な男だ。だが、無駄なことだ」


 彼が手を上げた瞬間、呂の背後にいた兵が無言で引き金を引いた。


 乾いた銃声が一発。

 呂少華の胸に紅い花が咲き、彼はその場に崩れ落ちた。


 血の気が引いたような沈黙。風が一筋、死地を撫でた。

 誰もが言葉を失い、呂 少華の崩れ落ちた身体を、ただ凝視していた。


 だが次の瞬間――その身体から流れ出した鮮血が、ぬかるんだ地面を染めるのを見た瞬間、胡兆安が激昂した。


「……クソがッ!!」


 歯を食いしばり、彼女は草陰から飛び出しかける。手にはライフル。

 その銃口は、すでに藺 鋒の方へと向けられていた。


「やめろ胡!!」

 韓 渾一が咄嗟に彼女の腕を掴み、押し留める。


「挑発だ。乗るな、冷静になれ!」


「うるせぇッ! 黙ってられるかよ!!」

 彼女の叫びが、森に響いた。


「眼の前で仲間を殺されて、それでも指くわえて待てってか!?馬鹿も休み休み言えよッ!!」


 額には血管が浮き上がり、握った銃の指が今にも引き金を絞りそうなほど震えている。

 怒り、悲しみ、無力感――それらが全て混ざり合い、胡 兆安の感情はもう限界に近かった。


「……わかってる。俺だって同じだ」

 韓の声が低く、しかし確かに彼女に届いた。


「だが今撃てば、人数差で必ずお前が先に死ぬ。それだけじゃない、俺たち全員も死ぬ。呂の犠牲を……無駄にする気か」


 胡は唇を噛み、肩を震わせながらも――

 どうにか引き金から指を外した。目から涙がこぼれる。


「……っくそっ、なんで……ッ!!」


 その背後で、呉 杰龍がゆっくりとロケットランチャーを肩に担ぎ直していた。

 手のひらが汗で濡れ、鉄の筐体が重くのしかかるように感じられる。

 だが彼の表情は、すでに腹を括った者のそれだった。


「……もう、これでわかったな」

 呉は低く、確信を込めて言った。


「奴らは最初から、交渉なんてする気はなかったんだ」


 その言葉に、誰も反論はしなかった。

 呂少華の処刑という事実が、その全てを証明していた。


「ならこっちも、やるべきことをやるだけだろ」


 呉の瞳に、炎が宿る。

 倒木の影から半身を乗り出し、敵陣を睨み据える。


「俺が最初にぶちかます。そしたら胡、お前が右側から回り込んで。韓は援護射撃、頼んだぞ」


「……了解」

 胡はまだ嗚咽混じりに、だが確かな声で応じた。


「……やるしかないな」

 韓も静かに、だが力強く頷いた。


 紅旗の残党と蔑まれ、仲間を殺され、それでも生き延びてきた彼ら。

 今ここに、最後の抵抗が始まろうとしていた。


 ***


 背後に迫りくる気迫と爆音をくぐり抜け、張天雄は花梅を抱きかかえたまま、必死に森を駆けていた。

 木々が視界の左右を流れ、足元の枯れ枝が容赦なく折れ、滑る。

 それでも張は止まらない。止まれば、あの魔族に追いつかれる。止まれば、命が尽きる。


「しっかり掴まっていろ!!」


 花梅は張の胸元に顔を埋め、細い腕で懸命にしがみついていた。

 小さな身体が震えているのが、張の腕を通じて伝わってくる。

 それが張を、なおさらに駆り立てた。


 後方から、異様な咆哮と甲殻を軋ませる音が響いてくる。

 蜘蛛型の魔族が、確実に距離を詰めてきていた。


「クソッ、あんなもん、どうやって撒けってんだ……!」


 呼吸が浅くなる。肺が焼けるように痛む。

 それでも、張は振り返らない。振り返れば、恐怖が足を縛ると知っていた。


 だが次の瞬間、彼の目に小さな岩壁の裂け目が映った。

 斜面を這うように続く、その隙間は人ひとり分ほどの幅しかない。


「……行けるか……いや、行くしかねぇ!!」


 張は方向を変え、裂け目に飛び込む。

 身体をこすりつけながらも中へ入り、花梅を両腕で覆い込むようにして狭い隙間を進んでいく。


 裂け目の中は真っ暗で、張の持つ小型ライトの明かりだけが頼りだった。

 岩肌は冷たく湿っており、滑りやすく、所々でぬかるんだ土が足を取る。

 それでも張は、花梅を庇いながら、ほとんど四つん這いのような格好で前進し続けた。


 後方からはなおも、甲殻を軋ませる音と、風を切るような鋭い振動音が迫ってきていた。

 狭すぎて奴が入ってこられないかもしれない――そう期待したが、その希望はすぐに砕け散る。


「――ちっ……這いずって来る気かよ……ッ!」


 蜘蛛魔族の脚の一部が裂け目の入口に無理矢理突き刺さり、コンクリートのような岩壁を軋ませながらじりじりと中へ進んでくる。

 巨大な身体のすべては入れずとも、その触手や刃状の脚部が、狭い隙間でも十分脅威になり得る。


「っくそ……!」


 張は片手で花梅を庇いながら、もう一方の手で腰のハンドガンを引き抜き、後ろへ向けて数発撃ち込んだ。

 乾いた銃声が狭い空間に反響する。だが弾が甲殻に弾かれたのか、魔族は速度を緩めなかった。


「花梅、目を閉じてろ!」


 その瞬間、割れた岩の先にわずかだが光が見えた。

 出口だ――!


「あと少し……しがみついてろよ!!」


 張は歯を食いしばり、血の滲むような速度で匍匐を続けた。

 後方から伸びた一本の脚が岩壁を削り、彼の背後数センチを掠めていく。


 最後の力を振り絞って、張は花梅を胸に抱えたまま出口から転がり出た。

 その拍子に背中を切り裂かれ、赤黒い血が砂地に飛び散る。


 蜘蛛魔族の脚が岩の裂け目に詰まり、それ以上追えなくなったのか、甲高い咆哮を上げながら引き下がっていく音がした。


 ――助かった。かろうじて、今は。


 張はその場に仰向けに倒れ、胸の上の花梅が小さく震えているのを感じた。

 その小さなぬくもりが、失われた命の数々を思い出させる。


「…怪我、ないか。」


「――私はない、けど、おじさんの背中…!」


「俺は大丈夫だ、子供に心配されるほどヤワじゃねぇさ。」


 花梅は涙を浮かべて小さく頷いたが、明らかにその瞳は張の傷を見て怯えていた。


 張は痛みに顔をしかめながらも、ゆっくりと上体を起こした。背中の傷は浅くはなかったが、致命傷でもない。動ける――まだ戦える。


「……よし、立てるか?」


「うん……」


 花梅がぎこちなく立ち上がると、張はその肩に手を添えた。まだ小さな身体。こんな少女までもが、あの魔族どもに狙われている。それがたまらなく悔しかった。


 張は立ち上がった花梅の手を取りながら、ふと視界が滲むような感覚に襲われた。


 ――その小さな手。怯えた瞳。かすかに震える肩。


(……似てるな)


 不意に、花梅の姿が、かつての“あの子”と重なった。


 思い出すまいとしていた過去が、濃い瘴気の隙間から忍び寄ってくる。


 数十年前――張天雄には妻と娘がいた。

 結婚当初は貧しかったが、互いに支え合って乗り越えてきた。炊事も洗濯も分担し、休日は皆で市場に出かけるのが楽しみだった。娘が生まれたとき、張は確かに誓ったのだ。

「この子だけは、戦争のない世界で生きさせる」と。


 だが――


 軍務に就き、昇進していくにつれ、その誓いは現実の前に削られていった。

 治安維持部門に配属されてからは、任務の性質上、夜中に急な出動も多く、家に帰れない日々が続いた。

「また明日帰るから」

「今回はすぐ終わる」

 そう言い続けていたが、あるときから娘は玄関まで見送りに来なくなり、妻もどこか虚ろな目をするようになった。


 増えていく稼ぎと反比例するように冷え切っていった家庭。そして一週間、いや十日、帰れなかった日が続いたあの冬。

 ようやく家に戻った張を迎えたのは、冷え切った室内と、置き手紙だった。

 言葉少なな文面。そこにはただ、

 《今のあなたにはもう、家族が見えなくなってた》

 とだけ記されていた。


 娘と最後に交わした言葉も、どこか曖昧で思い出せなかった。

 ただ、あの時の娘の目が、今の花梅とまるで同じだった。


 張はふと何かを思い出したように花梅の顔を覗き込んだ。


「そういえば――」


 花梅が不安げに顔を上げる。


「お前さっき、あの蜘蛛の魔族を見て……“お母さん”って言ってただろ? あれは……どういうことなんだ?」


 その言葉に、花梅の表情が見る間に曇っていった。

 唇を震わせ、下を向き、そして小さくかぶりを振る。


「……怒らない……?」


 その震えた声に、張は眉を下げて優しく答えた。


「怒るわけないだろ? 何があったのか、俺に教えてくれないか」


 花梅はしばらく逡巡していたが、やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……あの“お母さん”……もともとは、本当に私の……お母さんだったの。でも、あの事件から生き延びて数日経って、村の外に食べ物を探しに行ったとき――この変な空気に当たって、倒れちゃって……それから、お母さんも変になったの。最初は少しずつだった。目が赤くなって、言葉も通じにくくなって……でも、まだ“お母さん”だった。……けどある日、全部が壊れちゃって……体がぐちゃぐちゃに、壊れて……もう、誰にも止められなかった……」


 そこで言葉が詰まり、花梅は堰を切ったように、しゃくり上げながら泣き出した。


「……わたし……あのとき……なにもできなかった……!」


 肩を震わせ、張の胸元で涙を落とす。


「こわくて……逃げて……その先で、あのお母さんじゃない方の化け物に見つかって……『お母さんをもとに戻す方法を知ってる』って言われて……それで……」


 声が詰まる。張は黙って彼女の話を待った。


「……それで……お兄ちゃんたちを、あんな地下に閉じ込めるのを手伝っちゃった……おじさんの仲間たちも襲って……その……いっぱいいっぱい、ひどいこと、しちゃったのに……!」


 絞り出すような声だった。罪悪感と恐怖、そして何より、信じてしまった自分自身への憎しみが、言葉の隙間からにじみ出ていた。


 張は何も言わなかった。ただ、そっと花梅の背を撫でた。


 その手は大きく、あたたかく、そしてどこまでも静かだった。慰めでも赦しでもない。ただ、そこに在ることを伝えるように、彼女の肩を優しく包み込む。


「……誰だって、怖いもんは怖いさ。逃げたって、間違えたって、それで終わりなんかじゃねぇ。お前は、こうして話してくれた。それだけで、十分強い」


 張の声は低く、絞るような調子だった。


「もしお前がほんとに悪い子なら――今みたいに泣いたりなんか、しねぇさ」


 花梅はその言葉に、さらに強く顔をうずめて泣いた。張の胸が、わずかに濡れていくのを彼は感じていたが、それを拭おうとはしなかった。


 罪を抱えてなお、泣けるということ。

 それは、まだ“人間”としての心を失っていないという証だった。


 そして、それを守るのが自分の役目だと――張天雄は、ただ静かに心に誓った。




 しばらくして、花梅は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった目を張に向けた。


「……ありがとう、おじさん」


「礼なんかいいさ。……さぁ、行こう。お前の足で、生きて帰るんだ。お母さんの分まで―――」


 そこで、張は言葉を飲んだ。


 まるで背骨を氷の刃で撫でられたかのような悪寒が、全身を貫いた。


 花梅が不安げに顔を覗き込む。「おじさん……?」


 だが、その声も耳に入らなかった。


 ――蜘蛛型の魔族。花梅の母が瘴気に侵され、変貌した存在。


 先ほどの戦いで、あの化け物は確かに岩場で見失ったはずだった。自身と花梅の姿を探しきれず、彷徨った末に、身を翻した方向―――あれは、北西だった。


 北西……。


 張の脳裏に、地形図と部隊配置が即座に浮かび上がる。


 北西には……森を越えた先に、救護所がある。


「……まさか……!」


 張の顔から血の気が引いた。冷や汗が額をつたい、喉がひきつる。


「救護所……! あいつ、あっちに向かったってのか……!?」


 花梅は目を丸くして見上げていた。


「救護所……って、みんながいるとこ……?」


「ああ、仲間が……そこにまだ残ってる……!」


 張は花梅の肩をぐっと掴んだ。こんな少女に伝えるべきか迷いながらも、状況がそれを許さなかった。


「――行くぞ。急がねぇと、また誰かが……!」


 言い終わるより早く、彼は再び駆け出した。


 肩にはずっしりと少女の重み。

 だがその重みが、守るべきものの確かさを思い出させた。


 そうだ――守らなければならない。あの過去のようには、させない。

 救えなかった命に重ねて、また後悔を繰り返すわけには、いかない。


 張天雄の足音が、森の奥へと吸い込まれていった。

 その先に待つものが、地獄であったとしても。


 続く…

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