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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
32/112

31話 中国・吉林省 - 11 -

「ふぅ……ぐ、くっ……」


 天井から吊るされた鎖が軋みを上げ、湿った地下室の空気を震わせる。


 八幡直弥は、意識があるのかないのか、自分でもわからなかった。

 朦朧とした視界の先、向かいにいる沙紀の細い息遣いだけが、まだ現実の底に自分をつなぎとめている。


 ――吊られてどれほど経ったのか。

 もはや時間の感覚など残っていなかった。


 手首は上へ引かれたまま鬱血し、感覚のない指先が冷えきっている。足首もまた同じように固定され、身体全体が宙に浮かされたような体勢で、筋肉の悲鳴はすでに痛みを超えていた。


「さ……き、さき…さん…」


 乾ききった喉がひび割れたように痛み、声にならない声を洩らす。だがそれでも、確かに彼女の名を呼んだ。


 その声に、対面の沙紀がかすかに目を動かした。

 焦点の合わない視線が、まるで夢の中のように、ぼんやりと直弥の方を向く。


「……なお……や……くん……?」


 掠れた声。息がうまく吸えていない。顔は青白く、額に冷たい汗がにじんでいた。


 この部屋の空気――それ自体が“毒”だ。

 魔族の残していった瘴気が、まるで沈殿する霧のように、密閉された空間に染み渡っている。


 吸うたびに肺が焼け、酸素が足りず、頭がぼんやりする。


 逃げられない。手も足も動かない。

 でも。


 ――あきらめるわけには、いかない。


 直弥は自分にそう言い聞かせた。

 痛む肩の関節に耐えながら、微かに沙紀へ呼びかける。


「……大丈夫……まだ……生きてる、から」


 それは彼女を励ます言葉でもあり、自分への命令でもあった。


 沙紀は微かに頷いた。すぐにまた頭ががくりと垂れる。

 彼女の唇がかすかに動いた。


「……まだ、終わってない……よね……?」


 直弥は頷いた。


 沙紀の言葉に応えるように、わずかに首を縦に振った。だがその動作の裏にあったのは、希望ではない。


 ――真逆だった。


(終わってない……? 違う……もうとっくに、終わってる)


 心の中でだけ、そう呟く。


 ここから助かるヴィジョンなんて、一つも浮かばなかった。

 腕も、足も、体中がちぎれる寸前だ。

 喉は焼け付き、目の前は霞んで、何度も意識が途切れかけている。


 沙紀も――限界だった。

 数時間前に比べて、明らかに反応が鈍い。あれほど冷静だった彼女の声が、今では掠れ、思考すら怪しくなってきている。


(このまま、瘴気に呑まれて……ただ、“殻”になるだけか)


 誰かが助けに来る希望なんてなかった。

 この国にADFの支援網は存在しない。

 自分たちが派遣されたことすら、世界の大半は知らない。


(……誰でもいいから、今ここに――)


 虚無に飲まれ混濁する意識の中、そんな淡い願いだけが頭の中でこだました。



 ***



 走る。走る。走る。

 息が切れても、足が痙攣しても――止まることなど考えられなかった。


 白伊と張は、血と泥にまみれた傷だらけの身体を、無理やりにでも叩き起こして、獣道すらない森を突き進んでいた。


「……くっ、こっちで合ってるのか……!」


 張が呻くように息を吐く。年齢もあり、疲労の蓄積は明らかに白伊より深刻だ。だがその脚は止まらない。

 後ろを振り返る暇もないほどに、枝葉を薙ぎ、瘴気を纏った空気を掻き分けていく。


「瘴気が……濃くなってる。間違いない……この先に、奴がいる……!」


 白伊の声も枯れ気味だった。喉が焼けつくように乾き、肺の中は煙と瘴気で満たされていた。


 だが、心は焦燥で満ちていた。


 ――夢瑤が魔族を追いかけてから、すでに一時間以上が経っている。


 遅ければ遅いほど、生存の可能性は下がる。

 自分はまた誰かを、目の前で喪うのか――そんな思考が何度も胸を刺してくる。


 そして、心の隅で引っかかるのは――八幡直弥と三田沙紀の行方だ。

 彼らは今どこで、何をしているのだろうか。


 はぐれてからというもの、何の手がかりもなかった。

 魔族に襲われ、集落の混乱の中でばらばらになって以降、死体すら確認できていない。


 だが、白伊は彼らが死んだとは思いたくなかった。思えなかった。

 沙紀の凛とした声と、直弥の時折見せる真っ直ぐな意志。それらが、まだ耳の奥に、心の底に、はっきりと残っている。


(頼む……どこかで、生きていてくれ)


 走りながら、心の中で祈る。今は立ち止まって探す余裕などない。


「……張っ!」


 白伊が呼びかけると、前を走る張が手をかざして立ち止まった。

 その視線の先、木々の切れ間から――廃墟のような小さな屋敷が姿を現す。


 壁は崩れ、窓は砕け、屋根には苔がこびりついている。

 だが、それでも明らかだった。そこから――瘴気が、染み出している。まるで心臓の鼓動のように、空間が歪む。


「……いるな。あそこだ」


 張の言葉に、白伊は静かに頷いた。


「……夢瑤を救い出す。あとは、すべて終わってからだ」


 沙紀と直弥のことも、すべて後回しだ。今は、ただ――救える命を、救う。


 白伊は拳を握り、重たく呼吸を整えると、黙って屋敷の方へと足を踏み出した。

 その背に、張も静かに続く。


 空はすでに曇天。黒く澱んだ雲が森を覆い、風が木々のざわめきを攪拌していた。


 廃屋の扉が、軋む音を立てて開く。廃れた家具と蔦の絡まった支柱、雨水を吸い腐敗した床、割れ窓から吹く不気味な風の唸り…廃れてはいるが、一見しておかしなところは見当たらない。


 冷や汗が頬を伝う。張は前を行き、白伊は背後を警戒するように後に続いた。互いに呼吸を潜め、腐敗した床板が軋むたびに指がトリガーにかかる。あの蜘蛛魔族の戦闘と比べて、不気味な静けさがあたりに満ちていた。


 張の足が止まる。目の前に、地下へと続く階段が口を開けていた。


 木製の段は半ば崩れ、湿気にやられた手すりは握れば今にも崩れそうだ。

 だが、その下――黒く沈んだ闇の底から、わずかに瘴気のにおいが鼻腔を突いた。


「――ここだ」


 白伊がライフルのセーフティを外し、肩に銃を構える。張も静かに頷き、互いにアイコンタクトだけで息を合わせた。


 階段を一段、また一段とゆっくり降りていく。足音を殺すため、かかとからではなく足の外側から慎重に着地する。


 闇が、より一層その色を深めていく。


 張が腰のホルスターから小型のLED照明を取り出し、カチリとスイッチを入れる。淡く冷たい光が広がり、目の前の空間が徐々に輪郭を現した。


 そこは、地上の木製の朽ちた建物とはまるで異なる空間だった。


 無機質なコンクリートの壁が、冷たく無言で両脇に並ぶ。まるで監獄のように長く伸びた地下道。その両側には、錆びついた鉄の檻がいくつも並んでいた。何かが激しく暴れた形跡なのか、歪んだ鉄格子、ちぎれた鎖、こびりついた黒い染みがところどころに残されている。


 天井からはときおり雨漏りのように水滴が落ち、水たまりにぽつん、と静かな音を立てる。その音すら、異様な静けさの中ではひどく不気味に響いていた。


 張と白伊は、互いに背を預けるようにしてゆっくりと歩みを進めていた。踏みしめる足音と、照明の灯りが揺れるたびに、周囲の影が地の底のようにうごめく。


「……地下にこんな構造があるとはな」


 張が低く呟いた声は、湿気に満ちた空気の中に溶けていった。


「何か、意図的に作られてた……囚人用か、それとも――」


 白伊の言葉が途中で止まる。


 奥からかすかに、抑えきれず漏れたような子どもの啜り泣きが聞こえてきた。


 張と白伊は目を合わせた。緊張が走る。直後、白伊が素早く手でジェスチャーを送り、張が頷く。


 二人は光を絞りながら音のする方へと慎重に近づいていく。


 照明の先、ひとつの檻の中――そこに、少女がいた。


 痩せた体を丸め、膝を抱え込むようにして蹲っている。髪は泥と血でぐしゃぐしゃになり、顔は涙と汚れにまみれている。服は破れ、鎖で拘束された痕が両手首に深く残っていた。


「……女の子、だ」


 白伊が小さく呟く。


 張は照明を掲げ、錠前を確かめた。年代物の鉄製で、錆びもひどい。ひと蹴りすればすぐに壊れそうだった。


 光が檻の奥まで届くと、そこにいたのは、あの集落で出会った少女――花梅だった。


 床に膝を抱え込むようにして座り込み、顔を袖で擦りながら、しゃくりあげている。痩せた肩が小さく震え、涙で濡れた睫毛が光を受けて揺れていた。


 張がそっと足音を殺して近づくと、彼女は顔を上げ、怯えたように目を見開いた。


「……誰……?」


 震える声で放たれた中国語は、心細さと恐怖が滲んでいた。


 白伊はその場に膝をつき、檻越しに花梅と目線を合わせた。その表情には、戦場での凄絶さは微塵もなかった。ただ一人の子どもを気遣う、優しいまなざしだけがあった。


「大丈夫、俺たちは敵じゃない。今、助けてやるからな」


 そう語りかける声は静かで穏やかだった。だがやはりというべきか、日本語は少女には通じなかった。


 花梅は白伊の言葉を理解できず、警戒と不安の混じった視線を向けたまま、身をすくめている。

 その様子を見て、張がすぐに口を開いた。


「别担心,我们不是敌人。我现在就来帮助你。」

(心配するな、俺たちは敵じゃない。今すぐお前を助ける)


 張の落ち着いた中国語が檻の中に届いた瞬間、花梅の瞳がわずかに揺れた。


「……ほんとに……?」


 その小さな声に、張は確かに頷いた。


「本当だ。」


 少女の緊張が、少しだけ緩んだのが見て取れた。


 白伊が張を見上げると、張は無言で頷き返し、再び錠前に視線を移した。


「壊すぞ」


 低く短く言うと、張は一歩後ろに下がり、鋼鉄のように固めた足で錠前を蹴り飛ばした。鈍い音とともに古びた錠は地面に転がり、檻の扉がきしんで開いた。


 白伊が中へと入り、ゆっくりと花梅に手を差し伸べる。最初はためらっていたが、花梅はやがておそるおそるその手を取った。


 牢の扉が開いた後、白伊は花梅をそっと引き寄せ、その服にこびりついた煤と汚れを払ってやった。彼女の頬には乾きかけた涙の跡が残っていた。それを見つけた白伊は、しゃがみ込み、迷いながらも親指でそっとそれをぬぐった。


「…もう大丈夫だからな」


 そう優しく囁くように言うと、花梅は目を伏せて、小さく頷いた。


 張は一歩前へ出て、少女に語りかける。


「君の他に、人の形をした化け物と、白衣を着た女性がいたはずだ。……彼らは今どこにいる?」


 花梅は一瞬だけ逡巡した。だが怯えるように上目で二人を見てから、小さく答えた。


「……つれて、いっちゃった」


「連れて行った……どこへ?」


「お兄さんたちがいる場所」


 そう言って、花梅は廊下のさらに奥――闇の中に沈んだ先を、震える指で指し示した。張がすぐに腰の照明をそちらへ向ける。すると、20メートルほど先に、金属でできた重厚な扉が一つ、ひっそりと口を閉ざしているのが見えた。


 嫌な空気が流れた。瘴気ではない、もっと原始的な、獣の気配のようなものがそこから滲み出ている。


 白伊が小さく息を呑み、張の横顔を見上げながら囁いた。


「……お兄さんたちって誰のことか、聞いてくれないか」


 張は頷き、再度花梅に問いかける。


「お兄さんたち、っていうのは誰のことだ?」


 花梅は眉を寄せ、しばし記憶を手繰るように考えてから、ぽつりと口を開いた。


「……なまえ、わかんない。でも……おっきな銃を持ってて、このお兄さんとおんなじ服、着てた。あと、お姉さんもいた」


 ――それだけで十分だった。


 白伊は目を見開き、すぐに立ち上がった。


「直弥と……沙紀だ」


 その名を口にした時、背筋を冷たいものが這った。もし彼らがまだ生きているのなら、急がなければならない。


「張、この女の子を連れて戻ってくれ。みんなのところへ。あとは、俺一人でやる」


 白伊の声音には、強い決意があった。だが張は眉をしかめ、一歩前へ踏み出す。


「何を言ってやがる。どういうつもりだ」


「俺の仲間が、この先にいる。助け出さなきゃならねえ」


「だったらなおさら、なぜ一人で行こうとする? 二人で行けばいいだろう。一人で背負い込む必要なんか――」


「花梅をどうする。連れて行くのか? ここはもう戦場だ。あの魔族がいる限り、生きて帰れる保証なんてない」


 張は言葉を詰まらせた。視線を花梅に落とす。彼女は白伊の背中にすがるようにして立っており、小さく体を震わせている。瘴気の影響も、恐怖も限界に近い。


「……だが、お前を一人では行かせられん」


「頼む、張。今は……俺に、任せてくれ」


 その目はまっすぐだった。今ここで、たとえ命を賭してでも、誰かを救おうとする戦士の瞳だった。


 沈黙の末、張は肩をすくめ、小さく息を吐いた。


「――5分で戻らなければ、俺も行くからな」


 白伊はわずかに笑って、頷いた。


「充分だ」



 ***



 ――十数分前。


 兄の背を追って、曹夢瑤は朽ちた廃墟の奥へとたどり着いていた。血の気配が残る森林の先、崩れかけた建物。その中には、古い鉄階段で繋がる地下通路が口を開けていた。


 恐怖はあった。だが、それ以上に彼女の足を突き動かすのは「確かめなければならない」という衝動だった。


 闇の底、かすかな足音と共に、軍服姿の兄が花梅の手を引いて駆けていくのが見えた。背中はあまりに見慣れたものだった。兄の癖、歩幅、姿勢。すべてが現実のようで――いや、現実だった。


 夢瑤は息を呑み、その後を追った。


 コンクリートの壁が濡れ、腐臭を放つ狭い通路。その先にある牢の一つに、兄は少女を放り込んだ。鉄格子が軋む音が地下に反響する。その直後、彼はふと振り返り、暗闇に立つ夢瑤の存在を認めた。


 ふたりの視線が交差する。


 夢瑤は立ち止まった。緊張で身体がこわばる。だが――その顔、その瞳、その所作。


 確かに兄だった。曹辰偉だった。


 救護所で目にした、あの不気味な化け物――口を裂き、触手を伸ばし、劉や陳を殺した“それ”の姿を思い出す。だがそれは、本当に悪夢のようだった。彼の今の姿を前にすると、あの時の光景は記憶のひだの奥で薄れていくようにすら思えた。


「お兄ちゃん……?」


 掠れた声が漏れる。


 希望。否、幻想。分かっていた。頭では、心のどこかでは――あれが兄ではないことなど、とうに理解していた。


 それでもなお、彼女は縋った。縋らずにはいられなかった。


 兄は、死んだはずの兄が、そこに立っている。


 夢瑤の胸が締め付けられるように痛む。感情の波が押し寄せる。


 だが次の瞬間、男――否、“それ”は微かに口角を上げた。笑っていた。人間離れした、わずかにずれた「笑顔」で。


 ――冷たい悪寒が背を這う。


 夢瑤は一歩、後ずさった。


 その仕草ひとつで、彼女の中に残っていた“希望”は音を立てて崩れ落ちた。


 ――違う、兄じゃない。


 目の前にいるのは、兄・曹辰偉の顔を借りた、何か。

 声も、姿も、佇まいまでも酷似しているのに、その「中身」だけがまるで別物だった。


 それは、兄の名を、記憶を、思い出を、すべて穢す“化け物”だ。


 その事実が脳を貫いた瞬間――


 夢瑤の背筋を、凍てつく恐怖が這い上がった。


 重力が二重にも三重にも身体にのしかかる。膝が震え、脛が硬直し、指の一本たりとも動かせなくなる。脳が逃げろと叫んでいるのに、筋肉は言うことを聞かなかった。


 ――動かない。足が、動かない。


 音が遠のく。視界が狭くなり、ただその顔だけが、異様にくっきりと浮かんでいた。微笑を湛えた唇。空虚な眼差し。冷たい皮膚。


「……う、うあ……っ……」


 喉の奥から嗚咽が漏れる。息が詰まる。胸が苦しい。酸素が足りない。荒く、浅く、喉を焼くような呼吸を繰り返す。


 “それ”は、何も言わず、ただ一歩、夢瑤へと歩み寄った。


 コンクリートの床に、濡れたような足音がじわりと響くたびに、恐怖が心臓を圧迫してくる。


 ――誰か。誰でもいい。


 心の奥で叫んでいた。助けて。兄さんじゃなくていい。もう一度、人の声が欲しい。


 だがここには、夢瑤しかいない。


 “それ”はゆっくりと、夢瑤の前に立ち止まった。


 兄と同じ顔が、わずかに首を傾げる。まるで、壊れた人形が動作の意味を探っているかのように――不自然で、ぞっとするほど静かな仕草だった。


「……モン、ヤオ。」


 夢瑤の名を口にしたその声は、確かに兄の声帯を使っていた。けれどその響きには、温もりも、懐かしさも一切なかった。


 ――違う。違う。違う。


 夢瑤の心は叫んでいた。だが、口は開かない。声は出せない。


「ザンねン」


 “それ”の口が、そう動いた。


 直後だった。


 視界の端が、黒く染まっていった。酸素が足りない。足は痺れ、意識は泡のように浮かんでいた。


「やめ……て……っ」


 かすれた声が漏れた。その瞬間、“それ”の顔が、花が咲いたように笑みに崩れた。


 ――無理だ。


 その笑みを見たとき、夢瑤の理性がぷつりと音を立てて切れた。


 全身の力が抜け、がくりと膝を折った。だが倒れるより先に、“それ”の背中から伸びた何本もの触手が、彼女の身体をしなやかに絡め取り、空中にゆっくりと吊り上げていった。


「あ……」


 最後に見えたのは、鉄錆色の天井。


 重いまぶたが、ふっと落ちた。


 すべてが、暗転した――



 ***


 張は花梅を守るように腕をやや前に出しながら、白伊と別れ、来た道を引き返していた。


 花梅は怯えた様子で軍服の裾を握りしめ、決して手を離そうとはしない。小刻みに震えるその肩を、張はちらと見ると、柔らかく声をかけた。


「大丈夫だ。すぐに安全な場所まで戻る」


 だが、その口調とは裏腹に、張の指は銃のトリガーから決して離れない。警戒を怠るつもりは一切なかった。いつ何が襲ってくるかわからない――それがこの地での常識だ。


 地上へと続く階段を上がると、そこには曇天が広がっていた。雲の隙間からこぼれる陽光さえ、どこか灰色に濁って見える。瘴気が、明らかに濃くなっているのが分かった。空気が重い。呼吸すら鈍るような圧迫感。


「……くそ、時間がない」


 そう呟きながら、張は救護所のある方向へ歩を進めた――そのとき。


「……ッ」


 背後。首筋を這い上がるような、冷たい悪寒が張を貫いた。


 即座に振り返る。地面を蹴る音はなかった。だが確かにそこに“それ”は立っていた。


 曹辰偉。


 否、“曹”の姿を借りた魔族だ。


 血の気が引く。


「……やはり、てめぇだったか」


 張は花梅を背後にかばい、すぐさま銃口を構えた。だが“それ”は無言で立っているだけだった。笑みとも、哀しみともとれる表情で、ゆっくりと首を傾げる。


「そノ子供は、我々の計画ニ必要だ。返してモラおウ。」


 その言葉に、花梅がぴくりと震えた。張は咄嗟に後ろを向いて言う。


「目を瞑れ、顔を上げるな」


 花梅は張の声に従い、ぎゅっと目を瞑った。


「貴様……何を企んでやがる」


「…マあ良い。所詮、俺ガ手を出すまデもなイ。お仲間モ今頃、軍に皆殺しニされテイる頃ダろウ。そして貴様にハ、コイつがお似合いダ」


 “それ”は張の目を一瞥し、口元に嗜虐的な笑みを浮かべながら身を翻した。その背中は、まるで舞台を降りる役者のように静かで――地下への通路へと、音もなく消えていく。


 張はその場に釘付けになった。追うべきか、花梅を守るべきか、判断が一瞬だけ遅れた。


 ――そして、次の瞬間だった。


「――ッ!?」


 左方の茂みが轟音とともに吹き飛んだ。


 木々が裂け、地面が揺れる。濛々と舞う土煙の向こうから、巨大な影が現れた。


 蜘蛛――いや、それはもはや「魔」としか形容しがたい。女の上半身が甲殻と融合し、不気味に脈打つ黒光りする肉塊。八本の脚が地面を蹴るたび、根がはじけ、幹が弾け飛ぶ。目の前の景色が、一撃で破壊された。


 張は即座に花梅の肩を抱き寄せ、抱きかかえるようにして後退した。


「花梅ッ! 俺にしがみつけ!! 絶対、目を閉じていろッ!」


 少女は怯えた顔で頷き、小さな手で張の服にすがりつく。その腕に伝わる震えが、張の理性に最後の火を灯した。


 後方――“曹”が地下へと消えていった気配がまだ残っている。白伊のもとへ向かっていることはわかっていた。だが今、この目の前の魔族は――そのすべてを引き裂く力を持っている。


「ちくしょう……!」


 奥歯を噛み締め、張は踵を返す。蜘蛛の魔族が甲殻の脚を振り上げたその瞬間――


 張は全力で森の奥へと駆け出した。


 そんな中、血の気の引いた顔のまま、蜘蛛形魔族を見て花梅が小さく呟いた。


「……お母さん……」


 張の胸にその衝撃的な言葉が驚きとともに突き刺さる。だが、振り返る余裕などなかった。



 続く…

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