30話 中国・吉林省 - 10 -
爆発。怒号。そして銃声。
耳を劈くような音が、森の奥からひっきりなしに響いていた。
曹 夢瑤は、血まみれの手で止血用の布を押し付けながら、もう片方の手で高 濤の太腿に注射器を突き刺す。
「——我慢してっ!」
「ッあああ゙あ゙ああ゙あ!!」
簡易ベッドの上で、高 濤が歯を食いしばりながら絶叫する。左足の太腿はえぐられ、骨は露出していた。包帯ではもはや足りない。輸血パックも残り一つ。
「夢瑤、血圧が下がってる!このままだと……!」
魏 安然が、義手のモジュールを動かして緊急輸液ラインをセットしながら叫んだ。
「分かってる……でも、まだあの鎮静剤が効いてない……! 残ってるステイプラーは!?」
「ここだっ!」
非戦闘員で車両運転手の史建民が、震える手でメディカルバッグを差し出した。
その頬には、飛び散った血が一筋伝っている。自分のものか、それとも負傷した高 濤のものか――もう確認する余裕などなかった。
高 濤は担架の上で呻き声を漏らし、時折意識が途切れかけていた。止血も、鎮痛も追いつかない。命の砂時計は音を立てて崩れ落ちていくようだった。
一方で、その周囲では、
情報分析官・劉 麗秋が、銃を両手で握りしめながら、森の木々の合間を目で追っていた。呼吸が浅く、喉がかすかに鳴っている。
彼の額には冷や汗が滲み、恐怖を隠しきれていない。
「…音、止んだ。爆発も、銃声も」
「気を抜くな、逆に不自然だ」
軍法監察官・陳 惇が低い声で応じる。
スーツの上から着込んだ防弾ベストの裾を整えながら、静かに歩を進めて周囲を見渡していた。
「この静寂は、“間”だ。嵐の前触れ。魔族は人間のように感情で動く連中じゃない。戦況を読んでいる。……仕掛けてくる気配がある」
「そんなの……分析の領域超えてる……」
麗秋が呻くように吐き出した。
「そう思うなら、分析官なんて肩書は外すんだな。ここじゃ誰も守ってくれないぞ」
陳 惇の言葉は冷たいが、誤魔化しはなかった。
そしてその間にも、救護テントでは――
「血圧、戻ってない!」
「交感神経反射が来てる、昏睡の兆候だ!夢瑤、次の輸液セットを!」
「もう、パックが尽きかけてる……くそっ!」
魏 安然が夢瑤の代わりに新しいラインを挿し込み、背中の高機能モジュールから補助薬を供給する。
夢瑤は手を止めなかった。震える指先で縫合用ステイプラーを握りしめ、むき出しになった高の太腿に金属の縫い針を打ち込む。
「……っ、これで、止まって……」
金属の音が短く響いた直後、背後の木々の向こうから――
ドンッ!!
と、また爆発音が上がった。
だが、それは戦闘の爆音ではない。空気そのものが爆ぜるような音だった。
その音に、麗秋が一瞬で銃を構えた。
「……来たぞ」
その言葉に全員が緊張する。
救護班と非戦闘員たちがいるこの場所も、安全圏ではない――誰もがそれを、今、理解した。
煙の帳が、風に押されてわずかに割れる。
その隙間から、一つの人影が現れた。
「……誰だ?」
劉 麗秋がすかさず銃を構える。
その横で、陳 惇も無言で身構え、指をトリガーにかける。
だが、煙の奥から現れたその顔を見た瞬間――二人の表情が変わった。
「……曹、辰偉……?」
それは確かに、死んだはずの仲間だった。紅旗の同胞。衛生班の曹 夢瑤の兄。旧炭鉱跡地で消息を絶ったあの男の顔だった。
血塗れの軍服。焦げ跡のある袖。眼差しは虚ろだが、姿形はまぎれもない――
「まさか……生きて……」
麗秋の言葉は最後まで続かなかった。
次の瞬間、“それ”は笑った。
形だけの微笑。そこに人間らしい情動は一切なかった。
「────ヤッと、ミつけタ」
甲高いノイズが混ざったような声。それは日本語とも中国語ともつかない、不自然な抑揚だった。
そして“曹辰偉”の胸部が、裂けた。
骨と肉が破れ、その中から飛び出してきたのは、鋭利な甲殻に包まれた刃のような触手。
真っ先に飛んだのは、麗秋の喉元だった。
「っ!?」
反応する間もない。喉を貫かれた彼は、声も出せぬままその場で崩れ落ちる。
「麗秋――!」
陳 惇が咄嗟に引き金を引いた。
パン! パン! パン!
だが、弾丸は“曹辰偉”の身体を弾くだけで傷ひとつつけられない。装甲のような皮膚が銃弾を無力化している。
「クソッ!」
陳 惇がもう一発撃とうとした瞬間――
“曹”の肩の肉が不気味にうねったかと思うと、そこから刃のような触手が一閃する。
そして鋭い裂ける音と同時に、陳 惇の二の腕が宙を舞った。
「……っ!?」
切断された両腕は、血飛沫を撒き散らしながら地面に落ちた。
陳は数秒、自分の肩口から吹き出す血と、離れた自分の腕を眺めていた。
まるでそれが現実でないかのように。
だが、やがて――
「…っ…あああああああああああっ!!」
地の底から響く絶叫が、森の空気を震わせた。
彼はその場に尻餅をつき、転げるように後退ろうとするも、両腕の喪失はそれすらもままならない。
血まみれの顔で絶叫し、恐怖に濡れた目で“曹”を見上げた。
その“曹”は――
人間のように笑っていた。
だが、それは明らかに“中身のない”笑みだった。
皮膚の動きだけで形作られた、感情の一切が欠落した笑顔。“曹”は、まるで慈しむような動きでゆっくりと口を開けた。
その口内、舌が溶けるように変形し、肉塊の奥から細長い触手が這い出てくる。
ヌルリと滴る黒い粘液を垂らしながら、触手は蛇のようにうねり、震える陳 惇の顔面に狙いを定め、一直線に飛んでいく。
そしてそれは彼の鼻孔を突き破って、頭蓋内に突き刺さった。
目を見開いたまま、陳は声も出せず、口から血泡を漏らし――肺にたまった空気が、開いた気道から「フゥウウッ……」という異様な音を立てて抜けた。
そのまま、彼は背をのけ反らせて崩れ落ちた。
白衣が、血と泥に染まる。
数秒の沈黙。
その場に残った救護班たち――曹夢瑤、魏安然、史建民――の顔から血の気が引く。
「……お兄ちゃん……?」
夢瑤が呆然と呟いた。
一歩、また一歩――
“曹”が、血に濡れた足音と共に近づいてくる。地面に残された肉片が、黒い血の中に泡のように浮かぶ。
その姿は、兄を知る者にとってあまりにも“そのまま”だった。
だからこそ、夢瑤は身体の芯から凍りついていた。
「……や、めて……」
声にならない呟き。
高 濤の治療のために止血しようとしていた手が震え、止血パックが地面に落ちる。
彼女の目は、恐怖に大きく見開かれ、肩で激しく息をする――過呼吸寸前だった。
そんな夢瑤の前に、ひとりの少女が立ちはだかった。
花梅。
年端もいかぬ少女が、小さな身体で“曹”の前に立ちはだかる。
恐怖で膝が震えていた。けれど、目は真っ直ぐだった。
「私が目的なんでしょ!?だったらこの人たちは狙わないで!」
声は震えていた。
だがその叫びには、確かな“意志”があった。
“曹”の顔が、わずかに歪んだように見えた。
その目が花梅に向けられた瞬間、空気が凍りついた。
ゴウッ――!
魔族の背中から伸びた触手が地を蹴り、瞬時に花梅の身体を捕らえた。
「きゃああっ!」
花梅の悲鳴が森に響き、血の滲むような音と共に彼女の姿が宙に引きずり上げられ、木々の間へと姿を消す。
「花梅っ!!」
夢瑤が叫ぶ。周囲の者たちが止めようと手を伸ばす。
「待って!」「夢瑤さん、戻れッ!!」
だが、夢瑤はその叫びをすべて振り払った。
兄の姿をした“それ”が少女を連れ去る光景は、彼女にとって狂気にも似た衝動を呼び起こした。
「花梅を返してっ!!」
夢瑤は走り出す――
叫びながら、涙をこぼしながら、足元の血を踏みしめて。
命を顧みることもなく、森の瘴気の中へと飛び込んでいった。
***
森の中を駆け抜け、白伊たちは血と煙の漂う救護所へと戻ってきた。
誰もが傷だらけだった。白伊は左肩を裂傷し、韓は額から血を流していた。胡は呼吸が荒く、呉は火器のストラップを握る手が痙攣していた。
それでも――生きて戻ってきた。
「――開けろッ!戻ったぞ!!」
張の怒鳴り声に、かろうじて設営されたバリケードの奥から史 建民が駆け寄る。顔に返り血を浴び、瞳が血走っていた。
「やっと……やっと戻ったか……!」
「後方の状況は!?」
「……っ、最悪だ」
史は短く息を吐き、焦りを押し殺しながら言った。
「“曹”の姿をした魔族が現れた。陳 惇と劉 麗秋は――やられた。でかい蜘蛛の魔族とは別だ。あれは“人の皮”を被ってる」
白伊の目が鋭くなる。
「……夢瑤は!? 魏は無事か!?」
「魏は生きてる……だが……」
言い淀む史に代わり、横から魏 安然が血に濡れた白衣のまま現れた。義手の指先にはまだ高 濤の血が乾ききらずにこびりついている。
「――夢瑤は“それ”を見て、我を忘れて追ったわ」
白伊は目を見開いた。
「……ひとりで?」
「正確には…一人、ではない。廃村にいた女の子がその魔族に攫われた。」
目の奥には、何もかもを見てきた者の静かな諦念と、どうにもできなかったことへの後悔があった。
「止められなかった。……彼女の兄の姿だったのよ。“それ”が」
沈黙。
白伊は拳を震わせた。
歯を食いしばる音が、かすかに聞こえるほどだった。
「っ……行く。俺が、助ける」
「待て、少年!」
胡 兆安が肩を掴んだ。
いつもは人懐っこい女の顔が、今は鬼のように険しい。
「今あの森に戻るってのか!? 君、あの蜘蛛がどんだけの化け物だったか分かってんの!?」
「分かってるよ!! ……だから、行くんだ」
白伊の声が震えていた。恐怖ではない。怒りと、無力感と、悔しさが、声を突き上げていた。
「アイツは、曹の妹なんだ……っ。曹は俺がそばにいたのに、救えなかった。今度こそ……もう、誰も見殺しにしない……!」
周囲が言葉を失ったそのとき――
「よし、俺も行こう」
張 天雄の低く、重い声が響いた。
皆が一斉に振り向く。
張は拳を握り、傷だらけの軍服を振るうように身を起こしていた。
年齢を感じさせぬ眼光が、鋼のように白伊を射抜いている。
「胡、韓、呉、お前らはここに残れ。魏を中心に、残りの衛生班と非戦闘員を守れ。……おそらく、“蜘蛛”だけが敵じゃない。」
そして張は、白伊にだけわかるように静かに言った。
「お前ひとりじゃ、夢瑤は守れん。だから俺が行く」
白伊は目を伏せ――そして静かに頷いた。
続く…




