29話 中国・吉林省 - 9 -
かすかな風すら吹かぬ森の中、紅旗の数名と白伊は、言葉少なに足を進めていた。
先頭を行くのは、張天雄。背後に韓渾一、呉杰龍、劉麗秋。そして列の中央付近には白伊がいた。互いの間に一定の距離を保ちながら、全員が銃器を構え、常に周囲へ視線を配っている。
「……瘴気濃度、やはり上がってきているな」
小声で張が呟くと、劉麗秋が手元の分析端末をちらと見て答える。
「間違いない。標準値の三倍は超えてる。このまま進めば、素体での感染もあり得るレベルだ。白伊――お前は、感覚でわかるか?」
彼は中国語で問う。白伊は張の顔を見て頷いた。
「瘴気の“重さ”が違う。…この先に本体がいる可能性が高い。少なくとも、これはただの残留瘴気じゃない。発生源が生きてる。」
呉杰龍がうめくように言った。
「まだ姿も見えないうちからこれか……マジで気分悪いな。頭の奥がキリキリしてきやがる」
その時、後方にいた韓がしゃがみ込んだ。
「……見ろ」
倒木の陰、土に半ば埋もれるように、白い布の切れ端が残っていた。
軍装ではない。子供服のように見える。
白伊の眉がわずかに寄った。
(誰かが……こんな場所を通った? しかも子供?)
――そのとき。
「静かに」
張が手を上げた。
一同が身をかがめる。
――音がする。
木々の間から、ごくかすかな「ズズ……ズ……」という湿った音が聞こえる。
粘膜が地を這うような、ぬめった、異様な音。生き物の足音にしては重すぎる。
「何かいる」
韓が即座に囁く。
白伊はそっと息を呑む。瘴気が肌に粘りつく感覚が強まり、背筋に冷たい汗が伝う。
「瘴気の中心が近い」
劉麗秋が端末を操作しながら小さく呟いた。
「この先2キロ、集落の跡地。そこが……濃度のピーク。ここから先は、マスクがなければ即時感染の可能性がある」
「……つまり、その先に“本体”がいる可能性が高いと」
白伊は周囲を見渡しながら呟く。張が静かに頷いた。
不穏な空気が、隊の間に沈黙を落とす。
その時、木々の奥で――何かが「笑った」。
ぞくり、と白伊の背筋を何かが這い上がる。
張が即座に手信号を出す。
「散開、臨戦態勢。視覚確認まで発砲は控えろ。まだ人間の可能性がある」
全員が即座に反応し、円陣を組むように配置を変える。
森の中に張り詰めるような沈黙が降りる。
誰もが言葉を発さず、ただ「それ」が再び動くのを待っていた。
だが、それ以上音は鳴らなかった。
それどころか、さっきまで感じていた気配すら、まるで何事もなかったかのように、ぴたりと消えていた。
「……動いてるな」
韓が低く呟いた。「奴」はこちらの気配を察し、移動を開始したのかもしれない。
「痕跡を見失う前に追う」
張が指示を出すと、一同はすぐに行動を再開する。誰一人として油断の色を浮かべてはいない。
前方、森が途切れはじめる。木々の密度がまばらになり、瓦礫と枯れた農地が姿を現す。
目の前に広がったのは――
「……ここが、“鏖殺集落”か」
白伊が呟いた。
倒壊した民家。焼け焦げた地面。ねじれた鉄柵と、地面に突き刺さるように放置された包丁や農具。
まるで時間だけが止まり、地獄の一幕をそのまま切り取ったような光景だった。
「全滅した集落……」
劉麗秋がマスク越しに息を呑む。
「おい、痕跡があるぞ」
呉杰龍が指を差す。家屋の壁に、かすかな指の跡。人間の手によるもの。しかも――新しい。
「やっぱり……足跡の主がここに入ってる」
白伊が辺りを見渡す。重い瘴気が空気を濁していて、視界も薄く霞んでいる。
――その時だった。
「張! 子供の声!」
前方の廃屋の一つから、魏安然の鋭い声が飛ぶ。
全員がすぐにそちらへと走った。
白伊も後れを取らず、廃屋の裏手に回り込むと――
ひとりの少女が、震えるように蹲っていた。
「那個……請、請不要殺我……」
(おねがい、殺さないで……)
中国語。だが、発音は明瞭だ。年齢は十歳前後。膝を抱え、体を小さく縮こまらせていた。
白伊が戸惑うそぶりを見せると、後ろから近づいた張が即座に駆け寄った。
「落ち着け。大丈夫だ、誰も君を殺したりはしない」
張の言葉に、少女はびくりと震え、視線を向けた。白伊と目が合う。恐怖と混乱が、その瞳に色濃く滲んでいた。
「この子……生存者か?」
韓が辺りを見回しながら訊いた。
重苦しい空気が、場を包む。
「名前を聞いてもいい?」
隊員の一人である胡兆安が静かに尋ねると、少女は怯えた声で答えた。
「我叫……花梅……」
(わたしは……花梅)
その名が、静かに、瘴気の中に溶けていった。
少女の姿には明らかな外傷はない。だが、目の焦点が定まらず、時折ぶつぶつと何かを呟いている。
おそらくは――魔族を見てしまったのだろう。
「この子は保護しよう。今すぐ引き返すには瘴気が濃すぎる。一時退避地点を確保して、状態を見よう」
張が即断する。
「了解」
陸飛廉と呉杰龍が先導し、魏安然が少女を慎重に抱き上げる。
そのとき――
遠く、集落の反対側。
ズズ……と、湿った、巨大な何かが地面を引きずる音が響いた。
その音は、明らかに「人間の足音」ではなかった。
***
湿った空気が肺にまとわりつく。鉄のような匂いと、どこか薬品めいた臭気が鼻を刺した。
八幡直弥は、重たい瞼を開ける。
視界は暗く、光源はただ一つ、天井の裸電球だけ。その下で、自分が両手両足を拘束され、大の字のまま吊るされていることに気づいた。
その視界の端に、もう一人。
「……沙紀、さん……!」
向かいの天井に、同じように吊るされていた沙紀がいた。顔には傷があり、唇が切れて血がにじんでいる。だが、彼女の眉が微かに動いた。まだ生きている。
――よかった。
そう思った瞬間だった。ぬるりと、音もなく人影が現れる。
だが、直弥の目は見開かれた。
「っ……曹さん……?」
その姿は、確かに見覚えのある顔だった。
曹辰偉――かつて、共に戦場にいた、あの穏やかで芯のある男。
だが肌の色はわずかに青白く、目には焦点がない。
笑みを張り付けたまま、まるで鏡のように正確な顔立ちを模倣している。
そして、その関節――肘、指、首――は、人間の可動域を逸脱していた。
「……よク、起キたナ。観察の刻ハ、始マッたばかリだ」
口から漏れる声。
たしかにその声は曹だ。だがその発音はたどたどしく、日本語に混じるカタカナの語感が、機械的な不気味さを帯びていた。
「……曹さん、なのか……? 本当に……?」
直弥の問いに、彼は“曹の顔”でにこりと微笑んだ。
「カオは、覚エてイタ。記憶カら拝借しタ。…親シみ、感情ノ乱れ、検証ノ価値ガあル」
沙紀の眉がわずかに動いた。だが言葉はない。
魔族は人間のように両手を組み、ゆっくりと歩み寄る。
だがその動きは滑らかすぎて、不気味だった。
「彼女、情緒安定。反応、興味深イ。素材トしテ、有望」
「やめろ…ッ!」
直弥が怒鳴ると、魔族――いや、“曹の皮をかぶった化け物”は首をかしげた。
「守ル意志。観察記録に、追記。感情、連鎖スる」
その目は、まるで記録装置のように冷たく、直弥の表情を一つ一つ観察していた。
そして――
「マもなク、実験開始スる。君達の限界、測定すル」
そう言って、曹の顔をした魔族は音もなく背を向け、扉の奥に消えていった。
――張りつめた静寂が戻る。
その中で、直弥は歯を食いしばりながら吊られた鎖を動かし、体重移動による揺れで何とか拘束をずらせないか試し始めた。
「……くそ……絶対に……絶対にここから出る……!」
目の前で揺れる沙紀の姿――そして、曹の姿を模倣した魔族の不気味な笑顔が、脳裏に焼き付いていた。
***
吹き飛ばされた白伊の体は、重力に逆らうことなく落下し――砕けた瓦礫の上に鈍い音を立てて叩きつけられた。
「――ぐっ……!」
呼吸が止まり、肋骨の何本かが音を立てて軋む。視界がぐにゃりと歪んだ。
だが、白伊は意識を飛ばすわけにはいかなかった。
――あいつが、まだいる。
顔を上げる。瓦礫の奥。
朽ち果てた建物のさらに向こうで、異様な黒影がこちらを見下ろしていた。
上半身は人間の女のような姿。だがその顔は表情が貼り付いた人形のようで、血色ひとつない。
腹部から下は――巨大な蜘蛛のような甲殻と足。八本の脚が瓦礫を蠢きながら、その場に立ち尽くしている。
“あれ”が、魔族。
白伊の脳裏に、先ほどの光景が焼き付いて離れない。
陸飛廉――無言のまま最前線を走り、攻撃の起点を作ってくれた仲間。彼はあの魔族に殺された。
魔族の触肢は空を裂くように唸りを上げ、鋼鉄のような殻で身を守りながら殺戮を続けていた。
「……っ、クソが……!」
白伊は片腕を地面について立ち上がろうとする。だが足がうまく動かない。骨折か、神経への衝撃か――いずれにせよ、立って戦える状態ではなかった。
魔族はゆっくりと動き出した。
爪のような足が、ガリリとコンクリートを削りながら、まっすぐ白伊のほうへ――狩りの続きを始めるように近づいてくる。
――死ぬわけにはいかない。
陸の死を、無駄にはできない。
「破術――」
言いかけた瞬間だった。魔族の背後から、鋭い閃光が走った。
炸裂音とともに煙が舞い、蜘蛛型魔族が崩れ落ちた。
煙の中から現れたのは、馮岳成と、呉杰龍の姿だった。
「おい白伊! まだ生きてるか!」
「下がれ! ここからは俺たちが引きつける!」
爆煙が晴れない。
だが――視界が開けたとき、そこに立っていたのは、なおも蠢く蜘蛛型の魔族だった。
脚は再生し、焦げた外殻も黒々と光を取り戻している。
呉杰龍が信じられない顔で叫んだ。
「……再生しただと!? さっきの一撃で半身吹き飛んだはずだろッ!」
「急げ、再装填しろ!」
馮 岳成が叫ぶが、次の瞬間――
ズバァッ
魔族の触肢がしなるように跳躍し、馮の胴体を両断した。
赤い霧が散り、内臓と破片が地面に叩きつけられる。
「フォンッ!!」
呉が叫ぶが、応じる声はなかった。
さらに、背後から回り込もうとした董楽のドローンが撃墜され、魔族の腕のような触手が彼の首を貫いた。
「……ッ! が、あ……」
短い喘ぎとともに、最年少の戦術オペレーターが沈黙する。
「このっ……化け物!!」
羅晴が泣き叫びながら銃弾を放つが、それは魔族の甲殻で弾かれる。
「近づくな、ルオ!!」
だが遅い――
魔族の脚が素早く突き出され、羅の胸を串刺しにした。
「か……はっ……」
吹き飛ばされた彼女の眼鏡が、地面に転がる音だけが耳に残った。
あっという間に、3人が死んだ。
「くそ……くそッ!!」
呉 杰龍が重火器を構えた瞬間、張が叫ぶ。
「後退しろ呉! 包囲を崩せ!」
「やってられるかよ! ここで止めねぇと全員……!」
火器が撃ち出される――だが魔族はその巨体に見合わないほど高く跳躍し、空中で呉の背後に回った。
その刹那、白伊が飛び込む。
「破術解放、碧砕――!」
雷撃のような爆発が横薙ぎに魔族を打ち、呉をかろうじて引き離す。だが白伊の耳から血が噴き出した。
代償の反動が脳を揺らす。
「ぜぇっ……ぐっ……」
残る戦力はわずか。
馮、董、羅、陸の4人が死に、高濤はすでに負傷し動けず、劉麗秋と陳惇は後方で衛生班及び非戦闘員を守っている。
戦えるのは張天雄、白伊、呉杰龍、韓渾一、胡兆安の5人だけ。
張の拳が震えていた。仲間が次々に殺され、軍に見捨てられ、それでもここまで生きてきたのに――
「なんなんだよ……! 何が、魔族は殲滅できるだッ!!」
咆哮のような叫び。怒りが、無念が、悔しさが、血と硝煙の中で魂を掻きむしっていた。
「うあああああああああっ!!」
呉 杰龍が重火器を構え、咆哮とともにバースト連射を叩き込んだ。
背負っていたバックパックからは、魔族用の徹甲榴弾がうなりを上げて魔族の頭部へ吸い込まれていく。
――しかし。
命中の直前、魔族の外殻がパージのように割れ、攻撃がすり抜けた。
「っ、装甲がッ……収束と展開を意識的にやってんのか……!」
胡 兆安が叫んだ。手にしたのは、改造型のクレイモア地雷。その爆薬に魔族の触手が接触する――
――爆発。
だが、魔族は揺るがなかった。
ただ一つ、うねる触手が、地面に張りつくように、胡の脚を引き裂いた。
「ッぐぅ……ああああああっ!!」
絶叫が響く。胡は倒れながらも懐からもう一つの起爆信管を握り締める。
「…せめて、巻き添えくらいには…!」
「やらせるかっ!」
白伊が咄嗟に走り込み、彼女を背負い上げる。
「おいお前っ…何してやがる……!」
「生きろ、って言っただろ…! 破術、解放――!」
衝撃が再び宙を駆ける。
「――散滅!!」
魔族の中心軸に火球が落ちた。視界が白に染まり、爆風が木々を薙ぎ払う。
「これでも、まだ……ッ!」
白伊が吐血する。自らの肋骨一本を代償にしていた。骨の軋む音が体内から聞こえる。
韓渾一が、沈黙のまま狙撃体勢を取り、傷口の空いた外殻に弾を叩き込んだ。
――だが、命中しても、動きが止まらない。
張が、ぐらりと立ち上がる。
「これが……俺達の、現実か……」
血まみれの顔に、笑みすら浮かぶ。
「呉! 白伊! 聞こえるか!」
「……まだ生きてるぞ、司令!」
蜘蛛魔族が、体を膨張させる。
次の攻撃は、今までの比ではないと、本能が告げていた。
「全員、最終防衛ラインまで退け! 生き残った者だけでも、次に繋げろ!」
張が吠えた。
戦場は、血と爆発と絶望にまみれていた。
続く…




