2話 ADF
気がつけば1人、白い浜辺に裸足で佇んでいた。
強い日差しが肌を焼き、風は凪ぐ。周りに人は見受けられない。そのせいか、世界にたった1人取り残されたような錯覚に陥った。
だが、不思議と焦りや不安はなかった。それどころか、どこか安心感さえ感じる。
潮の香りとともにさざ波が立っている。ザーザーと一定のリズムでそう小さく囁くその波には光が反射し、宝石のように淡くキラキラと輝いていた。
無意識に波打ち際へと歩を進める。足首まで海水が浸った時、突如水平線の彼方で声がした。
その声が女性のものか男性のものか、将又何を言っているのかまでは判別できない。ただ、歌声のように響くその声に魅了され、水に浸かった足首がまた無意識に動き出す。
海水が股関節くらいまできた時に、頭の中がその歌声のことしか考えられなくなっている事に気がついた。
その瞬間突如として強い不安感が生まれた。胸が高鳴り、呼吸が乱れる。逃げなければ、そう本能的に感じた。
引き返すために振り向こうとする。だが、水面下の砂浜に埋もれた脚を引き抜くことが出来ない。
それはまるで誰かにがっしりと脚を掴まれているかのようで、力ずくで引き抜こうにもぴくりとも動かない。
空に暗雲が立ち込める。頭の中では先刻の歌声が先程よりも明確に聞こえる。半ば半狂乱で逃れようと奮闘するが、逆にどんどん足が埋まっていくような感覚がした。
すると、立ちこめた暗雲から大粒の雫ぽつり、ぽつりと降ったかと思えば、急激な土砂降りとなり、身につけていた衣類がそれを吸い込んでずっしりと重くなった。
風が吹き荒れる。徐々に波が高くなってきた。だが未だに脚は抜けない。
死物狂いで足に力を込めていると、スポッと右足が埋もれていた砂浜から抜け出る。だが同時に海も荒れ、波が胸部にまで到達せんとしていた。
砂地と格闘していると、ようやくもう片方の足も抜けた。だが、もう遅かった。
わずか数メートル先から、一際大きな波が押し寄せてくる。到底避けきれるような波ではなかった。顔がひきつる。その瞬間その大波に体を攫われ、気づいたときには深い海水の中に沈んでいた。
海水面が見える。弱々しくはあるが、わずかに太陽の光を反射しているのも見えた。
何も考えられない。不安感も絶望感も、あの歌声に上塗りされる。徐々に意識が薄れる。かすかに聞こえる歌声が、か細くこう歌う。
『あなたは、特別な存在』
『橋となるべき、崇高な存在』
『生きて、その身を捧げ、永久なる戦乱に終止符を』
ああ、そうだった。。。
まただ。また、この声だ、、、
かすかに聞こえるその声を未だに聞きながらそう考えたのち、そこで意識はぷつりと途絶えた。
真っ黒に覆われた視界に、淡い蛍光灯の光が淡く射すのを感じる。
最初はただただ弱い光が視界をとても薄っすらと白に染め上げているだけだったのだが、その白は、意識がはっきりとなるたびに濃さを増し、最終的には全体を覆っていた黒をほとんど塗りつぶした。
ゆっくりと目を開ける。真っ白な天井に、よく見る棒状の蛍光灯が付いていた。知らない天井だ、、、そう呑気に考える。まだ目覚めたばかりで、よく頭が冴えていなかった。
(、、、目覚めた?、、、そういえば俺、昨日どこで寝たんだっけ、、、)
蛍光灯の光が開けた目から差し込んでくる。
体がだるい。起床して間もないのもあるのだろうが、体全体にずっしりとした疲労感を感じた。
少しの間、白い天井をぼーっと眺めていると、すぐ横でカーテンが開く音がした。
誰だろう、と音がした方へ首をゆっくりと傾ける。側面の首筋が仄かにズキズキと痛んだ。
そこにはメガネを掛けた女性が佇んでいた。その女性は汚れ1つない白衣を身にまとい、片手にカルテを抱え込んでいて、佇まいには清潔感や真摯な様子が感じ取れた。
抱えていたカルテに目を落としていた彼女は、こちらに目線を移した時、驚いたような反応を見せ、その場に立ちすくんだ。
こちらもその女性をぼんやり見据えていると、一瞬ハッとした表情を見せ、女性は慌ただしく開けたカーテンを再度閉めてどこかへ行ってしまった。
なんだったのだろうか、と少しだけ呆気にとられたが、少しの静寂の後、先程の女性らしき声が聞こえてきた。
「も、もしもし、、、はい、、、ええ、コード202の意識が、、、え、寛解様が?、、、え、ええわかり、ました。はい、、、はい、、、、」
先程の女性らしき声が焦ったようにそう話す。
誰に電話しているんだろうと疑問に思っていると、だんだん頭が冴えてきて、同時にどす黒い記憶が濁流のように流れ込んできた。
今でも鼻腔にこびりつく血と火薬の入り混じった匂い、張り詰めたような数々の絶叫と耳をつんざくような乾いた銃声、虚空を見つめる光のない目、崩れた校舎、この世のものとは思えないような異形の亡骸、華奢な少女の後ろ姿、、、
そして、家族全員の何気ない笑顔がフラッシュバックした瞬間、強い吐き気がこみ上げてきて、思わず口を手で覆おうとした。
だが、出来なかった。自分の身体を見てみると、手足は手錠のようなものでベッドの縁に拘束され、腹部は黒いベルトできつく押さえつけられていた。
身体の自由が制限されていることに一瞬驚いたが、次の瞬間には強い不安と焦りが出てくる。
(ま、まさか俺も、、、殺、、、!?)
冷や汗が背筋を伝った。どうにかして体を動かそうと強く身じろぎしようとする。
「よぉ、コード202、、、いや、ここでは八幡直弥とでも呼ぼうか。」
突然耳元で聞き馴染みのない青年の囁き声が聞こえてきた。驚いて声がした方向へ首を傾ける。
そこには、目元までかかる長いマッシュヘアの青年が、ベッドの脇にしゃがみこんで直弥の様子を伺っていた。
ふわりとした前髪の奥に見える目元や、しゅっとした顔筋の彼の口元は優しく微笑んでいるように見えるが、それに反して見た目は派手やかであった。
耳には多数の銀色に光るピアスがついており、下唇にも3箇所同様のものがついている。また、黒スーツの隙間から見え隠れする首元にも銀色のネックレスが2、3本かかっていた。
だが直弥は、その青年の顔を何処かで見たことがあると思い、そして気づく。
「あ、あの時の、、、!」
「覚えてたんだ。すご、、、」
「か、母さんを返せ!!父さんもだ!!楓も!!学校のみんなも、、、っぷっ!?」
青年の言葉を遮って積もり積もった怒りをあらわにしたが、途端に胃液が込み上げて口を閉じて顔をしかめる。
だが一歩間に合わず、逆流した胃液が口に達し、思わず体外へ吐き出した。
すると、様子がおかしいのを察知したのか、直弥が嘔吐くより一歩早く、青年はベッドの下へ手を伸ばし、そこから青いポリバケツを取り出して直弥の口元へと素早く差し出す。
ほぼ同タイミングでバケツに胃液が吐き出された。吐き出された吐瀉物の飛沫が少しだけ顔に跳ね返ってくる。
口元に胃液の酸っぱさがじんわり染みる。苦しげに咳き込んで、目元に涙が浮かんできた。
青年は一切顔をしかめることなく、直弥の背中をさする。そして穏やかな口調でゆっくりと口を開いた。
「落ち着け。今のところはお前に危害を与えるつもりはない。混乱するのも無理ないけど、追々1つずつ丁寧に説明するから。」
激しく咳き込みながら、直弥は心配げに覗き込んでくる青年を怒りの籠もった目で睨む。
「んなことっ、、、信じ、、、げほっ、、、れるかよ、、、!」
「無理に信じなくてもいい。いいから今は出すもん出し切れ。」
言いたいことは山ほどあったが、それを上回る気持ち悪さが怒りを鎮め、胃の中にあるものすべてを絞り出すようポリバケツの中に吐き出した。
胃の中が空っぽになり、吐く物がなくなった直弥は、まだ少し咳き込みながらも、傍らにしゃがみこんでいる青年の方へもう一度、今度は冷静に見据えた。
前髪の下の澄んだ目元に邪悪なものは一切感じられない。見た目は派手派手しいが、悪い人では無さそうだ。
ふと、左耳朶のピアスが他のものとは違った光り方をしていることに気がついた。
目を凝らしてみてみると、そのピアスには亀に蛇が巻き付いたような絵柄が描かれているのがわかった。
それが何なのか考えるより先に、青年は口を開く。
「だいぶ落ち着いたっぽいな。どうだ?まだきついか?」
「まぁ、、、ある程度は、、、」
「そうか、、、まぁ、別にしんどかったら聞かなくてもいいが、とりあえず自己紹介といこうか。」
おもむろに青年は立ち上がり、直弥の目をしっかり見据えてこう言った。
「おれは四阿庸平、別称『寛解』。年は22。階級は八間だ。」
気まずい静寂が訪れる。あたりまえだ。自己紹介と言っていたのに、わけのわからない単語が発言内容の約半分を占めていたのだから。
直弥は無意識に、頭に浮かんだ疑問符をそのまま口にした。
「、、、は?かんかい?はちげん?」
直弥の当惑を受けて、四阿は後ろにカルテを抱えて佇んでいた先刻の女医師にゆっくり目線を送って声をかけた。
「、、、もしかして、まだ説明できてない感じ?」
「え、ええ。なにしろ寛解様が来るつい数分前に目覚めたばかりですので、、、」
「別に様はつけなくていいって。 、、、まあ、わかった。俺から説明しとく。」
「も、申し訳ございません、、、」
申し訳無さそうにそうつぶやいた女性から四阿は目線を外し、再度直弥を見やった。
そして、少しだけ気まずそうに彼は口を開いた。
「あー、、、えっと、まあわけわかんなかったよね。今から説明する。」
そうして彼は少しだけ間を開け、こういった。
「ようこそ、我ら人類が誇る極秘機関―――Anti-Devil Federation、別名『ADF』へ。」
続く、、、