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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
28/112

27話 中国・吉林省 - 7 -

 木々の間を、濃霧のように瘴気が漂っていた。


 曹の最期から、どれほど走ったか分からない。直弥は自分の呼吸が耳の中でひゅうひゅうと音を立てているのに気づいた。肺が焼けるように痛く、足元は泥に沈み、全身が悲鳴を上げていた。それでも、走るしかなかった。


「……こっち、少し開けてる!」


 沙紀が声を絞る。彼女の顔には泥と血の筋がついていた。白伊も息を荒げながら、その後ろを走る。振り向きざま、地面に拳を突き立てた。


「気配、まだ来てる!」


 直弥もそれを感じた。視線の先、木立の間からぬらりと動く影。もはや人とは思えぬその姿は、ところどころ軍服をまとっている。だが、顔は崩れ、骨格は歪み、全身から紫の瘴気が滲み出ていた。


「右、来る!」


 白伊の怒声とともに、敵の一体が木の陰から飛び出した。


「……っ!」


 直弥は無意識に銃を向け、トリガーを引いた。


 ――バンッ!


 弾丸は魔族化した兵士の額を撃ち抜き、脳漿と瘴気が同時に飛び散る。しかし、倒れた影の後ろから、また別の影がにじり出てくる。


 (きりがない……!)


「こっち、谷だ!下れば巻けるかもしれない!」


 沙紀が叫び、崖のような斜面へと飛び込んだ。白伊もそれに続く。


 直弥は一瞬、背後を振り返った。闇の中、異形の兵士たちが枝を割り、木々を蹴り倒しながら追い迫ってくる。目が光っていた。喉が鳴っていた。理性なき獣の咆哮だった。


「――っ……!」


 直弥は口を強く結び、斜面へと飛び降りた。転がるように、滑るように、木の根をつかみ、地面を蹴って下る。


「っあ、足……!」


 沙紀が足をとられて転倒する。直弥がすかさず彼女を引き起こし、肩を貸す。


「大丈夫か!?」


「……まだいける!走って!」


 谷の底に向かって木々が深くなり、視界がどんどん悪くなる。だが、その闇の奥へと逃げる以外に術はなかった。


 背後では、崩れ落ちた死者の群れがなおも動き続けている。


 あの爆炎の中でも生き延び、瘴気に染まり、意志なき殻となってなお、彼らを喰らわんと迫ってくる。


 森は生者に優しくない。


 魔族の臭いが染みついたそこは、直弥たちにひとときの逃げ道すら与えてはくれなかった。


「お前ら、走れッ!!」


 白伊の怒声が森に響いた直後、足元の地面が低く唸りを上げた。


 直弥は立ち止まったまま、振り返る。


「白伊くん、君も来い! 一人でなんて――」


「来るなって言ってんだよ、バカがッ!!」


 裂けるような声。白伊の掌から血が垂れ落ちる。


「――破術はじゅつ解放!」


 その一言が空気を変えた。


 血を媒介に紡がれた陣式が、赤い光を帯びて地面に展開する。湿った空気の中で、魔族と化した人民解放軍の兵士たちが木々の間を這い寄る。濁った目と唸り声だけが、異常な現実を物語っていた。


「…核分コア・ディバイド


 白伊の声は、どこかしら震えていた。だがそれは恐怖ではない。覚悟の震え。


「行けよ、早く……っ!」


 直弥の喉が詰まった。


 彼を置いて走る――その選択が、あまりに苦しい。


「直弥くん……」


 沙紀が肩に手を置いた。静かに、だが確かな力で。


「……ここで私たちが足を止めたら、りょうちゃんの代償が無駄になる」


 その言葉が、刃のように胸を貫いた。


 直弥は顔をしかめ、歯を食いしばる。


「……くそ……!」


 二人は全速力で走り出した。背後では、白伊の術式が完成に近づき、赤い稲妻のような光が森に散っていく。


 ――ドォンッ!!


 轟音が森を揺るがせた。


 炎と衝撃波が木々をなぎ払い、瘴気すら吹き飛ばす。


 それでも直弥は振り返らない。足を止めたら、心が崩れると分かっていたから。


「……死ぬなよ、白伊くん……!」



 ***



 ――灼けつくような爆音の残響が、森の一角に木霊する。


 それを、遠く離れた斜面の向こうで聞き取った一団がいた。


「……爆発音?」


 張天雄が立ち止まり、雨に濡れた前髪を払う。軍服の袖は泥で汚れ、肩にはかすり傷が残っている。彼の周囲には、銃を構えた13名の紅旗の兵士たち――その顔には疲労と緊張が色濃く刻まれていた。


「音の方向、南南西。距離は……おそらく600」


 部下が即座に応じる。


「鷹紋に追いつかれる前に、そこに向かう。全員、抜刀警戒でついてこい」


 張天雄は命令を出すと、森を駆け抜けた。


 濃い瘴気と湿気の中、雨で滑る斜面を越え、彼らがたどり着いたのは、裂けた木々と焦げた地面、そして――


「……人がいるぞ!」


 一人の兵士が叫ぶ。張天雄が駆け寄ると、そこには血塗れて倒れている少年の姿があった。目元からは血が一筋、赤黒く流れている。全身には熱傷と出血。だが、かすかに息があった。


「こいつ……ADF隊員か? …まだ生きてる。」


「そっちだ! 魔族接近!」


 後方から呻くような唸り声と、銃声。瘴気に侵された“殻”と化した人民解放軍兵士たちが、森の闇から群れをなして現れ始めていた。


「全員、展開! 防御陣形! 奴を抱えて撤退する!」


 張天雄は怒鳴る。別の隊員がすぐさま白伊を背負い、全員がコンパクトに身を低くしながら動き出す。


「やたらと数が多い! まるで激戦区だったみたいな……!」


「いいから走れッ!! 鷹紋に見つかる前にここを離れる!!」


 砲火が飛び交い、赤い閃光が森の中を走る。


 張天雄は最後尾から敵に銃を放ちながら、背負われた白伊の顔を一瞬見やった。


 ――若いな。あの爆発の中心にいたってのに、まだ生きてるとは。


(だが、目が……)


「生きろよ、お前……お前らの戦い、俺たちに聞かせろ。」


 唸り声が遠のく。


 紅旗の生き残り部隊は、雨に濡れた森の闇の中へと、白伊を背負って駆け抜けた。


 ***


 野営地の仮設テント内――


 雨の匂いがまだ漂う湿った空気の中、ランタンの橙光が静かに揺れていた。


 テントの隅で横たわる白伊の胸は、まだ浅く苦しげに上下している。額には冷や汗。目は閉じているが、そのまぶたの奥では微かな痙攣が続いていた。


「出血は止まったわ。脳に損傷はないけど……視神経に、何らかの過負荷がかかった痕跡がある。いまは昏睡状態ね」


 そう告げたのは、白衣の上から簡易戦闘ジャケットを羽織る若い女性――曹夢瑤ツァオ・モンヤオだった。義兄・曹辰偉の消息も知らぬまま紅旗に身を投じた彼女は、目の前の傷ついた青年を、まるで兄を見るように見つめていた。


「…命に別状はない、が」


 テントの入口近くに立っていた張天雄が口を開いた。低く太い声は、風雨の中で鍛え上げられた石のように重い。


「…あの爆発はただの爆薬ではない。何かを…“解放”していた。そう思わんか?」


 張の問いに、夢瑤はちらと視線を上げる。


「――彼の身体には、ごく一部だけど、“術痕”に似た構造が見えたわ。もしかすると彼は、何らかを行使した…そう考えるのが自然」


「……人術か。まさか、こんな形で見ることになるとはな」


 張は白伊に近づくと、しゃがみ込み、その顔をじっと見つめた。


「君は、我々の言葉が分かるのか?」


 もちろん、返事はない。


 だがその刹那、白伊の眉が微かに動いた。まるで張の“声”だけは、どこか深層に届いているかのように。


「この男のケアは頼む。目を覚ますまで、絶対に生かせ」


「了解しました、司令。」


 夢瑤が静かに敬礼する。


 テントの外では、また風が唸るように吹きつけた。森に残る瘴気の名残が、いまだ薄く立ちこめている。


 野営地中央の仮設テント、その奥。


 張天雄は、ひときわ古びた戦術地図の上に手を置き、周囲を囲む紅旗の中核メンバーたちを見回した。硬い沈黙を破ったのは、外科戦術医の魏安然ウェイ・アンランだった。


「彼の容態は安定しています。脳に損傷はなく、瘴気の影響も外因性。視覚野への出血も収まりました。ただ……意識の回復にはもう少し時間がかかるかもしれません」


 白伊の傍らで処置を終えた彼女は、義手の左腕を肩に戻しながらそう報告した。


「この男……ADFの徽章を身に着けていたな」


 張が重い口を開いた。周囲の空気がわずかに緊張する。


「本物か?」


 問いかけに答えたのは、情報官の劉麗秋リウ・リーチウだった。顔を伏せ、端末を操作しながら端的に言い放つ。


「身元は未照合。ただし、所持していた武装や装具の一部はADFの特製と一致。それと……奇妙な記録が一つ」


 彼女はモニターに映し出した。


「3日前、長春北部の旧軍集落で発せられた短波通信記録――内容は不明ですが、複数のチャンネルでジャミングされており、内容解読不能。ただ、発信源の波形からして、これは」


「……何らかの干渉波だな」


 狙撃手で監視特技兵の韓渾一ハン・フンイーが低く言った。


 張天雄は一歩、白伊のほうに視線をやる。


「こいつは何を見たんだ……?」


 その声に、全員が押し黙る。彼は、言葉の壁の中でただ荒れ果てた森を彷徨っていた、異国の兵士。


「言語の問題もある。彼が目覚めたとしても、こちらの言葉が通じるかはわからん」


「…日本語は?」


 張が問うと、周囲は静まり返った。


「話せるのは、張さんだけです」


 通信技術士、羅晴ルオ・チンが応じる。


「となると、通訳は俺か」


 張は顎に手を当てると、短くうなずいた。


「よし。ひとまず目が覚めるまでの間に、我々はこの瘴気源の調査を続行する。これだけの瘴気と兵士の魔族化……意図的に“何か”が行われている可能性がある。単なる感染では説明がつかん」


「鷹紋の関与も?」


 対魔殲滅班の呉杰龍ウー・ジエロンの問いに、張は即答しなかった。


 だが、その眼差しは鋭かった。


「……分からん。ただ一つ言えるのは、これは決して“偶然の産物”じゃない」


 その瞬間、テントの天幕を風が鳴らした。夜明けが近づく気配とともに、森のどこかで小鳥の声がかすかに響いた。


 白伊は、まだ目を閉じていた。だがその眉間はわずかに震え、まるで遠い夢の中で、呼ばれる声を探しているかのように揺れていた。



 ***



 道なき森を突っ切り、崖を越え、足元を切り裂くような薮を踏み分け、直弥と沙紀はついに辿り着いた。


 そこは、直弥らが派遣されるきっかけとなった事件の舞台である廃村だった。


「……まさか、ここまで無事に来られるとは思わなかった」


 直弥が息を切らし、雨に濡れた髪をかき上げる。沙紀も泥まみれの膝に手をつきながら、廃墟となった村を見つめていた。


 静寂。


 あまりにも、静かだった。


 建物のほとんどは瓦が崩れ、戸口は開け放たれ、窓は割れたまま。人の声も、何一つしない。


 二人は村の中心部へとゆっくりと足を進めた。風が、枯れた洗濯物をかすかに揺らす。


 その時だった。


「……你们是谁?」

(あなたたち、誰?)


 振り返ると、崩れた家の隅から、一人の少女がこちらを見ていた。


 泥にまみれた顔。あどけない表情。肩までの髪をぼさぼさにした、10歳にも満たない小さな少女。


「……子ども……?」


 直弥が思わず声を漏らす。


「私が話す」


「……沙紀さん、話せるの……?」


 直弥が驚いたように言うと、彼女は小さく笑って答えた。


「一応、オリオンの教育課程には含まれてたし……少しだけ。ほとんどは独学だけど。」


 そう言いながら、沙紀は少女に優しく語りかけた。


「我们不是敌人。你是一个人吗?」

(私たちは敵じゃない。あなた、一人?)


 少女は怯えた様子で首を横に振る。


「我妈妈……还在地下。快点来。」

(ママが…地下にいるの。急いで)


 沙紀が訳す前に、少女は踵を返し、奥の廃屋へと走っていく。


「待って!」


 慌てて二人も後を追った。


 たどり着いたのは、他の家屋と同じく瓦が落ち、骨組みすら露出しかけた朽ち果てた一軒。だが中は、なぜか異様に綺麗だった。


 家具が整い、床の木材には手入れの跡すらあった。


 少女が床の板を外すと、地下へ続く古い梯子が現れる。


「在这里……你们先下去。」

(ここから……先に下りて)


 そのとき、直弥の背筋に冷たいものが這い上がった。


「沙紀さん、下がって」


「え……?」


 遅かった。


 ギィィィ……

 音もなく開いた扉の向こうから、異形が現れた。


 上半身は滑らかすぎるほど整った人形のような女の顔。感情の欠片もない無表情に、硝子細工のような目。髪は黒い糸のように垂れ下がり、皮膚には血のような裂け目が走っていた。


 だが、下半身――そこには巨大な蜘蛛の胴体と八本の関節脚があった。


 どすっ……どすっ……と床を踏み砕きながら進み出てくる異形。


 沙紀の顔が引きつった。


「魔族――!?」


 直弥が咄嗟に銃を構える。弾丸が魔族の額を撃ち抜いた……はずだった。だが。


 ピクリとも動かない。


 音もなく、魔族が“微笑んだ”。


 背中の黒い外殻が音を立てて割れ、蜘蛛の足とは別に、鋭い触手のような刃が数本飛び出す。


「沙紀さん、逃げ――!」


 直弥の叫びと同時、魔族の触手が空気を裂いた。


 その太く異様な刃のような触手が、床を一撃で粉砕し、二人の足元を喰い破る。直弥は沙紀を突き飛ばす形で身を投げた。


 ドンッ――


 思わず漏れた息と共に、二人の体は瓦礫ごと吹っ飛ぶ。


 着地と同時に、肺を突き上げるような衝撃が直弥を襲う。


「……っ、がは……!」


 頭がくらつく。が、前を見るより早く、あの蜘蛛がもう近づいてきていた。


 ズル、ズルズル――

 異形の肢体が這う音がする。八本の脚が、岩を抉りながら音もなく迫っていた。


 直弥は反射的に銃を構えるが、手が震えていた。銃口がブレる。


(撃て……撃て……!)


 引き金を引いた。


 バンッ!バンッ!バン!――


 だが、すべて外れた。いや、命中しても意味がなかった。


 魔族は笑った。


「速っ……」


 直弥が呻いた次の瞬間、視界が反転した。


 蜘蛛の脚の一撃――いや、“触手”が、彼の腹部を殴り飛ばしたのだ。


 ゴウッ……!


 直弥の体が叩きつけられ、地面を転がる。


「直弥くん!!」


 沙紀の悲鳴。だが、彼女も次の瞬間には魔族の足元に捕えられていた。


「ッ――!」


 人術を発動する暇もない。蜘蛛のような脚が彼女の足を絡め取ると、同じくそのまま地面へと叩きつけた。


「く――ぅっ!」


 骨が軋む音、肺の中の空気が一気に漏れる感覚。視界が揺れる。頭が重い。


 魔族は満足げに笑っていた。


 直弥も沙紀も、動けない。


 視界の端で、魔族の顔がこちらを見下ろしているのが見えた。

 だがその目に人間らしい感情はない。あるのは、食う側と食われる側の境界。


「干得漂亮,花梅。」

(いい子だ、花梅ファメイ。)


 魔族はそう少女に言う。彼女は肩を震わせたまま、何も言わなかった。


 その目から――涙が、ぽたりと一粒だけ落ちた。


 それを最後に、直弥の視界が白く、遠のいていく。


 そして、闇が訪れた――


 続く…

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