26話 中国・吉林省 - 6 -
人民解放軍陸軍、戦区司令部直属・特別作戦群「紅旗」筆頭の張天雄は、ここ数日、暗澹たる気持ちでいた。
同じく軍人であり、過去の大戦でもその名を轟かせた祖父の影響で、少年期から軍事の道を志していた。祖父が口癖のように言っていた「国を守るとは、国民を守ることだ」という言葉が、彼の中ではいまでも生きている。
軍幹部候補として進んだ国防科技大学では、あらゆる分野で頭角を現し、最終的には首席で卒業。軍内部でも将来を嘱望される逸材として、そのまま人民解放軍に入隊した。
だが、いまやその張天雄が、国家に忠誠を誓ったその男が、胸中に燻る迷いと怒りに苛まれていた。
「紅旗」は表向きは存在しない部隊だ。だが実態は、国家の都合で表沙汰にできない事案を処理する、極めて特殊な精鋭集団である。対テロ作戦、内乱鎮圧、越境潜入、そして——“異種存在”の処理。
彼がその存在を知ったのは、十三年前の出来事だ。
あの日、司令部は騒然としていた。高官たちが無線を握りしめ、誰もが一様に顔を強ばらせ、通常の規律も指揮系統も形骸化しかけていた。非常時対応と言えばそれまでだが、彼の知る限り、国内にそれほどの脅威など存在しないはずだった。
当時まだ少将だったが、すでに戦区副参謀として権限を与えられていた彼は、ある上司に思い切って訊いた。
「何かあったのですか? ここまで慌ただしくなるなど、尋常ではないことのように思えますが…」
普段は無口で何事にも動じないその上司は、しかし言葉を探すようにしばし黙し——やがて低く囁くように言った。
「……ADFという名を聞いたことがあるか、張少将」
張は眉を寄せた。聞いたことのない名称だった。
「Anti-Demon Federation―――対魔連邦と呼ばれる国際的な秘密組織だ。国家連合でもなければ、明確な国籍もない。ただし、奴らは“現実”を知っている。……世界の裏側で何が起きているのかを、だ」
張の理解は追いつかなかった。だが、その上官の次の言葉が全てを変えた。
「さっきそんな奴らがやられた。……大規模な襲撃だ。世界規模で展開する彼らの本拠地が壊滅しかけている。組織体系の崩壊も時間の問題だろう。……このままだと、境界の突破も時間の問題だ。」
境界? どこの国境のことだ? 誰が襲撃した? なぜ中国がそのことについて心配している? いや、そもそも「ADF」とは何だ?
疑問は次から次へと浮かんだが、その場ではそれ以上訊けなかった。
ただ、その日の出来事が張の中に火種を残したのは確かだった。
「世界の裏側」「存在しない組織」「異種存在」——。
結局その後自体は収束し、国内への影響も皆無だったのだが、その日から彼は、自らの手で調べ始めた。表には出てこない記録。消された作戦報告。衛星には映らない別次元領域。
そして、ついに気づいてしまった。この世界には、明らかに“別の戦場”が存在すると。
紅旗を結成したのは、そんな経緯があったからだ。表向きにはADFとは別の、異種存在に独自で対抗する組織だが、張自身は裏でADFと関わりを持ち、連携している。
正直、ADFは好きではない。むしろ嫌いであった。
秘密主義。選民思想。理不尽な犠牲を容認する姿勢。
そして何より、「民衆を守る」という原理から逸脱している」ようにすら見える、あの在り方。
彼らは、確かに強い。技術も、情報も、個の力も規格外だ。
だが、その力の多くは“選ばれた者たち”によって独占されており、それがかえって、張の理想と相容れなかった。
——ならばなぜ手を組んだのか。
それは、張天雄自身が現実を知っているからだ。
どんなに嫌悪しようとも、彼らADFがいなければ、すでに世界は“奴ら”に食われていた。
そして、中国単独では、この戦いに勝てないことも。
「信念と現実は違う」
そう言い聞かせて、張は“連携”という形でADFと接点を保っている。
だがやはり、中央政府はそれをよく思わないようだ。
ADFを目の敵にし、協定を結ぼうとせず、彼らに一切頼らずして魔族に対応可能にするため——その“国家独力”の象徴として紅旗の存在を許可した。
それにもかかわらず、そのトップである張天雄が水面下でADFと連携しているとは、彼らに言わせれば本末転倒であるらしい。
たしかに筋は通っている。
国家の自立、防衛権の堅持、他国への依存を拒む方針。
中国という超大国が、自らの手で脅威に立ち向かおうとする姿勢は、一見すればまっとうな誇りと矜持の表れだ。
だがそれは同時に、あまりにも理想主義的すぎた。
張は数え切れぬ戦場を知っている。
北方の凍土、南の密林、地底の闇、都市の瓦礫。
魔族と呼ばれる“異種存在”は、理屈も交渉も通じない。
命を、言葉ではなく力で奪いに来る。
そしてそれを止められるのは、力を持って戦う意志を持った者だけだ。
そしてそんな対立構造は、先日の事件から明確化した。
場所は長春近郊の集落。静かな寒村に突如として現れた異種存在が、わずか数時間のうちに村民およそ90名を鏖殺した。
現場は地上にもかかわらず、地獄のような痕跡が残されていたという。焼け焦げた人影、消し飛んだ壁、黒い泥のような血。
だが、その情報は政府によって報道されなかった。
異常な情報規制が敷かれる中で、事件の一報を最速で察知し動いたのは、紅旗部隊ではなく、一般の武装警察および人民解放軍の現地部隊だった。
現場は魔族の痕跡が明白で、通常であれば即座に紅旗の担当とされるはずだ。
それにもかかわらず、紅旗には一切の通達がなかった。
後になって得た報告によれば、現地に展開したのは、吉林省軍区直属の第24快速対応連隊。
その情報遮断と異様な素早さに、張は中央の意図を察した。
——紅旗を排除する方向で、事態を処理するつもりだ。
張にとって、それはただの侮辱ではない。
国家の、民の命を政治で弄ぶ愚行にほかならなかった。
ならば動くしかない。
彼は即座に決断した。
部下のひとり、曹辰偉中将を現地に派遣。
曹は、かつて特殊情報処理局に籍を置いていた叩き上げの将であり、
張が信頼する数少ない部下のひとりだった。
情報分析、即応戦術、地形戦における判断力——その全てにおいて秀でていた。
そして何より、国家ではなく、民のために引き金を引く覚悟を持った軍人だった。
だが今回、張はさらに一手を打った。極秘裏にADFから送られてきた兵士三名を同行させたのだ。
正式な外交ルートを通した派遣ではない。
中央政府には一切通さず、張の私的な接触ルートを通じて要請した、いわば“非公認の連携”だった。
そうして曹を派遣してから丸一日。
吉林省での軍の動きが異様に活発化したのを皮切りに、彼との連絡は唐突に途絶えた。
無線は沈黙し、追跡信号も切断。
監視ドローンが進入を試みるも、謎のジャミングにより一帯は“盲目地帯”となっていた。
そして——48時間後、現地の紅旗予備支部から報告が入った。
林道沿いに、曹たちが乗っていた車両が放棄されていたという。
ハイエース型の車両は焼かれ、黒煙の痕跡すら消されようとしていたが、
ドアフレームや車体下部には、明確に残された複数の弾痕があった。
使われていたのは、QSZ-92式拳銃弾、及びQBZ-191式自動小銃の5.8mm弾。
それはつまり——中国正規軍、あるいは武装警察のものだ。
敵は魔族だけではなかった。
張天雄は、今や明確に理解する。
中央政府は紅旗を排除しにかかっている。
そしてそのためなら、部下すら平然と犠牲にするのだ。
紅旗本部では、緊迫した空気が流れていた。
北京郊外、密雲水庫の地下深くに築かれた指令基地。表向きは気象観測所と偽装されており、航空写真にも映らないように迷彩処理と電子偽装が施されている。
地下四層、“鳴鴉”と呼ばれる戦略情報統制室では、十数名のオペレーターが走査スクリーンに釘付けになっていた。
「曹中将の部隊、応答なし——衛星通信、第2、第3チャンネルも不通」
「吉林省北部の電子波状況、依然として異常です。高出力のジャミングが広範囲に展開されており、民間通信も完全に遮断されています」
「……軍のものと断定するには証拠が不十分ですが、通常の妨害波ではないかと」
部屋の隅では、指揮幕僚たちが次々と報告を交わし、空気は張り詰めていた。
どの端末にも、吉林省・長春北部一帯の地図が映し出され、中心には真紅のマーキングが複数、重なるように点滅していた。
張天雄は、中央の席でその全てを黙って見つめていた。
やがて、参謀の一人が恐る恐る口を開いた。
「……司令。これほどの通信妨害が継続するというのは、吉林の地上部隊が意図的に動いている可能性が高いと考えます。同時に、現地の民間ネットワークも遮断されており、外部に何も伝わらないよう統制されています。つまりこれは……」
「やはり情報封鎖だな」
張は短く言った。語気は低かったが、室内の温度が数度下がったようにすら感じられた。
「紅旗に報告もなく軍を動かし、魔族の痕跡があるにも関わらず、内務部隊だけで封鎖を行う。それでいて曹たちとは連絡が取れない。車両は撃たれ、ADF兵も消息不明。……不穏でしかないな。」
参謀たちは息を呑んだ。
張の言葉は断定だった。これは敵対行動だ。
中央政府——あるいはその中枢の一部が、明確に紅旗を切り捨てにかかっている。
「……曹は、見捨てん。たとえ国家命令がどうあれな」
張はそう言い、立ち上がった。
司令席の背後にあったロッカーを開け、自らの戦闘服に袖を通す。
「総員、作戦コード『烈環』を発動する。吉林現地へ、最小構成で直接進入。制空権は望めん。衛星も封鎖される。ゆえに――今回は、俺が行く」
室内が一瞬静まり返った。
幕僚の一人が、戸惑いを隠せず言葉を発した。
「司令……。ご自身が前線へ出るのは……」
「曹は俺の部下だ。そして、今回の責任は俺にある。ADFの協力を仰いだのも、無断で出したのも、俺の独断だ。ならば、落とし前は俺がつける」
張の目には一片の迷いもなかった。
それは軍人としての義務ではない。
ただひとりの人間として、守ると決めたもののために動く決意だった。
「必要であれば、紅旗を解体してもいい。だが、俺の部下を、見殺しにはせん。……国家に属するのは俺の命であって、俺の魂じゃない。」
張がそう言った束の間、突如司令部に甲高い警報音が鳴り響いた。
「——ッ!?警戒レベル最大!緊急コード「黒土」発動!」
通信席の幕僚が絶叫した。
壁面パネルが一斉に赤に変わり、全館自動ロックが作動する。
「識別不明の発熱反応、北東ルートから接近中!台数、確認不能!……いや、これは——車列ごと!」
その言葉を皮切りに、地鳴りが始まった。
本部の天井——地上との昇降区画に直結したシャフトから、何かが叩きつけるような轟音を立てている。
張は小さく舌打ちをする。
「……来たか。中央の犬どもが」
「敵、識別完了!人民解放軍内務軍——第五管区直属特務連隊!通達なし、通告なし、これはもはや我が部隊に対する宣戦布告です!」
次の瞬間、地響きと共に爆音が鳴り響いた。
本部北端、シャフト区画の天井が内側から爆裂し、鋼鉄が捲れ上がる。
高圧ガスと共に閃光弾が数発投げ込まれ、制御室内に目も開けられない白光と爆音が襲いかかった。
「——伏せろッ!!!」
最初の一撃で、オペレーター2名が光衝の直撃を受けて即死。
爆風で吹き飛ばされたモニターが頭部を裂き、指揮官補佐が倒れる。
張は構わず跳ね起きた。
制圧音に紛れて敵兵が雪崩れ込む。全員が重武装兵だ。
QSZ-191式突撃小銃の三点バースト。即座に二人が喉と腹を撃ち抜かれて沈んだ。
「全員、烈環作戦を継続!脱出口へ向かえ!」
張は倒れた部下の拳銃を拾い、反転射撃。
入り口から顔を出した敵兵のヘルメットに一発で風穴を開ける。
「俺が最後尾を守る!副通気区画を開けろ、黒河を使う!」
そのとき、副司令の呂少華が別ルートから現れた。
軍用バイザー越しの目に迷いはない。
「張司令、行け。ここは俺が預かる。脱出を確実にするには、囮がいる。」
「……死ぬなよ」
「死んでも、紅旗は残す」
張と呂は言葉を交わす暇もなく別れた。
廊下はもう、戦場だった。
白壁に硝煙の痕と焼け焦げた血の跡が広がっている。
照明は落ち、非常灯だけが点滅。
紅旗の若い技術将校たちが、銃を取って応戦するが、相手は訓練された制圧部隊。
弾丸は容赦なく胸を貫き、敵は言葉ひとつ発さず、機械のように確実に掃討してくる。
「くそっ……!」
情報局の副官が肩を撃ち抜かれながらも、手榴弾のピンを抜き、自ら敵陣のど真ん中に飛び込んだ。
爆発。
煙と熱風の中を、張たちは走った。
数分後。脱出ルートの通気シャフトに到達。
紅旗には、事態が最悪の方向へ進んだ際に備えて秘密裏に用意された地下脱出トンネルが存在していた。
張自身が設計段階から関わり、偽装通気口、封鎖用自爆ボルト、外部通信遮断解除装置まで備えた緊急ルート——
北京郊外から長城地下へと抜ける約9kmの人工トンネル、黒河。
残された時間はわずか。
張は後ろを振り返った。
……その背後で、本部が崩れるように沈黙していくのを、彼は見届けた。
それは、国家の命令によって破壊された、彼の仲間たちの墓標だった。
「……行くぞ。曹が待ってる」
14名の生存者を率い、張天雄は闇の中へ走った。
長春へ——まだ、終わっていない戦場へ。
***
中南海地下第七管制棟。
そこは政治でも外交でもなく、粛清と抹殺だけを専門に扱う、沈黙の中枢だった。
黒い鉄扉が閉まる音が響く。
薄暗い照明の下、人民解放軍内務軍 第五管区 総指揮官・藺鋒中将は机に背を向けたまま、壁面の作戦投影画面をじっと見つめていた。
【作戦“青焰”実行中】
【突入部隊、紅旗本部制圧率82%】
【通信網、全遮断。データノード破壊完了】
【紅旗、国家記録より削除済】
背後からの報告に、藺は一切の返答を返さない。
ただ、右手に持った黒革の手帳をパラリとめくる。
書かれているのは、赤文字で記された14のコードネーム。
——【対象未抹消:14名】
——【張天雄、生存確認】
「…………」
沈黙の後、藺はようやく口を開いた。
だが、その声音には一片の激情もなかった。
まるで法律条文を読み上げるように、感情のない声だった。
「命令通り、張天雄は“失踪”とする。国家に反した指揮官は存在しなかった。紅旗という部隊も、初めからなかった」
「はい。公式発表は“軍施設における爆発事故”に統一しました。だが、問題は——」
「生存者14名。全員、処理対象」
藺は振り返った。
その顔には怒りも戸惑いもない。
ただ汚れひとつない制服と、磨かれた軍刀の鞘。
一秒の揺らぎもなく、処理命令を下す顔だった。
「張天雄の思想は、彼一人殺しても終わらん。紅旗が国家の命令に従わず、他国勢力と通じたとなれば、それはもうウイルスだ」
「感染源を丸ごと絶たねば、国は死ぬ」
側近の少佐が、おそるおそる口を挟んだ。
「……ですが、司令官。張天雄はかつて将軍閣下と同じ戦区に――」
「記録を焼却しろ。張天雄との過去の接点は存在しない。感情で殺せる相手ではない。これは排除だ。“感情で躊躇する者”から先に死ぬのが内務軍の掟だ」
藺は無線を開いた。
「鷹紋部隊、作戦更新。張天雄以下14名を追え。吉林進路を遮断しろ。手段は問わん。痕跡を残すな。これは戦争ではない。掃除だ。」
【了解】
電子音のような無機質な返答が返る。
藺は机に戻り、冷たく小さく呟いた。
「秩序は人を選ばない。死ぬのが正しいなら、それが正義だ」
再び沈黙が、司令室を満たした。
その男には、正義のために殺すという概念すら存在しない。
彼が信じているのは、ただひとつ——命令の存在する国家だけだった。
続く…




