25話 中国・吉林省 - 5 -
午後の光が霧に溶ける山中、泥と岩の斜面を滑るように駆け下りた先、直弥たちはようやく目的の「廃村」とされる場所へとたどり着いた。
だが、村の入り口に立った瞬間――全員が無言で足を止めた。
「……軍用車両……」
沙紀が低く呟いた。
視線の先、朽ちかけた村の広場に、緑の軍用トラックが三台、さらに少し離れて装甲車両が一台、無造作に停められていた。全て、人民解放軍の制式装備だ。車両の横には、折りたたまれた展開式アンテナや野営用の資材まで散乱している。
だが――人の気配がない。
エンジン音も、交信音も、見張りの兵の姿すらない。
まるで“時間”だけが抜き取られたように、村は異様な静寂に支配されていた。
「……おかしい、これは。どう見ても部隊規模の展開だろ、なのに……」
白伊が低く唸るように言い、すぐさま銃を構えて姿勢を低くした。直弥も沙紀も即座に警戒態勢を取り、村の入り口からそっと一歩ずつ進んでいく。
踏みしめた土はまだ湿っていた。雨は夜半には止んだはずなのに、ここだけが妙に冷たい。
「直弥くん、あれ……」
沙紀が小声で示したのは、トラックの荷台部分。シートが半ば剥がれ、そこから何かが垂れ下がっていた。……腕だった。軍服に包まれた、血まみれの、すでに色の抜けかけた腕。
「……死体、か」
直弥が唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
白伊が最も近くの装甲車にそっと近づき、ドアを開く。だが、開けた瞬間、内側から鈍く重い音がして、ひとつの身体がどさりと転げ落ちてきた。
「っ……!」
思わず直弥が駆け寄ると、地面に倒れたのは兵士だった。頭部には焦げたような穴が開いている。焼け焦げた血が首から胸へと広がり、目は大きく見開かれたまま、死の瞬間の恐怖を物語っていた。
「これは……内部から破裂したような損傷……銃創じゃない……」
沙紀が顔をしかめながら、死体を慎重に観察した。その表情はどこか青ざめていた。
直弥は、車両の内部へと目を向ける。そこにはまだ二体、同様の死体が転がっていた。どれもが無防備で、武器は手元にあるのに、撃った形跡がない。何かに襲われ、瞬時に壊されたかのようだ。
「戦闘じゃない。まるで……殺戮だ」
白伊が冷ややかに告げる。その声に、曹が無言で頷き、顔をしかめて鼻を鳴らした。
「……瘴気、かすかにある。半日か、一日前くらい……」
その瞬間、空気が一段と冷えたように感じた。
「魔族、だよな……」
直弥の声がかすれる。脳裏に蘇るのは、模擬戦でさえ見たことのなかった、本物の死の光景。焼けた肉の匂い。血の乾いた鉄臭さ。ざらついた空気が喉を掠める。
「……直弥くん、下がって」
沙紀が彼を庇うように一歩前に出た。
周囲を見回すが、やはり人の気配はない。だがその“なさすぎる”という異様さが、逆に何かが隠れているのではないかという妄想を膨らませてくる。
「……どういう状況だ、これ」
直弥が声を絞り出すと、曹が低く答えた。
「たぶん、罠。部隊、ここに来た時点で、すでに魔族、気づいてた。……いや、呼び寄せられた可能性も、ある」
「呼び寄せられた……?」
沙紀が眉をひそめた。
「あくまで、可能性。―――しかし瘴気の広がり、不自然。まるで意図的に、ここを中心に展開されたような分布。」
全員が押し黙る。
――これはただの“襲撃現場”ではない。明らかに、なにか別の“意志”を孕んでいる。
「……白伊」
直弥が小声で声をかける。
「次は、どう動く?」
白伊は視線を村の奥に向けながら、低く答えた。
「まずは、この部隊の所属と目的を調べる。もし奴らが何か追っていたのなら、俺たちも同じルートを辿る必要がある。だが……」
「……?」
「…いや、なんでもない。ただ急いだ方がいいかもしれない。」
彼は静かにそう言った。
廃村の奥へと、足音を立てぬよう慎重に進む。耳を澄ませば、風にきしむ木造の軋みと、わずかな獣の遠吠えのような声が、時折、闇に紛れて響く。
「……あれは?」
白伊がしゃがみ込み、地面を指差した。血の跡だった。すでに乾きかけてはいたが、泥土の上に小さな点々が続いている。それは、集落の奥――かつて役場か詰所のようだった古びた建物の方へと伸びていた。
「逃げた……いや、引きずられた痕かも」
沙紀が言うと、曹が頷いた。
「たぶん、最後の抵抗がこの辺りで起きた。戦闘は極めて短時間。……奇襲だ。普通の魔族じゃない。知能がある、しかも戦術を理解してる個体だ」
「…上位種」
直弥の言葉に、全員が黙った。
上位種――魔族の中でも特に知能が高く、言語・戦術・自己保身能力を持つ個体。俗に言う帝家の血に近い魔族だ。通常のオリオン小隊では対処不可能とされ、四堂または特殊部隊の展開が必要とされる。
「……それがこんなとこに出たのかよ……」
白伊が毒を吐くように低く言った。
その時だった。
――カシャン。
何かが落ちた、小さな金属音。
全員が即座に身を伏せ、銃口を音のした方向へと向ける。直弥の心臓が高鳴った。息を殺し、耳を研ぎ澄ませる。
……しかし、音の主は現れなかった。
「……カラス、か」
沙紀がぽつりと呟いた。見上げれば、壊れかけた街灯に一羽の黒い影が止まり、赤い目を光らせている。異常なほどに静かなその動きに、直弥は嫌な寒気を感じた。
「……やっぱり、何かおかしい。この村は……ただの戦場じゃない」
白伊がそう言った直後だった。
突如、村の奥から“声”が聞こえた。
「――あぁぁぁ……ぁあ……ッ」
呻き声。人間の、それも“今も生きている”者のものだ。
「生存者!?」
沙紀が目を見開いた。直弥も即座に立ち上がろうとしたが、白伊が手で制した。
「……待て、罠かもしれん」
呻き声は、先ほどの詰所からさらに奥――かつての共同作業所だったであろう、小屋の方角からだ。薄く開いた扉の隙間からは、どこか生温い風が吹き抜けていた。
「……けど、確認しないわけにはいかないよ」
直弥が銃を構えながら進み出ようとすると、白伊が短く言った。
「じゃあ俺が先に行く。お前は二番。沙紀はカバー。曹は後方警戒。……いいな」
一行は頷き、息を呑んだままゆっくりとその小屋へと近づく。
湿った床板、壊れた窓枠、そして――扉。
白伊が、そっとその取っ手に手をかけた。
ギィィ……。
軋む音とともに、扉がわずかに開いた。
中は、暗かった。いや、“異様に”暗かった。まるで空間そのものが濃密な闇に包まれているかのような、不自然な暗さ。
直弥は一歩足を踏み入れ――
「……っ!」
鼻腔を衝く、強烈な腐臭。
「中に……いる……」
沙紀の声が震える。
薄暗がりの中、直弥の目がある“人影”を捉えた。
鎖に繋がれ、ぐったりと項垂れた軍服姿の男――まだ息はある、だが、その体からはうっすらと瘴気が立ちのぼっていた。
「……感染してる。けど、まだ変異はしていない」
沙紀が冷静に分析する。すると曹が、青ざめた顔でこういった。
「…実験場。」
その言葉に、誰もが返す言葉を失った。
「…え?実験場?」
直弥はそう鸚鵡返しした。曹は口をつぐむように一瞬だけ逡巡したが、やがて固く結んだ唇を開いた。
「瘴気、あまりにもわかりやすい。そして……制御、されている形跡、ある。自然発生の魔族汚染、こんなふうに段階的感染、ならない。これは――意図的に感染、観察されてる。」
直弥の喉がかすかに鳴った。理解が追いつきかけて、足元がふらついた気がした。
「……つまり」
「……そう、魔族の瘴気感染がどこまで進行するか、どの条件で魔族化が起こるか……そういう観察、してた可能性、高い。」
沙紀の表情が一瞬だけ揺らいだ。けれど、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、繋がれた男に視線を戻す。
「生きてるうちに、観察対象として……兵士たちは“使われて”たってこと?」
曹は黙って頷く。
「どうしてそんな……誰がそんなことを……」
白伊が苦々しく呟き、額に手を当てる。怒り、苛立ち、そして嫌悪――感情がごちゃ混ぜになったような瞳。
だが、直弥はそこからさらにもう一歩、嫌な考えに思い当たっていた。
「……監視されてる、ってさっき言ったよな」
沙紀が振り返る。曹も眉をひそめた。
「もし……これが“偶然の事故”じゃなく、“実験対象への侵入者にどう対応するか”を見る目的だったとしたら……」
「みんな伏せろ!!」
白伊が叫んだ。皆の警戒心が一瞬で最高潮にまで高まった途端、
――パンッ!
外から、乾いた破裂音のような銃声が響いた。
即座に身を固くする。次いで、連続する重機の足音――いや、それだけではない。地面そのものがかすかに震えていた。
「……戦車」
曹が、顔面を蒼白にして呟いた。
村の外から、人民解放軍のものと見られる兵士たちが進軍してきている。しかし――その動きはあまりに異常だった。隊列を無視し、無言で、無秩序に村へと侵入してくる。彼らの顔は黒い瘴気に包まれ、眼孔だけが光を失ったように鈍く沈んでいた。
「魔族化してる!?」
沙紀の叫びが、雨上がりの重たい空気を切り裂いた。
直弥が振り向いたその先、廃村の朽ちた倉庫の影から、黒い影が三つ、ぬるりと現れた。
それは、かつて人民解放軍の兵士だったもの――いや、“その殻”だった。
軍服は半ば溶け落ち、露わになった皮膚は墨を流したように黒く染まり、異常に肥大化した筋肉が不自然な角度で盛り上がっている。顔には人間の面影はなく、ただ裂けた口と、無数の眼孔のような瘴気の穴が瞬いていた。
「おい、嘘だろ……!」
白伊が舌打ちしながら銃を構える。
そうだ。思い返せばおかしかった。軍用トラクター、装甲車、テント、炊事道具、医療器具……生活の痕跡は明らかに50人以上分残されていた。
だが、彼らが集落に到着してから目にした兵士の“遺体”はせいぜい10体。残りはどこへ消えた?
――答えは今、目の前にある。
「残りの奴ら……あれ、全部、魔族になってる……!」
直弥の声が震えた。震えて当然だった。これまで自分たちが相対してきた魔族とは異なる。これは“人間”から変じた存在。かつて言葉を持ち、意志を持っていた者が、“意志を手放して化け物にされた”結果だった。
雨に濡れた地面を踏み鳴らし、集落の裏手から別の“殻”たちが姿を見せていた。その数はさらに増えている。廃村の闇に潜んでいた奴らが、音と気配に誘われて一斉に動き出しているのだ。
「囲まれるぞ!」
白伊が叫び、弾丸を放つ。轟音と共に一体が倒れるが、すぐさま別の“殻”がその上を踏みつけて迫ってくる。
直弥は無我夢中で引き金を絞った。心が崩れそうになるのを、必死で押し殺しながら、直弥は叫んだ。
「沙紀、後ろからも来る! 挟まれるぞ、どこか高い位置に――!」
「倉庫の二階! はしごが残ってる、急いで!」
彼女の声に従い、曹が荷物を担ぎ直して駆け出した。
白伊が最後尾で射線を確保しながら叫ぶ。
「早くしろ、俺が後ろ抑える! 一匹でも登ってきたら終わりだぞ!」
直弥は、どれだけトリガーを引いたかもうわからなかった。薬莢が熱を持って落ちるたびに、命の境界が曖昧になっていく。
白伊が駆け出そうとした、その時。
――グシャ。
鈍く濡れた音が響いた。
「――!」
直弥が反射的に振り返る。そこには、さっきまで項垂れていた軍服の男がいた……はずだった。
だが今、そこにあったのは“人間の姿を捨てた”何か。
膨れ上がった筋肉。破裂しかけた皮膚から滴る黒血。首があり得ない角度に曲がり、顔面の半分は陥没し、もう半分は歪に笑っている。
そして鎖――それは、今や床に千切れて転がっていた。
「くるぞッ!!」
白伊が咄嗟に叫ぶが、その魔族化した男の動きはそれよりも速かった。
――ザッ!!
一瞬で距離を詰め、はしごを登っていた沙紀の肩に鋭い腕が迫る。沙紀はかろうじて身を引くが、服が裂け、肩に浅い傷が刻まれる。衝撃ではしごが音を立てて外れ、彼女はバランスを崩して曹とともに地面に落下した。
直弥は地面を転がりながらQBZ191を構え、照準を“殻”の歪んだ顔面に合わせる。
(動きが速い……でも、迷ってる暇なんてない!)
引き金を引く。
弾丸が直撃し、“殻”の頭が仰け反る。しかし、それでも倒れない。
「頭じゃない!? どこを撃てば――!」
「胸だ!」白伊が叫ぶ。「心臓の位置に“核”が残ってる、そこを抜け!」
「了解!」
直弥は歯を食いしばり、再び照準を修正する。
迫る巨体、その腹部にわずかに浮かぶ、禍々しい紫光の瘴気――そこだ。
――パンッ!
乾いた銃声。
次の瞬間、“殻”の腹が爆ぜ、黒煙が吹き出す。
「――やったか!?」
“殻”は絶叫を上げながら膝をつき、ついでにぐらりと崩れ落ちた。
だが、誰も気を抜かなかった。
その体が完全に動かなくなるまでの数秒、全員が引き金に指をかけたまま、次の脅威を警戒していた。
やがて、“殻”の体から瘴気が抜けるように消え、静寂が戻ってくる。
「……っくそ、気を取られすぎた……!」
直弥は銃口を下ろしながら、自分の震える息を整えた。目の前で死にかけていた“人間”が、魔族に変じて牙を剥いた――その事実が、じわじわと胸を締めつけてくる。
沙紀が、静かに言った。
「……これが、“殻”の本質。魔族の瘴気が、肉体だけじゃなく魂を壊していく証拠。」
白伊が怒鳴るように叫んだ。
「入口ももう持たない!早く行け!」
その言葉に反応するように、廃村の外から再び爆音が響いた。
装甲車の主砲が再び火を噴いたのだ。コンクリ壁が爆ぜ、破片が雨のように降り注ぐ。
「くそっ……時間がない!」
沙紀が即座に周囲を見回し、背後の崩れかけた壁に目を留めた。
「直弥、あそこ! 抜け道になるかも!」
直弥は無言で頷き、足元に転がる“殻”の死骸を飛び越えて駆け出す。銃を構えたまま、壁の隙間に体を滑り込ませた。
「っ……ああ、ダメだ、道が塞がれてる!」
白伊が唾を呑むように叫んだ。
裏手、木立の出口には、既に魔族化した兵士らが回り込んでいた。銃を持っている者もいれば、すでに武器を放棄し、両手に瘴気を纏って突進してくる者もいた。
「クソが……!」
白伊が即座に応戦体勢に入る。だが敵の数が多すぎる。銃弾が足りない、遮蔽物もない、退路も限られている。
そのとき――
「行け!」
曹の声が轟いた。すでに片足を引きずっていたはずの彼は、工場の隅に置かれていた旧式のガソリンタンクに走り寄り、手にしていた小型グレネードを迷わず投げ入れた。
――カチッ。
「曹さん!? 何やって……!」
沙紀が叫ぶ。だが、もう遅い。
「ここに残る。あとはお前たちで報告、完遂しろ。」
直弥と白伊が同時に動こうとするが、曹は銃を突きつけるように腕を伸ばした。
「行け!! ……頼んだぞ、未来の兵士たち!」
次の瞬間、爆音が大地を揺らした。
タンクが炎を噴き、次々に誘爆を起こす。爆風は曹や魔族化した兵士たちを吹き飛ばし、山間の空気を血の臭いと黒煙で満たした。
「……っ、嘘、だろ……」
直弥は地面に伏せながら、爆風の向こう――黒煙の渦の中に、曹の姿がもうないことを悟った。
「今しかない! 走れ直弥!」
白伊が怒鳴り、沙紀が無言で手を引いた。
炎と硝煙の壁を背に、三人はようやく森の斜面を滑り降りていく。
誰も振り返らなかった。
振り返れば、曹の決断を無下にしてしまう気がした。
続く…




