24話 中国・吉林省 - 4 -
夜も更け、辺りは濃密な暗闇に包まれていた。
直弥たちは斜面を滑り落ちるようにして山奥を逃げ延び、太陽が西に沈みきった頃、小さな岩の裂け目にたどり着いた。そこは風雨をしのげるだけの、ささやかな洞穴だった。
今夜は、そこで一夜を明かすことになった。
焚き火の炎が、湿った空気の中でかすかに揺れている。薪は湿っていて、勢いよく燃え上がることはなかったが、それでもわずかな光と熱を与えてくれていた。
曹と白伊は、その火のそばで岩壁にもたれ、眠っていた。泥に塗れ、擦り傷と打撲で覆われたその身体。右脚や肩に巻かれた赤黒い包帯が、彼らが今日生き延びた激戦の記録そのものだった。
外は、まるで空が怒りをぶちまけるかのような土砂降り。洞窟の入り口では、滴った雨がポタリポタリと規則的に落ち続けている。
「……明日、どうなるんだろうな。」
直弥の呟きは、雨音に溶けていくかに思えた。だが次の瞬間、その隣で、ふわりと誰かが膝を抱えて座った気配がした。
「それ、さっきも言ってたよ。」
振り向くと、沙紀がいた。濡れた前髪を払い、焚き火の光に照らされたその表情は、どこか穏やかで、どこか切なげだった。
「……聞こえてたんだ。」
「うん。というか、さっきからずっと考え事してそうな顔してたもん。分かりやすいんだから、直弥くんって。」
そう言って、沙紀は膝を抱えたまま体を少し横に傾け、直弥の肩にもたれかかるようにして座った。
「こんなふうに、雨の中で焚き火囲んで……って、昔ならちょっとした青春っぽい感じだったのかもね。」
「……今は?」
「今は……ねえ。生き延びるための足止めって感じかな。」
少し苦笑して、沙紀はぽつりと言った。
「今日だって、あと少しタイミングが違えば、私たち、もうここにいなかったかもしれない。」
「……うん。」
直弥の返事は短く、それでもどこか重いものを帯びていた。膝の上の手を、少しだけ握りしめる。
「沙紀さんは……怖くなかったの? ああいうの。」
「だから前も言ったじゃん、怖くないわけないって。」
沙紀はすぐに答えた。その瞳には、はっきりとした光があった。
「でもね、私たちがやってるのって、きっと誰かの“普通の日常”を守ることだと思ってる。直弥くんが、初めてあの訓練場で突っ込んでいったときみたいにさ。」
「……守る、か。」
「うん。誰かの生活とか、誰かの笑顔とか。自分じゃ直接知らない誰かのことでも、守れたって思えたら……少しは救われるでしょ? そのためにも、私たちが戦わなきゃ。」
直弥は黙ってうなずいた。その肩に、沙紀の小さな体温が伝わってくる。
焚き火の火が少しだけ揺れた。雨は相変わらず激しく、遠くでは雷鳴のような音が一瞬鳴り響いたが、それでもこの小さな洞穴の中には、奇妙な安堵の時間が流れていた。
「…少しだけ、昔話してもいい?」
沙紀がかすれた声で静かに呟いた。
「何?」
少しの沈黙、そして沙紀は覚悟を決めたように口を開いた。
「―――私の、話なんだけどね。」
***
あの日のことは、今でも覚えている。
閉ざされる重厚な扉、耳の中で響く私の必死の涙声――その制止の声を振り払うように、堪えるように、それでもどこか、悲しげに小さくなっていく軍服姿の母の後ろ姿。
母――三田磊は、とにかく優しい人だった。誰に対しても平等に善意の笑みを振りまき、尽くし、そして家では、娘である私にだけ見せる柔らかな目を持っていた。
母は、とにかく強い人だった。幼い頃は教えてくれなかったので知らなかったが、彼女は前前代の玄武隊八間だったと、私が充分に成長した頃、大人から教えてもらった。
母は、とにかく美しかった。柔らかな黒髪をいつもひとつにまとめ、薄化粧すらしないのに、どこか凛としていて――佳人卿を絶世の美女とするならば、彼女は凛然たる美の体現だったと思う。
母は、とにかく私にとっての憧れだった。希望だった。そして同時に、どこか畏怖の対象でもあった。戦場に咲く一輪の花のように、ただ黙々と、誰にも媚びず、自らの信じる正義のために生きる。それがあまりにもまっすぐで、あまりにも真剣で、あまりにも「自分を省みない」生き方だったから。
だからあの日も、母は自身を止めることができなかったのだ、と今になって思う。炎に包まれる生まれ育った街、そこら中で聞こえる断末魔、蔓延る醜い魔族、飛び散る血、燃え盛る炎、散らばる血、血、血……。
耳をふさいでも、目を瞑っても、助けを訴えても、叫ぼうとも、その地獄はべっとりと頭に張り付いて離れてくれなかった。
そんな生き地獄の中、母に抱えられ逃げ延びた緊急用シェルター。彼女は私を引き離して近くにいた大人に私の身柄を預けると、いつものように頭をぽんぽんと優しく叩き、いつもの優しい笑みを向けてくれた。
―――『ごめんね沙紀。お母さんはね、今からやらなくちゃいけないことがあるの。』
―――『またお外行くの? …やだ、外、怖いお化けいっぱいいた。お母さん、お化けに呪われちゃう。』
―――『大丈夫よ、あれはお化けなんかじゃない。でもね沙紀、私は――』
母は一瞬だけ、言葉を止めた。
その目が、まるで遠い場所を見ているように細められていたのを、今でも覚えている。
―――『私は、あれを止めなくちゃいけない。……これは誰かがやらなきゃいけないことなのよ』
そう言って、母は微笑んだ。いつも通りの、優しくてあたたかな、あの笑みで。
―――『やだ、やだ!やだ!!一緒にいるの!!沙紀といっしょにいるの!!離れ離れなんてやだ!!!』
私は泣きながら、首を振った。怖かった。ただただ怖かった。
「やだ」「いかないで」「一緒にいて」「お母さん」――何度も、何度も言葉にした。
母は、一度も首を横には振らなかった。
それどころか、最後はぎゅっと私を抱きしめて、耳元でそっと囁いた。
―――『大丈夫よ沙紀、すぐ帰ってくるから。ほら、指切り。』
私は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、震える手で母の小指に自分の指を絡めた。
―――『指切り、げんまん。嘘ついたら――』
―――『針千本、飲ます。……なんて、ね』
母はそう言って、ふわっと笑った。あの笑顔が、私の記憶に焼き付いて離れない。
あたたかくて、優しくて、でもどこか――遠い顔だった。
指と指がほどけるとき、まるで心の一部がちぎれたような感覚だった。
立ち上がった母は、絶望に暮れる大人たちをひとりひとり慰め、涙する者の背をさすり、怯える子供を優しく抱きしめていた。
そのあと、周囲の静止を押し切って、ゆっくりとシェルターの扉を開けた。
燃える空の向こうへ。血と炎と絶叫の渦の中へ。
私は叫び続けた。喉が潰れても、息が切れても。
でも、母はもう振り返らなかった。
そしてその日、母は初めて私に嘘をついた。
***
「……。」
直弥は押し黙るしかなかった。
慰めの言葉も、同情の一節も、すべてが安っぽく思えた。
それほどまでに、沙紀の語った記憶は、胸にずしりと残るものだった。
ただ、小さく息をついた。
焚き火の音だけが、雨音の合間を縫って耳に届く。
「あの後、身寄りのなかった私は知り合いに保護されたけど、気づけば兵士になってた。」
人差し指を思い出すように撫でながら、沙紀はぽつりと呟いた。
その声は、涙を含んではいなかった。けれど、その静けさがかえって胸に刺さる。
焚き火の揺らめきが沙紀の頬を照らし、暗がりの中で彼女の表情を淡く浮かび上がらせる。まるで、その光だけが彼女の過去を抱きしめるように。
「…私がオリオンに入ったのは、お母さんの復讐のためじゃない。多分あの人はそれを望んでないって、何となく分かる。それどころか、オリオンにすら関わってほしくなかったんじゃないかな、って。お母さんは一度も仕事について私に語らなかったから。」
ただ、焚き火の揺れる音と、風が洞穴の入り口をかすめる音だけが耳に届く。
「あの人は、いつも普通の母親を演じてた。どれだけ忙しくても私の隣にいてくれた。軍服なんて絶対に見せなかった。ずっと、あの人は優しい“母親”でいてくれたの」
彼女は一度、小さく呼吸を整えた。
「だから…私がここにいる理由は、きっと“戦うため”じゃない。“意味を知るため”なんだと思う。13年前のあの日、お母さんが背負っていたものを、一部でいいから私も見て、触れて、ちゃんと自分で考えたくて」
沙紀はそれ以上何も言わず、静かに手を膝に重ねてうつむいた。
直弥はしばらく彼女の横顔を見つめ――そして、ごく自然な動きで、自分の上着を脱ぎ、そっと沙紀の肩にかけた。
「…ありがとう。やっぱり優しいね、直弥くんって。」
俯きつつも、沙紀はどこか照れたように、けれど優しい声色でそう呟いた。
直弥は、火の粉がぱちりと弾ける音に合わせるように、ゆっくりと視線を落とす。
照れ隠しに、そっぽを向いて短く息を吐いた。
「……優しいんじゃないよ。ただ、放っとけなかっただけ。」
そう言いながら、火にくべた枝を突いて火を少し大きくする。
湿った空気の中で、焚き火の光がほんの少しだけ強くなり、沙紀の横顔が柔らかく照らされた。
「ううん、直弥くんは優しいよ。」
沙紀は、小さく笑った。
外ではまだ雨が降り続いている。冷たい闇の中、二人の沈黙はどこか心地よく、焚き火の揺らぎと共に、しばしの安らぎを洞窟に与えていた。
「…ごめんね、しんみりさせちゃった。明日も早いし今日はもう寝よっか。」
焚き火の炎が、しばし小さく揺れた。そう言った沙紀だがその場から動く気配はなく、そのまま膝を抱えるようにして静かに目を伏せる。
直弥はしばらく彼女の横顔を見ていたが、やがて目を閉じた。
(……強い人だ)
その言葉が、胸の内で静かに反響する。
風が洞窟の入り口を撫でていく。外の雨音は次第に弱まり、代わりに焚き火の木がはぜる音だけが残った。
直弥は仰向けになり、目を閉じた。
身体は重く、瞼も熱い。だが胸の奥には、不思議な安らぎがあった。痛みも、恐怖も、すべて遠のいていくような静けさのなかで――
直弥は、深い眠りへと落ちていった。
***
静かな鳥のさえずりが、洞窟の外から微かに聞こえる。雨はすっかり止んでいた。朝靄がわずかに立ちこめる薄暗い森の中、しっとりと湿った空気が肺を満たす。
「……ん、朝?」
直弥はゆっくりと目を開けた。昨夜の疲れが完全に癒えたわけではない。だが、身体の重さとは裏腹に、頭の中は妙に冴えていた。
焚き火の残り火がかすかに赤く光り、炭となった木々の間に細い煙が漂っている。沙紀は少し離れた岩にもたれ、目を閉じていた。眠っているのか、それとも起きているのかは分からない。白伊はすでに目を覚まし、曹と共に洞窟の入り口で何かを話しているようだった。
直弥はそっと身を起こす。昨夜の沙紀の話が、まだ胸の中で静かに残響していた。あの痛みと優しさの入り混じった声を、忘れることはできなかった。
「13年前のあの日」、それがなにかはわからなかったが、沙紀にとって、何かを選び、背負い、歩き続けるきっかけになったことだけは、よく分かった。
深い喪失を経験しながら、彼女は誰にも押し付けずに、ただ静かに「意味を知るため」にこの道を選んだ。それはきっと、何よりも強い意志だった。
直弥は立ち上がり、少し体を伸ばしてから、洞窟の入り口へと向かった。そこでは白伊と曹が、地図を見ながら低く話し込んでいる。
「――もう、動くんですか?」
直弥がそう尋ねると、白伊はちらと彼の方を見て、短く頷いた。
「敵の追跡が完全に切れた保証はない……だが、昨日の足取りから見て今が動くなら最適なタイミングだ」
曹も無言で頷き、地図を指さす。
「この先、山越えれば廃村。十年前に炭鉱事故、廃れた場所、今は使われていない。目的の集落はまだまだ距離がある、しかしそこで休憩や補給、できるかもしれない。……連絡、取れれば」
「まだ、ジャミングは?」
「分からない。ただ昨日ほど強くはない。可能性、ある。」
直弥は一瞬、焚き火の方へ視線をやる。
沙紀がまだ岩にもたれ、目を閉じたままだったが、風に髪がわずかに揺れた。
(……今度は、俺が)
そんなふうに、自然と胸に湧いてきた思いを、そっと胸に抱えて、直弥は岩肌に立てかけてあった装備を手に取った。
今日もまた、未知と危険に満ちた道を進まねばならない。
けれど昨夜の静かな焔は、確かに彼の中に、小さな光を灯していた。
その光は、まだ弱い。けれど確かに、前を照らしてくれている。
続く…




