23話 中国・吉林省 - 3 -
鉄条網を抜け、廃工場内へと入る。錆びた鉄骨と剥がれ落ちた外壁、瓦礫と油の臭いが混じった空間に、直弥たちはすぐに身を伏せた。
「ここ、敵からの視線切れる。しばらく持つ」
曹が息を切らしながら言った。額には汗が滲み、眼鏡が曇っている。
「あれ、白伊は――っ」
言いかけて、直弥は言葉を詰まらせた。遅れて飛び込んできた白伊の肩口が、赤黒く染まっていた。
「……掠っただけだ。問題ない」
荒い呼吸を抑えながらも、白伊は自分で傷を確かめ、手早く包帯を巻く。
「おい曹、ここには他に出入り口あるのか?」
「ある、裏手にひとつ。だけど、塞がってる、たぶん使えない」
「なら、ここで持ち堪えるしかないってことか……」
白伊の視線が、無言で直弥に向けられる。敵は人民解放軍。しかもジャミングまで使っているとなれば、ただの掃討部隊ではない。ADFの動きが完全に読まれているのだ。
「くそ……」
直弥は思わず拳を握った。歯の根が合わないほど、悔しさと不安が喉を締め付ける。
「……八幡。お前、撃てるんだろうな」
白伊が低く言った。
「え?」
「ここで黙って見てるだけなら、さっさと後ろで震えてろ。あの模擬戦で勝ったくらいで気取ってんなら、足引っ張られる前に撃ち捨てるぞ」
言葉は鋭く、容赦がない。
直弥はゆっくりと顔を上げる。その目に宿る光は、恐怖だけではなかった。
「……撃てる。俺にできることは、死ぬ気でやる」
それが精いっぱいの返答だった。
白伊はふんと鼻を鳴らすだけで、それ以上何も言わずにライフルを構えた。彼にとっては、言葉よりも弾丸の方が信頼できるのだ。
曹が荷物の中から地図らしきものを引っ張り出す。
「今はここ、長春市の北西端。援軍が来るとしても、ここ山奥。道も途切れて戦車など入ってこれない。入れるとしても小さなテクニカルくらい。だから敵、おそらく歩兵で押してくる。来るとしたら正面の窓か、2階の梁から入ってくる。だがここ、遮蔽物少ない。撃ち合いなら……劣勢」
沈黙が、じわじわと全員を圧迫していく。
――そして、その沈黙を裂くように。
遠く、土を踏み鳴らすような、複数の足音が響き始めた。
「……来たか」
白伊が低く呟き、ライフルのボルトを引く音が、やけに重く空間に響いた。
曹は地図を畳み、目だけで外の気配を追う。その顔に浮かぶのは戦慄というより、慣れ切った覚悟だった。
「足音、七人以上。散開してる。全員、プロだ」
沙紀が言う。ゴーグルを下ろし、スコープ越しに窓の外へ銃口を向ける。
直弥は無意識に喉を鳴らした。汗がこめかみを伝い、背筋に冷たい感覚が這い回る。だが彼は、背中の銃を外して、震える手でチャージングハンドルを引いた。
――模擬戦とは違う。これは、本物の戦場。
「八幡」
突然、白伊の声が飛んできた。鋭く、短く。
「お前、梁の真下。奴らが飛び込んできたら撃て。……外すなよ」
その視線は、信頼ではない。ただの命令だ。
直弥は何も言わず、頷いてその位置に走った。崩れかけた棚を遮蔽にしながら、窓と梁が同時に見える場所。沙紀が隣で小さく息を吐く。
「緊張してる?」
「……してる。けど、止まったら終わる気がして」
「なら、大丈夫。直弥くんならやれるよ」
軽く拳をぶつけてくる。その小さな接触が、今は不思議と心を支えてくれる。
そして次の瞬間。
「投光弾――!」
曹の怒声とともに、外が一瞬、白く焼けるように輝いた。
全員が目を伏せる。その直後、窓ガラスが粉々に砕けた。
――始まった。
銃声が炸裂する。
――パンッ! パンッ!
鋭い音とともに、施設内の空気が一気に焼け焦げるように変わった。
「上!」
沙紀の声に、直弥は反射的に視線を梁に向ける。迷彩服に身を包んだ兵士が、器用に鉄骨をつたって滑り込んでくるのが見えた。直弥は構え直し、無我夢中でトリガーを引いた。
――バンッ!
一発、二発、三発。銃声の直後、敵の影が大きく揺れて梁から転げ落ちる。そのまま鈍い音を立てて床に崩れた。
(……当たった)
だが、安心する暇はない。次の影がすぐに飛び込んできた。今度は窓から。白伊の弾がそれを撃ち抜く。泥のついた兵士の体が跳ねて倒れる。
「八幡、次、右だ! 棚の影から来るぞ!」
白伊が怒鳴る。直弥は指示通りに銃を向ける。影――来た。迷っている時間はない。
「うおおおおっ!」
叫びながら、直弥は引き金を絞った。連射。銃身が跳ねるたび、肩が痛む。だが、それでも撃ち続けた。敵が止まるまで。倒れるまで。
耳が焼けるほどの轟音のなか、直弥の目は異様に冴えていた。汗で視界が滲んでも、体は勝手に動く。後ろで沙紀が装填の音を立て、白伊が無言でカバーに回る。
「数、多すぎる……!」
沙紀の悲鳴混じりの声。曹が物陰から撃ち返すが、その額にはすでに血がにじんでいた。かすっただけのようだが、様子は思わしくない。
「弾、あと十発以下だ……!」
白伊が唸る。確かに、もはやこの小さな工場に隠れる余地は少ない。遮蔽物も、銃も、弾も、人数も――
(何もかも、足りない……!)
だけど、直弥は立ち止まらなかった。
これは訓練じゃない。もう、「これが最後かもしれない」という現実が、身体の芯まで染みついている。
(逃げるんじゃない。ここで、止めなきゃ)
足音。また来る。次の敵が駆け込んできた。今度はナイフを手にした兵士――近い!
反射的に銃を向けようとするが間に合わない!
「っ、くそ……!」
直弥は咄嗟に体ごとぶつかりかかる。もつれ合って床に倒れ、敵のナイフがシャツを裂いた。恐怖が喉をせり上がる。が――
「やめろ!」
すぐ横から聞こえた銃声。敵兵の体が、直弥の肩の上で跳ねた。
沙紀だった。
彼女の手が、震えながらもしっかりと銃を構えていた。
「だいじょぶ……直弥くん!」
直弥は息を飲み、すぐさま立ち上がって敵の銃を奪い取る。互いに頷き合う。
「……まだ、終わってない」
そうだ、まだ外には、敵の影が残っている。
――そして、そのとき。
曹が、低い声で呟いた。
「……煙、北側から、広がってる。敵、火を放った……包囲される」
目を上げると、鉄格子の向こうに、赤い炎と黒い煙が立ち上っていた。
煙が入り口からゆっくりと流れ込んでくる。最初はただの白い霧のようだったそれが、数秒後には確かな焦げ臭さと熱を含んでいた。
「くそっ、火まで使ってくるかよ……!」
白伊が吐き捨てる。額には汗。だがそれ以上に、焦りと苛立ちが滲んでいた。
「このままじゃ、燃やし尽くされるぞ。あいつら、本気で証拠ごと処理する気だ」
「曹さん、裏の出入口って、ほんとうに使えないんですか?」
沙紀が必死に問う。曹は歯を食いしばり、唸るように答えた。
「見てないが、崩れてるって聞いた。だが……火で焼かれるよりマシ。試す価値、ある」
「なら行こう」
直弥の声は静かだった。震えてはいたが、もはや迷いはなかった。
「……あ?」
白伊が眉をひそめる。
「行くだと?崩れてるってんなら、押し込むか、よじ登るか、何れにしろ時間がかかる。下手すりゃ火に巻かれるぞ」
「俺が通れるようにする」
直弥は即答した。
「……ふざけんな、死にてぇのか?」
「違う。でも、こうしてるうちに、ほんとに全員やられる」
白伊が苛立ちを隠さず睨む。だが、その隣で沙紀が静かに口を開いた。
「私も行く。一人じゃ時間がかかる。りょうちゃん、曹さんは私たちをカバーして」
「っ……お前らな……」
白伊は舌打ちしながらも、もうそれ以上は何も言わなかった。怒っていたのはきっと、自分自身にだった。理屈は正しい。だが、心がそれを許さない。だから、口をつぐむしかなかった。
「……いいか。無理はするな。崩れてたらすぐ戻れ。時間は稼ぐ。こっちも、何としてでも生き残る」
その一言に、直弥も沙紀も、しっかりと頷いた。
――そして。
炎の熱が近づくなか、三人は散開した。
直弥と沙紀は崩れかけた通路を駆け抜け、裏の出入口を目指す。曹と白伊は正面の遮蔽物の後ろで構え、忍び寄る兵の気配に全神経を研ぎ澄ませていた。
「……これが、初任務かよ」
白伊が呟くように言った。
「洒落にならねぇな……クソッタレが」
それでも、誰も止まらなかった。
誰も、目を背けなかった。
――火と銃声の向こうに、まだ「生きて帰る」道があると信じて。
鉄とコンクリートの焼ける匂いが、鼻腔を焼いた。裏手へと続く廊下は、壁の一部が崩れ落ち、瓦礫が足元を不規則に覆っている。
「……煙、入ってきてる。急ごう」
沙紀が短く言い、直弥は黙って頷いた。
重たい空気のなか、二人は瓦礫を乗り越え、裏口とおぼしき鉄扉の前まで辿り着いた。だが、その扉は想像以上に酷く歪んでおり、内側から無理に閉じた痕跡があった。
「開けられる……?」
「……わかんない。でも、やるしかない」
直弥は肩にかけていた銃を背中に回し、鉄扉の隙間に指を差し込む。だが、扉はびくともしない。焦げ付く金属、熱で膨張したフレームが、びっしりと噛み合っていた。
「こっち持って、せーの!」
二人がかりで力を込める。
ギィ――ギィギィッッッ!
金属が軋む音。だが、わずかに。ほんの数センチだけ、扉が外へ押し出された。
「もう一回! いける!」
直弥の手のひらが擦り切れ、血がにじむ。それでも、止めなかった。沙紀の手も震えていたが、どこまでも真っ直ぐだった。
――そのときだった。
背後から、ガンッという金属を撃つような音。
「こっちに来てる!」
白伊の怒号だった。
「時間がない!」
直弥が吠えた。全身に力を込め、沙紀もそれに続く。
ギギ……ギィィッ――ガコンッ!
重たい音とともに、扉がついに外れた。崩れたコンクリ片が舞い上がり、冷たい外気が一気に流れ込んでくる。
「……開いた!」
沙紀が叫び、直弥がその隙間を先にくぐる。外に敵はいない。遠くに木々と斜面――逃走可能な地形が見えていた。
「りょうちゃんたちを――!」
言い終える前に、銃声。工場の奥から、短いが重い轟音がいくつか重なる。
沙紀が目を見開く。
直弥は振り返らなかった。だが、叫んだ。
「戻るぞ!白伊くんと曹さんを連れて出る!」
躊躇いなど、一秒たりとも許されない。直弥は再び崩れた廊下を駆け抜け、火と弾丸の交錯する最前線へと走った。
工場内に戻ると同時に、直弥の視界を火線がかすめた。弾丸はコンクリート壁に食い込み、砂埃が目に飛び込んでくる。
「白伊くん!」
返事はない――いや、聞こえなかっただけか。爆音、火花、金属の軋む音があまりに多すぎる。
「直弥、そこ!」
沙紀の声とともに、直弥はしゃがみ込んだ。直後、銃撃が彼のすぐ後ろを貫いた。だが、それは敵ではなかった。
「おせぇんだよ、バカ!」
銃を撃ち続けながら、白伊が肩越しに怒鳴る。
その隣では、曹が伏せながらも何度もトリガーを引いていた。彼の足元には血が広がっている。右脚を撃ち抜かれているようだった。
「曹さん!」
「まだ撃てる、問題ない!」
そう言った曹の声はかすれていたが、確かに戦う意志がこもっていた。
「出口を確保した!今なら脱出できる!」
沙紀が叫びながら遮蔽物から飛び出し、弾幕を張る。直弥も援護に回りながら、白伊と曹の元へ駆け寄った。
「立てますか?」
「ムリだ、運べ」
曹がきっぱりと言い切った。直弥はすぐに背を向け、曹の腕を自分の肩に回す。白伊も口をへの字に結びながらカバーに入る。
「沙紀、後退開始!」
「了解!」
四人の撤退が始まった。遮蔽物の間を縫い、炎と弾丸の死線をくぐる。沙紀が前方に回って敵兵をけん制し、白伊は後ろから追撃を抑える。
曹の身体は重かった。汗と血が混じり、直弥の背中にずっしりとのしかかる。それでも彼は止まらなかった。
――俺たちを殺しに来ている。
――だから、絶対に全員で生きて出る。
開けた裏口が見えた。沙紀がすでにその外で周囲を確認している。
「急いで! もう一波来るかも!」
全員がその隙間をくぐった。次の瞬間、背後の廃工場が一際大きな爆音とともに揺れる。遅れて飛来した榴弾か、仕掛けられていた罠か。いずれにせよ、運がよかった。
裏手の斜面を滑り降りながら、白伊がようやく口を開く。
「……覚えとけよ、八幡。今回だけは、お前に借りができた。」
直弥は返事をしなかった。ただ前を見据え、地の底から湧き上がるように答えた。
「全員で生きて帰る。それが、今回の任務だろ。」
続く…




