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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
23/112

22話 中国・吉林省 - 2 -

 長春国際空港に降り立った瞬間、直弥の肺に冷たい空気が流れ込んだ。薄曇りの空の下、凍えるような湿気と鈍い緊張感が、皮膚の奥にまでじわじわと染み込んでくる。


 ADFの支援で用意された偽造パスポートは、完璧な出来だった。顔写真から身元データに至るまで抜かりはなく、入国審査も問題なく通過できた。そこにあったのは、訓練で何度も叩き込まれた「任務遂行のための冷静さ」だけ。直弥も、沙紀も、白伊も、一言も余計なことは言わず、ただ沈黙のまま中国本土へと足を踏み入れた。


 空港の喧騒はどこか遠く感じられた。観光客の笑い声やアナウンスの音が、彼らにとっては異世界のもののように響いている。この中で、自分たちだけが違う次元に立っている――そう錯覚するほどに、彼らの眼差しは冷えきっていた。誰ひとりとして、これから自分たちが踏み込む場所の惨状を知らぬ者はいない。




 士官学校に降り立ったトランスポーターに乗る直前、直弥はひとつの黒い布を手渡された。


「目隠しだ。何も見るな、聞くな、感じるな。いいな?」


 見送りに来ていた實妥の低い声に促され、彼は何の説明もないまま、その布で自らの視界を覆った。暗闇のなか、無音で動く機械の振動だけが、微かに耳に伝わる。どれだけの時間が経ったかもわからないまま、直弥はただじっと、その密室の揺れに身を任せていた。


 次に目を開けたとき、彼は日本――神奈川県、厚木基地に立っていた。


「……ここ、まさか……日本?」


 冷たい空気とどこか懐かしい街の匂い。久々に踏む母国の土に、一瞬だけ感情が揺らいだ。しかし、それすらも味わう暇はなかった。


 手渡された封筒には必要最低限の書類が収められており、護衛とともに彼らはすぐに成田空港へと向かうことになる。


 まるで流れるベルトコンベアの上を歩かされるように、感傷も戸惑いもすべて置き去りにしたまま。気がつけば直弥は、民間の航空機の座席に身を沈めていた。


 目を閉じる間もなく、数時間後、彼は異国の地――長春に降り立っていた。


 すべてが急だった。説明も感情も許されない速さで、世界が目まぐるしく変わっていく。


 だが、それが「任務」というものなのだと、彼はすでに知っていた。


 ターミナル1の到着ロビーから一行が外に出ると、冷たい空気と灰色の空が彼らを迎えた。冬の中国東北部は、吐く息すらすぐに白く凍るようだった。


 舗装されたロータリーの端、送迎車が並ぶ一角に、ややくたびれた銀色のハイエースが一台停まっていた。エンジンはすでにかかっており、排気音が低く唸っている。


 運転席の窓がゆっくりと開き、中からアジア系の中年男が顔を覗かせた。頬には深い皺が刻まれ、目の奥に薄い疲労と冷静な光が宿っている。


「……ADF隊員だな、乗れ。」


 日本語ではあるが、語尾に強い中国訛りが混じっていた。妙に舌がもたつくような、けれど確かな発音。


 おそらくあの男が曹辰偉ツァオ・チェンウェイなのだろう。今回の任務に関する第一報をADFに送った張本人であり、中国当局に関する情報をADFの極秘連絡ルートを通じてリークしている情報士官だ。


 直弥たちは無言のまま、互いに顔を見合わせると、沙紀が先に歩み出た。続いて白伊、最後に直弥。


 ハイエースのスライドドアが重々しく開き、冷え切った車内へと彼らは身を滑り込ませた。


 曹はバックミラー越しに一行を一瞥すると、短く言った。


「――集落、まだ燃えてる。」


 低く呟くような声とともに、曹辰偉はギアを入れた。重たく軋むような音を残し、ハイエースは長春市街の外れを抜けて郊外へと滑り出していく。


「集落襲われてから、ここも緊張してる。市街全体がぴりぴりしてる。人民解放軍、そこらじゅうにいる。検問も多い。」


 言葉はたどたどしく、それでも焦燥と苛立ちを隠しきれない声音で、曹は前方の道路に目を凝らしたまま言った。


「武器、後ろにある。荷台の黒いボックス。開けていい。ただし――あまり期待するな。粗悪品とまでは言わない。が、性能……正直、良くない。」


「種類は?」と、白伊が即座に訊いた。声は硬い。


「92式手槍、三丁。191型、四丁。85式軽機関銃、一丁。グレネードが六発、予備マガジン十。あとは……防弾チョッキ三枚。」


「どこから?」


 曹は短く鼻を鳴らし、ルームミラー越しに彼らを見た。


「すべて、人民解放軍の死体から鹵獲した。」


 一瞬、車内の空気が冷えた。


「……悪いが、軍の監視が一段と厳しい、だから補給線ない。贅沢言わないでくれ。」


 直弥は何も言わず、荷台のボックスに手を伸ばした。金属製の蓋を開けると、中には言葉通りの装備が詰め込まれている。どれも傷や泥にまみれ、修理痕すらある。


 (……戦場から回収された“本物”だ)


 そう思うと、手の中のライフルが不気味なほど重く感じられた。

 ふと、疑問に思ったことを直弥は白伊に問うた。


「……なんでそんなに、軍を警戒するの?」


 直弥が前を見つめたまま、ぽつりと漏らすように尋ねた。


 ハイエースの窓越しに流れる長春の風景は、どこか重苦しい空気に覆われていた。車内に漂う緊張感は、車外のそれと見事に同調していた。


 白伊は舌打ちで答えた。それは「黙ってろ」とでも言いたげな鋭さだった。


 代わりに、隣に座っていた沙紀が静かに口を開いた。


「私たちADFはね、“対魔特別排除協定”っていう秘密協定を結んだ国の中では、魔族に関することならどんな軍事行動をとっても黙認されるの」


「協定……」


 直弥が小さく反芻すると、沙紀は頷いた。


「でも、それをよく思ってない国も多い。『超法規的すぎる』『主権侵害だ』ってね。表向きは仲良くしてても、裏じゃADFを“テロ組織”扱いしてる国もある。この国はその代表例。」


 沙紀の目が静かに細められる。


「だから、軍や公安に私たちがADFの構成員だと知られたら、逮捕……どころか、即銃撃戦の可能性もある。協定を結んでる国じゃないから、私たちはただの“正体不明の武装集団”なんだよ」


「……。」


 直弥は口を噤んだ。


 “正体不明の武装集団”――自分が、いつの間にかそんな存在の一員になっていたことに、今さらながらに背筋が冷たくなる。


 曹の声が、運転席から低く飛んできた。


「見つかったら、俺も終わり。もしそうなったら、構成員ってばれる前に、撃つしか……」


 曹の声が、言葉の途中で唐突に止まった。


 直弥は一瞬、何が起きたのか分からず眉をひそめたが、隣の沙紀はすぐさま反応した。無言で足元のケースを開け、手早く中のを取り出し、191型自動歩槍を構える。その動きは訓練のそれではなく、明確に“戦闘”を前提としたものだった。


 白伊もすぐに動いた。無駄な言葉もなく、後部ドアの小窓から後方を確認しつつ、自分用の191型にマガジンを差し込む。二人の間に流れる空気は一瞬で張り詰め、室内の温度すら変わったかのようだった。


 曹は焦りを抑えるように、小さな声で呟いた。


「……後方に武装警察。二台、こちらの動きに合わせてついてきてる。まだ距離はある、でも……変だ。普通、でない。」


 直弥の喉が、ごくりと鳴った。ハイエースの床の下で、ケースの蓋がゆっくりと閉じられる音がやけに大きく聞こえる。


「どうする……?」


 誰ともなくつぶやいた声に、白伊が短く答えた。


「まずは確認。抜かりがなければ、問題はない。……けど、逃げ道は用意しておけ。場合によっては、こっちも動くぞ」


 その声は低く、冷たく、それでいて異様なほどに現実的だった。


 車内に再び沈黙が訪れた。銃を手にしたまま、全員が無言で耳をすませ、視線を交わす。


 ハイエースは市街地を抜け、舗装の粗い道路へと差し掛かった。街灯は少なく、車体の揺れも徐々に激しくなる。後方のパトカーらしき影は、依然として一定の距離を保ったまま尾を引いている。


「まだついてくる……距離は詰まってないけど、まるで位置を合わせてきてるような……」


 曹の声には、次第に苛立ちが滲んでいた。


 沙紀はスコープを覗きながら確認する。


「車両はWJ系列、間違いなく武装警察の制式車。運転手の服装も装備も合致。……ただ、普通の巡回ならそろそろコースを変えてるはず」


「つまり、狙われてる可能性が高いってことだ」


 白伊が呟き、車内に一瞬、冷たい沈黙が流れた。


「交戦を避けられなかった場合、どう動くの?」


 沙紀の問いに、曹はちらとミラー越しに三人を見やり、小さく答える。


「林道へ抜ける道が、三キロ先にある。そこまで逃げ切れれば撒けるはず」


「了解。……直弥くん、後ろ見張ってて。動きがあったらすぐ教えて」


 沙紀の声に、直弥は無言で頷き、リアガラス越しにじっと警察車両を見据える。ハンドガードを握る手にじんわり汗が滲んでいた。まだ一発も撃っていない。それでも心臓の鼓動は耳の奥で鳴り響き、いつ爆ぜてもおかしくない感覚が体を包んでいる。


 白伊が後部ドアの隙間に指をかけ、緩く開けた。


「万一撃たれたら、応戦する。車外でやるぞ。密室は不利だ。林の中なら遮蔽も多い」


「目標到達まで三分……その間に仕掛けてきたら?」


「その時は、……もう割り切るしかない」


 その言葉を最後に、車内の誰もが口を閉ざした。


 窓の外では、遠くで雷鳴のような音がかすかに響く。集落の残火か、別の爆発か。誰にも分からない。ただ確かなのは、この任務が「調査」だけでは終わらない可能性が、日に日に濃くなっているということだった。


 ――直弥は唇を噛んだ。

 この世界では、迷う時間さえ、命取りになる。


 そして、運命の三キロまで残り五百メートル。


「――減速して。こっちから先、段差が多い。車体を跳ねさせると目立つ」


 沙紀が声を潜めて言う。曹が一瞬頷き、ギアを落とした。


「りょうちゃん、外の様子は?」


「……問題ない。だが、ヤツらも減速してる。付かず離れず。まるで待ってるみたいだ」


「……伏兵の可能性もある、か。」


 曹がハンドルを強く握ったその時だった。


 ――バチン!


 耳の奥で、はじけるような破裂音。直後、左後輪が潰れたように地面を滑り、ハイエースがわずかに傾く。


「――タイヤ!撃たれた!」


 沙紀の叫びと同時に、白伊が即座に後部ドアを蹴り開けた。直弥も慌てて銃を構え、身を低くしながら外へと身を投げる。


「林に飛び込め!囲まれる!」


 曹の怒鳴り声が飛ぶ。直弥は咄嗟に沙紀の腕を引き、傾いたハイエースから転がるように飛び出した。雨上がりの泥濘んだ土が体に跳ね、視界を濁らせる。


 銃声は――なかった。


 だが、その静けさがかえって不気味だった。


「……撃ってこない?」


 沙紀が泥の中で身を起こし、辺りを見渡す。直弥も呼吸を整えながら銃を構えるが、確かに弾は飛んできていない。


「囲んだ上で、こちらの出方を待ってる。捕らえるつもりか、あるいは……」


 白伊の言葉に、曹が地を蹴って転がり込んでくる。


「……まずい。森の先、熱源複数。おそらくもう待ち伏せてる。正面突破は不可能」


「ならどうする?」


「抜け道がある。左に小道が――ただ、道じゃない。沼地だ」


「やるしかない」


 直弥が口を開いた。自分でも驚くほど、迷いがなかった。


「一番危ないのは、ここで動かず囲まれることです。……行きましょう」


 白伊と沙紀が、互いに小さく頷いた。


 その瞬間――


 ババッ、バババッ!


 ついに銃声が木々の間から響いた。先手を打つ形で、敵が放った制圧射撃。弾丸が頭上をかすめ、土が跳ね、木の皮が弾け飛ぶ。


「行けッ!!」


 白伊の号令とともに、四人は身をかがめながら、泥と枝の間を縫うように左手の小道へと駆け出した。


 ――肺が焼けるように痛い。


 でも今は、止まってはいけない。


 この一歩が、生きるか死ぬかの境界を越える鍵になる。


 沼地は、想像以上にぬかるんでいた。

 踏み込んだ瞬間、直弥の靴は泥に埋まり、抜け出すたびに重くまとわりつく感触が脚を鈍らせる。後ろでは、銃声が再び断続的に鳴り響き始めていた。撃ち下ろすような弾道。すぐ近くの木が破裂し、破片が頬をかすめる。


「……くっそ、やっぱ囲い込まれてる!」


 白伊が低く唸るように言った。すでに横方向にも回り込まれている可能性がある。視界は悪く、霧のように湿気の混じった煙が森全体を包んでいる。


「沙紀、前方警戒!」


「了解!」


 沙紀はすぐに腰を落とし、前方に狙いを定める。直弥の横で、曹が必死に通信機を操作していた。


「―― 我是曹(ウォーシーツァオ)我们被包围了ウォーメンベイバオウェイラ 正在撤退ジェンザイチュエトゥイ再次(ザイツー)请求支援( チンチウジーユエン)!」

(――こちら曹、包囲を受けた、現在逃走中!繰り返す、逃走支援を要請する!)


 応答はなかった。ザーッというノイズだけが返ってくる。


「ジャミング……?」


 直弥が顔をしかめた。つまりこの包囲は、最初からADFの動きを読んだ上でのものということだ。となれば、敵は情報を握っている。しかもかなり深いところまで。


 今さらながらに直弥の背筋を冷たいものが這う。さっきまでの反射的な判断の連続とは違う、心の底から湧き上がる「死」の予感。


「左、動き!」


 沙紀が叫んだ。そのときにはもう、数メートル先の木陰から黒い影が飛び出していた。武装警察ではなかった。迷彩に身を包み、訓練された動きでショットガンを構える兵士。間違いない、人民解放軍だ。


「直弥!」


 白伊が直弥を押し倒した、刹那――

 ドゴォン、と土煙を巻き上げて着弾する音。弾丸は真っすぐ直弥の胸元を穿っていたはずの位置をかすめ、代わりに白伊の背中に泥が跳ねる。


「今のうちだ、走れ!」


 白伊の声に、直弥は無言で立ち上がる。銃を構え直し、反射的にトリガーを引く。


 ――バン!


 銃声が耳を貫いた。敵兵が一瞬ひるみ、後ずさる。それだけの隙間を縫って、直弥と沙紀、そして曹は再び沼地を突っ切って走り出した。


 白伊が最後尾で踏ん張っていた。


「下手に撃ち合うな! 距離を取って逃げ切る!」


 誰にでもなく、白伊の怒鳴り声が飛ぶ。


 (このままじゃ……全滅する)


 直弥は振り返らなかった。できなかった。足が、泥が、恐怖が――すべてがその選択を許さなかった。


 ただひたすらに前へ。


 木々が途切れる。視界の先が開ける。


 ――そこは、鉄条網に囲まれた、廃工場のような施設だった。


「……遮蔽取れる! あそこへ!」


 沙紀の指差す先、壊れたフェンスの隙間。


 次の瞬間、四人の体が一斉に駆け抜け、泥と弾丸の森を抜けた。


 続く…

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