20話 白き影は蠢く
「求求你!救救我!别杀我!!」
(頼む!助けてくれ!殺さないでくれ!!)
午前零時すぎ。霧に包まれた山奥の小さな集落が、地獄に飲まれる音を立てて崩れ始めた。
森の影から、何かが蠢く。風ではない。獣でもない。それは“悪意そのもの”だった。
「那是什么!?」「快跑啊!」
(なんだ!?)(早く走れ!!)
逃げ惑う村人の背を、黒い影が跳ねた。追いつかれた男が地面に押し倒され、わずか一拍後には、首が斜めにねじ切れていた。
「爸爸!不要走!」
(お父さん!行かないで!)
泣き叫ぶ幼子。その母親はその手を引こうとしたが、一歩後れた。目の前で、魔族が口を開けた。次の瞬間、母の半身が赤い霧に変わった。
「妈妈!妈妈——!!」
(お母さん!お母さっ―――!!)
絶叫。焼けたような臭い。肌を裂く熱風。火など見えなかったのに、魔族が通った後には家屋が燃え上がっていた。
祠の前に逃げ延びた老婆が、膝をついて叫ぶ。
「神啊……救救我们……」
(ああ神よ…我らをお救いください…)
けれど祈りは届かない。魔族の鉤爪が、老婆の背中を貫いた。肋骨を砕き、血を噴き出しながら、ただ静かに絶命していく。
「为什么!?为什么是我们!?」
(なぜだ!?なぜ私達なんだ!?)
声にならない問いかけが、血と灰にかき消されていく。だが、彼らが“なぜ襲われたのか”を知る術はない。
集落を囲むように現れた魔族たちは、まるで誰かに導かれたかのように、綿密な動きで包囲を完成させていた。
「他们来了!关门!快关门!!」
(奴らが来る!ドアを閉めて! ドアを早く!!)
だが扉は焼き破られ、壁は爪で引き裂かれる。すべてが虚しい抵抗に終わった。
重なる絶叫、飛び散る四肢と血潮。やがて、生き残った者たちの悲鳴も途絶えた。
月が昇る。だが光は届かない。そこに残っていたのは、ただ血の泥濘と無惨な骸だけだった。
その夜、集落は地図から消えた。誰も、それを止められなかった。
その惨劇を、遠目から眺める者が一人。
小高い丘の上、夜霧をたなびかせる風に、白いローブが静かに揺れる。その者は笑っていた。唇の端を小さく吊り上げ、まるで美しい音楽を聴いているかのように、村人たちの悲鳴を楽しむように。
――咆哮も、悲鳴も、肉が裂ける音も、すべてが美しい“調べ”として感じているように。
「……こレで、いいノだナ? ……最上シア。」
背後から低く響いたのは、獣のような声だった。黒い瘴気をまとった魔族が、爪をゆらしながら、拙い日本語で問いかける。
その声に、白い者はゆっくりと振り返る。
全身を覆う白。ローブだけではない。髪も、肌も、目までも――純白。生命の気配が希薄で、血の温度すら感じさせないその姿は、むしろ死神のようですらあった。
「いいんじゃない?」
その声音は男とも女ともつかず、幼さと老獪さが入り混じる、不安定な響きを持っていた。まるで神託を語る巫のように、あるいは子供が玩具の壊れる音に陶酔するように。
魔族は頭を垂れた。
「おまエの策……まことニ恐ろしイ……この世界ヲ、飲ミ込む、気カ。」
最上は少しの間無言になる。ただ再び、血塗れの集落へと視線を向けた。
「……心外だな。君だって随分楽しそうだったじゃない。」
最上のそれは慈悲にも近い口調だった。だが、その声には血の匂いが染みついている。魔族は一瞬だけ怯んだように身を引いた。理由もなく心臓を鷲掴みにされるような、そんな本能的な恐怖。
「俺ハ…たダ、平穏ニ暮らスタめに、お前ニ従ッてイルだけだ。」
魔族の声は、獣じみた低音にしては妙に哀しみを帯びていた。
「……平穏に、か。」
その言葉を口の中で転がすように、最上はそう呟いた後、目を細める。そこに浮かぶ感情は、同情でも共感でもなかった。ただ、興味。まるで珍しい実験材料に触れたかのような無垢な興味。いや、悪意がないぶん、かえって残酷だった。
「おもしろいな。君たちにもそういう感情があるんだね。」
くす、と笑ったその顔は、まるで白紙の仮面のようだった。
魔族は言葉を返さなかった。ただ一瞬だけ、角の間で燻るように灯った双眸が、まるでそれを見抜くかのように細く揺れた。
白いローブの裾が、風にそよぐ。背後では、まだ炎が上がり、村人の悲鳴が風に流れている。だが、最上の耳にはそれすら、ひどく遠い音にしか聞こえていなかった。
「警戒しといてよ。そのうち武装警察とか、下手すれば人民解放軍もここに来るかもしれない。」
頭上でかすかに何かが飛んでいる音が聞こえる。おそらく爆音を聞きつけ駆けつけたヘリだろう。遠くの夜空に点のような光がゆっくりと近づいてきていた。
最上は指を一本、気怠げに前へ掲げる。
「噂をすれば、ってやつかな。」
その指先に、眩い白光が凝縮される。火ではない、魔力でもない。もっと根源的な、光そのものがそこに収束していた。空気が静かに歪み、周囲の霧が光を吸い寄せられるようにわずかに渦を巻く。
次の瞬間――それは音もなく、上空へと飛び立った。真っ直ぐ、迷いなく、ただ一点に向かって。
刹那、夜空に浮かんでいた光点が、音を立てる暇もなく白く弾け飛んだ。
遅れて降ってきた衝撃波が、樹々の枝葉をざわめかせる。だが、地上に立つ最上は一歩たりとも動かなかった。
「……武装警察っぽいね。こりゃほんとに一戦交えるかもなぁ。」
最上は、まるで夜空に咲いた花火を眺めるような、のんびりとした口調で言った。敵意も、警戒もない。ただ、予定していた遊戯の続きを語るかのように淡々と。
その様子に、すぐ傍に立つ魔族は思わず小さく身を引いた。
何百人もの人間を蹂躙した後でなお、最上の白い衣には血の一滴すらついていない。その白は、純粋さの証ではない。むしろ、狂気そのものだった。
「オ前は、何ガ望みナんだ。最上。」
その問いに、最上は振り返らない。焚き火のようにゆらめく村の残骸を見つめながら、ただ淡々と、あまりに簡単に言葉を紡ぐ。
「混沌と破壊、再生と融合——その先にある理想世界。」
まるで掃除でも始めるかのような、軽やかで無機質な声音だった。
「私はそんな夢を追いかけるだけの、努力家さ。」
炎に呑まれ崩れ落ちる家々。地面に撒き散らされた血と肉片。咆哮を上げながら走り回る、知性なき魔族の群れ。最上はそれらをひとつひとつ、丁寧に確認するように見渡し、やがてふわりと微笑んだ。
そこに宿っているのは、残酷さですらない。ただの“興味”だった。何かが壊れていく様を、純粋に「美しい」と感じる、天性の探究心に富んだ目。
そして、虚空に向かって、誰にともなく囁く。
「……さて、君はどうする? 八幡直弥くん。」
風が吹き、紅蓮の中で白き影は蠢く。
夜の闇が深まるほどに、彼の目は、いっそう白く、冷たく、よく光った。
続く…




