19話 泥だらけの英雄
あれから五日。
直弥は、ボロボロになりながらも實妥から与えられた課題に必死で食らいついていた。
基礎体力の底上げから始まり、状況判断訓練、即応行動の模擬訓練、体術の基礎、目隠し状態での感覚訓練、さらには拷問などの極限下での忍耐力まで。明らかに通常訓練の域を逸脱した内容ばかりだったが、直弥は一度も「無理だ」と言わなかった。
泣き言を吐く代わりに、息を吐いた。
逃げ出す代わりに、地面を這った。
そして、7日目――實妥による特訓の最終日。
夜明け前の薄闇のなか、直弥は訓練場の中央に立っていた。シャツは汗で張り付き、腕も脚も泥だらけ。肩で荒く息をしていたが、どこかその目には一筋の意志が宿っていた。
「……今日で、終わりなんですよね?」
實妥は無言で頷く。だが、その表情は初日に見せていたあの冷淡なものとはどこか違っていた。
「今日は個別訓練ではなく、初日に見た模擬戦に参加してもらう。そこでお前は敵を3人倒せ。」
「三人、ですか……? あの、隊員たちと?」
「ああ。もちろん手加減はされん。だが、お前を殺すような真似もさせない。それは俺が現場にいる限り、保証する」
「……」
初日に見た模擬戦――それは文字通り、本物の戦場だった。
空気を切り裂く銃弾の音。回避行動ひとつ遅れれば、即やられる。命のやりとりではないはずなのに、あそこには「殺気」があった。いや――それも当然だ。ADFの隊員たちは皆、本物の魔族を相手にする前提で訓練を積んでいるのだから。
「ビビってるか?」
「……正直、少しだけ。でもそれ以上に――やってみたいです」
その言葉に、實妥は一瞬だけ目を細めた。
「そうか。それならいい。お前の成長を、他の連中にも見せてやれ」
そう言って背を向けると、實妥は無線で連絡をとりはじめた。
直弥は、一度だけ拳を握りしめ、天を仰ぐ。
「…やってやる。」
***
その十五分後、直弥は訓練場の一角――模擬戦用のフィールドに立っていた。
四方を囲うコンクリートの壁面と、足元にうっすら張られた霧のような冷気。それがこの空間に、まるで本物の戦場のような張り詰めた空気を与えていた。
直弥は第5中隊に編入され、第3中隊と区画Cで闘うとのことだった。周囲に立つのは、いずれもADFの現役戦闘員。年齢も体格もまちまちだが、全員の眼差しには同じ戦士の意思が宿っていた。
直弥は無言のまま、訓練用の軽装防具を確認する。呼吸は静かに、深く――一歩ごとに鼓動が速くなっていくのを感じながら、彼は自分を落ち着かせようとしていた。
「……あれ、直弥くん?」
すぐ横から、随分と聞き覚えのある声がかかった。
声の主に目をやると、やはりそこには三田沙紀がいた。その隣には不機嫌そうな顔の白伊もいる。
「なんでここにいるの?特訓は?」
直弥は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑めいた表情で肩をすくめた。
「……今日で終わりです。最終試験が、この模擬戦だって。」
「はあ!? 何それ聞いてないんだけど」
沙紀が口をとがらせながらも、ほんの少し安堵したような顔を見せる。
「ふーん。じゃあ、今日の目標は?」
「敵を三人倒すこと。できなきゃ不合格らしい」
三田は思わず「げっ」と声を漏らした。
「たった一週間でそれって、正気? いや實妥教官が正気じゃないのは知ってたけどさ……」
「……まぁ模擬戦だし、命までは取られないから大丈夫です。」
「甘いな」
今度は白伊が低く言った。
「命までは取らない。けど、相手はそれでも殺しに来る。実際訓練弾でも死人は出てるらしいしな。」
直弥はその言葉にわずかに目を見開いた。冗談ではなさそうだった。白伊の目は冷えた氷のように澄んでいて、どこまでも現実を直視していた。
「……死人、って」
「信じられないなら、後で資料室に行ってみろ。殉職扱いにはなってないが、“消えてる”名簿は確かにある。模擬戦でな」
三田も表情を曇らせ、肩をすくめるように言葉を継いだ。
「だからってビビる必要はないけど……実戦に出る覚悟くらいは持ってた方がいいよ。この場で誰かが迷ったら、それだけで全員が終わる」
(実戦……)
直弥は黙ってうなずいた。その重みは、想像以上だった。
これまでの一週間、實妥の訓練はまさに「殺す/殺される」の境界線をなぞるようなものだった。あれが、決して特別なものではなかったというのか。
《模擬戦、開始まで30秒。全隊、位置につけ》
そう鳴り響いたアナウンスに、三人の意識が切り替わる。
三田は直弥の肩をぽんと叩いた。
「……とにかく、無理だけはしないで。バディが死ぬとこなんて見たくないし。」
「……はい。わかりました」
第5中隊のリーダー格が声を張る。
「各自、持ち場へ! C区画西端を押さえる。接触後、可能な限り分断して各個撃破!」
その言葉を聞きながら、直弥に向けにっと笑う三田に、白伊が呆れたような息を吐き、二人はそれぞれの持ち場へ走っていった。
直弥は自らの持ち場――中隊の右翼を担うポジションへ走った。背後には見慣れない隊員の背中が続くが、今は振り返らない。
直弥も前にいる隊員の背を見ながら、ゆっくりと深呼吸した。
霧の向こうに、何人の敵が潜んでいるのか――いや、それすら関係ない。
自分は、ここで“生きて”勝たねばならない。
《……3、2、1――開始》
耳を劈くような炸裂音とともに、模擬戦の幕が上がった。
足音はない。だが確かに地面が微かに震え、霧がわずかに揺れている。直弥の背筋に冷たい緊張が走る。
(……来る!)
次の瞬間、人影が霧の帳から滑り出てきた。第3中隊の先遣部隊だ。
そのうちの一人、短身痩躯の男が直弥に気がついた。手に細いナイフを二本、構えは低く鋭い。直弥の喉がひりついた。恐怖ではない。生き残らなければならないという本能だ。
初動は速いほうが勝つ。直弥は迷わず、霧の切れ目を突いて最も近づいていたナイフ使いに向けて駆け出した。
ナイフ男は即座に反応、さらに姿勢を低くし、左右の刃を交互に振りながら詰めてくる。直弥はそれを視界の端で捉えつつ、地を滑るように右に跳ぶ。
直後、男の一撃が風を切ってすぐ横を通り過ぎた。直弥は地面に手をついて体勢を維持しつつ、反動を利用して男の脇腹に膝を打ち込む。
「ッぐ……!」
くぐもった呻き声。とっさに腕を絡めて締めにいくが、男は身を捻って抜ける。だが、隙はできた。
直弥は迷わず背後に回りこみ、背中越しに訓練用の短剣を叩きつけた。衝撃判定音が鳴り響く。
だが安堵している暇はない。左手側、コンクリート壁の影から勢いよく飛び出してきたのは、小柄ながら瞬発力のある格闘兵だ。手にした警棒が唸りを上げて振り抜かれ、直弥は寸前でそれを回避する。
しかし回避が甘い。棒の先端が肩をかすめ、痛みと同時に視界が乱れる。
(まずい、距離を――!)
だが敵は詰めてくる。至近距離での連打。打撃が一撃ごとに空気を裂き、直弥の防御を切り崩していく。足がもつれかけた瞬間――
「左、開けて!」
背後から沙紀の叫び。直弥は反射的に左に飛び退く。
その瞬間、沙紀が投げたスモーク弾が足元で弾け、視界を一瞬遮る灰色の幕が生まれた。
(今しかない――!)
霧の中、直弥は気配だけを頼りに相手の背後に回り込む。訓練ナイフを逆手に構え、敵の背中に突き立てるように――
2度目の衝撃判定音。直弥はふっと息を吐いた。
一歩引いたとき、背筋が強張った。霧の中から、最後の先遣兵――重装備の突撃兵が突進してきたのだ。
「っぐ……!」
直弥は正面からぶつかり、後方に吹き飛ばされた。背中が地面に叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
敵の男は訓練用のスタンシールドを構えたまま、無言で直弥に迫る。
「起きて直弥くん!!」
沙紀の叫び。それがなぜか、頭を冷やした。
直弥は反射的に転がり、男の盾が振り下ろされるのを回避。泥まみれの地面に手をついて跳ね起き、男の脚に向かって飛び込む。
タックル――決まった。
敵の重心が崩れた隙を逃さず、直弥は後ろに回り込むと、ナイフを首筋に的確に突いた。
「っは……はっ……!」
膝をつき、ゼェゼェと息をつく。身体はもう限界に近い。しかし――まだ終わりではなかった。
「……気を抜かないで。来るよ、本隊」
後ろから寄ってきた沙紀の警告。霧の向こうから、低く押し殺したような複数の足音。
「――全員配置。掃討に移る」
通信が走る。第3中隊の本隊が動き出した。
(まだ……続くのか)
直弥はナイフを握り直し、傷まみれの膝を抱えながらも立ち上がる。そして悠然と立ち向かった。
***
「…すげえな、あいつ。」
襲いかかってくる第3中隊を上から撃ち下ろしながら、横で友人がそう白伊に呟いた。
あいつ、おそらく八幡直弥のことだろう。白伊は小さく舌打ちをした。
「集中しろ。」
「そうは言うけどよ、お前もびっくりしたみたいな目でアイツのこと見たたじゃねぇかよ。」
図星を突かれて、白伊は無言のまま前を見据えた。否定する理由もなかった。確かに驚いた――あれは、驚くしかない。
(……たった一週間だぞ)
直弥の動きは、まだ粗い。目線の流し方が甘く、死角の処理も雑。ナイフの構えも不安定だし、足運びは経験者にはすぐ読まれるだろう。なのに――
それでも、三人倒している。
一撃で決めきれずとも、執念で崩し、隙をこじ開け、倒している。
圧倒的に不利な状況の中で、今も重装兵と対峙していた。沙紀の援護射撃を受けながら、直弥は正面から突っ込んでいく。恐怖も戸惑いも押し殺して、ひたすら前へ――。
白伊は口元を引き結んだ。
あの時、初めて会った日のことを思い出す。緊張した面持ち、怯えるような目、それでいて一丁前に戦いたいとほざいていた男。あの八幡直弥が――
どうせ口先だけだと考えていた。表世界でぬくぬく育ってきた奴が、この世界でうまくやれるはずがないと思っていた。
それは、ある意味で事実でもある。特に日本人ならなおさらだ。銃器なんてフィクションの中の存在。戦闘なんてゲームか映画でしか知らない。そんな温室育ちの人間が、命をやり取りする現場に足を踏み入れたところで、場違いにもほどがあるだろう。
だが直弥はまだ倒れていない。いや、何度も倒された。膝をついた。壁に叩きつけられ、喉を潰されかけ、ナイフを弾かれ、肋を蹴られ――それでも、そのたびに、立ち上がっている。
沙紀が横からカバーを入れる。直弥はそれを逃さず、一歩踏み込む。重装兵の防御の隙間に、正確ではないが全力の一撃を叩き込む。火花が散り、巨体が揺らぎ――そして、崩れ落ちた。
四人目。白伊は思わず拳を握った。悔しさか、驚愕か、それとも――焦燥か。
「……何なんだよ、あいつ」
思わず、口にしていた。
何があって、そこまで喰らいつく? たった一週間で、どうしてここまで変われる?
殺されかけて、心を折られて、それでも逃げずに牙を剥いてくる奴を――どうやって見くびればいい?
まるで自分たちの常識そのものを、ひび割れた拳で叩き壊しているようだった。
「白伊、右。詰めてくる!」
友人の声に、白伊はハッとして銃を構えた。霧の中、第3中隊の残存部隊が本隊を率いてこちらに迫ってきている。
模擬弾の込められた銃の引き金を引きつつ、彼は遠くに見える沙紀の背中を見つめた。不安は募るばかりだった。
***
訓練場の上部、金網で囲まれた監視通路。その片隅に、實妥と璃久の姿があった。
下方には模擬戦フィールド全景が広がり、白い霧の中を動く戦闘員たちの動きが、まるでチェスの駒のように小さく、だが明確に視認できた。
「……あいつ、まだ動いてやがる」
璃久が低く呟いた。腕を組み、苦々しげに下を睨んでいる。
「三人倒したってのに、まだ前に出てる。正気かよ……。てか、こんな即席訓練でここまでやるって、どう考えてもおかしいだろ」
隣で無言だった實妥は、手元の携帯端末に記録していた直弥の動きのログを閉じた。そしてようやく、口を開く。
「身体の使い方はまだまだ未熟ですが、判断と対応の速度はすでに現場レベルにあります。特に視線と呼吸のコントロールは、訓練一週間の素人の域を超えている。」
「は、評価高ぇな。そんなに期待してんのか?」
「期待はしてません」
實妥は即答した。その声には一切の感情がない。
「現実を言っているだけです。」
再び視線を下に戻す。ちょうどその時、直弥が霧の中から飛び出し、前方にいた第3中隊の一人である重武装兵に組みついた。体格差のある相手に対して、正面からぶつかり、もみ合い、ナイフを押し込もうとしている。
援護の射撃音――沙紀のものだ。ギリギリのタイミングで敵が動きを止めた刹那、直弥は自重ごと相手を押し倒し、制圧した。
璃久が思わず息をのむ。
「――ったく、あんな無茶なやり方……。あいつ、自分がまだ死ねない立場だってわかってんのか?」
「わかってるはずです。だからこそ、命を賭けてるんだと。」
「……」
「“死なないために戦う奴”と、“死んでもいいから守りたいものがある奴”では、行動の質が違います。八幡直弥は後者に近い。おそらくですが、無意識のうちにそういう選択をしている。」
實妥の横顔には、いつになく険しい影が差していた。
「無理をさせすぎたな、とは思っています。ですが、ああいうタイプは止められたところで、結局どこかで自分から前に出てしまう。自分の意志で、“死線”に立つ人間です」
璃久は黙ったまま、霧の下の戦場に視線を落とした。仲間の支援を受けながら、直弥は再び敵の一人に立ち向かおうとしている。体は明らかに重そうで、動きにも疲労が見え始めているのに、それでも下がろうとしない。
「……あいつ、そういう顔じゃなかったよな。初めて会ったとき」
「顔つきくらい簡単に変わりますよ。環境も、戦場も、それを取り巻く人間関係も。中身のすべてを変えるには、十分すぎるくらいです。」
「あんなの、たった一週間前から教えただけの奴がやることかよ」
「俺が教えただけではありません。彼が覚悟を持って選んだんです。」
實妥はぽつりとそう言った。
「戦うことも、ここにいることも。そして、自分を変えることも」
***
甲高いブザー音が、戦場に響き渡った。
霧の中にうっすら浮かぶ赤いライトが点滅し、模擬戦の終了を告げる。先ほどまで飛び交っていた銃声と足音が、一斉に消えた。総合結果はどちらも五分五分で、勝敗はつかなかった。
その場にいた全ての戦闘員が、各々の武器を下げてゆっくりと肩の力を抜く。霧の中、互いの顔を確かめるように目を配りながら、誰もが安堵とも落胆ともつかない静けさに包まれていた。
そして、その場の片隅に――仰向けに倒れた直弥の姿があった。
眉間に赤く光る印――模擬弾によるヒットマーカーが彼の脱落を証明している。体は汗と泥にまみれ、呼吸は荒く、すでに全身から力が抜け落ちていた。
それでも。
その足跡は、確かに戦場の中に残っていた。
直弥はこの模擬戦で、最終的に五人の敵を倒した。序盤に三人、そして中盤以降の混戦の中で、さらに二人を打ち倒したのだ。決して鮮やかでも完璧でもなかった。時に味方の援護に救われ、時に執念で食らいつきながら、文字通り泥まみれで得た成果だった。
「……ははっ、すげぇな俺。」
誰に言ったわけでもない、呟きのような声が、霧のどこかでこぼれた。
すると、視界の上から特段の笑顔を浮かべた少女が直弥の顔を覗き込んできた。
「直弥くんすごい!ほんとにすごいよ!」
沙紀だった。戦闘用のゴーグルを上げ、頬を赤らめながら、満面の笑みで直弥を見下ろしている。泥と汗にまみれた直弥の片手を、彼女は両手でしっかりと包み込んだ。
「ちゃんと見てたからね、最後の突っ込み――あれ、あたしも一瞬びっくりしたもん。怖くなかったの?」
直弥はうっすら笑いながら、目だけで答える。あまりにも疲れて、言葉にならなかった。
「……怖かったですよ、死ぬほど。でも、止まったらきっと後悔するって思った」
それだけを絞り出すように言った直弥に、沙紀はしばし目を瞬かせたあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん、それでいいと思う。ちゃんと強くなってたよ、直弥くん。」
その言葉が、何よりの報酬だった。
遠くでブリーフィング用のトランスポーターが降りてくる音が聞こえ始める。霧が少しずつ晴れ始める中で、直弥の意識もまた、わずかに薄れていった。
けれど、その胸の内には、不思議な満足感と確かな手応えが残っていた。
泥だらけの英雄は、静かに地面に背を預け、ほんのわずかに口元を綻ばせた。
続く…




