1話 日常
不思議な感覚だった。
浮いているようにも感じるし、深い深い底の方まで沈んでいるようにも感じるその感覚に、体の自由は奪われていた。
でもそこに恐怖心はなく、むしろどこか冷静で、安心感すら感じていた。
頭の中ではわかっていた。このままではだめだ、と。
このままだと、呑まれてしまう。
だんだん薄れていくその意識の中、かすかに男か女かわからない歌声のような声が聞こえた。
『あなたは、特別な存在』
『橋となるべき、崇高な存在』
『生きて、その身を、、、』
ああ、また、、、
また、この声だ、、、
その声は、薄れゆく意識とともに深い闇の底へ消えていく。その中で、必死で足掻くようにその声に語りかける。
待て、、、行くな、、、お前は、、、お前は一体、、、
「誰!なん、、、だ、、、」
夏特有の蒸し暑い教室の中、八幡直弥は突如大声をあげて立ち上がった。
数学の授業中だったその教室は静寂に包まれていたため、その声は教室の隅々まで響き渡る。
案の定、教室中の驚きが含まれた目線がこちらへと向けられた。
寝起きではっきりとしない頭でも、自分がどれほどの失態を犯したのか、はっきりわかった。
それに答えるかのように、呆れ顔で教卓に立つ教師が、直弥にこう告げた。
「、、、えー、八幡直弥。放課後私のとこまで来なさい。」
失笑が湧く。恥ずかしさで周りも見れない直弥は、真っ赤になった顔を伏せ、ゆっくりと席に座った。
寝ている間に床に落としてしまったノートを拾おうとすると、前の席にいた小学校からの親友、横井亮太が、後ろにいる直弥の方を見て、意地悪そうに笑っていた。
「お前、やっちゃったな」
細い眉毛に二重の澄んだ瞳と、きれいな唇。さらさらな前髪と、サッカー部に入っている影響で、細身ながらに引き締まった体つきの彼は、他の人から見るとどこか韓流アイドルのような印象を受けるようで、女子からの評価は高かった。
だが、直弥からしてみればどうしても亮太にそんな印象を抱くことができない。11年以上も一緒にいれば、他の人には見せない彼の一面をどうしても知ってしまう。それでも嫌いになれないのは、彼の持ち前の明るさと話しやすさ故だろう。
さもめんどくさそうに直弥は亮太を見据え、吐き出すようにつぶやいた。
「そりゃどうも。お褒めに預かり光栄です。」
「んだよめんどくさそうな顔して。長い付き合いだろ?」
「11年もたちゃ腐れ縁だろ。」
「ひっでー。イケメン様とは思えない発言だな」
特に傷ついた様子もなく、特大ブーメラン発言をした友人を傍目に、黒板の方へ目線をちらりと送る。その瞬間はっとして、急いで亮太に向き直った。
依然として後ろを向いている亮太は、そんな直弥の様子がおかしかったのか、ふっと笑った。
「どうしたそんな焦って?授業の内容寝すぎて意味わかんねぇってことか?」
「あー、、、亮太?一旦前見たほうがいいかも。」
「は?前?なん、、、」
そこでようやく周りの異様な静けさに気づいたのか、一瞬で顔をこわばらせ、ゆっくりと振り返る。
そこにはもっと呆れ顔になった数学教師が、亮太を一直線に見据え、こう言い放った。
「横井亮太も、あとで私のとこに来なさい。」
***
職員室というのは、なぜこんなにも涼しいのだろうか。
一説によれば、パソコンからの熱気で空気が温められるために、常に冷房が効いているというのを聞いたことがあるが、それだけではないのではと、直弥は思う。
例えば、二人の生徒を説教する教師が、その心理ストレスにより体温が上昇し、冷えた職員室内で汗を流し、うちわを仰いでいる、そんな可哀想な彼のためでもあるのではないか、と。
直弥と亮太は、先刻の数学教師を目の前に、約30分もの間説教を食らっていた。
中年で小太りなその数学教師はとにかく話が長いことが有名で、最初の10分ほどは直弥も真面目に聞いていたのだが、そこからその教師の昔話が始まった頃には、正直もううんざりしていた。
それは亮太も同じようで、そんな二人の不遜な態度が気に入らないのか、その教師はさらにヒートアップし、約半時間もの間、こうやって冷え切った室内に立たされる状況となった。
「あのなぁ八幡、お前この前の数学のテストの点数わかってんのか?」
「大体、、、40点ぐらいですかね、、、」
「32点だよ悪あがきすんじゃねぇ」
中年教師は気だるそうに右手で赤ペンを回しながら直弥の前回のテストのコピーを見せつける。
「大体なぁ八幡、まだ前回だけこんな点数だったら俺もとやかくは言わないさ。でもお前この点数とんの何回目だ?」
もう受け答えすら億劫に感じていた直弥だったが、ある可能性が脳裏によぎる。それを回避するため、教師にこういった。
「でも先生、逆に考えませんか?」
「逆に、、、?」
「逆にこんだけ低いってことは、まだまだ伸びしろがあるってことですよ」
中年教師は一瞬キョトンとした表情を見せ、それから呆れた顔で赤ペンを机に置き、ため息を吐いた。
直弥が何を求めているのか察したのか、亮太は一瞬ふっと笑い、綻んだのを自覚したのかすぐに表情を引き締めた。
直弥は背中に冷や汗をかきながらこう続ける。
「その伸びしろを生かすためにも、やっぱり勉強時間って大切じゃないですか」
「、、、」
「、、、だからぁ、、、そのぉ、、、反省文はぁ、、、」
すると中年教師はうつむいていた顔をこちらに向け笑顔でこういった。
「、、、お前ら舐めてんのか?」
***
そこからのことは、話すまでもない。
中年教師の怒声を浴びながら400字詰めの原稿用紙3枚を受け取った直弥は、そこから1時間の説教の末、ようやく職員室から開放された。
先に直弥が逃げるように出、その後にふてくされた表情で亮太が出てきた。
「なんでお前の反省文のくだりを『お前ら』なんて一緒くたにすんだよあのじじぃ。」
「それって俺への恨みもあるよな、、、?」
「帰りにアイス奢れ。それで原稿用紙1枚分は許してやる。」
そう言いながら手元の3枚の紙をこちらに寄越そうとしたので、それを丁重に断りながら自教室を目指す。
二階へと上る階段に差し掛かったとき、突如亮太がおかしなことを言ってきた。
「お前、うちの部活入れよ。」
「は?なんでだよ」
「お前顔も運動神経もいいんだし、きっとモテるぞ。実際お前のことかっけぇっつってる女子も少なからず見かけるしな。」
いつのまにか自分より先に行く亮太を追いかけながら答える。
「どこがだよ。第一俺は帰宅部ラブだし、運動神経も人並み、彼女は、、、まあ、あれだけど。」
「あれってなんだよ。あとな、去年のシャトルランの160回が普通だって言うなら人類みんなオリンピックは余裕だろうが」
「あれは運が良かっただけだ」
「シャトルランに運もへったくれもなくないか、、、?」
結局世の中顔か潜在能力だよなぁ、、、などと嘆いている亮太を華麗に無視していると、いつの間にか教室がある3階についていた。
教室前まで行き着いた二人は、そのまま後方の引き戸を開ける。幸い鍵はかかっていなかったが、中は無人で静まり返っている。ほのかに薄暗い黄昏時の教室を見て、時間の経過をほんのりと感じた。
窓辺の、自分の机に向かう。置かれている通学鞄が待ちくたびれたと言いたげに、持ち手の部分をだらしなく垂らせていた。
直弥は職員室に向かう前、すでに説教が長引くと予想済みだったので事前に帰りの準備は済ましていたが、亮太の方は机の上にプリント類と教科書の山が出来上がっているため、今から彼はその片付けに勤しまなければならず、そんな彼に直弥は軽く罵声を浴びせた後、ふと窓の外に目をやった。
オレンジ色の雲と濃藍色の空が、見知った街を覆っていた。遠くに招福商店街の明かりがちらつき、そのまたさらに遠くに、中心街のビル群がどこか誇らしそうにそびえ立っている。いつも見ている街の、夜の顔がそこにあった。
ふと、校門付近に一人の女子生徒が立っているのが見えた。その女子生徒はなにか待つように門にもたれかかり、耳元にスマホを当て誰かに連絡を取っているらしかった。長い髪の隙間から見える肌は驚くほど白く、全体的にすらっとした体型で、けれども不健康さは微塵も感じられない。
後ろ姿をひと目見ただけで美しいとわかる、そんな女性だった。そんな彼女を直弥は知らないわけではなかった。
「日下部純麗、、、」
約一週間前に転校してきた日下部純麗は、別に芸能人でもなければ名のしれた有名企業の令嬢というわけでもない。しかしその名を聞いて知らないという生徒はおそらくこの学校にはいないだろう。
彼女をそこまで有名たらしめたのは、一言でいうと容姿だ。
すらっとした足に透き通るような白い肌、ふくよかな胸元とまるでお手本のような顔立ちの彼女は、きれいなどというありふれた言葉じゃ表現できないほどの美しい人物だった。
彼女は容姿だけでなく、成績も優秀で運動神経もずば抜けてよく、才色兼備という言葉を具現化したような人物だった。そんな様子なので、日下部純麗を狙う男子たちも数多く、転校してから約一週間もたたずに一躍有名になった。
だが、彼女は一切の素性は不明で、さらに人と関わろうとせず、逆に関わり合いになろうとした何人もの男も女も鋭い眼光で返り討ちにあったという話は有名であり、友人を侍らせている様子もないことから、影で「氷姫」などと呼ばれていた。
直弥も噂程度には聞いていたが、ここまでしっかりと姿を見たことはなかった。だがひと目見て、ここまで噂になる理由がわかった。彼女の美しさは万人の目を奪う、そんな気がして、、、。
すると、通話が終わったのか、純麗と思しき女子生徒は耳元からスマホをはなし、突然こちらへゆっくり振り返った。
一瞬、目があった気がした。小さな輪郭と、桃色の唇、そして整った目元は驚くほど冷たく、鋭かったような印象を受けた。
だがそれも一瞬に過ぎず、直弥は焦って視線をそらした。
胸が高鳴る。なぜこれほどまで緊張しているかは直弥もわからなかった。だが、鼓動が抑えられないのも事実で、自身もかなり困惑した。
亮太は依然とロッカーに荷物を詰め込んでいる最中で、幸いこちらには意識はそれていない。それを確認した後、もう一度彼女の方へ目をやった。
だがもうそこに純麗の姿はなく、代わりに、いつの間にか校門前に止まっていた黒いベンツの後部扉が閉まり、そのまま静かに走り去っていった。
ぼーっとその車を目で追っていると、いきなり首に腕を回され、亮太が顔を覗き込んできた。
「お前さっきから何見てんの?用意終わったから帰るぞ」
「っ、、、!ちっ、びっくりしたぁ。ひと声かけろ馬鹿。」
「32点にだけは言われたくないな間抜け。」
むっとしたが、亮太は気にした様子もなく、通学鞄をだらしなく引っ提げて持ち、出口へ向かっていった。
直弥もカバンを持ち、後を追うように出口へ向かうが、一度だけ立ち止まり、後ろを振り返った。
そこには先程よりも濃い藍色の空と、先刻も見た、何の変哲もない生まれ育った故郷の夜があるだけだった。
***
揺れる車内で、彼女は再びスマホを手に取る。そして素早い手つきでまた誰かに通話をかけた。
「、、、もしもし、、、ああ、そっちはやっと見つけた。まあだいたいだけど。」
事務的にそう告げる声は齢17にしては妙に大人びていて、だがどこか清楚さも感じられた。
「、、、私がそんなことすらわからないとでも?」
運転手は一切口を開かず、ただ車を運転するだけだった。その他の雑音も皆無のため、彼女の声だけが車内に反響する。
「、、、問題ない。全部予定どおりだよ。」
足を組み替える。その動作ですら、衣擦れ一つ音がしなかった。
「、、、さすがだね、、、そう、報告のやつ、、、私も疑った。そんなの私も見たことがない。」
今度は少し困惑したような声でそう告げる。いつの間にか車は高速に乗り、周りの建物もだんだん背が高くなっていった。
「、、、ありえるんでしょ、実際いたしね、、、でその件も含めてどうすれば、、、何その適当な指示、、、いや、別に、、、まあ、適宜善処するよ。」
少しめんどくさそうに言う。そして、
「、、、え、名前?、、、ああそれのね、、、」
彼女は少し間をおいて、こう告げた。
「八幡直弥」
***
帰宅した直弥は、疲れた様子で階段を上り、自室の扉を開けて制鞄を床に投げ捨て、着替えずにそのままベッドに倒れ込むように横になった。
原稿用紙を書きあげなければと思いつつ、いつの間にか彼は眠りについていた。
彼の目を覚ましたのは階下で母が夕飯を告げる声だった。
ゆっくりと体を持ち上げ、部屋着に着替えて自室を出、階段を下りリビングに行くと直弥の母・八幡好美が料理を載せた食器を運んでいた。
目をこすりながらリビングに入ってきた直弥を見て、好美は口を開く。
「あら、寝てたの?」
「まあ、ちょっとだけ。」
「そう、、、疲れてるのねぇ若いのに、、、」
マイペースにそう言いながら好美はふたたびキッチンに戻り、次に新聞に目を通していた直弥の父・八幡柊矢がこちらを老眼鏡越しにちらりと見た。
「おい直弥、顔洗って風呂入ってる楓に飯のこと言ってこい。」
「ああ、わかった、、、」
言われるがまま直弥はリビングを出て洗面所に行く。
スライド式の扉を開けると、風呂から上がったばかりの直弥の妹・八幡楓が体を拭いているところだった。
楓は特に驚いた様子もなく、2歳年上である直弥のことを軽く睨む。
「変態お兄ぃ、ちょっとは気ぃ使ってよ。」
「誰もお前の体なんか興味ねぇよ。」
「うわキモ、、、そんなんだから彼女いないんだよ。」
そう言いながらも特に傷ついた様子を見せずに部屋着に着替える楓を尻目に直弥は顔を洗う。
水の冷たさを肌に感じながら蛇口を締めて水を止め、顔を拭いてなんとなく鏡を見た。
そこには少しつかれた顔をしている直弥の顔があり、まだ少しある眠さを吹き飛ばすため彼は何度か両頬を軽く叩いた。
その様子を見ていた楓は軽蔑した目で直弥にこう言った。
「なにしてんのキモお兄ぃ」
「年上には敬語使え受験生」
「まあなんでもいいけど頭乾かしたいからそこどいて。」
「、、、ほんと冷たいよなぁ」
「どの口で言ってんの?」
直弥は楓にご飯ができていることだけを伝えてリビングに戻った。
リビングに戻ると机にはハンバーグがおいてあり、直弥は急に空腹感を覚えた。
柊矢の向かいの席に座り、しばらくして楓も直弥の隣に座り、一家全員が席について全員でいただきます、と言って直弥は食事に手を付けた。
ハンバーグを箸で少し取り分け、白ご飯とともに口に運びながら、しばらくはテレビの音だけが響く無言の空間で食事を楽しんでいた。
すると不意に好美が口を開く。
「そういえば直弥、来週の祝日学校あるって聞いたんだけど」
「え、、、あ、そうそう、何かで休みになった振替。」
「あらぁ可哀想にねぇ、、、」
さも他人事かのように言う好美に、直弥はなにか物申してやろうかと思ったが、よくよく考えれば確かに他人事なので口をつぐんだ。
すると真横に視線を感じ楓の方を見やると、彼女は意地の悪い目でこちらを見ていた。
「かっわいそ〜お兄ぃ、せっかくのお休みなのにねぇ?」
少しイラッとした直弥は、楓に言い返す。
「受験生は勉強に専念すべきなんじゃねぇの?」
「大丈夫、受験末期に徹夜してしんどい思いしてたお兄ぃと違って私は日頃からやってるもーん。」
「おい一言余計だろ。」
「だって事実じゃん?」
「それは、、、そうだけどな?いやでもいま俺が通ってる高校別に馬鹿じゃねぇよ?」
「通ってるとこはそうかもだけど今だってお兄ぃ勉強やばいんでしょ?」
「別に普通だけどな」
「へぇ、、、普通、なんだね?」
その意味ありげな楓の視線に直弥は一瞬たじろぎ、嫌な予感を感じた。
その嫌な予感は見事に的中し、楓は不敵に笑いながら懐からなにか取り出した。
「じゃあ、これな〜んだ?」
楓が取り出したのは、赤い文字で「32」と書かれた、つい先刻中年教師から突きつけられたテストだった。
「ちょおまっ、、、!」
「ママ〜、これなんかお兄ぃの部屋にあったんだけどどう思う〜?」
「あらぁすごい点数ねぇ、、、」
少し驚いた様子で見る好美と無関心と言わんばかりにテレビに釘付けの柊矢に少し冷や汗をかきながら直弥は必死に言い訳を考える。
しかし好美はマイペースに明るい顔でこう続ける。
「でもいいじゃな〜い!まだまだ伸びしろあるってことじゃないの!大丈夫、お父さんなんか高校時代点数一桁叩き出したことあるんだもの!」
「ちょ母さんそれは言うなって」
今までテレビに釘付けだった柊矢が焦った様子で好美を見る。一応聞き耳は立てていたらしい。
「別にいいじゃない昔のことなんだからぁ」
「子どもたちの前でその話されるとな、、、」
「えなになにパパもしかしてその話ホントなの!?」
「いやそれはだな、、、」
タジタジになる柊矢の様子を見て、ターゲットが外れたことに安堵して1人食事を再開する。
先に食べ終えた直弥は一足早くごちそうさまといい、食べ終えた食器を台所に持っていって洗い、机の上に放置されているテストを回収して自室に戻る。
階段を登る途中、後ろで好美が「勉強するのよ〜!」と言ったので、片手を上げて返事をした。
自室に入った直弥は、めったに座ることのない勉強机の前に座り、先刻中年教師からもらった原稿用紙にペンを走らせる。
「反省文」という題から書き始めた直弥は、面倒くさいという思いと、こんなものを書かされているという恥ずかしさを胸の奥に押し込め、書く手をすすめた。
約50分ほどで2枚ほど書き終えたころ、突然後ろの扉が2度ノックされた。
驚いた直弥は急いで書いていた原稿用紙を机の引き出しにしまい、後ろを振り返ると、開いた扉から楓が顔を覗かせた。
「、、、お兄ぃ、今時間ある?」
「ど、どした?」
楓は直弥の自室に入り、扉を締めて直弥に疑いの目を向ける。
「、、、今なんか隠した?」
「い、いや別に、、、」
「、、、まぁなんでもいいけど、ちょっとだけ相談があるの。」
楓が急に真面目な顔になったので、直弥はすこし身構えた。
「どうした?悩み事かなんかか?」
「まあ、悩みごとっちゃ悩み事だけど、、、あの、、、」
歯切れの悪そうな様子でうつむく楓を見て、直弥は優しくゆっくりでいい、と声をかけた。しばらくの沈黙の後、楓は再び口を開く。
「お願い、、、なんだけど、今から言う事お母さんとかお父さんとかも含めて誰にも言わないでね?」
「、、、ああ、約束する。」
「あのね、、、勘違いかもしれないんだけどね、、、」
一瞬のためらいののち、覚悟を決めた様子で楓は続ける。
「2,3週間くらい前から学校の帰りに誰かに追いかけられてる気がするの、、、」
「、、、は?」
「なんかね、帰ってる途中で友達と別れたあとからうしろに誰かの気配がするの、、、」
「勘違い、、、とかじゃないのか?」
「わかんない、、、でも、今でも後ろに気配を感じるからたぶんホントだと思う。でも振り返っても誰もいないの、、、」
「警察とかには相談したのか?」
「してない。したら親に迷惑かかると思って、、、」
今にも泣きそうな顔で楓はそう説明する。落ち着かせるために彼女をベッドの際に座らせて背中をさする。
「まぁ、、、なんだ。その、とりあえず俺に勇気持って相談してくれてありがとな。」
「うん、、、っ」
つらつらと涙を流しながらうつむく楓の隣に座り、背中をさすりながら直弥は続ける
「でも、それがもし勘違いじゃないなら間違いなくストーカーだし、それはもう警察か、警察が嫌なら親には最低でも相談するべきじゃないか?」
「、、、」
「、、、今日の帰りは、どうだったんだ?」
「たぶん、いなかった、、、」
「わかった、明日お前休みだろ?」
「、、、うん」
「じゃあ、週明けから一緒に帰ろう。二人だったら襲われる心配も減るし、もし俺がつけてるやつ見つけたらとっ捕まえてやるよ。」
ふふっ、と微笑んだ楓を見て、少しだけ安堵した直弥は近くにあったティッシュ箱を手に取り、彼女に手渡す。受け取った楓はティッシュを何枚か手に取り、涙を拭き取った。
そして楓は口を開く。
「ありがと、ちょっと安心できた。ずっと怖かったから話せてちょっとスッキリした。時にはお兄ぃも優しいじゃん。」
「おいだから一言余計だろ。」
あははと楓は笑い、立ち上がって再度直弥に感謝の意を伝えて部屋をあとにした。
楓がいなくなった後、一人になった直弥はふと反省文のことを思い出し、引き出しから原稿用紙を取り出して残りの分を仕上げた。
書き終えると急に一日に疲れがどっと来てまぶたが重くなったが、そのまま寝るわけにはいかないので、着替えの寝間着を手に自室を出て浴室に向かった。
服を脱いで浴室に入り、体を軽く流してから湯船に浸かる。
ストーカーか、ぼーっと天井を眺めながら直弥はそう考え込む。
たしかに楓は顔立ちは整ってるし、狙われてもおかしくはないだろうけど、、、でも今まで実感湧かなかったけどほんとに現実にストーカーなんているんだな、、、
いや、そんなことはどうでもいい。俺の家族のことを狙うやつは絶対に許しちゃだめだ、、、!
しばらくそんなふうに考えながら、直弥は悩む。
でも、やっぱり親には言ったほうがいいんじゃないか?ストーカー被害にあってるなんて、高校生と中学生のふたりだけじゃ解決どころかむしろもっと危ないような、、、
いや、楓も姿は見てないって言ってるから、勘違いの可能性もあるし、、、よし、やっぱりこの目で見てからにしよう。楓との約束もあるしな、、、
そういう結論に至り、彼は決意したような顔で目を閉じた。
そして彼は湯船から出て体や頭をを洗い、バスタオルで体を拭き取って浴室を出、寝間着に着替えて頭を乾かし自室に戻る。その瞬間、突如として睡魔が直弥を襲い、それに従うままに眠りについた。
1週間後
あれから、楓とともに帰るようになったが、特に怪しい人物の気配は感じられず、最近になって楓も気の所為だったかもと安心しきるようになった。
だが同時期から、亮太が学校を休みがちになった。来ても早退を繰り返し、心配になって何があったか訪ねても体調が優れないとだけ言い、挙句の果てにはここ一週間連続で休み続けている。
一番心配だったのはあの説教を受けた次の日だった。あの日、彼が登校してきたのは10時を回ったあたりだった。
2時間目が始まって数分、勢いよく前方の扉が開け放たれたと思ったら、それは制服をだらしなく着た亮太だった。
普段からてきとうな彼だが、身だしなみ等はしっかりしていて、不潔というわけではなかった。だがその日の彼は、髪はボサボサ、制服はボタンがずれ、ネクタイはほとんどつけれていないも同然の不潔ななりだった。
その時の教師はあの中年教師で、案の定呆れたように遅刻理由を訪ねていたのだが、それに対し亮太が放った一言。
「うるさい」
予想外の一言に、教師が呆気にとられていると、近場にいた女子に彼はこう訪ねた。
「俺の席、どこ」
無論困惑する女子生徒に、今度は強い口調で
「どこって聞いてんだよ!」
そのまま殴りかかろうとまでした亮太を中年教師が羽交い締めにして止め、そのまま廊下へ連れ出した。
怒鳴られた女子生徒は泣き、直弥含め亮太のことを知っている男子は困惑した。その後教師と亮太は帰ってくることなく、その授業は自習になった。
あとから聞いた話だが、その後中年教師を馬乗りになってまで殴りつけて前歯を折り、亮太は3日間停学処分になった。そしてその頃から、ほとんど学校に来ることはなくなった。
一度大人たちから事情聴取を受ける機会があった。だが彼の心境の変化など直弥自身知るはずもなく、わずか10分程度でその聴取は終わった。その際に、停学になったと初めて知った。
あの事件後、どこか女子らの風当たりが強くなったと時々感じる。常日頃亮太とともに過ごしたせいで、同じ穴の狢と思われてるんだと、他の男子生徒から聞いた。
そんなことは正直どうでも良かった。いまはひとまず、亮太の身に何があったか知りたい。だが、楓の件もあり、家に押しかけるなどはできず、そのまま1週間が過ぎた。
いつも通り、自教室の扉を開ける。男子からはおはようと返ってくるが、女子からは遠くで冷ややかにこちらを見る視線を感じる。
前の席は今日も空席だった。かれこれ顔を見せないで1週間を過ぎた。季節外れのインフルエンザ、というわけではなさそうだ。
始業のチャイムが鳴る。今日こそはいつもの亮太が来るのではないかという期待半分、来ないだろうという諦め半分で、直弥は授業に臨んだ。
1限の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
起立の号令がかかり、皆気だるそうに立つ。そして礼を済ませると一気に空気は弛緩し、皆次の授業の準備を仕出した。
例に漏れず直弥も鞄を机の上に置き、その中から荷物を取り出す。相変わらず前の席は空席であり、前から変わらずに積み重ねられた教科書類だけがそこにあった。
本当に何があったんだろうか、ぼうっとそう考える。やはりあの出来事がきっかけで学校に来にくいのだろうか。
楓は今日は学校が休みであり、一緒に帰る必要はない。それならば、今日こそ彼の家を訪れよう。それで元気そうならば、アイスの一つでも奢ってやろうか、そう考えているうちに時間が経ち、いつの間にか教室に入ってきた教師が授業を始めた。
それは突然だった。とても大きく、乾いた物音とともにガラスが砕け、同時に前に立っていた教師が突然横に倒れたのだ。
眼の前の出来事に、その瞬間は誰も反応できなかった。だが、その教師から吹き出た赤黒い血を見た途端、教室内は一瞬の困惑の後にパニックに陥った。
すると、勢いよく教室の扉が開かれる。そこには、据わった目をした横井亮太がいた。
女子の悲鳴が響く。そのまま亮太は一人の女子生徒へ近づき、そのまま羽交い締めにしてその側頭部に教師を撃ったであろう拳銃を突きつけた。
奇しくもその女子生徒は以前、亮太が詰め寄って思わず泣き出してしまった彼女であり、前と同様涙で顔がグシャグシャになっていた。
男子も女子も、彼女を助けたい気持ちでいっぱいだったが、それよりも怯えが勝り、その結果誰ひとり動けずにいた。
遠くの方でも悲鳴と発砲音が聞こえる。仲間がいるのだろうか。だが、横井と違ってほかでは無差別に発砲している気がして、直弥は戦慄した。
そのまま亮太は大声で話しだした。
「呻くな!泣くな!黙って聞け!この教室内に八幡直弥なる人間がいるはずだ!そいつだけは黙って手を挙げろ!」
ビクリと体を震わす。目的がまるで見えない。もしかしたら殺されるかもしれないと考えると、迂闊にも手を挙げられなかった。
苛ついた声でまた亮太が怒鳴る。
「早くしろ!さもなくばこの女の頭に風穴を開けるぞ!」
「いやぁあ!!」
女子生徒は激しく身を捩る。だが亮太の力は強く、ピクリとも動かなかった。
「うるせえなこのアマ!死、、、」
「ま、待て!俺だ!俺が八幡直弥だ!」
焦ったようにそういった直弥の言葉を聞き、亮太は引き金にかけていた指を離す。女子生徒は過呼吸に陥り、腕の中で苦しげに息を吸っていた。
「そうか、ならば何も持たずにこちらへ来い。なにか持っていた場合、即刻こいつを殺す。」
「わ、わかった、、、!」
一歩一歩、ゆっくりと前に進む。緊張した面持ちでクラスの面々はその様子を見届ける。そうして横井の近くにたった直弥に向かって、横井は冷たく言った。
「はっ、正直だなお前は。本当に何も持ってないじゃないか。こうなることは予想できただろう?」
そう言うと、横井は羽交い締めにしていた女子生徒を突き飛ばし、その後頭部へ銃口を向けた。
「助け、、、!」
彼女がなにか言い終わる前に、その銃口が火を吹く。射出された弾丸は、まっすぐ彼女の頭を撃ち抜き、大量の血を吹かせる。絶命は明らかだった。
あまりの惨劇に、直弥は思わず目を覆う。他の生徒は腰を抜かしたり、半ば半狂乱で教室から出ようとした。
そんな様子を楽しむかのように、亮太は片手を上げ、それを振り下ろす。
その瞬間、廊下側の扉や窓が一気に開き、そこから普通の服を着た、見るからに一般人らしき大人数名が、その姿に見合わないような、黒光りするサルトライフルをその教室内にいる生徒に向ける姿が見えた。
悲鳴を上げる間もなく、一気にそれらは火を吹く。マズルフラッシュとともに射出される無数の弾丸は、容赦なく直弥のクラスメイトらを無惨に襲い、腕や足、または顔の一部などがいたるところに飛び散って、その教室を赤黒く染め上げた。
直弥を除く誰一人として、逃げられたものなどいなかった。すべての死体が原型をとどめず、床には臓器や体の一部、おびただしい量の血液で溢れかえった。
しばらくして、耳をつんざくような銃声が鳴り止む。静まり返った教室で、唯一亮太だけが笑っていた。
「いやー絶景絶景!これが見たかったんだよこれが!はははっ!!」
直弥は、眼の前の景色が現実だと思えなかった。仲の良かったクラスメイトや、将又あまりはなしたことのない女子、いつも明るかった男子、なんだかんだ優しかった教師、その全員が、今目の前で苦痛の表情を浮かべ、悉く死んでいるのだ。
もはや怒りなど湧く気力さえなかった。空虚な悲しみだけが胸を満たし、掻き乱す。
亮太は依然狂ったように笑っていたが、一貫して目は笑っておらず、震え上がるような冷酷さは抜けていない。
そうしてひとしきり笑った後、亮太は廊下にいる大人たちに向けてこう指示を出した。
「こいつを例の場所まで連れて行け。絶対に傷つけるなよ。」
無言ながらも、その大人たちは教室へ踏み込み、腰を抜かす直弥を引き立てようとする。
そして気がつく。その大人のうち、一人に見覚えがあった。
「父さん、、、!?」
八幡柊矢は、光のない目で直弥を見据え、力強くで直弥を引き立てる。
それに抵抗しながらも、直弥は必死に呼びかけた。
「父さん俺だよ!なんでっ、、、くっ、、、!」
抵抗も虚しく柊矢に引き立てられた直弥は、そこで初めて激しい怒りが胸に迫った。
「亮太てめぇ!何しやがった俺の家族に!!」
「大声出すな。場が白けるだろ。」
「ふざけたこと抜かすんじゃねぇ!何が目的でこんなこと、、、!」
「うるせぇなガキ、ろくに戦場も知らねぇで何抜かしてやがる。無知極まりない。虫酸が走る。本当ならまっさきに殺してやりたいぐらいだ。」
「お前、、、一体どうしちまったんだよ!?」
「あとな、俺は横井亮太なんかじゃねぇ。人間なんざと一緒にすんじゃ、、、」
亮太が言い終わる寸前、いきなり廊下とは反対側の窓ガラスが割れたと同時に、小さな人影がそこから飛び込んできた。
その教室内にいる全員がぎょっとしてその窓付近を見ると、そこには小柄な、鳴矢高校の制服を着た女子が拳銃を片手に立っている。
あの姿、何度かみたことがある。転入してから数日で有名になり、影で氷姫などと呼ばれているあの、、、!
「日下部、純麗、、、!」
日下部はその瞬間、姿勢を低くしてこちら側に突進してくる。周りにいた大人たちは亮太を守ろうとアサルトライフルの銃口を日下部に向けんとするが、それを容易くはねのけて、日下部は逆にその大人たちを次々と屠ったり気絶させたりし、結果わずか1分足らずで、教室内にいた十数名の武装集団が、柊矢含めたった2名まで減った。
焦ったように亮太は柊矢とは別の、もうひとりの若い不良のような男に日下部を殺すよう命じる。その男は190cmはあるであろう身長と、とても大きな肩幅から、日下部はもちろん直弥や亮太ですら容易に越す体格をしている大男であった。
そんな男は持っていた銃をかなぐり捨て、ゆっくりと彼女へ歩み寄った。
直弥はその絶望的状況を見守ることしかできなかったが、当の本人である日下部は涼しい顔をしながら乱れた髪をかきあげ、なにか呟いた。
男が腕を振り上げる。その瞬間、すっとその男の懐へ入り込んだ日下部は、脇下を指先で強く押す。その瞬間男は小さな悲鳴を上げてそこにうずくまった。それを逃さず、日下部は、その細い足からは想像もできないほど強い蹴りを入れた。
鼻血を撒き散らしながら上を向いたその顔に容赦なく一発撃ち、その瞬間男は弛緩して地面にぐったり倒れ込んだ。弾丸は、顎下から脳天まで貫通していた。
その死体を日下部は静かに見下ろす。目に哀悼の意が感じられた。逆に亮太は先程からは考えられないほど焦り、手に持っていた拳銃を震えた手で構え、撃つ。
だが、狙いが定まらないのか、弾は明後日の方向へ飛んでいく。それが更に亮太の焦りを誘い、震えた声でこういった。
「なんで、、、聞いてねぇぞそんなこと!!」
日下部はゆっくり亮太の方を向く。その目は憎悪の色をしていた。
「私別に何も言った覚えないんだけど。」
「まさかお前、、、嘘だ、なんでここにいるんだよ!出てきていい人間じゃねぇだろ!!」
「なんだ、私のこと知ってたうえでやったと思ったのに、残念。」
また亮太は引き金を引く。今度はまっすぐ日下部の方へ飛んでいったが、彼女は首を傾げるようにしてその弾丸を避けた。
「くそがっ、、、死に晒せこのクソアマ!!!」
立て続けに3発、亮太は弾丸を撃ったが、それも悉く日下部に避けられてしまう。彼はまた引き金を引こうとしたが、その拳銃からは金属音が虚しく反響するだけで、弾丸が射出されることはなかった。
それを見た日下部は不敵に笑った。
「ベレッタは手に入れやすいし、撃ちやすくていいよね。私も好き。」
「黙れ!黙らないとこいつを殺、、、!」
「殺せるのならどうぞ?私には何ら関係もないし。」
「こっ、、、のクソ女!俺を甘く見てると、、、!」
また重い銃声が2発響いた。1発は亮太の肩、そしてもう一発は、、、
「と、父さん!」
直弥を後ろで羽交い締めにしていた柊矢は、日下部が発砲した直後直弥と共に崩れ落ちた。
他の死体と同様、額の真ん中に小さく穴が空いた柊矢は、虚ろな目のままピクリとも動かない。
直ぐ側で父が撃たれた、その現実を受け入れるのにはそれ相応の時間がかかった。
その間、直ぐ側で二人がなにか言い争っているのが聞こえたが、それが直弥の耳に届くことはなかった。
しばらくして、激しい銃撃音の後、亮太は教室から逃走し、一足遅れてそれを日下部は追跡しだした。
激しい爆発音のようなものが聞こえた。教室の天井が倒壊しかかっているのに気づいたのは、それからそうも経っていないときだった。
焦ったように立ち上がった直弥は、父を担ぎ上げようとしたが、体重差から簡単には持ち上がらず、悪戦苦闘する。
そうもしないうちに濃い煙が教室に流れ込み、息が吸えなくなった。焦りだけが募り、汗が額を伝う。咳が止まらない。咳き込むたびに、柊矢を抱えようとする力が弱まった。
その時にはもう、柊矢の手が冷たくなっていた。だが、どうしても信じられなかった。諦めたくなかった。信じたくなかった。焦りと悲しみと、燃えるような怒りをバネに、半ば半狂乱で叫んだ。
「父さん起きろ!!お願いだからっ、、、けほっ、、、目を、開けて、、、」
もう限界だった。息が吸えない。頬を伝う液体が、涙か汗かわからなくなった。いっそもうここで、俺も、、、
そう思った時、後ろから誰かに抱き寄せられ、柊矢をその場においたまま勢いよく教室から出、激しく廊下に転がった。
その瞬間、教室の天井が轟音とともに崩れ落ちた。さっきまでいた場所を、激しい炎が包む。教室内で幾重にも重なった死体は瓦礫に覆われもう見えない。唖然とその景色を見つめた。そのときになって、ようやく父の死を理解した。
もはや涙すら枯れて出てこない。絶望だけが胸を覆い尽くす。立ち上がろうとする気力すら湧き出てこない。これが悪い夢であればどれほど良かったか。いや、これはリアルな夢なのかもしれない。そうであるならば、強い衝撃や痛みを受ければ覚めるのではないか。例えば、目の前の炎に飛び込めば、、、
頬に衝撃を受け、はっと正気に戻った。じんわりと頬に痛みが走る。どうやら叩かれたらしい。横を向くと、屈強な体育教師が必死の形相で肩を掴み、語りかけてきた。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!!」
「先生、、、これは、一体、、、」
「俺もわからん、、、だが、まずは自分の命を大切にしろ!一階に行けば警察の方々が保護してくれる!そこまでお前は走れ!」
「でも、、、先生は、、、」
「俺は逃げ遅れた生徒らを救い出す!お前は先にいけ!!」
体育教師は言い終わるとすぐ、直弥を引き立てた。そのまま背中を押し、大声で逃げろと言う。その時、教師の数メートル後方、銃で狙いをすましている人影が見えた。
声を出す暇もなく、激しい銃声が煙まみれの廊下に反響する。教師は蜂の巣にされ、目を剥いたまま膝から崩れ落ちた。背中に無数にあいた銃創から、血が吹き出ている。もう何人目の死を見たのだろうか。
奥の人影が、今度はこちらに狙いをすますのが見えた。恐怖を感じるよりも、今すぐここから逃れなくてはという思いが体を突き動かした。
その人影に背を向け、必死に逃げる。同時に銃声がこだまし、耳元を銃弾がかすめる。落雷のごとく空気を切り裂くその音で、聴覚がおかしくなりそうだ。
弾が頬や肩をかすめる。鋭い痛みが襲うが、大きな怪我は負わなかった。そのまま角を曲がり、階段を駆け下りた。2階は避難する生徒の波で大混乱に陥っており、なかなか前に進むことができない。奥でなにやら濃灰色の軍服数名が、銃を携えあちこち走り回っているのが見えたが、襲撃者か警察かは判別できなかった。
そしてようやく1階についた時、床に転がっていた瓦礫に足を取られ、転んでしまった。地面に体を打ちつけ、少し遅れて鈍い痛みが体を襲う。口の中にじんわり血の味が広がる。すぐ横を、生徒らが駆け抜けていった。誰も直弥を助け起こそうとはしない。皆それだけ、生きるのに精一杯だった。
直弥もゆっくり立ち上がる。息も切れ切れだったが、それでも走り出した。
視界の端に職員室が見えた。やはり他の教室同様、中は死体で溢れかえっていた。ただ唯一違うのは、その死体すべてが教師だった。薄々気がついてはいたが、襲撃者らは無差別に人々を殺し回っているらしい。
必死で駆け抜け、ついに正門までたどり着いた。避難する生徒で付近は大混乱に陥っていた。そしてその奥、わずか20メートルほど先にある者たちの姿が見えた。
亮太と日下部は、共に追い追われの状態でその正門をくぐり抜けていった。追う側の日下部は手元の拳銃を隠すことなく追い続け、亮太は肩を押さえながら苦しげに逃げていた。
直弥はそのうちの、ある一点に釘付けになった。それは亮太の、押さえている肩だった。指の間から漏れ出ているのは、校舎内でいやというほど見た赤黒い血液ではなく、藍色の、ドロドロした液体であった。付近の人間は逃げるのに必死でその事に気がついていないが、明らかにそれは異常だった。
あれはなんなのか考えるよりも先に、本能があの二人を追わなければならないと、意思よりも先に体を突き動かした。
生徒の人混みをかき分け、追われ追いかける三人は校門をくぐり招福商店街へと移動する。前を行く亮太と思しき人物はそのまま路地へと入り、その後ろを日下部が軽い身のこなしで追いかける。そのはるか後ろを追う直弥はその路地に入るが、その瞬間立ち止まることになった。その路地は異常なほどに入り組んでいた。入口は三叉になっており、そのそれぞれ奥の道もまた三叉になっていた。
直弥は荒い息を整えながら、迷路のような路地の中をくまなく探す。しばらくの間周囲を探索していると、遠くからかすかに聞き覚えのない男の怒声がした。
直弥は声のする方へ小走りで向かう。
「、、、んだよ!なんでっ、、、!」
直弥が聞き取れたのはそこまでだった。
そこで男の声は完全に消え、激しい遠雷のような騒音と、なにか潰れる音と液体が撒き散らされるような音が響く。
直弥は更に歩調を速め全速力で向かった。
そして彼は広く開けた空き地に出た。その空き地で最初に見たのは、血濡れた小柄な少女の後ろ姿だった。その背中は先刻に見た日下部純麗と酷似していていた。
次に目に入ったのは地面や壁に撒き散らされた青い液体と、凄惨な異形の亡骸だった。
体長は3メートルほどあり、妙に艶のある深い青色の肌で大きな目玉は6つ、胴体にかろうじて繋がっているものもあれば、完全に胴体から外れて地面に転がっているものもあった。眼球が外れている箇所は黒い影に覆われており、そこからは地面を染めている青い液体が流れ出ていた。
また、そこら中に異形のものと思しき肉片があり、その場の惨状を物語っていた。
そして何より目を引くのは、純麗と思われる人物の足元に倒れている2人の人間だった。1人は10代くらいの女子で、顔が腫れ上がり、所々青あざが見えた。もう一人は4、50代の女性。首と胴体が分かれていて、その身体の近くに落ちている頭の表情は衝撃で固まったままだった。信じたくなかった。だが、その2人は先程と同様の見覚えがあった。
「母さっ、、、か、かえっ、、、で、、、っぷっ!?」
不意に熱いものが込み上げてきて思わず直弥はひざまずいて吐き出した。
妙に酸っぱい吐瀉物は異形の血と思しき青い液体と混ざり合って奇妙な色を作りだしていた。
すると不意に直弥の眼前に白色の肌が見えた。
見上げれば純麗が、光のない目でこちらを見下ろしていた。
「、、、君は、赤ずきんの童話は知ってるよね」
淡々と、かつ冷酷に言う純麗は昨日見た彼女とはまるで別人であり、今目の前にいる彼女は異形と同じくらい非現実的で、直弥にとってはもはや人間とは思えなかった。
「狼は赤ずきんとおばあさんを食べてぐっすり眠っている間に、猟師によって腹に石詰められて水に沈められたんだ。」
青い血を全身に浴びた彼女もまた、直弥を人として見ていないような目で見据え、その瞳は吸い込まれるような闇に酷似していた。あまりの恐怖で直弥は過呼吸になり、後ずさる。
「でももし仮に猟師がおばあさんの家に通りかからなかったら、赤ずきんもおばあさんもそのまま死んでたことになるよね。」
「はぁっ、、、!はぁっ、、、!」
「結局、何が言いたいかって、私に感謝してほしいってことだよ。」
「ぁっ、、、!」
恐怖でまともに声を発せず、声にならない声を上げる直弥に一歩近づき、純麗は話し続ける
「簡潔に言えば、今のこの状況は赤ずきんの童話に類似してるってこと。君の親友、、、横井くんだっけ?もしその子がこの肉塊だって言ったら君は信じれる?」
「は、、、っ?」
直弥は先程見た凄惨な亡骸を見やる。
だがどこをどう見てもそれは人間の形をしておらず、それが亮太だとは到底思えなかった。
そんな様子を見て純麗はまた口を開く。
「そうだよねぇ。それが横井くんだなんて思えないよね。だったら君は赤ずきんだ。親切なおばあさんかと思ったら中身は狼でしたってね。」
急に直弥になぜか怒りの感情が湧いてきた。
というより、感情を爆発させないと頭がおかしくなると無意識に判断した直弥は、その怒りに身を任せることにした。
「おまっ、、、ぐっ!?」
感情のままに純麗に殴りかかろうとしたが、突然何者かが自分の腕を背中に回され、足払いをかけられて地面に押し付けられる形で突っ伏した。
何が起こったか理解できず、その背中の方をちらりと見やると、そこにはマッシュヘアの男がいた。どうにか抵抗しようとしたが、その男はそれ以上に強い力で直弥を押さえつけてきて、ぴくりとも体を動かせない。
純麗は続ける。
「両足折られるかもだから動かないほうがいいよ。彼、こう見えても結構力強いし。」
「ぐっ、、、」
「そう、それでさっきの続きなんだけどね、あなたはおそらくそのままだと死んでた。誰かがあなたの殺害を望んでた。それは嘘じゃない。」
「信じ、ねぇぞっ、、、!」
「今は信じられなくても、直に嫌でもわかる。」
純麗は更に近づき、直弥の首元に手を当てる。
「最後に1つだけ、、、わたしの名前は桜田風音。目を覚ましたら私が誰なのか聞くといいよ」
そう耳元でささやきながら、彼女は直弥の首元に手刀を振りおろした。
***
意識を失った八幡直弥を見下ろしながら、少女―――桜田風音はマッシュヘアの男に声をかけた。
「そっちの処理は任せたよ、四阿。」
四阿と呼ばれたその男は微動だにせず、ただ短く御意。とだけ答えた。
その言葉を聞いた彼女は、気を失って地面に倒れる直弥を無感情に見据え、小さくつぶやく。
「八幡直弥、、、貴方は、、、」
その言葉は、誰にも聞かれることなく、曇り空の中に吸い込まれていった。
続く、、、




