18話 怖くないわけない
実戦形式の屋外訓練場は、校舎の裏手に広がる小規模な演習区域に設けられていた。起伏のある地面、配置された遮蔽物、そして散らばる銃痕や焦げ跡の残る壁。ここが、数多の模擬戦と訓練の舞台となってきた場所なのだと直弥は理解する。
無言のまま先を行く實妥の背を追いながら、直弥は自然と背筋を伸ばしていた。
やがて二人は、誰もいないトレーニング区画の中央に立つ。
「そこに立て。装備は一切不要だ」
言われるがまま、直弥は指定された位置に立った。冷たい風が頬をなでる。體はもう汗ばんでいた。
「お前は今からここで、『ただの人間』から抜け出す訓練を受ける」
實妥がゆっくりと歩きながら、手に持っていたデジタルパッドを操作する。その瞬間、周囲のスピーカーからけたたましい警報音とともに、いくつもの小型ドローンが姿を現した。
黒く丸いボディに赤いセンサーアイ。そのどれもが直弥に向けて浮遊している。
「――第一課題。“即応判断”」
實妥の声が落ちると同時に、ドローンのひとつが低空から高速で突っ込んできた。
「ッ!」
直弥は反射的に身をかがめる。すぐ横を鋭く風が切り、何かが背後の遮蔽物に突き刺さる音がした。
ただのドローンではない。いつしかウクライナかロシアかの戦争報道で見た、いわゆるUAVだ。非殺傷の訓練弾だとはいえ、当たれば普通に痛みを伴う。
「考えるな。感じろ。次だ!」
二機目、三機目と次々に襲いかかるドローン。直弥はもはや這うようにして回避し続けた。汗が噴き出す。呼吸が苦しくなる。だが、動きを止めれば終わる。
何度も転び、擦りむき、息を切らせながら――それでも直弥は立ち上がり続けた。
十分ほど経過し、やがて警報が止む。ドローンが空中でホバリングしたまま待機状態に戻る。
「……予想よりはマシだな。次に進む」
實妥は淡々と言った。
直弥の体はすでに泥まみれで、膝も肩も痣になっている。それでも、彼は一歩も退かなかった。
***
「……あれ? 直弥くん来ないね」
山盛りのカレーを前に、沙紀は首をかしげていた。手には二つ分のトレイ。片方はすでに冷めかけている。
「もしかして、實妥教官に潰されてないよね……?」
笑いながら言ったその一言が、なぜか胸の奥に小さな引っかかりを残していた。
***
日が傾き始めたころ、トレーニング区域にはひたすら泥と汗にまみれた直弥の姿があった。プッシュアップ、走り込み、反復回避、認識テスト。すべてが、限界を超えさせるために組まれていた。
「もう終わりか? 八幡直弥」
實妥の声が鋭く飛ぶ。
直弥は立ち上がった。もう足がふらついている。視界もぼやける。それでも――
「……ま、だ……です」
「ほう?」
「まだ……終わってません……教官……」
實妥はゆっくりと目を細めた。すでに直弥の限界はとっくに越えている。それでも立ち上がるその意志が、本物であることを、彼の目は見逃さなかった。
「……では、今日最後の一課題だ。付いて来い」
***
實妥に続いて、直弥は訓練区域の外縁部にある小さな屋内施設――簡易CQBルーム(近接戦闘訓練室)へと足を踏み入れた。周りは闇に包まれ、廊下には障害物や段差が入り組み、至る所にセンサーと射出機が仕掛けられている。
「ここは模擬弾付きの実戦空間だ。ルールは一つ。制限時間内に“奥の部屋”までたどり着け。敵は全自動のAI制御ドローンと、俺だ」
そう言うなり、實妥はスッと暗闇の中へと消えた。
直弥は思わず息を呑む。もう、疲労は限界だった。膝は笑い、心拍は不規則だ。だが、それでも――
(ここでやめたら、“見えた背中”に届かない……!)
奥歯を噛み締め、直弥は一歩を踏み出した。
直後、背後から鋭い破裂音。壁のスリットから模擬弾が発射される。間一髪で飛びのき、遮蔽物の影に転がり込む。足をぶつけた。痛い。しかし止まれない。
次々と迫るドローンの射撃。反射的に跳び、滑り、低姿勢で突き進む。何も持たぬ徒手のまま、遮蔽と記憶を頼りに前へ前へと突き進む。
(何かが聞こえた――!)
直弥はとっさに横へ飛び退いた。その瞬間、背後の闇からぬるりと實妥が現れ、コンバットナイフの柄を振り抜く。紙一重でかわした直弥に、實妥がわずかに目を見張る。
「……反応速度は上がったな。だが次はどうする?」
再び迫る氣配。直弥は、足を滑らせるふりをして低くしゃがみ込み、そのまま転がって隙間を抜けた。背後で、實妥の刃が空を斬る音。
走る。走る。ただ前へ。息が苦しい。手足がちぎれそうだ。それでも、奥の部屋の扉が視界に入った。
その瞬間――
「……そこだ」
耳元で聲がした。振り向く間もなく、實妥が背後から伸ばした手が直弥の胸を押さえ、地面に叩きつける――かに思えた。
しかし、直弥の膝が反射的に曲がり、倒れ込みながら相手の力を殺す受け身を取っていた。
ゴッ、と鈍い音を立てて床に転がるも、直弥はすぐさま起き上がる。
「……まだ、終わってません!」
最後の力を振り絞り、彼は扉に手をかける。
バタン、と音を立てて開いたその先。明るい蛍光灯の下、警告音は止まり、タイマーが“00:00”を示した。
「……クリア」
低く、實妥が呟いた。
***
「…えぇ…大丈夫…なわけないよね。」
人もまばらになった食堂。沙紀は直弥の顔を見て目を丸くした。
全身泥だらけ、痣だらけ。しかも足を引きずりながら、ようやく姿を見せたのだ。
「……なんとか、生きてます」
苦笑しながら、直弥が答える。
あの後ようやく直弥は實妥から解放され、すっかり暗くなった校舎内を、足を引きずってまでここまで来た。
その表情に、沙紀は何かを感じ取ったのか、ふっと笑った。
「…なんか顔つき変わったかも。少しだけだけど、“こっち側”の顔になってきた」
「……こっち側って、どっち側なんですか」
「こっち側はこっち側。つまり“闘う人間”の方。私たちのね」
彼女はカレーを口に含み、おいしそうに唸った。
「まあでも、ほんとに生きてるだけで偉いよ、今日の直弥くんは」
沙紀は自分のトレイに乗ったカレーをスプーンでつつきながら、直弥にそう言った。
「あんなにやばかったんですか、實妥教官って……」
直弥は向かいの席で、湯気を上げる味噌汁を啜りながら肩をすくめた。
「うん。あの人、実戦じゃ本物の化け物だからね。ていうかあの人に初日で当てられるの、普通に罰ゲームだよ?」
沙紀は冗談っぽく言ったが、そこには明らかに敬意と、少しの畏怖が混じっていた。
「でもあの人のあれ、一種の期待と愛情なんだよ。歪んでるけど」
「……そ、そうなんですか?」
「うん。啓さんって、興味ない奴には本当に一秒も時間割かないから」
「へえ……」
直弥はどこか照れくさそうに視線を逸らした。そんな様子を見て、沙紀は微笑む。
「なんかちょっと、最初に会った時と雰囲気違うかもね」
「自分でも……少し、そう思います。まだ全然、動きも遅いし、頭も回らないし……。でも、あのとき見た“背中”に、少しでも近づけたような、そんな気がして…」
「……背中?」
「模擬戦で、沙紀さんの動き、見てたんです。あんなに速くて、冷静で、強くて……なのに、ちゃんと仲間と笑ってて。正直、自分とは違いすぎて、怖いくらいだった」
沙紀は驚いたように目を見開き、すぐに苦笑する。
「そっか、そんなふうに見えてたんだ。うーん、照れる!」
沙紀はそう言って笑う。だが眼差しは、どこか遠くを見ているようだった。
直弥はどこか不思議に思い、こう問うた。
「……沙紀さんも、最初はやっぱり、怖かったんですか?」
その問いに、彼女は食べる手を止めた。数秒、何かを思い返すように沈黙し、それから口を開いた。
「……怖くないわけないよ。最初の訓練で、目の前の人が撃たれて倒れた時、足が動かなくなったもん。……訓練だってわかってても、すっごい怖かった。 …今でもそう。引き金を引く手が震えることもある。仲間を守れなかった日の夜は、眠れないし、吐くこともある」
直弥は言葉を失った。
「それでも私が前に出るのは、他の誰かが代わりに傷つくのがいやだから。私、そういうの、もうたくさん見たから……」
そう言って、沙紀はトレイの縁を指でなぞった。小さな沈黙が流れる。
「だから、今朝直弥くんが言ってくれたみたいに“怖かったけど目が離せなかった”って言われるとね、ちょっと救われる。ちゃんと見てくれてたんだなって」
それに、と沙紀は感情をにじませた声で続ける
「……あたしには、やらなきゃいけない理由があるから」
「理由……ですか?」
沙紀は少し言葉を探すように目を伏せ、それから笑った。
「それは、もうちょっと仲良くなってから話すよ」
直弥は思わず笑ってしまった。
彼はその言葉の意味を噛み締めるように、黙って頷いた。
***
一方、教官室に戻った實妥は、書類の端にメモを残していた。
> 八幡直弥 ― 基礎即応訓練:実施済
> 初動判断○ / 反応速度△ / 回避行動△ / 忍耐◎
> 可能性有。経過観察対象とする。
ふぅ、と低く息を吐く。
あの少年は、予想していたよりも――いや、想定より遥かに心が強かった。
第一印象は、正直言って最悪だった。
魔族の血を引く可能性があるだけでも厄介極まりないというのに、よりにもよって四堂八間会議が開かれるあのトワイライト・パレスまでの護送を命じられた時点で、この仕事に対する期待など地に落ちていた。
挙句の果てには――
「……呼び捨て。」
思い出しただけで、實妥の眉間に皺が寄る。
あの時、喉元に手がかかったのは事実だ。ほんの僅かな間合いで、喉笛を穿っていた。普段の自分ならば、その無礼に容赦はしなかっただろう。いや、本来ならば、してはならなかった。
「……止めなければな、璃久さんが」
佳人卿――桜田風音は、實妥にとって一種の象徴だった。
あの人の佇まい、言葉、戦い方、そのすべてが実戦の美であり、ADFにおける“理想”の体現だった。
その名を――呼び捨てにした。
だが、怒りを抱えながらも、實妥の中に芽生えた別の感情があった。訓練での彼の目。追い詰められ、泥に塗れ、痣まみれになりながら、それでも決して諦めなかったあの視線。
書類を閉じ、席を立つと、實妥はブラインドの隙間から見える訓練場を見下ろした。灯りは既に落ちている。だが、そこに立っていた誰かの“背中”の残像が、なおも視界の端に残っていた。
突然扉が開いた。ゆっくりとそちらに目をやると、そこには見覚えのある男が立っていた。
「…今呼んだか?實妥。」
戦闘服を乱すことなくまとい、壁にもたれかかるようにして立つその男――熊野璃久。教官であり、實妥の尊敬する上司でもある。
「いえ。お呼び立てしたつもりはございませんが」
實妥がそう返すと、璃久は片眉を軽く上げてから、気だるげに室内へ足を踏み入れた。
「そうか。何か言いたげな顔してたからな」
すぐそこにあったソファに体を沈め、懐からライターとタバコを一本取り出す。そしてなんの断りもなくそれに火をつけ、吸い出した。
實妥は特に気にした様子もなく、書斎机の端に置いてあった灰皿を手に取って璃久の前に置いた。
彼は簡素に「ありがとう」とだけ言う。
「お前も吸うか?」
「……いえ、タバコは吸わない主義でして」
「だろうな。無駄な嗜好、嫌いそうだもんな」
灰皿に煙をゆっくりと吐きながら、璃久は言った。その目は、煙の向こうでどこか思案げに細められている。
「――直弥のことだろ」
「……やはりお察しでしたか」
「そりゃあな。あいつのこと真に考えられてんの、お前と俺くらいだし」
「……失礼ながら、それはご自身でおっしゃることではありません」
「ん、そうかもな」
璃久は小さく笑った。
「どうだったんだ、今日の特訓とやらは?」
實妥は一拍置き、静かに答える。
「……判断力や忍耐は人並み以上にあれど、身体がまだそれに追いついておりません。ただ――」
「ただ?」
促す声に、實妥は書類に視線を落としながら、言葉を選ぶように続けた。
「経験則になりますが、育て方次第で彼は化けます。それくらいのポテンシャルを、内に秘めているように感じました」
「……へぇ珍しい。お前が手放しに褒めるなんざ。」
興味深そうに璃久が笑う。煙が立ちのぼるように揺れていた。
「つまり、見込みがあると?」
「可能性は、否定できません。……現時点では、それ以上でもそれ以下でもない。」
「お前が大嫌いな魔族の子だったとしても?」
ピクリと、實妥のまぶたがわずかに動いた。
「……ええ。それでも、です。私は可能性を否定する人間にはなりたくありませんので」
「……理屈っぽいな、昔から。」
まあいいわ、とだけいって璃久はまたタバコをくわえる。紫煙が細く天井へと昇る。しばしの静寂。部屋の空気が、ゆっくりと煙に満たされていく。
「……問題は、あの男だな」
ふと、璃久が呟いた。實妥がゆっくりと視線を上げる。
「男、とは?」
「昨日、俺が直弥を連れてきた時に出くわした。“異動になった”とだけ言って、突然ここに現れた」
「異動……どこからです?」
「不明だ。配置記録にも痕跡がない。だが、狂風卿の命令書が正式に通ってた。形式上は完璧だ」
實妥の表情が一瞬だけ強張る。狂風卿――朽宮言真の名が出た時点で、常識の枠では測れない事態を意味する。
「名前は?」
璃久は首を振った。
「名乗らなかった。聞いても答えない。階級も、出身も、所属も一切不明。だけどな、妙に馴染んでやがる。軍の内部構造や部屋の位置、通達の仕方にまで通じてた」
實妥の眉が動く。
「初心者とは思えない動き……ですね」
「ああ。しかも、態度も妙だった。礼儀正しいっちゃそうなんだが……人間味が無ぇ。敬語の使い方すら、どこかで“仕込まれた”ような感じだった。喋りも動きも、全部がマニュアル的なんだ」
璃久はタバコを灰皿に押し付ける。
「まるで……精密に作られた“何か”を相手にしてるようだった。兵士でも役人でもねぇ。人形って言葉が近いな」
「……そのような人物が、狂風卿の命で異動してきた」
「そうだ。しかも直弥の顔を見た瞬間、明らかに何か反応してた。目が揺れた。何を考えていたのかまでは読めなかったが、アレは偶然の出会いじゃねぇ」
沈黙が落ちる。實妥は思案するように机に手を置いた。
「本部に照会を?」
「してもムダだろう。狂風卿が本気で隠してるなら、俺たちに出てくる情報なんて操作されたものしかない。」
璃久は忌々しそうに言い放つ。彼にしては珍しく、声に棘があった。
「……まさか、“存在そのものが伏せられた部隊”とでも?」
實妥の声は低く、探るようだった。璃久は、わずかに口角を歪め、訝しいと言った様子で答えた。
「……そういうものが“存在する”とすら、俺は思ってない。…し、思いたくもない。ただ…」
璃久は灰皿にタバコを押し付けながら、目を細めた。夜の静けさの中で、何かが着実に蠢き始めている。そんな感覚だけが、二人の胸に重く残った。
「…狂風卿のことだ、注意を払うに越したことはないな。」
続く…




