17話 ホンモノ
かすかなチャイムの音とともに、部屋に据え付けられたスピーカーから柔らかい起床アナウンスが流れる。
「おはようございます。区画A及びBで、本日も六時三十分より朝の戦技訓練が始まります。生徒諸君は十分前には訓練装備を整え、各配置地点に集合してください。」
その機械的な声に、直弥はゆっくりと目を開けた。寝起きの体はまだ重く、まぶたも乾いている。だが、何かに引き寄せられるように、彼は無意識に身を起こしていた。
薄い布団をめくり、冷えた床に足を下ろす。昨日受け取った支給装備の一式が、丁寧に畳まれて椅子の上に置かれていた。誰がやったのかは言うまでもない。沙紀の几帳面さが、こういうところにも滲み出ていた。
支給のコンバットスーツに袖を通しながら、直弥は深く息を吐いた。
(怖がってる暇なんてない。今は……やるしかないんだ)
その手はまだ震えていた。だがそれでも、動こうとする意思が彼を支えていた。
着替えを終え、扉を開けると、ちょうど隣の部屋から沙紀が出てきた。
「おはよ、直弥くん! 準備はいい?」
制服の上に簡易ジャケットを羽織り、髪を後ろで一つにまとめた沙紀は、朝から変わらず明るい笑みを浮かべていた。手には戦術タブレットが握られている。
「今日の訓練はね、基礎運動の後に模擬戦があるんだって。まだ見学扱いだけど、直弥くんも一応同伴ってことで来ていいって教官が言ってたよ!」
「模擬戦……」
「うん、上級生のやつだけどね。私も参加するけどすごいよ、まるで戦場みたいなんだから」
その言葉に、直弥の胸が自然と高鳴った。恐怖もある、けれど――それ以上に、自分が知らない世界への渇望が芽生えているのを感じていた。
「じゃ、行こっか。遅れると璃久教官、ほんっと怖いから!」
沙紀が明るく笑って踵を返す。直弥は小さくうなずき、その後を追った。足元の一歩一歩が、ほんの少しだけ確かになっている気がした。
二人は寮舎棟を出て、まだ薄暗さの残る校庭を歩いていく。空気が張り詰めている。校舎の周囲ではすでに多くの生徒たちが集まり始めていた。皆、それぞれの小隊ごとに整列し、準備運動を始めている。
沙紀は手早く自分の所属する班へと向かい、直弥はその後方からついていく。見学者用の立ち位置が用意されていたようで、教官らしき大柄の男性が彼に「そこに立っていろ」と無愛想に指示を出した。
(これが――本当に"訓練"なのか?)
直弥は思わず目を見張った。
地面に整列した生徒たちは、皆無言で動いている。足並み、姿勢、呼吸、そのすべてが機械のように統一されていた。柔軟、ランニング、体幹訓練――どれも彼が体育の授業で受けたものとは桁違いの密度と緊張感に包まれていた。
しばらくして、校庭の一角――射撃訓練場に似た構造の区画に、教官が幾人か現れた。その中央に立つのは、見慣れた熊野璃久だ。隣には實妥も立っている
彼は一瞥で全員を黙らせ、鋭い声を張った。
「全体、注目! これより戦技模擬訓練を開始する。ここ区画Aでは第五中隊、および第八中隊。区画Bでは第三中隊、第六中隊が行う。形式は拠点制圧戦、使用武器は訓練弾。負傷判定が出た者はその場で動きを止め、指示を待て。」
その声は、研ぎ澄まされた刃のように空気を裂いた。
そして、開始の号令が響く。
直弥の目の前で、"戦争"が始まった。
土煙とともに駆け出す生徒たち。銃声が響き、戦術用の煙幕が展開され、フィールド全体が一気に混沌とした空間へと変貌していく。
その中で、沙紀もまた迷いなく動いていた。小柄な身体を巧みに使い、障害物を駆け抜けながら前線へと接近する。無線機越しに指示を飛ばし、瞬時に判断を下すその姿は、昨日の彼女とはまるで別人だった。
直弥は言葉を失い、ただ息を呑んだ。
――これが、彼女たちの「日常」なのか。
恐怖、興奮、圧倒、そして羨望。皆が一丸となって闘うその姿はあまりに現実離れしていて、まるで映画のワンシーンのようだった。けれど、それは紛れもない現実であり、彼らの日常だった。
銃声、怒号、電子ノイズ。飛び交う戦術用タブレットの指示音。模擬戦とはいえ、そこに流れている緊張感と空気の重さは、直弥の想像を遥かに超えていた。
ただの訓練ではない。ここにいる全員が、自分の命と仲間の命を預け合い、本気で「戦って」いる。
沙紀もまた、小柄な体で物陰から物陰へと素早く移動し、無駄のない動きで銃を構える。わずかな隙に頭部を狙い、即座に二発、三発と叩き込んだ。
――その動きは、獣じみていた。否、それ以上に「兵士」としての完成度が高すぎた。
(あんなのが、同じ歳の人間なのか……?)
圧倒された直弥は、しばらく立ち尽くしていた。足が地面に縫い付けられたように動かない。
だけど、不思議と目を逸らすことはなかった。
羨望と同時に、自分との差に打ちのめされそうになる。それでも胸の奥では、確かに何かが叫んでいた。
――自分も、あの場所へ行きたい。
――無力なままじゃ、終われない。
模擬戦が終わり、短いサイレンとともに静寂が戻ってくる。煙が晴れ、勝敗が告げられると、教官たちは淡々と講評を始めた。沙紀の小隊は敗北だったが、教官の口からは彼女の判断力と冷静な射撃精度に対する高評価が口にされた。
沙紀はどこか悔しそうな顔をしつつ、それでも仲間と軽口を交わしながら戻ってくる。
「……どうだった? ちょっとびっくりしたでしょ」
肩で息をしながら、沙紀が笑う。
直弥はその問いにすぐには答えられなかった。ただ、胸に手を当て、己の高鳴る鼓動を確かめるようにしていた。
「……うん。すごかった。すごすぎて……怖かったけど、でも――目が離せなかった」
その言葉に、沙紀は少しだけ目を見開き、そして優しく頷いた。
「うん、それでいいんだと思う。まずは見ること、感じること。そこから始まるから」
その言葉が、まるで道しるべのように、直弥の心に深く染み込んでいった。
***
「おいりょうちゃん、あれ見ろよ。」
友人にそう言われ、前方を指さされた白伊涼菟は顔をしかめる。
そこには横に並び校舎に戻る三田沙紀と八幡直弥の姿が見えた。
「あれ沙紀ちゃんじゃね? んで隣のやつは…あれ、あんなやついたっけ。」
「…さあ。いたんじゃねぇの。」
「…お?嫉妬してる?」
涼菟は露骨に顔をしかめ、ため息をひとつ吐いた。
「するか、んなもん。」
声はいつもどおり低く乾いていたが、どこか語気が荒かった。だが友人はその変化を見逃さない。
「うわ、図星っぽい。マジでヤキモチ妬いてんのか? へえ~、お前ってそういう顔もすんだな」
からかうように笑う友人を、涼菟は睨みつける。
「……うるせぇ。」
そう言い捨てると、涼菟はそっぽを向いて歩き出す。その背に、友人が小さく笑いながら言葉を投げた。
「ほらな、やっぱ気になってんじゃん」
「殺すぞ」
「はいはい、こわいこわい」
前方で軽口を交わす二人の後ろ姿。言葉こそ交わしていないが、どこか穏やかな空気が二人の間に流れていた。
涼菟はちらりとだけ彼女らを見やり、すぐにまた視線を逸らす。だがその目には、言葉にできない感情の色が宿っていた。焦燥、苛立ち、そして……
「…くだらねぇ」
そう呟きながら、彼はその感情を胸の奥底に押し込んだ。
***
「次は基礎知識……って言いたいところだけど、私も流石に授業受けないとだから、あとは實妥教官が見てくれるって。ごめんね。」
朝食を終えた二人は、並んで校舎の廊下を歩いていた。窓の外から朝日が差し込み、グラウンドではすでに別の班が走り込みを始めている。ちなみに彼女の朝食は、容赦のない山盛りカレーだった。朝からルウを二度かけした豪快な食べっぷりに、直弥はやや引き気味に目を丸くしていたが、言葉にするのは控えていた。
「いやいや、むしろこちらこそすいません。なんか、ずっと付きっきりで……」
直弥は少し照れたように頭を下げる。慣れない環境で右も左も分からない自分に、ここまで親切にしてくれた沙紀に対して、素直に感謝の気持ちがこみ上げていた。
沙紀はその様子にふっと笑って、タブレットを脇に抱え直す。
「気にしないでよ。あたしも案内係、けっこう楽しかったし。それに直弥くんみたいに真面目に話聞いてくれる子、最近少ないんだよね。皆最初はバンバン撃ちたがるタイプばっかでさ」
「……あー、なんか分かる気がします。男子あるあるというか……」
思わず苦笑する直弥に、沙紀も「でしょ?」と笑い返した。
廊下の先では、もうすぐ教室に入る生徒たちのざわめきが聞こえ始めている。重なる足音、交わされる声、それぞれがこの場における日常を彩っていた。
「この先の曲がり角を曲がったところに、實妥教官の部屋があるから。教官、ちょっと…いやめちゃめちゃ怖いけど、根はいい人だよ。うん、たぶん。きっと」
「……“たぶん”って、あんまり説得力ないですね」
「えへへ。まあでも大丈夫、すぐ慣れるよ! …ってうわ、時間やばい。ごめん!またあとでね! お昼は一緒に食べよ!」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
そうして慌ただしく沙紀が教室棟へと走り去ったあと、直弥は一人、その場に立ち止まった。
校内に響く足音、規律正しく動く生徒たち、銃声と号令、戦いの匂いが満ちた空気が漂う廊下を直弥は歩く。頭の中では實妥啓についてずっと考えていた。
会議の日、そしてつい昨日、璃久教官と共に車で移動したときにハンドルを握っていた男。そのときは無口で、ほとんど言葉を交わすこともなかった。だが、ただそこにいるだけで場の空気が張り詰めるような、異様な存在感があった。
璃久と交わした会話を思い出す。
――『昔は最前線でバリバリやってた。今は表に出ることは少ねえけど、腕は鈍ってねぇ。つーか今でも現役並に強ぇんじゃねぇかな』
――『……え、璃久さんより?』
――『んー、認めたくねぇけど、体術ならな。実戦経験が桁違いなんだよ。』
あの璃久が、そんなふうに誰かを評価するとは思ってもいなかった。だが、それだけの評価を受ける理由には、実際に接してみてこそ納得がいった。
無駄のない立ち居振る舞い。わずかな動作にも一切の揺らぎがなく、まるで空間すら制圧しているようだった。
鋭い目つき。何も語らずとも、ただ見られるだけで自分の甘さが暴かれていくような錯覚に陥る。
そして、沈黙の中に漂う緊張感。ただそこに立っているだけで、場の空気が変わる。それは単なる威圧ではない。積み重ねた経験と実力が、言葉よりも雄弁に語っていた。
どこをとっても隙がない。
直弥は、自分の喉の奥がひりつくのを感じた。
嫉妬とも、憧れとも違う。もっと根源的な、生存本能に近い感情が胸の内から湧き出る。
けれどその感覚に、怖気づくことはなかった。むしろ、自分がまだ知らない「ホンモノ」の世界に、確かに足を踏み入れようとしている実感があった。
直弥は「教官室」と書かれた扉の前に佇む。気持ちを整えるために、彼は一度大きく息を吸い込み、吐き出す。そして意を決したように、扉を三度ノックした。
部屋の中から返事はない。直弥は声を張る。
「八幡直弥です!失礼します!」
直弥は扉を開け、一歩中へ踏み込んだ。
瞬間、風がぶつかってきた。なにがおこったかわからないうちに、彼の首に何かが突きつけられた。
銀色の刃、その先端が皮膚からわずか5mmほどで止められている。少しでも進んでいれば、間違いなく刃先は喉元を刺し貫いていた。
實妥啓が入ってきた自身に向けてコンバットナイフを突き刺そうとした、そのことを理解するまでに、しばらく時間がかかった。
「…54回。」
實妥がそう告げる。直弥は恐怖で身じろぎ一つできないまま、かすれた声で問う。
「…な、何のことですか…」
「お前がこの部屋に入ってくるまでに死ねた数。」
實妥の声は低く、硬質な石を削るような鋭さを帯びていた。まるでその言葉自体が刃物の延長であるかのように、直弥の胸に突き刺さる。
刃はもう動いていなかった。だが、直弥の体はまだ震えていた。額からは一筋、冷や汗が頬を伝って落ちる。頭では危険が去ったことを理解しているのに、体が追いつかない。
實妥はナイフを静かに下ろすと、まるでそれが日常の一部であるかのように、淡々と後ろを向いて机の方へ歩いた。
そのまま、椅子に腰かける。ナイフはまだ彼の手の中にあった。だが、それ以上に恐ろしかったのは、その視線だった。冷たく、射抜くようでいて、それでいてどこか見透かすような重さがある。
「…で? なにしに来た、八幡直弥」
直弥は喉を震わせながら、一歩踏み出した。膝がまだ笑っている。だが、退くわけにはいかなかった。
「……基礎訓練の、指導を……お願いしに来ました」
實妥は依然直弥を冷たく見据えたまま、無言になる。10秒ほどの静寂ののち、彼はこう答えた。
「……断る。」
直弥の心臓がひときわ強く脈打った。足元から血の気が引くのがわかる。まさかの返答に、言葉を失う。
「……え?」
絞り出すように声を発した直弥に、實妥は淡々と続ける。
「お前には教わる以前にその覚悟が足りてない。膝の震え、目の泳ぎ方、怯えるような気配、子鹿みたいなお前になぜ俺が時間を割かなきゃならない。」
その口調には、怒りも苛立ちもなかった。ただ事実を述べているだけ。だが、だからこそ痛烈だった。
「今朝の模擬戦、見たな?」
「……はい」
「じゃあわかるはずだ。あれが現実だ。“誰かに守られてる”つもりのやつが入ってきても、ここでは邪魔だ。死ぬのも勝手だが、仲間も巻き込まれたら迷惑なんだよ。」
冷たい声だった。だが、偽善でも情けでもない、本物の現場の声だった。
直弥は唇を噛んだ。確かに、自分はまだなにも持っていない。ただの民間人と変わらない。怖がって震えるだけの、自分。
だが。
(それでも――)
拳を握る。
「……それでも、教えてほしいんです」
實妥は少しだけ眉を動かした。だが無言のまま、腕を組んで直弥を見下ろす。
「確かに自分は、弱いです。力も、知識も、経験も、何もない。けど――逃げるのはもう嫌なんです」
その声に、迷いはなかった。膝は震えている。けれど、目は逸らさなかった。
「沙紀さんや、他のみんなみたいに……誰かを守れる強さが、欲しいんです。ここで何も得られずに終わるくらいなら…最初から死んだ方がマシです」
しん、と静まり返る室内。時計の音すら聞こえてきそうな、張りつめた時間の中で――
實妥は立ち上がった。
トン、と床を踏みしめて直弥に近づく。そして再び、鋭く眼光を落とす。
「そうか。なら試してやる」
低く、しかし明確に告げられたその一言に、直弥は息をのんだ。
「一週間。俺が決めた課題を一つでも落とせば、お前の訓練は打ち切りだ。それでもやるか?」
「……はい」
即答だった。
「…ついて来い」
そう言って實妥はナイフをホルスターに収め、上着を羽織る。殺気をまとったまま歩き出すその背に、直弥は一歩、また一歩と追いすがるようについていった。
地獄の始まりを、まだ彼は知らない――。
続く…




