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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
17/113

16話 くだらねぇ

 学長室を出た三田みた沙紀さき白伊しらい涼菟りょうと、そして八幡やはた直弥なおやは、無言のまま廊下を歩いていた。


 玄武士官学校・上層区画。仄暗く静まり返ったその空間は、装飾も必要最低限に留められ、無機質な金属の冷たさと規律の匂いが満ちている。人工灯の下、三人の足音だけが乾いたリズムを刻んでいた。


 沙紀は手にした資料ファイルの重みを意識しながら、隣を歩く直弥に目をやる。その横顔には、感情の色がほとんど表れていない。ただ、瞳の奥――凍てつくような静けさの下に、何かが確かに燃えていた。


「…あの、さ、直弥くん。聞いてもいいかな?」


 沈黙が重くなりすぎる前にと、沙紀は少し強引に言葉を投げた。

 声をかけられた直弥はビクリと肩を震わせ、目を丸くして沙紀を見た。


「なんで、士官学校に入ろうと思ったの? もともと一般人だったなら、表世界に帰ったほうが安全だし、ずっと楽だったんじゃないかなって思って……」


 沙紀の言葉は、どこか探るようでもあり、心配する姉のようでもあった。


 直弥はしばらく口を閉ざし、迷うように目線を落とした。そして、絞り出すように静かに答えた。


「……妹の、ためです。」


「妹?」


 沙紀が聞き返すと、直弥は小さく頷いた。


「……あの事件のとき、妹は魔族に襲われて、重傷を負いました。今は、ここの医療棟の特別区画にいるらしくて……普通の病院じゃ対応できないって。それで、あいつを預けられたんです。」


 言葉の端々に、抑え込んだ怒りと後悔が滲んでいた。


「両親は、もういません。……あいつには俺しかいないんです。だから……俺だけが、あいつのために、ここに残るしかなかった。離れるなんて、できなかった。」


 涼菟が足を止め、何気ないようでいて鋭い口調で問いかけた。


「特別区画って……あの、魔障隔離室のことか?」


 涼菟が静かに問いかけると、直弥はわずかに目を伏せ、数秒の沈黙の後、小さく――しかし確かに、頷いた。


 沙紀は思わず息を呑んだ。


 “魔障”――それは、魔族が操る魔力の中に含まれる、有毒な“不純物”によってもたらされる異常。開発室の実験により近年ようやくその存在が確認され、「瘴気しょうき」とも呼ばれるそれは、人間の精神と肉体に密かに入り込み、寄生のような形で意識を蝕んでいく。


 初期症状は微弱な疲労感や幻聴といった軽微なものだが、進行すると人格の崩壊、さらには“魔族化”が起こる。自覚のないまま徐々に人間でなくなり、やがて完全な敵性存在へと変貌する――。


 抑制用の薬剤はすでに開発されているが、それはあくまで進行を一時的に食い止めるものに過ぎず、根本的な治療法は未だ確立されていない。


 もし直弥の妹がその“魔障”に罹っているのだとすれば、命どころか、人としての尊厳さえ危ぶまれる状態にあるのは明白だった。


「……正直、怖いです」


 静かな声が、張り詰めた空気を震わせた。


「……あいつが、このまま目を覚まさないんじゃないかって。いや、それだけじゃなくて……目を覚ました時には、もう“あの子”じゃなくなってるんじゃないかって――それが、一番、怖いんです」


 直弥は唇を引き結びながら、言葉を継いだ。


「だけど、それでも……何もできないままでいるのは、もっと怖い。後悔することのほうが、きっとずっと……」


 その声には震えがなかった。悲しみも、恐怖も、怒りも、すでにその胸の内で燃やし尽くされていた。今、そこに残っているのは――覚悟だけだった。


「俺は、もう誰にも任せたくない。誰かの判断や保身のせいで、また大切なものを失いたくない。……だから俺が、俺の手で守ります。たとえ――この命を使い果たすことになっても」


 沙紀は胸の奥が締めつけられるような思いに駆られた。


 この少年は、ただ戦いたいわけじゃない。復讐に駆られているのでもない。

 守りたい人がいて、そのために、自分のすべてを差し出す覚悟を決めたのだ。


 彼が語る言葉は稚拙で、危うくて、それでいてまっすぐだった。

 その不器用な真剣さが、彼女の心に刺さった。


(あたしは――ここまでの覚悟を、持っているだろうか)


 気づけば、彼女は直弥から目をそらしていた。

 資料ファイルを握る手に、力がこもる。


 魔族と戦う日々は、日常が壊れていく音の連続だった。

 仲間を失い、血を流し、命の軽さに慣れてしまう前に、彼のような"初心"を忘れてはならない。


 彼の覚悟は、重い。だがそれは、真実で、誠実で、何より純粋だった。


「……そっか。じゃあ、ちゃんと見届けるよ。君がどこまでやれるのか。」


 沙紀は小さく笑って、そう言った。

 自分に言い聞かせるように。彼に応えるように。


 しかし涼菟は黙ったまま二人のやり取りを聞いていたが、ふと前を向いたままぽつりと呟いた。


「…くだらねぇ。」


 その言葉に、空気が凍りついたような感覚が走る。

 沙紀も直弥も、思わず足を止めた。


 涼菟は振り返らず、そのまま歩き続ける。だが、その背中から漂う空気には、張り詰めた棘のようなものがあった。


「覚悟だの、大切な人を守りたいだの――くだらねぇ理想振りまいて満足してんじゃねぇよ。」


 白伊涼菟の声は低く、乾いていた。

 まるで冷えきった刃物のように、感情を研ぎ澄ませて放たれたその言葉は、廊下の空気を凍らせるかのように突き刺さる。


 直弥は思わず言葉を失い、口を開きかけたまま沈黙した。

 涼菟は振り返りそんな彼の反応を見下ろすように、冷ややかな視線で続けた。


「綺麗事で戦えるなら、とっくの昔に戦争なんて終わってる。お前が“守りたい”って口にしてる間に、現場じゃ誰かの命がこぼれてんだよ。」


 その言葉には、激情の熱さではなく、幾度も死地をくぐった者だけが持つ、冷たい諦念と怒りが滲んでいた。


「お前が甘さを捨てられないなら、誰も守れねぇし、自分の妹すら見殺しにする。――その程度の覚悟しかねぇ奴が、戦場に立つな。」


 振り返った涼菟の瞳には、怒りよりも深い“痛み”があった。

 それは説教でも忠告でもない。喪失に裏打ちされた、生き残ってしまった者の慟哭だった。


「ちょっと涼菟、流石に言い過ぎ。」


 ようやく、沙紀が間に割って入る。鋭くなりすぎた空気を和らげるように、その声には緊張と怒りが混ざっていた。

 涼菟はしばし無言のまま沙紀を見返した後、肩をすくめ、踵を返して歩き出す。


 その背は、まるで何もかもを切り捨てるように遠ざかっていく。

 直弥はただ黙ってその後ろ姿を見つめ、拳を握りしめていた。

 沙紀は黙ってその場に佇む彼の横顔を見つめる。その胸の奥で、何かが軋むような音を立てていた。


 彼女は知っている。白伊涼菟という少年が、どれほどの死と喪失を、その身に刻みつけて生きてきたのかを――。


 ***


 夜の学食で夕食を終えた八幡直弥は、今は沙紀に連れられてきた仮眠用の個室の寝具にくるまっていた。


 柔らかくも冷えを残す布団の中、天井をぼんやりと見つめながら、今日一日の出来事が何度も脳裏を反芻される。怒涛のように押し寄せた現実と、その中で見せられた、圧倒的な実力と、覚悟の差。


 あの後、沙紀の案内で校内を一通り見て回った。設備は噂以上に本格的で、特に射撃場は先ほど彼がいた仮設訓練場とは比べ物にならないほど整っていた。屋内には可動式の遮蔽物、反応型の標的、果ては無人模擬戦用の制御ユニットまで揃っていた。


 案内が一段落すると、今度は沙紀が自ら銃の扱いを教えてくれた。


 構え方、トリガーの指のかけ方、呼吸と照準のリズム……その指導は、以前熊野(くまの)璃久あきひさから受けたものとほぼ同じだった。どうやら新入生はまず全員、彼から基礎を叩き込まれるのが恒例らしい。


 そんな中、直弥はふと気になることを口にした。


「……三田さん、今日授業は大丈夫なの? どの教室も、みんな授業受けてたけど……」


 当たり前のように彼につきっきりで時間を費やしている彼女を見て、少し申し訳なくなったのだ。だが沙紀は、まるで心配無用とばかりに笑って答えた。


「んー? 大丈夫! あたし学年で一番成績いいから!」


 言うや否や、彼女は片膝をついてアサルトライフルを構え、ためらいなく引き金を引いた。

 銃声が鳴り響き、訓練人形の胸部と額に、寸分の狂いもなく弾丸が命中する。


 軽やかに銃口を下げながら「えへへ」と笑う彼女は、まるで銃をおもちゃのように扱っていた。

 直弥がその無邪気な笑みに密かに戦慄したのは言うまでもない。


 そして、時間は18時をまわった。


 士官学校に、夕方を告げるチャイムが静かに鳴り響く。

 高い窓の外には、茜の色がじわりと空を染めていた。


 沙紀と直弥は、連れ立って食堂へ向かっていた。廊下の奥から洩れてくる人のざわめきと食器の音が、次第に近づいてくる。

 食堂の扉が開くと、そこには広々とした空間に設えられた長テーブルとベンチ。そして、濃灰色の軍服を身にまとった生徒たちの姿があった。


 年齢層はまちまちだった。十代前半、あるいはそれ以下に見える子どもたちもいれば、明らかに二十代前後の青年や女性たちもいる。皆、制服に袖を通し、当たり前のように一緒に過ごしていた。


「……すごい数ですね」


 思わず直弥が漏らすと、沙紀はにこりと笑った。


「新兵課程の全学年がここで食べるからね。あと、訓練帰りの中等部の子たちも混じってる。慣れると楽しいよ」


 食事はバイキング形式だった。生徒たちは列を作り、順番を守って料理を取り分けていた。炊き立ての米、温野菜のスープ、肉料理に淡い香りのする副菜。どれも思っていたより遥かに美味しそうで、しかも栄養バランスが考慮されているのが一目でわかる。


 ――まるで、普通の学園みたいだ。


 だが、それはきっと幻想に過ぎないのだろう。

 この中の誰もが、“殺すため”の訓練を受けているのだから。


 直弥は無言で、配膳台の列に並んだ。

 隣では、沙紀が「カレー三杯目いけるかな」と小さく呟いていた。




 食堂の隅の席に腰を下ろし、トレーを置いた瞬間、直弥は少しだけ安堵の息をついた。沙紀のトレーの上にある香ばしいカレーの香りが鼻腔をくすぐる。直弥は量を控えめにしたつもりだったが、疲れのせいか、食欲は想像以上にあった。


「いただきます」


 隣で沙紀が、手を合わせるようにして軽く頭を下げる。直弥もそれに倣った。


「……こういう時、なんか変な感じしますね」


「んー? なにが?」


「いや、さっきまであんな重い話してたのに、普通にご飯食べてるの、っていうか……こんな普通の時間が、まだ残ってるんだなって」


 沙紀はスプーンを止め、ちらりと直弥の顔を見た。そして少しだけ、表情を和らげる。


「変じゃないよ。むしろ、大事にするべき時間だと思う」


「……大事に?」


「うん。たとえ訓練がきつくても、任務が地獄みたいでも、“普通の時間”を軽く見始めたら、人間は壊れてくから。ここにいるみんな、そうやってバランス取ってるの。……涼菟も、きっとね」


 彼の名が出た瞬間、直弥は少し身を固くした。さっきの言葉がまだ、胸に残っていたからだ。


「彼、きっと嫌ってますよね。俺のこと」


「んー、どうだろ」


 沙紀は首をかしげ、ふわりと笑う。


「涼菟くんって、ああ見えてちゃんと見てるから。たぶん直弥くんが“本気”なのかどうか、確かめたかったんじゃないかな」


「本気……」


 スプーンを握る指に力が入る。


「俺は、守るって決めたんです。誰が何を言っても。それが、間違ってるとしても」


 そう口にしたとき、沙紀の表情が少しだけ変わった。目元がやや柔らかくなる。


「じゃあ大丈夫だよ。少なくともあたしは信じる。直弥くんが、ここにいる理由を」


 静かに、けれど確かな声音だった。


 その瞬間、初めてこの場に「居てもいい」と思えた気がした。


 窓の外はすっかり夜の帳に包まれ、士官学校の灯がゆらりと揺れていた。




 …こう思い返してみても、随分と濃い一日だった。


 玄武士官学校に足を踏み入れた頃から、気がつけば陽は落ち、肌寒さすら感じる時間帯になっていた。


 食堂を出てから、沙紀に案内されて戻った部屋は質素ながらも清潔で、どこか無機質だった。壁は灰色、カーテンも、ベッドのフレームも、まるで感情を排したような色ばかりだった。


 シャワーを浴び終えて支給されたジャージに着替え、布団に潜り込んだ彼は深い溜息を付いた。


 (……疲れたな)


 肉体的にも精神的にも、重みがあった。


 なにより、自身の手で銃を撃ったこと――それは、人生で初めての体験だった。


 引き金を引いたときの指先の震え、反動の鋭さ、鼓膜に残る乾いた破裂音。標的の人形に着弾した瞬間の、異様なリアリティ。テレビやゲームで見たそれとは、まるで次元が違った。


 それが、彼の“現実”になったのだ。


「……俺、やっていけるのかな」


 誰に向けるでもなく、天井に向かって呟いた。返事はない。ただ、静寂だけが部屋に満ちていた。


 けれど、胸の奥に渦巻く不安の中で、妹の顔が浮かぶ。病室のベッドに横たわる、小さな、あの姿。


 ――守ると、決めたのだ。


 それは、無謀かもしれない。涼菟の言うとおり、理想でしかないかもしれない。


 けれど、だからこそ。


「……頑張るしか、ないんだよな」


 布団を少し引き寄せ、目を閉じる。


 脳裏には、今日見た風景がフラッシュバックのように流れていく。射撃訓練。沙紀の笑顔。涼菟の冷たい瞳。真っ白な医療棟の廊下――そして、かえでの、あのか細い指。


 眠気が徐々に意識を飲み込み始める。明日もまた、訓練がある。新たな現実が、彼を待っている。


 士官学校での生活は、まだ始まったばかりだった。


 続く…

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