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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第弐章
14/112

13話 新生活ってやつさ

 四堂八間会議から、二日が経過した。


 八幡やはた直弥なおやは、すっかり見慣れてしまった牢の中で静かに目を覚ました。錆びた鉄格子、湿り気を帯びた石の壁、そして薄暗い天井の模様。どれも、今ではもはや日常の一部だ。


 しかし、心の内は少し違っていた。


 あの日以来、悪夢に苛まれる回数は明らかに減っていた。毎晩のように締めつけていた黒い夢の鎖が、わずかに緩んでいる。眠りの質が良くなったのか、それとも何かが自分の中で確かに変わったのか。答えはまだ出ていない。


 ただ、ひとつ確かなのは―――以前より、心が軽いということだ。


 まるで頭上にのしかかっていた見えない重石が、ほんの少しだけ持ち上がったような感覚。依然として自由ではない。状況も改善してはいない。だが、どんよりとした気分は、確実に以前よりも薄れていた。


「……そろそろか。」


 直弥は小さく呟きながら、身を起こした。


 そして予想通り、その数秒後に規則正しい足音が近づいてくる。廊下を満たす重い沈黙を破るように、靴音がひとつ、牢の前で止まった。軍服に身を包んだ兵が、無言で小窓を開けると、銀色の盆に乗った朝食を無造作に差し入れてきた。


 今日の朝食は、冷めかけたパンと薄いスープ。毎度変わり映えのない味気ない食事だが、空腹を凌ぐには充分だった。


 兵は言葉もかけず、扉の覗き窓をガシャンと閉じてその場を離れていく。足音は次第に遠のき、再び静寂が牢を支配した。


 手錠は会議の帰りから外されていた。おかげで犬食いをせずに済む。直弥はスープの匂いに顔をしかめながらも、ゆっくりと盆を手元に引き寄せる。そしてひとくち口に運びながら、思う。


(あれから璃久あきひささんの姿も見かけない……死刑まで一年の猶予が与えられたらしいけど、それまで俺はどうやって――)


 考えの海に沈みかけていたそのとき、不意に低い声が牢の向こうから響いた。


「おい、八幡直弥。」


 鋭くも懐かしいその声に、直弥の全身がびくりと震えた。思わず顔を上げる。そこには――


「……璃久さん……?」


 鉄格子の向こう、陰影の交じる明かりの中に立っていたのは、確かにあの熊野くまの璃久だった。久方ぶりに見る姿は変わらず無骨で、しかし以前よりどこか鋭さを増したようにも見える。軍服の肩には少し埃が乗り、長い影が彼の足元に落ちていた。


 直弥の胸に、安堵とも緊張ともつかぬ感情が混ざり合う。


「お久し、ぶりです……」


 かすれた声でそう告げる直弥に、璃久はわずかに眉をひそめたが、すぐに鼻を鳴らすように答えた。


「ふん。顔色も良くなったな。薬が効いたんだろう。」


 淡々とした口調だったが、その言葉にはどこか安堵の気配が滲んでいた。そして次の瞬間、彼は無造作に牢の鍵を回し、金属の軋む音と共に扉を開け放つ。


「来い。」


 言葉は少なかったが、そこに拒否の余地はない。直弥は戸惑いつつも、言われるがまま立ち上がり、璃久の背を追った。無機質な階段を上がりながら、心臓の鼓動が次第に早くなるのを感じる。目的も理由も知らされぬまま進む廊下は、ただ無言の圧力を放っていた。


 階段を上がりきると、璃久は左に曲がり、無言のままある部屋の扉を開ける。中に足を踏み入れた瞬間、直弥は思わず息を呑んだ。


 室内には、整然と並べられた教科書の束と新品の筆記用具。そして、その隣には折りたたまれた制服――黒いブレザーに、ADFのエンブレムが輝いている。それと並んで、灰色の軍服と迷彩服が重ねて置かれていた。


 その言葉が意味するものを、直弥はすぐには理解できなかった。

 だが次の瞬間、彼の視線は部屋の右奥に釘付けになる。


 そこには、遮音材が張られた壁と防弾ガラス、そして複数の標的が並ぶ、簡易的な射撃場が設けられていた。

 距離を測るための目盛りと、訓練用と見られるターゲットが機械仕掛けでスライドする構造。まるで軍の訓練施設のような設備だった。


 現実味がなかった。自分が触れてきた世界とは明らかに異質な空間が、扉一つ隔てた場所に広がっている。


「ここで……俺に何をさせる気ですか」


 直弥の問いに、璃久はようやく振り返り、その目をまっすぐに向けてきた。


「生きるために必要なことを教えてやる。……減刑には、見返りが必要だろ?」


 直弥は息を呑んだ。冗談ではないと悟ったその瞬間、背筋に氷のような冷たさが走る。

「じ、銃なんて撃ったこと……」


 かすれた声でそう漏らした直弥に、璃久は鼻で笑った。


「知ってる。だからここに連れてきたんだ。今できなくても、じきにできるようになる。……てか、できなきゃ困る。」


 そう言いながら、璃久は卓上の拳銃を一丁手に取った。

 黒光りする銃身に指を滑らせるその動きは、あまりにも滑らかで慣れていた。カチャリ、と乾いた音と共にマガジンを差し込み、スライドを引いて薬室に一発を送り込む。


 そして、躊躇もなくそれを直弥に向かって投げた。


「っ――!」


 反射的に手を伸ばし、すんでのところで受け止める。

 手のひらにずしりと重さがのしかかった。金属の冷たさと重厚な質感が皮膚を通して骨まで響く。それがエアガンの類ではなく実銃であることは、文字通り手に取るように分かった。


 直弥は無言のまま、その拳銃を見つめた。

 引き金に指をかけることも、銃口をどこかに向けることもできず、ただ呆然と握りしめるしかなかった。


「重いだろ。人を殺せる道具ってのは、そういうもんだ。」


 璃久は淡々と言う。


「でもな―――今のお前がこれから過ごす場所では、それ以上に重てえ苦痛に耐えられないと、生き残れれねぇ。」


 その言葉が、心の奥にずしりと突き刺さる。

 直弥は、拳銃を握る手に力を込めながら、震える息をそっと吐いた。


「とりあえず、自分が思うように撃ってみな。」


 璃久は腕を組み、壁際に寄りかかるようにして言った。どこか試すような、そんな声音だった。


 直弥は困惑しながらもこくりと小さく頷き、ぎこちない足取りで射撃レーンへと向かう。璃久の指示でアイウェアとイヤーカフを装着し、震える手で拳銃を構えた。


 視線の先には、距離のある人型の標的。

 銃口を向けるだけで、全身が強張る。右手が汗ばみ、銃がわずかに傾いた。


 直弥はごくりと喉を鳴らす。そして、引き金に指をかけ、力を込める。


 その瞬間、発砲音がカフ越しでも耳に突き刺さった。

 瞬間、手に伝わる信じられない衝撃。風が右腕から肩を揺さぶり、体勢が崩れる。抑えきれずにそのまま後ろにのけぞり、重心を失った。


「うわっ……!」


 尻を地面に強く打ちつける。鉄臭い空気と火薬の匂いが鼻に残り、耳の奥がじんじんと震えていた。


「……初弾でそんな豪快に転ぶ奴は久々に見たな」


 呆れとも苦笑ともつかぬ声で、璃久がぽつりと漏らす。

 だが、その口元にはわずかながら皮肉ではない、評価のようなものも宿っていた。


 直弥はぼんやりと床に転がる拳銃を見つめたまま、自分の胸が激しく波打っているのを感じた。

 撃った―――本物の銃を、自分の手で。


「…まぁ、筋は悪くねぇ。あとは撃つときの姿勢と、心を落ち着かせることだな。」


 璃久はそう言って、直弥の方へゆっくりと歩み寄った。言葉は淡々としていたが、その声音にはかすかな安堵と期待がにじんでいた。


 直弥はまだ地面に座り込んだまま、胸を大きく上下させていた。心臓はまだ高鳴りを収めておらず、掌には汗が滲む。


「落ち着け。銃は力任せじゃなく、身体の芯で支えるもんだ。」


 璃久はしゃがみ込み、直弥の手元を見ながら言った。

 そして、肩にそっと手を置き、直弥が落とした拳銃を拾い上げながら体勢を正すよう促す。


「足を開け。腰を落とせ。肘は無理に伸ばすな、吸って、止めて、吐く。撃つ前に全部済ませておけ。」


 その口調は教官というより、妙に静かで、実戦をくぐった兵士が新兵に語るような落ち着きがあった。


 直弥はこくりと頷き、再び立ち上がる。

 手の中にある銃の重みが、さっきより少しだけ馴染んでいる気がした。


 璃久は無言のまま、後ろから直弥の肩と腕に手を添えた。

 背中越しに伝わる彼の体温と、微かに香る火薬と金属の匂いが、緊張した空気に溶け込んでいく。


「…肘が高い。力んでる。肩の力を抜け。」


 璃久の声は低く、だが一切の迷いがなかった。

 直弥は言われるがままに構えを修正する。

 右足を半歩引き、銃を胸元からまっすぐ前へと構える。

 脇は締めすぎず、緩めすぎず…


「撃つ前に深く息を吸って、止める。んでそのまま引け。」


 璃久が一歩下がった。


 直弥は息を吸った。

 耳にはまだ先ほどの発砲音の残響がこびりついている。

 だが、今は不思議と怖くなかった。


 誰かを撃つわけじゃない。ただ、的を撃つだけ―――。


 いや、いずれはそれが「誰か」になる。

 そのことを否応なく意識しながら、引き金に指をかける。


 重い。けれど、もうさっきのような迷いはない。


「……ふっ。」


 乾いた発砲音が、射撃場の中に響いた。


 銃口が跳ねる感覚が、両腕を伝って肩まで痺れさせる。

 だが、今度は尻餅をつかなかった。


 その一発は的の中心には届いていない。

 けれど直弥は、自分が確かに「撃った」ことを、全身で理解していた。


 璃久は無言で頷いた。

 その眼差しは、わずかに認める色を含んでいた。


「…悪くない。」


 短く、それだけを告げて、再び彼は無言で銃を構える動作を示した。

 この日から、直弥の「兵士」としての時間が静かに始まった。



 ***



「……まあ、取り敢えずこんなところか。」


 璃久は、スライドが後退したままの拳銃を見下ろしながら、そう呟いた。

 その声音には特に感情の起伏もなく、ただ淡々と状況を確認した結果を口にしただけ――だが、直弥にはそれがどこか「合格」の印に聞こえた。


 硝煙の匂いがまだ漂う射撃場。

 直弥の指先は火照り、鼓膜はわずかにジンジンと痛む。

 それでも彼の呼吸は安定していた。


「……ありがとうございました。」


 ようやく絞り出したその言葉に、璃久は返事をしない。

 ただ一歩近づき、直弥の手から空になった拳銃を回収する。

 手際よくマガジンを抜き、チャンバー内を確認し、慣れた手つきで銃を分解棚へと戻した。


「銃は機械だ。扱うのに感情はいらない。ただ、正確さと理屈だけで動く。」


 言いながら璃久は、直弥の方を一瞥する。


「次からは動きながら撃つ。あと反応速度も測る。銃だけじゃなく、長い戦闘に耐えうる持久力、拷問にも屈しない精神力、んで体術と、柔軟な作戦遂行能力、そしてADFでの礼儀作法――まあ、教えることはいくらでもある。」


 手際よく片付けを終えた璃久は、淡々と語りながら直弥の前に歩み寄る。

 左手を持ち上げ、腕時計を一瞥した。


「……まだ昼、か。っし、んじゃ着替えろ。」


「……え? 着替えるって……」


 直弥がぽかんと口を開けたまま訊ねる。

 その視線は、壁際に並べられた制服と軍服と迷彩服とを行ったり来たりしていた。


「ああ? んなもん制服に決まってんだろ。学校行くぞ、学校」


 まるで昼飯でも食いに行くような軽い調子で、璃久はそう告げた。

 だが、その口ぶりとは裏腹に、目の奥には冷えた真剣さが宿っている。


「が、学校って……」


 直弥の口から漏れた言葉に、璃久は肩をすくめて続ける。


「んあー。まあ“学校”っつっても、お前が通ってたような高校じゃねえよ。遊び場でも青春ごっこする場所でもない。兵士に育て上げるための、いわば“養成所”みたいなもんだ。」


 直弥の喉がごくりと鳴る。

 制服、銃、そして“養成所”という言葉。

 その全てが、彼の中で“日常”から遠ざかっていく音を立てていた。


「その名も玄武士官学校。…新生活ってやつさ。」




 ***





「準備終わったかー?」


 璃久の声が部屋の外から響いた。

 真新しい制服に袖を通した直弥は、鏡に映る自分を見つめていた。


 鏡の中の少年は、つい昨日まで高校生だったとは思えないほど異質だった。

 身にまとう濃紺の制服は、まだその体に馴染んでいない。肩や胸元には余計な硬さが残り、ボタンの留め方ひとつにも戸惑いの跡が残っていた。

 だがそれでも――その目には、確かに何かが芽生えていた。


 覚悟。

 不安と諦め。

 そして、ごく微かに滲む闘志。


 制服の襟元を引き締め、直弥は深く息を吸い込む。

 気配を察したのか、璃久の声が再び飛んできた。


「おーい、寝たのかー? それとも制服のまま気絶したかぁ?」


「……今行きます!」


 そう返事をし、直弥は足を踏み出した。

 扉の向こうには、もう後戻りのきかない日々が待っている。

 “死刑囚”として、そして“兵士”としての新しい時間が、静かに、確かに動き出していた。


 続く…

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