12話 四堂八間会議
宮殿の入口をくぐった熊野璃久ら一行は、静謐な回廊をゆっくりと進んでいた。天井高く、重厚な石造りの壁には、いくつもの歴史を刻んだ装飾が整然と並んでいる。その中を、すれ違う軍人たちはいずれもどこか落ち着かない様子で、目を泳がせながら足早に行き交っていた。
璃久もまた、つい先ほどまでは静かな心持ちでいたはずだった。だが、それが揺らいだのは、実父である朱雀隊四堂・熊野焔冥と顔を合わせた、まさにその瞬間からだった。
緊張感に包まれる空気の中、焔冥の鋭い眼差しが胸の奥に突き刺さる。彼の存在そのものが璃久の精神をかき乱し、呼吸が浅くなる。平静を装って歩を進めてはいるものの、胸の内では得体の知れぬ不安がじわじわと広がっていった。まるで、黒い霧が心の中に滲み出し、視界を覆っていくように。
十数年ぶりに正面から父の顔を見た。それは、子供の頃に見た父の顔立ちと全く変わっていなかった。
ただ、あの日の影響で長男(以前は璃久にも兄がいた、今は璃久が熊野家の兄妹では最年長である)が殉職したことに起因する目元のやつれや、璃久ら兄妹が家を出ていく原因にもなった彼の横暴さは、少し落ち着いたように思える。あの頃の父は異名の通り地獄の門番、閻魔に見えた。
血走った憎悪の目。低く唸るような罵声、耳をつんざく怒号。そして、逃げ場もなく全身に降りかかった数々の衝撃――。
それらは今も、璃久の記憶の奥底に焼きついて離れない。どれほど時を経ようとも、その光景は色褪せることなく、疲れた夜の夢に幾度も現れては彼を苛む。
あの幼い日々に刻まれた恐怖は、消えることのないタトゥーのように心に刻まれ、今もなお疼き続けていた。
そんな地獄のような少年期――
その中で、唯一差し伸べられた温もりの手。それが、桜田風音だった。
まだ子供だった璃久にとって、彼女はまるで天から遣わされた小さな女神のような存在だった。璃久よりもさらに幼いながらに立派な意思を持ち、優しく、強く、そして誰よりも自身の身を想ってくれた。彼女がいなければ、自分も、そして弟妹たちも、下手すれば生き延びることは叶わなかっただろう。そうでなかったとしても、人としての心は今頃、とうに壊れていたはずだ。
だからこそ――。
璃久は、唇をきつく結び、静かに決意を固める。
だからこそ、自分には守る義務があるのだ。あの頃、何も持たなかった自分を救ってくれた彼女たちを。十三年という歳月の恩に報いるために。生きてきた意味を、この手で示すために。
たとえその選択が、ADFの総意と衝突することになろうとも。
回廊の先にあった大きな扉の中、円形の大広間は静謐な空気に包まれていた。吹き抜けになった2階からは、赤・青・白・灰色の大きな垂れ布がそれぞれ四方に垂れ下がり、その中央にはそれぞれの色に呼応する四神――朱雀、青龍、玄武、白虎――が金色で荘厳に描かれていた。
そしてその2階には、各色の軍服に身を包んだ軍人たちが整然と並び、厳かな視線を下に向けていた。
部屋の中央、円形の柵で囲まれたその真ん中には鉄製の小さな柱と、木製の椅子一脚がある。そして柵の外にはそれを更に囲むようにして5つの大きな机が置かれている。
そのうち4つは金色の四神が描かれており、垂れ幕の順と同様に左から朱雀、青龍、玄武、白虎と並ぶ。その机の前にはそれぞれの隊の四堂八間らがそれぞれ座っている。ただし玄武の四堂が座る席、つまり桜田風音の姿は見えない。
そして璃久から見て前方、入口から一直線上に位置している法壇のような机には、ADFの紋章、真ん中に左手の親指と人差指で輪っかを作り、中指、薬指、小指はピンと伸ばしたようなロゴが描かれている。
その机の中央にはADF総統、血沼蠟兆が座る。その横には、ADFの中枢たる機関の重鎮たちが数々居並んでいた。
組織の中枢を担う幹部たちが、誰一人欠けることなく一堂に会するなど、尋常ではない。誰もが口を閉ざし、ただ目の前で交わされる視線の応酬に、部屋全体が言い知れぬ緊張を募らせている。
この会合が、何か大きな転機の始まりであることを、誰もが肌で感じ取っていた。
璃久ら一行は、そんな重苦しい空気に満ちた部屋を無言で進み、柵内へと足を踏み入れる。沈黙の中に靴音だけが響き、空間の緊張を際立たせていた。
コード202こと八幡直弥を中央の椅子へと無造作に押し込み、手際よく手錠で鉄の柱へと拘束する。金属音が乾いた音を立て、直弥は一切の自由を奪われた。
続いて、彼らは同行させていた武装兵二名にその場での待機を命じると、ひとたび体の向きを変え、部屋の主である血沼蠟兆の前へと進み出る。そして、ぴたりと足を揃え、無駄のない動作で敬礼を捧げた。
「――玄武隊Ⅰ型戦闘員、熊野璃久であります!」
場の空気を切り裂くように、若き隊員の声が響く。
その背筋はまっすぐに伸び、軍靴の音を引きずることなく、まるで刃のような気配をまとう。
「今会議における最重要人物、八幡直弥を、責任をもって護送してまいりました!」
誰かが椅子の背に体を預け直す微かな音が、耳を打つ。
熊野の視線は微動だにせず、声には一片の迷いもなかった。
対して、ADF総統の肩書を持つ男は、重く纏わりつくような目線を彼に投げかける。鉛のような沈黙が帳を降ろした。
10秒ほど経っただろうか、重々しい沈黙の中、ようやく蠟兆はゆっくりと腰を上げた。
眼差しは四方を鋭く見渡し、広間に立ち込める緊張を一層強くする。
やがて、その口元がわずかに動き、低く、しかしはっきりとした声が空気を震わせた。
「…よろしいかな」
一呼吸の間を置き、彼は静かに告げた。
「では、これより―――四堂八間会議を開く。」
総員敬礼! と、蠟兆の長男であるADF副総統、血沼楠針が号令をかける。それに従い一般隊員はもちろん、座っていた四堂八間ら含め、身動きができない八幡直弥を除く全員が特別な敬礼をする。
右手は拳を作り後ろに、左手は首にあてがう。その時指は先程の紋章のように親指と人差指で輪を作り、残りの指は隙間なく真っすぐ伸ばして首にしっかりと当てる。そして同時に足を肩幅ほど開き、背筋を伸ばす。
それは「無赦の環」と呼ばれる、ADFに特有の敬礼だった。
そこには「誓い」という意味が確かに含まれており、ADFにおいて極めて重要な要素をいくつも内包している。
……だが今、その詳細を思い返す必要はない。
いや、本音を言えば——思い出したくない、というのが正しいのだが。
五秒間、全員が姿勢を崩さずに立ち続ける。
短くも永遠のようなその時を経て、誰からともなく、しかし完璧な同調で敬礼の手が下ろされた。
空気がわずかに動く。その瞬間、張りつめていた空気が静かにほどけ、彼らはおもむろに椅子へと腰を下ろしていった。
動作は遅く、確かな重みをともなっていた。これから始まる裁きの場に備える者の、それは静かな覚悟の表れのように思えた。
「…楽にせよ。」
蠟兆が静かに告げる。そう言われてから初めて、静謐な空気が徐々に弛緩していった。
蠟兆は続ける。
「さて、諸君らに今宵集まってもらったのは他でもない。先日、日本国で発生した魔族による鳴矢高校襲撃事件の、玄武隊及びその他関係者の責任追及と、そこにいる少年、コード202の今後の処遇について話し合いたい。」
今度は楠針が口を開いた。
「総統閣下のおっしゃった通りだが、もう一度今会議における重要事項を伝達しておく。議題は2つ、一つは鳴矢高校襲撃事件を防ぐことのできなかった玄武隊四堂および八間、桜田風音と四阿庸平両名の死刑に賛成か否か、もう一方は、部屋の中央で拘束されているコード202、自称『八幡直弥』の今後の処遇―――つまり魔族として処分すべきか否かについて議論する。発言権及び投票権は主にオリオンの四堂八間のみであり、四堂は特別票として2票分の効力があるものとする。ただし、桜田風音、四阿庸平両名は自身の死刑に関する議題では、投票権は無効とする。また、投票数が同票となった場合、最終的には票に関係なく総統閣下のご決断を仰ぐ形とする。以上だ。」
楠針は言い終わるとまた席に座る。それを確認して、ADF総統が告げた。
「―――では最初に、桜田風音及び四阿庸平の処遇についての議論を開始する」
その言葉を合図にしたかのように、部屋の空気がざわりと動き出す。最初に声を上げたのは朱雀隊四堂の熊野焔冥――璃久の父だった。
「我ら朱雀隊は、一貫して死刑に賛成である。先月から日本の内閣が抗議文書と事情説明の要請をこちらへ再三送りつけてきている。そんな中で責任追及を免れるのは、あまりに無責任で恥知らずな愚行だ。……反対意見の者はおるか?」
その問いに応じて手を挙げたのは、白虎隊四堂・朽宮言真と、同隊八間の緋月玲、月島那海、そして玄武隊八間の血沼亜沙美だった。
口火を切ったのは、朽宮言真。
「僕、というか――白虎隊は反対だね」
言真の声は柔らかいが、そこに込められた熱意はひときわ鋭かった。彼はちらりと四阿の方へ目をやると、話を続けた。
「そこにいる四阿から大まかな話は聞いたけどさ、魔族とは別に“最上シア”とかいう新たな脅威が迫ってきてるらしいじゃん。そんな中で下手に勢力を減らしちゃ最悪、また“あの日”の再来なんてことも起こり得る。それこそ、君の言う愚行に何よりも近しいと思うけど。」
その場にいた者たちの背筋に、かすかな緊張が走る。
“あの日”――誰もが忘れられずにいる、忌まわしい記憶。言真の言葉は、冷静なようでいて、その核心を確かに突いていた。
「……私も、反対の立場を取ります。」
亜沙美も同調する。
「最初に言っておきますが、これは私情ではありません。狂風卿の意見が理に適っているからです。」
一拍置き、彼女は視線を焔冥に据えたまま続ける。
「私も寛解公から同じ話を聞いています。最上シアという存在について、現時点では魔族なのか、人間なのか、その断定は困難です。しかし……佳人卿が言うに、彼女ですら、その存在の気配を一切察知できないまま、最上シアは付近の建物から、対物ライフルを用いて魔族を即座に絶命させた、と。」
焔冥が腕組をする。マスクに隠れて表情は確認できないが、離れていても不機嫌な気配は感じられる。
「魔族であろうと人間であろうと、そんな芸当、現在の四堂の中にすら成し得る者はいない。これは、ただの強敵ではない。すぐそこまで差し迫った脅威です」
亜沙美の目が鋭く光る。彼女の語調に、感情の波はない。だからこそ、その意見は冷徹な現実として響いた。
「差し迫った最大の懸念点である最上シア。ならば今、我々が取るべきは戦力の温存。これは理の当然であり、感情論を排した妥当な選択だと、私は考えます」
焔冥に代わり、今度は朱雀隊八間・藤田寛嗣がその意見に反論する。
「でもよ゙、豊麗公。その意見が5原則の鋼条に反してるってのは、てめ゙ぇも分かってんだよ゙な?」
5原則を引き合いに出してきたか、と璃久は唇を噛む。
5原則の鋼条とは、「人類の存続は、非人類的存在を完全に排除することによってのみ保証される。」「対話は幻想であり、共存は妄想である。魔は例外なく脅威であり、徹底的に絶滅すべき『異物』である。」とするADFの理念を基にした、兵に求められる要素5箇条である。
それぞれ、即滅先行(Elimination First)、感情抑圧(Enemies come from Emotions)、絶対服従(Obedience Above All)、唯果論(Only Results Matter)、浄化義務(Purification is Purpose)と言われている。その中で、藤田が引き合いに出したのは唯果論、つまり結果を出せなかった者は例外なく粛清されるべきという考え方だ。
「オリオンの顔とも゙言えるお方が、“鋼条”に違反してる゙――それを゙黙って見逃す? 冗談じゃね゙ぇ。『今我々は弱ってる状況でありまして、これ以上組織を揺るがすのは……』、だったか。情けね゙ぇ寝言だな゙。弱ってるならなお゙のこと、甘さは毒だろ゙。四堂八間だから゙って特別扱い゙か? 笑わせんな゙。規律を例外で濁した瞬間、それ゙こそオリ゙オンは終わりだ。」
その瞬間、場の空気が一変する。
緋月玲が、鋭く藤田に視線を突き刺した。
「おい、永縛公。それは――狂風卿への侮辱と受け取っていいのか?」
藤田は怯まず、むしろ口元に薄く冷笑を浮かべて応じた。
「論点をすり゙替えるな゙よ、烈火公。今の議題は、佳人卿と寛解公の処遇に゙ついてだ。それ゙にな――俺はただ、見たまま゙、聞いたままを゙口に゙しただけだ。腑抜けた意見が飛び交っ゙てたんでな。聞くに堪えな゙かった。だから言っだ。それだけだ。」
藤田の声は静かだった。だがその芯には、火薬にも似た殺意が潜んでいた。
緋月はそんな藤田の返答に、さらに目を見開いた。怒りが宿った瞳は鋭く、まるで獣のように相手を射抜く。その声音も、先ほどまでの冷静なそれではなく、若き烈火そのものだった。
「四堂に向かって“腑抜け”とは……どこまで偉くなったつもりだ、永縛」
吐き捨てるような言葉に、場の空気がぴりつく。
藤田は片眉をつり上げ、椅子から腰を浮かしかけた。
その額には青筋が浮かび、顔の輪郭が怒気でこわばっている。
「ぁ゙?……ん゙だ、ガキ。やる゙ってのが?」
その声は低くくぐもり、今にも噛みつきかねない野犬の唸りだった。
緋月も一歩も引かず、そのまま藤田の視線を真正面から受け止める。鋭く張り詰めた眼差しの中には、一切の怯えもなかった。
月島那海が緋月の肩に手を置き、必死に宥めようとする。
「玲ちゃん、やめて……今はそういう場じゃない……!」
その声には焦りが滲み、彼女自身がこの空気の危うさを誰よりも理解している証だった。しかし、緋月の怒りはなお収まらない。
肩に置かれた手を振り払うことこそしなかったが、その眼差しは鋭く藤田を射抜き続けていた。怒気は一瞬たりともその奥で鎮まる気配を見せなかった。
一方で、白虎隊四堂の朽宮言真は、まるで舞台の観客のように腕を組み、愉快そうに目を細めて事の成り行きを見守っていた。
「やれやれ」とでも言いたげな微笑。だがその目は冷たく、どこか期待すら孕んでいた。
朱雀方の席では、熊野焔冥が静かに顔を伏せている。
彼は何も言わず、考えに沈むように動かない。
そして、藤田の隣に控えるもう一方の朱雀隊八間――空夜凪は、議論が始まる前から誰とも目を合わせていなかった。ただじっと、何かを視るように虚空を見つめ続けている。怒声も、緊張も、彼には届いていないかのように。
つまり藤田寛嗣の側に、彼を止めようとする者は誰一人いなかった。
燃え上がる火種を前に手を伸ばす者はなく、それは暴発寸前までに陥る。
だが、空気が爆ぜる寸前。
「―――そこまでだ」
低く、だが場のすべてを貫くような声が響いた。
蠟兆が口を開いた瞬間、まるで空間そのものが凍りついたかのように、全員の動きが止まった。
藤田の肩がわずかに跳ね、緋月の瞳に浮かんでいた怒りも、ほんの一瞬だけ静止する。
血沼蠟兆、その存在感は言葉以上に支配的だった。
彼の目は誰にも向けられていないようでいて、確かにその場の全員を見据えていた。冷たい水が一気に頭から浴びせられたような感覚が、議場を包む。
「此処は感情をぶつける場所ではない。ここに集った理由を、もう一度思い出せ」
声に特段怒気はない。だが、逆らうことは許されない圧があった。
「…失礼、しました」
「…失敬。」
藤田も緋月も、今にも動き出そうとしていた膝の力を抜き、椅子へ座り込んだ。
月島は小さく安堵の息を吐き、言真は肩をすくめて少々残念そうに笑いを引っ込めた。
「―――青龍隊は、なぜずっと黙っている?」
沈黙の中、焔冥が再び声を発した。
その言葉が放たれると同時に、部屋の空気がわずかに揺れ、すべての視線がひとりの男に集まった。
青龍隊四堂、氷雨野与一。
彼は静かに顔を上げた。だが、その表情にはこれまで見せていた威厳も気迫もなく、ただ深い静寂があった。
数秒、いや、ほんの一瞬にも感じられる沈黙ののち、彼は低く告げる。
「儂ら青龍隊は―――この議題において、投票権を棄権させてもらう」
その言葉は、鋭くもなく、淡々としていた。
ざわ……と、場に微かな動揺が走る。その波紋は瞬く間に広がり、各隊の間に戸惑いと疑念を生んでいった。
「なに……?」
焔冥も多分に漏れず、思わず青龍隊の方を見やる。
その視線の先で、八間である夏芽遼とアリス・ヴァイオレッタが、それぞれ沈痛な面持ちで俯いていた。彼らの苦悩は隠しようもなく、その表情がすべてを物語っていた。
そして――焔冥の視線は、ゆっくりと白虎隊の席へと移っていった。
朽宮言真の見返す顔には、あからさまな不敵の笑みが浮かんでいた。
何も言わず、何もせず、ただ楽しんでいるような目。すべてを読んでいたとでも言いたげな、確信めいた余裕。
焔冥は小さく呟いた。
「……小童が」
その言葉には怒気も軽蔑もなく、むしろ悔しさの滲んだ独白のようだった。
自分が一歩遅れたことを悟った者だけが見せる、わずかな歯噛み。焔冥は無意識に、右手に握りこぶしを作っていた。
***
「条件はたった一つ、内容は――」
数時間前、会議が始まるより前の静かな一室。
そこにいたのは朽宮言真と、対面に座る青龍隊四堂・氷雨野与一。そしてその後方には、夏芽遼とアリス・ヴァイオレッタの八間両名が控えていた。
言真は、窓から差し込む淡い光を受けて不敵に笑うと、静かに言った。
「今会議での投票権を棄権してもらいたい。ただそれだけさ」
まるで気軽な雑談でも交わすかのように、さらりと。
だがその一言の重みは、空気を一変させた。
氷雨野が眉をひそめ、夏芽とアリスは目を見開いたまま言葉を失っている。
数秒の沈黙。まるで時計の針すら止まったかのような静寂ののち、氷雨野が口を開く。
「……何を考えておるのだ、貴様は」
その声には、警戒と困惑、そして怒りが混ざっていた。
まるで蛇のように滑り込んできたこの提案の裏に、どれほどの毒が潜んでいるのか。氷雨野の目は、じっと言真を探った。
だが彼は微笑を崩さない。氷雨野の問いに、まるで楽しむかのように肩をすくめる。
「何、ただの均衡だよ。朱雀が怒りに任せて首を跳ねたがってるなら、こちらも少しばかり重しを置いておきたいだけさ。戦力の話をしているのなら、味方の頭数は多いに越したことはないだろう?」
「貴様……それが理にかなっていると思っているのか?」
「理なんてのは、都合のいい者の手の中にある。ヒサ爺も、そう教えてくれたはずだろう?」
そこで、アリスが静かに一歩前に出た。顔を伏せたまま、震える声で言う。
「……氷帝卿。不本意ですが…私は、八幡直弥は除けば、あの二人を殺すべきだとは思いません」
夏芽もそれに続いた。
「僕もそう思います。いま戦力を失うのは愚行に近い。その理論は確かに、筋が通っています。あとは私的な考えにはなりますが…朱雀の考え方は、正直過激すぎる。」
その言葉に、氷雨野は目を閉じた。
長い沈黙。そして、深いため息。
「……それで棄権した場合、儂らになにか利益はあるのであろうな?小僧」
氷雨野与一の声には、単なる確認ではなく、試すような重みがあった。
その問いに対し、言真は焦ることなく、杯に手を添える。
中に注がれた紅茶をひと口、音もなく啜ると、優雅な動作でゆっくりとそれを卓に戻した。
「あるよ」
短くも確信に満ちた一言。
言真はそのまま足を組み替え、ふわりとソファの背にもたれかかる。態度は軽薄、だが言葉は重い。
「僕はね、二人の死刑にはさっき言ったように反対さ。でも、責任が全くないとは思っていない。だから落とし所として――彼女らには一年間の謹慎処分を科すつもりでいる」
焔冥のように断罪を望むわけでもなく、ただ庇うだけでもない。
冷徹と温情の均衡。それを装った巧妙な駆け引き。
「その間、当然ながら役職は空席になる。でも、空けたままにはしない。そこで――」
そこで言真は、ふと身を乗り出し、指を伸ばす。
その指先は、まっすぐ夏芽遼を示していた。
「四阿が戻ってくるまでの間、君を玄武隊八間の代理として推薦しよう」
夏芽の瞳が見開かれたまま揺れ、アリスは息を呑んだ。
与一も目を細め、じっと言真を見つめている。
それは、青龍隊に対する「棄権という沈黙」の対価。
あるいは、若き八間への期待と見せかけた、未来への楔。
「どうかな?悪くない取引だと思うけど」
くだらん、と氷雨野は鼻で笑うように吐き捨てると、背中をソファの背にどっかりと預けた。
その仕草は、まるで「これ以上、貴様の戯言など聞く気はない」と言っているかのようだった。
腕を組み、目を閉じる。それでも、その瞼の裏ではすでにいくつもの計算が巡っているのが分かる。
老練な彼が、一つの駒の動きで全体を見誤るはずがない。
「……まったく、貴様は昔から口が立つ。あまり調子に乗るでないぞ、小僧。」
低く、くぐもった声が部屋に落ちた。
それは怒りでもなく、呆れでもない。むしろどこか、諦観に似た響きを帯びていた。
言真はその様子を見て、ふっと目を細める。そしてゆっくりとソファから腰を上げた。
そして整えられた衣服の裾を軽く払うと、彼は扉の方へと歩を進める。
だが、ちょうど取っ手に手を掛ける寸前、ふと足を止めた。
部屋の誰にも背を向けたまま、言真は言う。
「……判断は任せるよ。君たちにも決定権はある、取引を蔑ろにされても、別段怒りはしないさ。」
言真は軽く振り返り、氷雨野の顔を見据え、淡く笑みをにじませるような声でこう言い残した。
「―――まあそれなりに期待はしてるよ、青龍隊さん。」
***
「何の小細工だ、朽宮言真!」
焔冥の声が、鉄を叩きつけるかのように重く響き渡り、瞬間場にいた誰もが言葉を失った。
言真はというと、やや意外そうに目を瞬かせたものの、すぐに口元に笑みを浮かべる。
それは火に油を注ぐような、不敵で計算された笑み。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえてるよ、クマ。」
あくまで涼しい声で応じると、足を組み直し、両手を膝に乗せて肩をすくめる。
「小細工なんて心外だな。ただ、合理的な提案をしただけさ、なにも強制したわけじゃない。僕の言葉で青龍隊が動いたなら、それが彼らの判断だったって、ただそれだけの話だよ」
焔冥は黙ったまま、だが鋭く目を細めて言真を睨む。
まるで、その細身の身体を一撃で粉砕せんばかりの視線。
だが言真は、その視線を真正面から受け止めた。
恐れは見せない。いや、最初から怯える気などないのだ。
彼の態度が何より雄弁に、それを物語っていた。
「ここは感情で動く場所じゃない。そうだろ?」
静かに放たれたその言葉に、会議室の温度がさらに数度下がるような気配が走った。
だが、焔冥はそれ以上の言葉を飲み込んだ。全身に湧き上がる怒気を、鋼の意志で抑え込む。
白虎の若造ごときに感情を爆発させては自らの矜持が廃ると、悔しげに奥歯を噛み締め、荒く息を吐き勢いよく椅子へと身を預ける。
「……ちっ」
重々しく軋む椅子の音が、抑えられた怒りの代弁者のように響いた。
腕を組み、睨むように視線を逸らすその姿は、怒りを捨てたのではない。
それでも、この場で言真の挑発に乗ることを自ら戒めた結果だった。
「…そろそろ、話し合いはよろしいかな?」
まるで糸がぴんと張り詰めたまま動かないような空気の中で、蠟兆のその一言は針のように突き刺さった。
焔冥は依然として椅子に深くふんぞり返ったまま、無言で腕を組み続ける。
朽宮言真は肩を竦めるように笑みを浮かべたが、それ以上の茶化しはしなかった。
周囲を見回せば、複雑な表情を浮かべる者、何かを諦めたように目を伏せる者、わずかに肩の力を抜いた者――
十人十色の反応があったが、それでも誰一人、蠟兆の言葉に異を唱える者はいなかった。
それを確認して、彼はこう告げた。
「では、これから投票に移る」
蠟兆の声は、先ほどまでの諍いや駆け引きを全て断ち切るように、静かで、なおかつ重たかった。
空気がぴたりと止まり、全員の視線が自然と中央の壇上へと向く。
「四堂八間の者たちは、桜田風音・四阿庸平の死刑に賛成だと思えば、手元の赤の札を。反対だと思えば、白の札を上げよ」
その言葉が告げられた瞬間、部屋の緊張は最高潮に達した。
札はすでに各自の手元に配られている。
それは、ただの木札でしかない。しかし今この場では、一枚の札が人の生死を分かつ剣となる。
数秒間、誰も動かない。
誰かが呼吸を飲む音だけが微かに響く。
その沈黙を最初に破ったのは朱雀隊だった。
無言のまま、焔冥が真っ赤な札を持ち上げる。その所作には一切の迷いがなかった。
それに続き、朱雀隊八間の者たちも赤を掲げる。
次に動いたのは白虎隊。
言真は涼しい顔で白を、緋月玲と月島那海も、確固たる意志で白を掲げた。
続いて玄武隊。
血沼亜沙美が白を挙げる。投票権が認められていない四阿は、決断のときを待つように目を伏せていた。
最後に残ったのは、青龍隊。
投票は棄権と言っていたが、取り決め上いずれかには投票しなければならない。氷雨野は赤の札、夏芽とアリスは白の札を上げ、互いに票の効力を相殺し合う。これで実質、棄権という形を取った。
やがて、蠟兆が結果を見届けたのを確認し、ゆっくりと立ち上がる。
「……赤、6。白、7。よって死刑案は否決とし、両名は一年間の謹慎処分とする。」
その宣言と同時に、議場の空気が一気に緩む。
誰かの安堵の吐息が漏れたが、すぐに押し殺される。
この決定が新たな波乱を生むであろうことを、誰もが理解していた。
――だが、まだ戦いは終わらない。。
全員の目が部屋の中央に向けられる。
そこで、鉄の柱に縛られ、身動きが取れないまま、直弥は不安げに周囲を見渡していた。
その視線には、かすかな動揺とともに、何かを懸命に探し求めるような焦燥が滲んでいる。
彼の周りの空気は、先ほどの投票結果とは打って変わり、まるで霧のように重く圧し掛かる。
彼の目には、言葉にならない不安が浮かんでいた。
「では、次に―――コード202の死刑に関する議論を開始する。」
蠟兆の冷徹な言葉が、再び議場に響き渡る。
その声に、直弥の肩がわずかに震えたのを、璃久は見た。
***
四阿庸平は、ふと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
それはただの緊張ではない――空気の奥底に、何か粘つくような不穏が広がっている。
目に見えぬ誰かが、帳の裏で糸を操っている。そんな気配。
この違和感は、先ほど朽宮言真が青龍隊との取引を匂わせたときに漂った、あの空気と似ていた。
あのときも、言葉では説明できない何かが、じっとこちらを見ていた気がした。
その感覚は、亜沙美も同じだったようで、彼女はこっそりと四阿の隣に顔を寄せ、小声で囁く。
「…ねぇ、四阿。なんだか変な感じしない?」
庸平は微かに頷き、目を細める。
「…ああ。嫌な予感がする。」
と、その直後だった。
壇上の蠟兆が重々しい口調で静寂を切り裂く。
「だがその前に――朱雀隊から、事前にこんな通告があった。この議題においては、投票権は四堂以外持てないようにしたい、と。」
沈黙。
誰もが思わず顔を上げた。
まるで事前に知らされていなかったかのような反応――いや、実際その通りだった。八間たちには、何の通達もなかったのだ。
「な……っ」
四阿が小さく唸る。その横で、亜沙美の瞳が鋭く細められる。
「投票権の制限……?」
彼女が低く呟いたその声には、静かな怒りが込められていた。
焔冥が立ち上がることはない。ただ、腕を組んだまま、口を開く。
「我ら朱雀隊は彼の処遇について、四堂のみによる決断こそが最適であると考える。この件は高度に機密性が高く、また軍事的にも繊細な判断が必要とされる。無用な混乱を避けるためにも、四堂以外には投票権を持たせないことを要望した――それだけのことだ。」
それだけのこと――。
焔冥はそう言い切った。
だがその裏に何があるのか、分からぬ者はいない。
これは情報の操作であり、構図の固定であり、策略だった。
視線を送ると、朽宮言真がまたもや楽しげに微笑んでいた。
だがその顔の影に不快感が浮かぶのを、四阿ははっきりと見た。
「……そんなこと聞かされてないんだけど?朱雀隊さん。」
言真がそう言うのを聞きながら、四阿は唇を噛んだ。佳人が出席していない以上、こちら側は圧倒的に不利になる。また青龍隊の棄権も八間が投票できない今、事実上防がれている。氷帝がその機を逃すわけがない。おそらく死刑に票を投じるだろう。票数は圧倒的に差がつく。
「私が直前でそれを認可したからな」
蠟兆が静かに語る。
その声には、抗いようのない“権威”の色があった。
「閻魔の言っていることは、私の見解と一致している。佳人が出席していないのは残念だが――オリオンの顔とも言える四堂に判断を仰ぐのは、自然な流れだ。」
蠟兆が冷ややかに言い放つと、部屋の空気がさらに重く沈んだ。
(自然な流れな訳があるものか)
四阿は心の中で噛みつくようにそう思った。だがもちろん、口には出せない。
たった四人――四堂のみで人の命を裁くなど、どう考えても異常だ。
そもそも、オリオンの意思決定とは、四堂と八間がそれぞれの視点から意見を交わし、均衡を保ちながら導き出されるものであるはずだ。
それが今や、八間の声は意図的に封じられ、四堂だけで処断が下されようとしている。
これではただの独裁。しかも制度の体裁すら守らない露骨な私刑だ。
(…本末転倒だ)
四阿は唇を噛み、視線を床に落とした。この会議が粛清の場に変わろうとしている、だが四阿らにそれを止める手立てはない。総統の言うことは絶対であり、反対意見など存在してはいけないのだ。
あくまでこの会議は総統の判断に協賛するためにある。絶対的な権力の下、ADFの名のもとに集うオリオンの精鋭たちは、皆が“人類の理想”のために剣を振るう。
総統が目指す未来、魔族の完全根絶という理想――その崇高さに異を唱える者は、たとえ同胞であろうと排除される。“崇高な理想”という名の下では、人の命も思想も、そのすべてが取るに足らない駒にすぎない。
かつて、総統の独裁体制を「盲目的超軍事主義」と批判した人物がいた。
ADFの「魔族撲滅」という理想に溺れ、人間としての理性を失い、判断を誤る――
“魔族に殺されることを恐れるあまり、自ら魔族より非道に堕ちていく”と。
無論、その人物と支持者は即刻粛清された。
拷問の末に、命乞いさえ聞かれることなく処刑され、存在は記録ごと抹消された。
四阿は、それを誤りだとは思っていなかった。
むしろ的を射ていた、とさえ感じる。
そう感じてしまう自分を、心のどこかで忌々しく思いながらも否定できない。
口に出した瞬間、自分もまた粛清されるのは分かっている。
だから誰もが黙る。沈黙する。服従する。
それが、この組織における「正しさ」だった。
「もはや話し合いなど必要ない。コード202は我ら人類と反目する魔族であり、崇高な意志のもとで浄化するのは当然であろう。」
焔冥が静かに、しかし鋼のような確信を込めて言い放つ。
その言葉は、誰に語りかけるでもなく、ただ“当然”の理として場を押し潰すように響いた。
しかしすかさず、それをはねつけるように言真が反論する。
「その確証はどこにあるのさ。LOD検査だって、まだ決定的な結果は出てないんでしょ。曖昧なデータで断定するのは些か早計じゃない? しかも彼――コード202は、魔族帝家ナンバースリーとも謳われるベピラ=ルシファーが直々に生界を襲撃してまで追いかけた存在だ。普通に考えれば、帝家にとって彼は脅威になり得るってことでしょ。」
言真は手を広げ、やや芝居がかった所作で続ける。
「逆に言えばさ、そんな“帝家の敵”をこちら側で保護できれば、それだけで相当なアドバンテージになると思うけど?」
「希望的観測はよせ、狂風。」
焔冥の語気が強まる。
椅子からは立ち上がらないが、その威圧はまるで炎のごとく場を包み込む。
「ベピラとやらが襲撃してきたのは、帝家の間で沸き起こった権力争い――内ゲバの可能性もある。魔族は身柄を拘束するつもりなどなかった。やつらは、初めから“殺しに来ていた”。それこそが、やつが脅威である何よりの証拠だ。」
「儂も朱雀の意見に全面的に与する。」
低く、重く、氷雨野与一が続けた。
その声には氷のような確信が宿り、場をさらに冷たく締めつける。
「白虎の小僧は、どうやら夢見がちじゃのう。敵に情けをかけるのが、貴様の成長か?それとも、ただの弱腰か?」
焔冥、言真、与一――三者の発言がぶつかり合い、会議の空気は一気に沸点へと近づいていく。
だが、それは単なる口論ではない。
命を決する裁定の場において、思想と信念が剥き出しになって交差する――まさに“政治の戦場”そのものだった。
そして、それを横目で見ながら、四阿庸平は苦々しく思う。
(予想はしてたけど、やっぱり命の価値を議論する場所のはずが、勢力の駆け引きと見せしめの舞台になってる。)
内部改革派の熊野焔冥。
対外強硬派の氷雨野与一。
立場も思想も異なる二人が、ただ一つの点で共通していた。
――八幡直弥は、危険すぎる。
彼が人間側に残り、何らかの影響力を持てば、その行動は朱雀・青龍の双方にとって制御不能の爆弾となる。
焔冥にとっては、組織の統制を乱す“不安定因子”。
与一にとっては、魔族と通じる“侵略の種”そのもの。
だからこそ、手段を選ばず、必ず始末する。
法も正義も道理も、彼らにとっては“殺すための材料”でしかない。
そんな彼らの暴走を、今まで最前線で食い止めていたのは二人――玄武隊四堂の桜田風音と、同じく白虎隊四堂の朽宮言真であった。
とりわけ神族の加護を受けている桜田は“倫理の防波堤”だった。
激情で突き進む焔冥を止め、冷徹な与一に楔を打つことができる数少ない人物。
だが、彼女はいま眠りの中。
意識なき彼女の代わりに、今、この場を守るのは言真ただ一人。
(…割が悪すぎる。)
玄武隊にとって、八幡直弥という男の生死は、端的に言ってどうでもいい。
彼が死んだところで、玄武にとって直接的な損害はない。
むしろ、魔族に与する疑いがあり、かつ騒動の中心にいる男など、さっさと消えてくれた方が組織の秩序も保たれるという焔冥らの非難は、的を射ているといえる。
だが、それでも容易に死刑への賛成には傾けない。
いや、傾けられない。
その理由はひとえに、桜田風音の存在だった。
彼女が目覚めぬまま、もし直弥が処刑されればどうなるか。
死刑撤回がなされたとしても、その後の処遇次第では、白虎隊は確実に“敵”に回る。
彼女を生かしておきながら、約束の対価である直弥が処刑されてしまえば言真はどう動くか。彼が一枚岩ではないのは経験則でわかる。場合によるだろうが、彼は時に最大の味方となり、そして最大の敵にもなりうる。
先述の通り言真も焔冥と氷雨野の暴走を抑え込む防波堤の役割をしている。だがそれは、道徳や慈愛といった情緒的な理由から来るものではない。たしかに白虎には穏健派も多いが、朽宮言真自身はむしろ、思想の上では焔冥や氷雨野に近い。強硬派のように、魔族撲滅という理念に対して妥協など許す気は毛頭ない。
だがそれでも穏健派の根城である玄武隊の肩を持つのは、彼の柔軟な考えと政治的な地位の安定確保のためだ。決して玄武の主義に共鳴しているからではない。
合理的な政治的計算。
異なる派閥と協調する柔軟さ。
そして、自らの地位と影響力の安定。
朱雀や青龍のように力で全てをねじ伏せようとする者は、いずれ大義を見失い、破綻する。
だが彼は違う。力を使うなら、それは最も効果的な瞬間に、最も効果的な相手に、最も効率よく使わなければならない。その現実主義敵側面が、玄武に牙を向く可能性は必ず排除しなければならなかった。
だが実際は、思い通りには行かない。
「―――時間だ。ではこれより、コード202の死刑への投票を開始する。ただし八間の投票権無効から四堂の票を一票分とし、全4票での判決とする。」
蠟兆がそう無慈悲に告げた。言真は笑顔を薄め、顔には不快感が先程より色濃く出ている。
焔冥と氷雨野が意気揚々と赤の札を掲げた。一方白の札は言真の一枚だけである。やはり数は覆せない。
焔冥の勝ち誇った顔を四阿は見た。
理屈も、情も、倫理も通じない。
ただ力と構造、政治と数。それだけが、ここでは正義を決める。
唇を噛みしめるしかなかった。
直弥の運命は、今、冷酷な均衡のもとで傾こうとしていた。
「…佳人の欠席により、赤、2。白、1。よってコード202は―――」
突然、外部から喧騒が耳を打った。
会議室の静寂を破る、明らかに異質な音――複数人の足音、誰かを引き留めようとする焦燥した声、そしてそれを振り払うような靴音。
近づいてくる。誰かが、ここへ来る。
この密室に、予定外の存在が。
扉が乱雑に開かれた。
冷たい廊下からの空気とともに、眩い外光が議場へと差し込む。
瞬間、誰もが目を細め、視線を向ける。そこには白衣を着た数人の医師たちが立ち尽くしていた。戸惑いと焦りの表情を浮かべながら、彼らは扉を蹴破るようにして開け放った中央の一人を追いかけてきたのだ。
その人物――
「佳人……!?」
四阿が思わず声を漏らす。
議場の空気が一変した。
そこに立っていたのは、病衣を身にまとった色白の少女。
長い髪が揺れ、その表情は無。
だが目だけが、すべてを見透かすように冷たく光っていた。
桜田風音。
重く沈んだ場の空気が、その登場だけで震える。
誰もが言葉を失い、誰もがその姿に息を呑む。
彼女は何も言わない。ただゆっくりと歩を進めながら、全員の顔を順に見渡していく。
マスクの下の焔冥の目が細くなり、氷雨野が身を乗り出す。蠟兆すらも眉をひそめ、静かに様子を伺っている。
そして風音の視線が、最後に止まったのは八幡直弥。
彼女は数秒、その姿を見つめると、ようやく口を開いた。
「ほんっと、よく寝た。」
場違いともいえるようなその言葉は静かで、だがすべてを切り裂くような力を持っていた。
「……なぜ貴様がここにいる。」
焔冥の声には、苛立ちと困惑が滲んでいた。
まるで予定外の歯車がひとつ、音を立てて噛み合わなくなったかのように。
だが桜田はその言葉に反応するでもなく、ただまっすぐ彼を見据えた。
冷ややかな目。言葉の一つひとつを解体して見下ろすような視線。
やがて、静かに唇が開く。
「……私がここにいると、何か不都合でも?」
声はそこまで大きくはなかった。だが、張り詰めた空気の中では、全員の鼓膜を突き刺すほどの存在感を放っていた。
焔冥の気配に一層不快感が混ざる。
だがその苛立ちに比例するように、逆に桜田の声はさらに冷たくなる。
「これは、私の部下の命に関わる話。どれほどのことも出てこない理由になるとは思えない。」
沈黙。
誰もが息を呑む中で、風音は一歩、また一歩と議場の中心へと歩み出す。
「……それに」
その足が止まる。そして再び椅子に縛られた直弥を見据え、彼女は静かに言い放った。
「まだ私の“白”は、掲げられていない。」
言真が目を見開く。
同時に焔冥のこめかみが、ぴくりと動いた。
「何を言っている。もう投票の時間は……」
焔冥が声を荒げたその瞬間、議場の空気が鋭く張り詰めた。
「終わっちゃいないだろう?」
軽やかな声が空気を切り裂くように響く。
「総統閣下はまだ明確に判決を下されていない。つまり、彼女の投票権はまだ残されてる。」
言真が涼しげな笑みを浮かべて告げると、会場の視線が一斉に桜田へと向けられた。
「ふざけるな……! こんなことが罷り通ると――!」
焔冥の怒声が再び響く。しかし、その言葉を静かに押し留めたのは、重く低い蠟兆の声だった。
「いや、閻魔。今は狂風の言っていることが正しい。私は未だ判決を下してなどおらん。」
その一言に、焔冥の全身から力が抜け落ちたかのように項垂れる。だが、ベネツィアンマスク越しにもわかる屈辱にまみれたその顔は怒りを宿したまま。拳を強く握りしめると、彼は椅子から勢いよく立ち上がった。
「……戯言だ。」
低く吐き捨てるように言うと、焔冥は璃久や桜田のすぐ脇を、肩をぶつけるほどの勢いで通り過ぎた。扉を乱暴に開け放ち、そのまま議場を去っていく。後には、重くのしかかる沈黙と冷気だけが残された。
藤田もまた、不満を隠そうともせず険しい顔つきで立ち上がり、無言のまま空夜の肩を軽く押す。彼らは小走りで焔冥の背を追い、二人の背中はすぐに議場の外へと消えていった。
扉が重く閉まる音が、まるで焔冥の怒気を打ち消す鐘の音のように、議場に残響を残す。
佳人は何も言わず、ゆっくりと歩みを進める。
足元は不安定で、その身にはまだ点滴の留置針すら残ったままだ。
だがその目には、ADFを支える将の、威厳と覚悟が宿っていた。
彼女は四阿ら玄武隊がいる机の横まで来ると白い札を手に取り、高く掲げた。
「白。私は死刑に反対。」
言真が微かに息を吐いた。四阿が肩の力を抜く。
亜沙美は静かに目を閉じて、頷いた。
蠟兆は、その一部始終を見届けると、低く告げる。
「……これにて、投票は二対二。票は拮抗した。」
楠針が口を開いた。
「最初に言ったように、同数だった場合は総統閣下のご判断を仰ぐ形となる。閣下のお言葉を、心して聞くように。」
全員の目線が蠟兆に向く。彼は白銀の髪を撫でるようにゆっくりと指先を滑らせながら一拍、考え込むような沈黙を置いた。そして、ふと目を細めると、視線をある人物へと向け口を開く。
「お前はどう考える、糜嬋」
蠟兆が語りかけたのはADF開発室室長、血沼糜嬋。骨ばった細身の身体に、不釣り合いなほど太いフレームの丸眼鏡を掛け、両の手を擦り合わし吃りながら答える。
「わ、私が思う 、にですね、か、彼が後々わ、れわれのせ、潜在的脅、威になる可能性は高いと、思います。です、すがし、室長の立、場から申し上げればですね、魔、族に対す、る何かしらの有、効な手立て、を講じるうえで、その研究対、象としてはすごく価値、があるものと、も思われます。」
それを聞いた蠟兆は、椅子の背にもたれたまま、低く唸るような声を漏らした。
「……そうか。」
まるで、自らの信念と現実との間で葛藤するかのように、彼の瞳が静かに揺れる。そしてゆっくりと身を起こすと、重い声で言葉を紡ぎ始めた。
「私は、コード202は即刻処刑すべきだと、会議が始まる前からそう考えておった。」
議場の空気が再び緊張で締め付けられる。だが、蠟兆は続ける。
「確かに、魔族に情けを掛けるべきではないという考えは、私の第一信条であり、それはこの命を終えるその日まで、決して変わることはない。」
彼の語気は決して怒声ではなかったが、その言葉には揺るがぬ威圧と威厳が滲んでいた。
「……ただ、この投票結果。そして、糜嬋や――先ほど狂風が述べた意見も、無下にはできんとも思うのだ。」
わずかに目を細めながら、彼は議場を見渡す。その瞳には冷徹さと共に、理性の光が宿っていた。
「我々は長きに渡り、魔族の徹底的撲滅を最優先としてきた。だが、もし奴らの統合の象徴たる“帝家”への瓦解の糸口が彼自身だというのであれば……それを何の策もなく見殺しにするのは、あまりに惜しいことだと思うた。」
重く沈んだ空気の中で、誰もが蠟兆の一挙手一投足に固唾を呑む。その沈黙を切り裂くように、彼は静かに、しかし明確に言い放った。
「――よって、コード202は……」
一瞬、時間が止まったように感じられた。誰もが、呼吸を止めてその続きを待つ。
蠟兆は一拍置いたのち、言葉を落とすように宣告した。
「…一年間の猶予を付けた、条件付き死刑とする。それまでに魔族に対し有効な手立てを講じたと私が判断できれば――減刑を認める。」
それは、厳罰の名を借りた一縷の希望であり、同時に、冷酷な審判の執行猶予でもあった。
議場には、言葉を失ったままの沈黙が降りる。誰もが、その判決の重みを受け止めようとしていた。
***
「……私の代理があんたって、本当なの?」
静かに、しかし冷たく突き刺すような声で桜田風音が言った。
彼女が今いるのは、かつて八幡直弥が初めて目を覚ましたあの日、四阿庸平が訪れたあの書斎のような一室。夜遅くなこと以外にはあれから何も変わっていない。重く積もった紙の匂いが空気を満たし、壁を覆い尽くすように並べられた古書が、静かに桜田を見下ろしていた。
その部屋の中心、革張りの椅子に身体を沈めているのは、まるで少年のような風貌の男――朽宮言真。小柄な体に不釣り合いなほど分厚い本を広げ、太いフレームの伊達メガネ越しにページを食い入るように追っている。
「なんか、そうらしいね。四阿のほうは夏芽くんが継ぐんだとか。」
言真は興味がなさそうに本から目を離さぬまま、まるで独り言のように呟いた。
その姿を冷ややかな視線で見つめながら、桜田は鋭く言葉を重ねた。
「『そうらしいね』って、よく言う。どうせ全部あんたの策謀のくせに。」
その瞬間、言真が肩をすくめて笑った。くははっ、と軽やかで乾いた笑い、そこでようやく彼の目が彼女に向いた。
以前の病衣姿とは打って変わって、きっちりと軍服を着こなした桜田は、眠りから目覚めたばかりの先日とは違って姿勢は凛とし、いつもの仏頂面のまま、部屋の中心に立って言真を真っすぐ見返している。
「地獄耳ってやつかい? 誰かから何か聞いた?」
言真が問いかけると、桜田は無感情に答えた。
「別に。私の勘。」
それを聞いて、言真は本を音もなく閉じ、机の上にそっと置いた。続けて両肘を机につき、顎を乗せるようにして、目を細める。
「……はあ。これも兄貴の教育の賜物、か。いらないもんだけ遺して勝手に逝きやがって。」
桜田はその言葉にも動じず、まるで切り返すように言い放つ。
「言い得て妙かも。あの人、あんたの憎たらしい性格そのままだったけど、物事を教えるのはほんとに上手だった。」
言真の口角がわずかに上がる。だが、その笑みの裏には、何かを飲み込んだような重さが滲んでいた。
「…聞きたかったのはそれだけかい?」
「まあ謹慎前に顔でも拝んどこうと思って。別になんか用があったわけじゃない。」
そう言い残し、桜田はくるりと踵を返した。革靴が床を鳴らすたびに、その足取りは静かだが確かな意志を感じさせる。扉へと向かう彼女の背に、言真の声がふわりと追いかけてくる。
「これからどうするのさ。まさか表世界でまたJKごっこしようだなんて言わないよね。」
悪びれた様子もなく皮肉を口にする言真。その言葉に、桜田は足を止めることなく、扉へと向かいながら背中越しに答えた。
「……趣味にでも没頭するよ。昔から剣術は好きだし、暇つぶしに四阿でも叩き直してやろうかってね。」
そして、扉に手をかけたまま、ふいに桜田は振り返った。仄暗い書斎の灯りの中、彼女の表情が浮かび上がる。張りついた笑みをたたえる言真に、風音の冷えきった視線が突き刺さった。感情を押し殺したその目には、凍てつくような殺気が宿っている。
「あんたの企てが何なのか、知る気すら湧かない。だけど――」
言葉を切り、ほんの一瞬だけ、言真の顔をまっすぐに見据える。
「もし謹慎中に、私の部下に何かあったら……育ての親の実弟だろうが何だろうが、一年後真っ先に私があんたをぶっ殺す。」
その一言は、淡々としていた。怒鳴りもしなければ、感情をむき出しにすることもない。ただ事実として、桜田風音の“覚悟”だけが重く、静かにその場に置かれた。
言真は笑みを崩さぬまま、黙ってその言葉を受け止めた。彼女は返答を待つことなく、無言で扉を開ける。軋む蝶番が鈍い音を立て、冷たい空気とともに彼女の姿は静かに書斎の外へと消えていった。
残されたのは、古書と埃の匂い、そして微かに揺れる空気だけ。
言真はしばらくのあいだ、机に肘をついたまま、扉の先を見つめ続けていた。何かを噛み締めるように、何かを振り返るように。
やがて彼は、指先で閉じた本の背表紙をそっと撫でながら、小さく呟く。
「……言うようになったねぇ、風音も。」
その声には驚きでも怒りでもない。むしろどこか、懐かしさと誇らしさが混じっていた。
そして彼はほんの少し目を細めると、口元にふっと笑みを浮かべた。
「―――一年後を、楽しみにしてるよ。」
その言葉は誰に向けたものでもなく、空気の中へ溶けていく。ただし、それは確かな宣告だった。あの少女が牙を研ぎに向かうように、この男もまた静かに爪を研ぎ始めていた。
嵐の前の、穏やかすぎる静寂の中で。
続く…




