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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
111/112

110話 正反対の少女たち

「……そう」


 風音は、そう呟くことしかできなかった。

 慰めの言葉も、正義を語る声も、この場ではあまりに軽すぎる。

 何を言っても、楓の過去を“理解したふり”になるだけだと、分かっていた。


 楓はすべてを語り終え、糸が切れたように俯いていた。

 肩は小さく震え、溢れ出た涙が、シーツに静かに染み込んでいく。

 フラッシュバックの波に必死に耐えながら、彼女の瞳はどこも見ていなかった。ただ、虚ろに開いているだけだった。


 風音の胸の奥で、言葉にならない感情が渦を巻く。

 ――自分が、引き金だった。

 鳴矢高校事件。あの油断が、この少女の人生を根こそぎ奪った。


 申し訳なさ。

 同情。

 そして、どうしようもないほどの怒り。


 どれか一つですら抱えきれないのに、それらが絡まり合い、重く沈殿していく。

 謝罪など、許されるはずがない。

 怒りを向ける相手も、もはやいない。


 風音は、ゆっくりと息を整えた。

 衝動のままに抱き寄せることはしなかった。ただ、逃げない距離で、そこにいる。


「……楓ちゃん」


 声は低く、震えないよう意識していた。


「こんなことを言う資格が、私にないのは分かってる」


 一度、言葉を切る。喉がひりつく。


「でもね……ここまで一人で抱えてきたのは、楓ちゃんのせいじゃない。弱かったからでも、逃げたからでも、ましてや……生き残ったからでもない」


 風音は拳を、膝の上で強く握りしめた。


「悪いのは全部、奪った側だ。壊した側だ」


 それだけは、譲れなかった。

 楓の苦しみを“運命”や“不幸”なんて言葉で片づける気は、微塵もなかった。


「……今は、泣いていい。何も考えなくていい」


 視線を合わせることはしない。

 それでも、声だけは確かに楓へ向けて続ける。


「私は、ここにいる。もう一人にはしない」


 その言葉が届くかどうかは、分からない。

 それでも風音は、その場を離れなかった。


 沈黙が、部屋に降りた。

 機械音も、廊下の気配も、すべてが遠く感じられるほど静かだった。


 楓の呼吸だけが、かすかに上下する。

 涙はまだ止まらないが、先ほどのような激しい震えは少しずつ収まっていった。


 風音は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、楓の視界に入らない位置へ一歩だけ近づく。


「……ごめん」


 その一言だけが、ぽつりと落ちた。


「謝って許されることじゃないのも、分かってる。それでも……私は、あの場所にいた。止められたかもしれない立場だった」


 拳が、また強く握られる。


「だから――これから先だけは、見捨てない。それが贖罪になるなんて、思ってないけど」


 楓のほうを見る。

 真正面ではない。視線を少し外し、逃げ場を残したまま。


「楓ちゃんが、これから先何を選んでも私は尊重する。何を選ばなくてもいい。ただ……生きてることだけは、罪にしないでほしい」


 長い沈黙。


 やがて、楓の唇が、かすかに動いた。


「……わたし……」


 声にならない。

 それでも、確かに“外へ出ようとした言葉”だった。


 風音は急かさない。

 続きを促すこともしない。


「うん」


 ただ、それだけを返した。


 楓は、小さく息を吸い、また吐く。

 そして、ほとんど聞き取れない声で呟いた。


「……こわい……」


 その一言に、すべてが詰まっていた。


 風音は楓の震える手の甲に自分の手を置く。


「……うん。そう、だよね」


 否定もしない。強がらせもしない。


「でもね」


 ほんの少しだけ、声を低く、確かなものにする。


「ここでは、もう誰も貴女へ危害を与えさせたりしない。少なくとも――私がいる限りは」


 その言葉が、楓の耳に届いたかどうかは分からない。

 それでも、楓の呼吸が、ほんのわずかに整った。


「――私が、貴女のご両親の意思を引き継ぐ。私が、貴女の親代わりになる。」


 長い夜は、まだ終わらない。

 けれど――完全な闇では、もうなかった。



 ***



 病室の扉が、音も立てずに閉まる。

 その瞬間、張り詰めていたものが、ふっとほどけた。


 風音は一度だけ、深く息を吐いた。

 狐面を握る手に、わずかな震えが走る。


「あ…佳人、卿……」


 廊下に立っていたアンナの声は、気遣いを含んだ小さなものだった。

 その背後には看護師が控えているが、誰も多くを語ろうとはしない。

 寝静まった病院の夜は、やけに広く、冷たく感じられた。


「……どこか、部屋を借りられますか」


 風音は振り返らずにそう言った。

 声音は低く、抑えられている。だが、内側に渦巻く感情を隠しきれてはいなかった。


 アンナは一瞬だけ表情を曇らせ、それから静かに頷く。


「……はい。こちらへ。使用していない面談室があります」


 風音は短く「お願いします」とだけ返し、彼女の後に続いた。



 ***



 面談室は簡素だった。

 白い壁、無機質な机と椅子だけ。


 扉が閉められ、鍵がかかる音がする。

 それを確認してから、アンナは一歩引いた。


「……佳人卿、大丈夫ですか」


 風音は狐面を机の上に置き、その前に立ったまま答えない。

 代わりに、拳を強く握りしめる。


「――大丈夫ではないですよ」


 ぽつり、と本音が零れた。


「……でも、ここで折れるわけにはいかない」


 アンナは何も言わない。ただ、否定もしない。

 それが、最も正しい距離だと知っているからだ。


 風音は、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。

 その拍子に、狐面がかすかに音を立てた。


「……親代わり、なんて」


 自嘲気味に、そう呟く。


「随分と、重たい言葉を口にしたものですよ。あの子の人生を背負う覚悟なんて……本当は、測りきれていないのに」


 アンナは一歩近づき、静かに言った。


「それでも、あの子の寝息は落ち着いていました。佳人卿の言葉が、届いた証です」


 風音は、目を伏せる。


「……だと、いいんですけどね」


 そう呟いた声は、どこか頼りなく、風音自身の胸に落ちていった。


 しばし、面談室に沈黙が満ちる。

 白い壁は何も答えず、天井灯の低い唸りだけが時間を刻んでいた。


 風音は椅子に深く腰を沈め、両肘を膝に乗せる。

 組んだ手の上へ、自然と視線が落ちた先には狐面があった。


「……正直に言うと」


 ぽつりと、独り言のように言葉を零す。


「私は、ああいう話を聞く役には向いてないんです。誰かの人生が壊された話も、理不尽に奪われた命にも……慣れてるはずなのに」


 指先に、知らず力がこもる。


「――彼女、私に“怖い”って言ったんです。でも、助けて、とは……言ってくれませんでした」


 一瞬、言葉を探すように息を詰める。


「私は……頼られるような人間じゃないのかも、って。……そう、思ったんです」


 アンナは、その背中を見つめながら、静かに思いを沈めていた。


 いくら“四堂”とはいえ――

 彼女もまた、年頃の少女だ。


 十七歳。

 最も多感で、脆く、世界を強く感じ取ってしまう時期。


 本来なら、殺しや命の駆け引きなどとは無縁の生活を送っているはずの年齢だ。

 無論、すべてがそうだとは言えない。

 今この瞬間も、紛争地帯では少女たちが兵として駆り出され、命を散らしている。


 だが、彼女らにとってそれは“異常”ではない。

 置かれた環境の中で、それが“普通”なのだ。

 今日を生き延びるため、殺しは避けられない選択であり、

 大義の名のもとで行われるそれは、疑いようのない正義だった。


 ――環境が人を作る。

 その残酷さを、アンナは嫌というほど知っている。


 桜田風音も、本来はその側の人間だったはずだ。


 幼い頃から、朽宮家の庇護下で英才教育を受け、

 殺しの技と判断を叩き込まれてきた少女。


 彼女にとってそれは日常であり、

 魔族であれ、人間であれ、

 生族繁栄の障害となる存在は排除すべきだという思想を、疑う余地もなく刷り込まれてきた。


 ――だが。


 鳴矢高校事件を通して、

 彼女は「普通」を知ってしまった。


 守られる側の生活。

 何も知らず、疑いもせず、明日が来ることを信じて眠る日常。


 そして今もなお、

 その「普通」と、自分が歩んできた血塗れの道を、

 無意識のうちに比べてしまい、呵責の念に苛まれている。


 これは、あくまでアンナ自身の推測に過ぎない。

 だが――おそらく、的外れな推論ではないだろう。


 彼女は軍人であり、四堂であり、同時に――心を痛めることのできる、か弱い少女でもあった。


「普通」を生きていたはずが、突如として地獄へ叩き落とされた少女、八幡楓。

 そしてその地獄の只中で生き延びながら、遅れて「普通」を知ってしまった少女、桜田風音。


 本来なら、交わることのなかったはずの二人。

 生きてきた方向も、背負ってきた重さも、あまりにも正反対だ。


 鳴矢高校襲撃事件。

 それが残した爪痕は、想像していた数十倍、数百倍も深く、重かった。

 断絶されていたはずの「普通」と「地獄」の垣根を越えて、人と人とを無理やり結びつけてしまうほどに。


 アンナは、静かに、けれど確かな声で言う。


「それでも佳人卿は逃げませんでした。それだけで……あの子にとっては、十分すぎるほどです」


 風音は、小さく首を振った。


「……違います。逃げなかったんじゃない。逃げられなかっただけです」


 狐面を手に取り、指先でその縁をなぞる。

 硬質なはずの感触が、ひどく冷たく感じられた。


「親代わり、なんて……大それたことを言いましたけど」


 一拍置いて、低く続ける。


「私は、何かを“与えられる”人間じゃない」


 視線を落としたまま、続ける声は、ひどく静かだった。


「せいぜい、隣に立つくらいです。転びそうになったら、手を伸ばす。夜が怖いなら、灯りを消さない。――それだけ」


 少しだけ、自嘲を含ませて。


「守る手段なんて、暴力的なものしか思い浮かばない。私に……親代わりなんて、務まるはずがない」


 それは逃避でも、弱音でもなかった。

 自分が何者で、何ができて、何ができないのか――

 それを、誰よりも正確に理解している者の、誠実な告白だった。


 アンナは、わずかに微笑んだ。


 慰めでも、同情でもない。長い年月、人の「覚悟」を見続けてきた者だけが浮かべられる、静かな微笑だった。


「……ええ。そうでしょうね」


 風音は、少しだけ目を見開く。

 否定されると思っていた。「そんなことはない」と優しい言葉で包まれるのだと。


 だが、アンナは続ける。


「佳人卿は、剣を持つ人です。生き方も、守り方も、どうしても鋭くなる。血の匂いを知ってしまった人は、もう“何も汚さずに守る”ことはできません。」


 一拍、間を置く。


「でも――だからこそ、出来ることもある」


 アンナは風音の手元、狐面へと視線を落とした。


「転ばせないことは出来なくても、転んだあと、起き上がるまで支えることは出来る。地獄を見せないことは出来なくても、地獄に“一人でいさせない”ことは出来る」


 風音の指先が、わずかに震えた。


「親代わり、なんて言葉に縛られなくていいんです。血も、役目も、肩書きも関係ない」


 アンナは、はっきりと言う。


「――あの子が、あなたを必要とした。それだけで、十分すぎる理由でしょう」


 風音は、俯いたまま、しばらく黙っていた。

 胸の奥で、何かが軋む。

 それは痛みであり、同時に、拒み続けてきた感情の名だった。


「……私は」


 声が、少しだけ掠れる。


「いつか、あの子を失うかもしれない。守れなかったって、後悔する日が来るかもしれない」


 アンナは、即座に頷いた。


「ええ。必ず来ますよ」


 その肯定は、残酷なほど率直だった。


「でも、それは“間違っていた”証じゃない。誰かを大切にした証です」


 風音は、狐面を胸に引き寄せる。

 仮面の下で、佳人卿は泣かない。

 剣を振るう手は、決して迷わない。

 けれど――


「……隣に立つくらいなら」


 小さく、だが迷いのない声で、風音は呟いた。


「それなら、できるかもしれません」


 その一言を聞いて、アンナは今度こそ、はっきりと微笑んだ。


 説得でも導きでもない。彼女自身が辿り着いた答えを、ただ受け取る微笑だった。

 ほんの一瞬、風音の肩から力が抜ける。


「……明日以降、楓ちゃんのケアは私が直接見ます」


「え? いや、でも……今、佳人卿は闘技場で――」


「それでも、です」


 言葉は柔らかいが、決意に揺らぎはなかった。


「私にしてやれることがあるなら、してやらない理由はありません」


 風音はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がる。

 狐面を胸に抱き、深く息を吸った。


「……夜が明けるまでは、ここにいます」


 視線は扉の向こう――楓の眠る方へと向けられている。


「あの子が目を覚ましたとき、ひとりぼっちの空気だけは、嗅がせたくない」


 アンナは、深く、深く一礼した。


「……どうか、ご無理はなさらぬように」


 風音は小さく頷き、「花葬」を手に取る。

 刃を隠すように抱え、音を殺して扉を開けた。


 その背が廊下の闇へ溶けていくのを見届けてから、一人残された面談室で、アンナは静かに目を閉じる。


 ――少女は、戦場を駆ける。

 血と硝煙の中で、剣を振るう。


 同時に少女は、誰にも見せぬ心の奥で、

 泣くことすら許されない涙を、静かに堪えている。


 それでも折れず、逃げず、誰かの隣に立とうとする。


 彼女は、身体だけでなく――心までも。

 彼女の何倍もの年月を生きてきた自分より、よほど強かった。


 続く…

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