109話 日常・裏 - 1.5 -
数ヶ月前 7月7日 日本国某所
窓から差し込む朝日が、八幡直弥の瞼をくすぐった。
うっすらと目を開け、枕元の目覚まし時計に視線をやる。針は七時を指している。
「……ねみぃ……」
掠れた声で呟きながら目をこすり、のそりと上体を起こす。まだ冴えきらない頭で、今日の予定を辿った。
(今日は……英単語のテスト、か……)
一気に気分が沈む。
ボサボサの髪を掻きながらベッドを降り、自室の扉を開けた。
階段を下り、洗面所へ。
蛇口を捻り、冷たい水を顔に浴びる。刺すような冷気が、眠気を一気に吹き飛ばした。口を濯ぎ、タオルで顔を拭いてリビングへ向かう。
入れ替わるように、楓が洗面所へ入ってきた。
眠そうに目を擦りながら洗面台に立つその後ろ姿を、直弥は一瞬だけ眺め、何も言わずにその場を離れた。
リビングの扉を開くと、食卓にはジャムを塗ったトーストが並んでいる。
「おはよう」
気配に気づいた母・好美が声をかける。
直弥も「おはよ……」と掠れた声で返した。
祝日のため、普段ならもう家を出ているはずの父・柊矢も席にいた。
老眼鏡越しに新聞へ目を落とし、コーヒーを啜っている。その表情は、どこか険しい。
ほどなく楓も加わり、四人揃っての朝食となった。
トーストをかじると、いつもと変わらぬ香ばしさが口に広がる。
――いつもの朝だ。
テレビでは朝のニュースが流れ、淡々とキャスターが出来事を読み上げていた。
祝日に学校があることへの気だるさを抱えつつ、残りのトーストを食べ終え、食器を流しへ運ぶ。
再び階段を上り、制服に着替える。
一瞬、仮病で休むことも考えたが、ネクタイを締め終えた時点でその考えは消えた。
鞄に必要なものを詰め、肩に掛けて下へ戻る。
洗面所で歯を磨く。左下の奥歯から――いつもの順番。
磨き終え、口を濯ぎ、歯ブラシを元の位置へ。そして髪を整え、横に流す。
そういえば、今日も横井は学校に来ないのだろうか。
あれから一週間、一切姿を見ない。さすがに不安だ。今日の放課後にでも家へ行こうか。
準備を終え、玄関へ。
ローファーを履き、扉に手をかけた瞬間、背後に気配を感じた。
振り返ると、好美が立っていた。
「いってらっしゃい。車には気をつけるのよ」
「わかってるって……行ってきます」
母の言葉に、理由のわからない苛立ちを覚える。
嫌いなわけじゃない。ただ、素直になれない。
そう思いながら家を出る。
住宅地の隙間から朝日が差し込み、胸の奥の苛立ちは少しずつ溶けていった。
(……いい朝だな)
小さなやる気を抱え、いつもの通学路を歩き出す。
――その背を、どこかで見つめる“影”が一つあった。
***
直弥を送り出した八幡好美は、胸の奥に小さな寂しさが残るのを感じていた。
思春期。誰にでも訪れる時期だ。
親に素直になれない。干渉されたくない。鬱陶しい。
頭では分かっている。直弥にも、いずれそういう時が来ると覚悟していた。立派に成長している証なのだと、素直に嬉しくも思う。
それでも――
これまで手を引いて歩いてきた息子が、自分のもとを離れていく現実は、想像していた以上に胸に堪えた。
親として、正しい背中を見せられていただろうか。
重荷になってはいなかっただろうか。
考え始めれば、不安はいくらでも湧いてくる。
だが、好美は小さく息を整えた。
大人がそんなことでくよくよしていてはだめだ。
(直弥が立派な大人になれるように……私たちが、ちゃんと支えなきゃ)
玄関の扉が閉まる音が響く。
それを合図に、家の中に静寂が落ちた。
好美は玄関に背を向け、リビングへ戻る。
キッチンでは、普段ならとっくに自室に籠もっているはずの娘――八幡楓が、珍しく二人分の食器を洗っていた。
「あら、ごめんね楓。いいのよ、私がやるから」
「いいよ、これくらい。お母さんに任せっきりじゃ悪いし」
「あら、そう?ありがとうね、気が利くわ」
「へへっ。任せて!」
鼻歌交じりにスポンジを動かす楓の背中を見て、好美の胸に、先ほどと同じ感情が湧き上がる。
嬉しさと、寂しさが混じった、不思議な感覚。
来年にはもう高校生。
楓もまた、確実に大人へと近づいている。
その想いを悟られぬよう、好美はキッチンを離れ、夫・八幡柊矢が新聞を読んでいる席の向かいへ腰を下ろした。
テレビでは、いつもの朝のドラマが流れている。
好美は無言で画面を眺めた。
しばらくして、食器を洗う音が止み、コーヒーの香ばしい匂いが部屋に広がる。
楓はいつの間にか湯を沸かしていたらしく、白い湯気の立つ陶器のカップを二人の前に置いた。
「ありがとう」
柊矢が控えめに言うと、楓は少し不服そうに頬を膨らませる。
「ちょっとはお父さんも手伝ってよねー」
そのやり取りに、好美は思わず微笑み、楓にも礼を言った。
やがて楓はリビングを出て、二階の自室へ戻っていく。
好美と柊矢は、それぞれテレビと新聞に視線を戻し、再び静かな時間が流れた。
新聞のページをめくる音が、三度ほど響いた頃――
不意に、柊矢が口を開く。
「……なぁ、母さん」
「ん?どうしたの?」
テレビから目を離さず応じると、柊矢も新聞を持ったまま、少しだけ声を落として言った。
「気のせいかもしれないんだが……楓のやつ、何か隠してるように見えないか?」
「隠してる?私たちに?」
「ああ。最近、普段しないことを率先してやってる気がしてな……」
好美は柊矢へ視線を向ける。
目が合い、ふたり同時に少し考え込んだ。
確かに。
先ほどの食器洗い。
三日前には、「いいよいいよ、お母さんはゆっくりしてて」と言いながら夕食まで作っていた。
一ヶ月前までの楓なら考えられない行動だった。
受験を理由に、家事は一切しなかったのだから。
(……好きな人、できたのかしら)
そう思えば、そこまで深刻に考える必要もない気がする。
「別にいいことじゃない?」
好美は柔らかく言った。
「楓も、少しずつ大人になってる証拠よ」
「そうか……いや、まあ、それならいいんだ」
「変なの」
くすくすと笑う。
子どもが成長するのは喜ばしいことだ。
寂しさはあっても、それ以上に誇らしい。
再び、無言の時間。
テレビでは、物語が佳境に差しかかっていた。
『俺は、お国のために征かねばならんのです』
『嫌……!もっと一緒にいたい!私を置いて逝かないで……!』
戦時中の男女を描いた場面。
夕焼けに染まる花畑で、二人は抱き合っている。
朱色の光に包まれたその姿は、美しく、そしてどこか儚かった。
やがて、二人は唇を重ねる。
好美の頬を、静かに涙が伝った。
「……なんで泣いてるんだ?」
柊矢が横目で見て言う。
「このドラマが切なくて……」
「前から思ってたけど、感受性豊かだよな」
「結婚する前からでしょ」
ふふ、と笑うと、柊矢も小さく頷き、再び新聞へと視線を落とした。
――その時、背後でインターホンが鳴った。
こんな時間に来客など心当たりはない。宅配も頼んでいないはずだ。
好美が立ち上がろうとしたが、その動きを柊矢が手で制した。
「ドラマ見てるんだろ。俺が出るから、ゆっくりしてな」
そう言って、彼は新聞を畳み、リビングを出て玄関へ向かう。
好美はその背中を見送りながら、再びテレビへと視線を戻した。
すると…
ぱしゅっ――
乾いた、どこか軽い音。
直後に、鈍く、重たいものが倒れる音が続いた。
「……もう、あの人ったら。何してるのかしら……」
苦笑混じりにそう呟き、好美は立ち上がる。
リビングを出て、玄関へ向かいながら声をかけた。
「ちょっとあなたー? なにし……て……」
言葉が、喉で凍りついた。
玄関の床に、柊矢がうつ伏せに倒れている。
その身体の下から、赤黒い液体がじわじわとフローリングを染め広げていた。
理解が、追いつかない。
視線を上げると、玄関口には三つの人影が立っていた。
二人は見覚えのある顔だった。
近所に住む住人だ。ゴミ捨て場で、スーパーの帰り道で、何度も挨拶を交わした相手。
だが今、その目は焦点を失い、虚空を見つめている。
そしてもう一人。
鳴矢高校の制服に身を包んだ少年。
――横井亮太。
直弥の、友人だったはずの少年。
三人はいずれも、先ほどテレビで見ていた戦時中のドラマと同じ類の銃を手にしていた。
横井に至っては、手に持つ一丁とは別に、もう一丁を肩から提げている。
そのうちの一つ、横井が握る銃口から、まだ白煙が細く立ち上っていた。
悪夢だった。
いや、悪夢にしては、生々しすぎる。
(……なに、が……起きてるの……?)
足が震え、力が抜ける。
好美はその場に尻餅をついた。
視界が揺れ、耳鳴りがする。
脳が、必死に現実を拒否していた。
悲鳴を上げようとした。
だが喉が震えるだけで、声にならない。
そんな様子を見下ろし、横井が口の端を歪めた。
「ざまぁねぇな、クソババア」
吐き捨てるように言い、銃を構える。
「ほら。踊れよ」
引き金が引かれる。
――パシュッ。
頬に、鋭い痛みが走った。
熱とともに、皮膚が裂ける感覚。弾丸が頬をかすめたのだ。
ようやく声が出た。
悲鳴を上げながら、好美は本能のまま身体を引きずり、階段へ向かう。
背後では、横井の下品な笑い声が響く。
「ははっ! いいねぇ、その顔!」
弄ぶように、弾丸が床や壁に撃ち込まれる。
すぐ横で、階段の縁が砕け、木片が弾け飛ぶ。
穴が空くたび、心臓が跳ね上がる。
叫び声とともに、必死で階段を這い上がる。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
――楓。
母親である以上、娘を守れずして、何ができるというのか。
恐怖で身体が壊れそうになりながらも、好美は歯を食いしばり、二階へと手を伸ばした。
***
楓は、自室の扉に手をかけたまま、凍りついていた。
階下から響く悲鳴。
聞き間違えるはずもない――母の声だった。
それは、これまで一度も聞いたことのない声色だった。
怒鳴り声でも、叱責でもない。ただ、壊れたように泣き叫ぶ、助けを求める声。
思わず一歩、後ずさる。
(なに……? なにが、起きてるの……?)
心臓が早鐘を打つ。息が浅くなり、喉が張りつく。
そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。
一人じゃない。複数だ。
楓は弾かれたように部屋を見回す。
隠れられる場所――考える暇はなかった。
とっさにクローゼットを開け、身体を押し込む。
中でしゃがみ込み、膝を抱え、息を殺す。
直後、部屋の扉が乱暴に開く気配がした。
「ひっ……!」
母の声だ。
視線を向けると、扉の隙間から、尻餅をついて後ずさる母の姿が見えた。涙と恐怖で歪んだ顔。両手で床を掻き、必死に距離を取ろうとしている。
その後ろから、三人の影がゆっくりと歩み寄る。
全員が、物騒な銃器を抱えていた。
楓は息を呑み、喉を押さえた。
そのうちの一人――鳴矢高校の制服を着た男が、母を見下ろして口を開いた。
「おい、クソババァ」
耳を疑うような、下卑た声。
「てめぇの娘はどこだ?」
「いないっ……!」
母は震えながら叫ぶ。
「私に娘なんていないわ!!」
「はぁ?」
男は鼻で笑う。
「嘘ついてんじゃねぇよ。こっちはもう割れてんだ」
銃口が、母の顔のすぐ横で揺れた。
「てめぇの娘が、この家に出入りしてんのはよ」
楓の脳裏に、嫌な記憶がよみがえる。
――誰かに、見られている気がする。
一週間前、帰り道で感じた視線。
そのことを、泣きながら兄の直弥に相談した。
普段はそっけない兄も、その時ばかりは真剣な顔をして、一緒に帰るようになった。
それから、あの気配は消えた。
(……この人……?)
だが、疑問がすぐに恐怖に塗り潰される。
強盗?
だったら、なぜこんなやり方で?
そして――父は、どこにいる?
母の様子を見て、最悪の想像が頭をよぎる。
「言え!!」
制服の男が怒鳴る。
「てめぇの娘はどこにいんだ!!」
「いないっ……! 本当に、いな――」
言葉は、途中で途切れた。
男が母の髪を鷲掴みにし、力任せに引き寄せる。
ぱぁん、ぱぁん、と甲高い音が部屋に響いた。
頬を打たれるたび、母の身体が揺れ、呻き声が漏れる。
楓の身体は、震えが止まらなかった。
(やめて……やめて……!)
このままでは、母が殺される。
頭が真っ白になりながら、必死に考える。
――助けを、呼ばなきゃ。
そのとき、部屋着のポケットに入っているものを思い出した。
スマホ。
警察。
そうだ、警察なら――。
楓は震える手でポケットを探る。
だが、焦りで指がもつれ、次の瞬間。
ことん。
小さく、だが致命的な音が鳴った。
部屋の空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。
制服の男が、母を乱暴に突き飛ばす。
「……あぁ?」
ゆっくりと、視線がクローゼットへ向けられる。
足音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
(いや……いや……)
祈るように目を閉じた、その直後。
がらり、とクローゼットの扉が開け放たれた。
眩しい光とともに、三人の顔が覗き込む。
二人は、近所で見かけたことのある男たち。
そして、真正面に立つ制服姿の男。
――横井亮太。
兄の、友人だ。
その顔に浮かんだ歪んだ笑みを見た瞬間、楓の中で何かが完全に折れた。
「見ーっけ」
伸びてくる手。
抵抗する間もなく、腕を掴まれ、楓はクローゼットの外へと乱暴に引きずり出された。
床に投げ出される衝撃。
視界が揺れ、涙が溢れる。
――悪夢が、現実へと転じた瞬間だった。
楓は反射的に身を翻し、逃げようとする。だが、その動きはあまりにも遅かった。
鳩尾に容赦のない蹴りが叩き込まれ、肺の空気が一気に押し出される。
「――っ……!」
声にならない悲鳴。身体はくの字に折れ、その場に崩れ落ちた。
次の瞬間、重みがのしかかる。横井が馬乗りになり、逃げ場を完全に塞ぐ。
彼は楽しむように、楓の頬を指先で軽く叩いた。
「おいおいおいおい……手間かけさせんじゃねぇよ……なぁ゙?!」
直後、乾いた破裂音が部屋に響いた。
左頬に走る衝撃。遅れて、灼けるような痛みが押し寄せる。
一発。
二発。今度は右頬に。
さらに一発。また、一発…
叩かれるたびに視界が白く弾け、意識が遠のきかける。
母が悲鳴を上げ、楓を庇おうと飛び出す。だが、他の二人の男に腕を掴まれ、床へと押さえつけられた。
「やめて!やめてぇっ!!」
その叫びも、横井には届かない。
楓はただ、抵抗する力もなく、打たれるがままにされていた。
何度叩かれたのか、もう分からない。
ようやく手が止まった頃には、瞼は腫れ上がり、開こうとしても開かない。
横井は鬱陶しそうに手を振り、低く命じる。
「……おい。下で寝てるおっさん連れてこい。」
母を押さえていた男の一人が、糸の切れた人形のように立ち上がり、部屋を出ていく。
生気のない足取りだった。
次の瞬間、髪を掴まれ、乱暴に引きずられる。
そして、投げ捨てられるように母の元へ。
力なく崩れ落ちる楓を、母は必死に受け止め、抱き締めた。
「楓……! 楓っ……楓ぇ……!!」
その声は震え、泣き崩れるようだった。
楓は、息をすることすらままならなかった。
胸がひくりと引き攣るたび、空気は入ってくるのに、吐き出し方が分からない。
喉から零れ落ちたのは、言葉にも悲鳴にもならない、擦り切れた呻き声だけだった。
その様子を見て、横井は面白がるように鼻で笑い、足先で楓の身体を軽く小突いた。
「ほらほら、まだまだ生きてんだろ?」
その瞬間だった。
階下へ降りていた男が、何かを引きずる音とともに戻ってくる。
ずる、ずる、と床を擦る嫌な音。
男はそれを、まるでゴミ袋でも放るかのように、部屋の中央へ投げ捨てた。
転がったのは――父だった。
だが、そこにあったのは“父の姿をしたもの”だった。
眉間には小さな穴が穿たれ、そこから今も血がとめどなく流れ落ちている。
目は見開かれたまま、驚愕の表情が張り付いたように固まり、すでに命の光は宿っていない。
楓は、それを理解した瞬間、世界から音が消えた。
叫び声は出なかった。
涙も出ない。
ただ、母の肩にしがみつき、壊れたように小刻みに震えることしかできなかった。
横井は、そんな二人を見下ろし、心底愉快そうに口角を歪める。
銃口を二人へ向けたまま、嘲るように言い放った。
「なあ。てめえら……父親が恋しいか?」
返事はない。
否定も肯定もできず、二人は石像のように固まったままだ。
横井は肩をすくめる。
「沈黙は肯定、ってやつか。……ま、いいや」
そう言って、倒れた父へと歩み寄り、無造作に手を伸ばす。
「じゃあ、その願い――叶えてやるよ」
彼が低く、呪文のように言葉を吐いた。
「――死脈転写」
瞬間、彼の掌から、どこから湧き出たのか分からない黒い糸が滲み出した。
それは生き物のように蠢き、空中を這い、次々と父の背中へと縫い留められていく。
次の瞬間。
――ぴくり。
父の指が、確かに動いた。
あり得ない。
つい数秒前まで、確実に死んでいた存在が、ゆっくりと身体を起こす。
銃創も、流れていた血も、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。
確かな足取りで立ち上がるその姿は、生きている人間と何一つ変わらない。
ただ――目だけが違った。
そこには何も映っていない。意思も感情もない、完全な虚無。
父は、虚空を見つめたまま、呆然と立ち尽くしている。
横井は銃口を逸らさぬまま、肩に掛けていたもう一丁の銃を外し、父へ差し出した。
父は、それを一切の躊躇もなく受け取った。
人形のように。
命令を待つ、ただの道具のように。
「あな……た……」
母の口から、掠れた声が零れ落ちる。
その声音が、あまりにも空虚で――楓は、自分もきっと同じ顔をしているのだろうと思った。
腫れ上がった瞼の奥から、楓は父を見つめる。
けれど、その視線が返ってくることはなかった。
父の目は、誰も見ていない。最初から、何も映していない。
次の瞬間、横井の銃口がふいに逸れ、父――柊矢へと向けられた。
それに倣うように、他の二人も一斉に照準を合わせる。
だが、当の本人は身じろぎ一つしない。恐怖も、戸惑いも、そこにはなかった。
代わりに、母――好美が、喉を引き裂くような悲鳴を上げた。
「やめて……!お願い……!」
横井はその声が癇に障ったのか、片耳を押さえ、露骨に顔をしかめる。
「っせぇよ、クソババア」
吐き捨てるように言い、銃口を軽く揺らす。
「こいつが蜂の巣にされたくなきゃな。娘と一緒に、大人しく従え」
楓は、眼前の光景をただ呆然と見つめていた。
現実感は失われ、すべてが切り取られた映像のように流れていく。
そこから先の記憶は、連なったパノラマのようであった。
横井たちに囲まれ、母とともに家を出る。
靴を履く暇も与えられず、裸足のまま、異様に入り組んだ路地へと連れて行かれる。
街は不気味なほど静まり返っていた。
人の気配はなく、生活の音もない。
まるで、最初から誰もいなかったかのような――ゴーストタウンのよう。
やがて辿り着いたのは、ビルとビルの隙間にできた、空き地とも呼べない場所だった。
そこで、楓と母は地面に座らされる。
それ以降の記憶は、霧がかかったように曖昧だ。
頭がぐらぐらと揺れる。
先ほどの暴行で、脳がどこか損傷してしまったのかもしれない。
母が何かを必死に語りかけていた気がするが、その声は遠く、次第に溶けていった。
――次に意識が浮上したのは、身体に強い衝撃を受けた瞬間だった。
誰かが、自分を抱きかかえている。
母ではない。
自分と同じくらいの小柄な体格。
左腕に押し当てられた柔らかな感触だけで、その人が女であることを、かろうじて理解した。
途切れ途切れの意識の中で、楓は視界の端にそれを捉えた。
母の顔。
だが、その表情は苦悶に歪み、もはや声を発することすらできていない。
そして――首から下が、なかった。
生首だけになった母を見ても、楓の心は何も反応しなかった。
恐怖も、悲しみも、怒りも、湧いてこない。
感情という器そのものが、とうに砕け散っていた。
衝撃が重なりすぎて心が死んでいたのか。
あるいは、意識だけが先に覚醒し、感情が追いついていなかったのか。
――きっと、その両方だったのだろう。
そうして楓は、何も感じないまま、再び闇へと沈んでいく。
そこで、彼女の意識は完全に途切れた。
続く…




