10話 四堂八間会議 - 前譚 -
目覚めてから一週間がたった。
八幡直弥は硬い床に敷かれた薄い布団から起き上がる。身体の疲労感が重くのしかかり、仄かな吐き気を誘う。今晩もうまく眠れなかった。いや、眠れなかったというより眠るのが怖かったのかもしれない。
怖い。目を閉じたときに広がる暗闇が怖い。眠りについてから襲い来る悪夢が怖い。なにより、眠っている最中に殺されるかもしれないという漠然とした不安感が怖くて仕方がない。なにかしらが入っているかもしれないという理由から、食事もまともに取れていなかった。
そのせいか、ここに入れられてから随分痩せ細ったように感じる。ずっと気を張っていたことによる疲労も、その原因の一つだろう。
一旦立ち上がろうと膝を立て、両足で地面を掴む。が、足元にうまく力が入らず、思わずよろめいて地面に尻餅をついた。
貧血だ、心の内でそう呟く。何日もまともに栄養を取っていなければ、そうなるのは当然であろう。
もはやそこから立ち上がる気力も失せ、ぼーっと天井のシミを見つめる。
この一週間はまるで虚無だった。3畳ほどの狭い空間に閉じ込められ、同じ時間に同じ食べ物が運ばれ、手錠は外されないため犬食いのような形で食事を摂る。その姿を兵士らにいつも同じように見下げられ、冷たい罵声を浴びせられる。
唯一安心できたのは風呂だった。
その時だけ軍人が自身を牢屋から出し、上階にある専用浴場へと連れて行く。浴場とは言っても小さな浴槽にシャワーやボディソープなど簡素なものしかないのだが、軍人も中には入ってこないし、掛けられている手枷も唯一その時は外されるので、直弥にとっては実質的な自由時間であった。
無論監視されていないわけではない。浴室には見当たるだけで4箇所もカメラが付いており、それで足先から髪の毛一本一本まで隈なく見られている。
最初は誰かに自身の一糸纏わぬ姿を見られていることに恥ずかしさと抵抗を感じてはいたが、時が立つに連れそんなことはもはやどうでも良くなった。
身体にまとわりつく穢れや自身への恨み、感じている恐怖心を一つでも多く洗い流す。心の洗濯をする時間がなければ、今頃狂っていたかもしれない。
そうして10分間の風呂が終わり、用意された新しい囚人服に着替え、手枷をつけられまたあの牢屋に戻る。そうして布団に潜り込み、長い長い夜と闘う。その繰り返し。
だがもう限界だった。食事ももうまともに数日間摂っていない。いっそのこと、俺もあのシミの1つにになってしまえば、そう考える。今ここで命を絶てば、家族や友人に会えるのでは、、、
「コード202、起床の時間だ。起きろ。」
檻の向こうで流暢な日本語が聞こえた。ゆっくりそちらを見ると、濃灰色の軍服を着た一人の青年がそこに立っていた。
ワインレッドの髪に射るような鋭い眼、広い肩幅、その他筋肉を感じさせる逞しい体をしている彼は、直弥からすれば初対面の男だった。いつもなら白人の兵士が起こしに来るのだが、その青年は見るからにアジア系の顔立ちだ。
しばらく無言でその青年の顔を見つめていると、彼は訝しげな表情を見せた。
「、、、何?」
そこで直弥はハッとして、掠れ気味の声で問う。
「誰、?」
青年は少し納得したような様子を見せた。疲労しきった顔で見つめる直弥をよそに、懐から鍵束を取り出して檻の鍵を開けながら彼は答えた。
「そうか、そういや初対面だったか。 、、、てかこういう時って、先ず名前から名乗るべきなのか?それとも階級からか?」
そう大きな独り言を呟きながら、彼は牢屋内に入ってきた。
そして臆することなく汚れた牢内を闊歩し、そのまま直弥の直ぐ側まで近づいて傍らに座り覗き込んでくる。
「、、、あーこりゃ、たしかに栄養失調気味ではあるな。目の隈もすんげぇ、、、 お前、何日寝れてねぇんだ?」
そう言って彼はやせ細った自身の顔へ手を伸ばそうとする。
その時純粋な恐怖を感じた。彼は全くそんなつもりはなかったのだろうが、あの伸ばされた手を、眼前まで差し迫った"危機"だと本能的に錯覚し、脊髄反射でその手を身を引いて避けてしまった。
彼は一瞬驚いた表情を見せる。その瞬間しまったと心の内で呟いた。
ただでさえあの化け物と同族なのだと疑われ、投獄されている身の上なのに、さらに彼らに逆らってしまった。四阿の、あの日の回想で言っていた言葉が頭をよぎる。
『ADFは裏切り者にも容赦しない。例えそれが、同じ種族である人間であろうともな。』
もし今の行動が「裏切り」に該当するのだとしたら、最悪の場合殺されるかもしれない。まるで考えすぎと思われるかもしれないが、今の直弥はそう考えてしまうほど精神が追い詰められていた。
まただ。最近は落ち着きつつあった死者の声がまた聞こえる。怨嗟の声が無数に耳元で囁かれ、それを避けるために耳を塞ぎこみ、掻き消すために叫んだ。
「なぜ」「なぜ」
「なぜ」「なぜ」
「なんで」「どうして」
「どうしてお前が」
「なぜあなただけ」「なぜお前だけが」
「「なぜお前如きが」」「「なんで置いていった」」
「「「なぜ見捨てた」」」
「やめて、、、!」
「「「置いていかないで」」」「「「死にたくない」」」
「「「私はなにも悪くないのに」」」「「「「見捨てないで」」」」
「「「「助けて」」」」
「「「「「一人だけ生きていくなんてずるい」」」」」
「「私だって」」「「僕だって」」「「俺だって」」
「「「「「「生きたかったのに」」」」」」
「やめろぉ、、!!」
「「「「「「ずるい」」」」」」「「「「「「ずるい」」」」」」
「「「「「「ずるい」」」」」」「「「「「「ずるい」」」」」」
「「「「「「ずるい」」」」」」「「「「「「ずるい」」」」」」
「「「「「「ずるい」」」」」」「「「「「「ずるい」」」」」」
「「「「「「ずるい」」」」」」「「「「「「ずるい」」」」」」
「「「「「「なぜ、お前だけが、、、!!」」」」」」
「あっ、、、ああ゙っ、、、!、、、ぅ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っっっっっ!!!!」
頭がはち切れそうな勢いのその黒き怨嗟は、ついに直弥を発狂たらしめた。
一度決壊してしまった黒い津波は留まることを知らず、ギリギリで耐えていた平常心を無慈悲に呑み込み、砕け散らす。
そのような状況下、言葉でなくてもなにか叫ばないと自己のアイデンティティすらその波に飲み込まれそうで、そう感じた脳が反射的にその危機を遠ざけるため直弥を発狂させた。
一方傍らにいる青年は、最初は動揺したもののすぐに冷静さを取り戻し、懐から筒状のなにかを取り出した。
「さっき言われたPTSDからくる発作か。 、、、わりぃ、ちょっとチクっとするぞ。」
暴れる直弥の腕を強引に掴み、押さえつけてキャップを外した注射を手際よく血管に刺した。
そして彼がプランジャを押し込んだ瞬間、視界がふわっと溶けて怨嗟の声が遠くなる。なにが起こったかわからないまま、直弥は半分眠ったような状態になった。
曇りがちになった聴覚の中、青年の声が辛うじて聞こえる。
「こちら熊野、、、ええ、璃久の方で、、、TSDの発作が、、、ミダゾラムを打、、、今は落ち着い、、、病棟、、、了か、、、」
人の体温と、誰かに抱きかかえられる感覚がする。半目の中で見えるのはさっきの青年の、下から見た顔だ。それらの情報から、自分は今彼に何処かへ運ばれているのがわかった。
先程まで感じていたはずの圧倒的絶望感や恐怖心は不思議と和らいでいた。それどころか、運ばれた先が処刑部屋であろうともどうでもいいと思えた。あの怨嗟から開放されるなら、どんな形であれ大歓迎だ。
だめだ。もう思考が途切れ途切れになってる。
、、、だけど、もういい。本当にどうだっていい。これ以上苦しむくらいならいっそのこと、ひと思いに首を搔き切ってほしい。そうしてくれたほうが気が楽だった。俺一人が死んだところで、もう、、、
楓の笑顔が浮かんだ。今この世界にいる、唯一の近親。彼女だけが唯一の心残りだと、悔しみで下唇をかみながらゆっくり意識を手放した。
***
「、、、んっ、、、」
目元に光が差し込んでくる。その明るさからして、それが人工的な明かりなのを知覚した。
おぼろげな視界の隅に蛍光灯が見え、そこから光が発せられているのを理解し、そして同時に異様な身体の軽さに驚愕する。
体全体で抱え込んでいたはずの湿っぽくて躁鬱とした気怠さが、嘘のように消え去っている。さらに、瞼の重みや耳元の怨恨の響きも和らぎ、苦痛を感じない。
目を開け、身体を起こす。どうやら白いベットに寝かされていたらしい。周りはミント色のカーテンで仕切られ外の様子は伺えないが、薬品の匂いからそこが病室なのは分かった。
そこでようやく、隣に人がいたのに気がつく。気配を察し、驚いてそちらを見るとそこにはさっきの青年が気だるそうに片肘をつき、静かに座っていた。
「、、、よかった、時間前に起きて。」
青年は立ち上がり、掛けてあった布団をはぐ。そして自身の頬に手を掛け、目を合わせてきた。
さっきとは違い、脳はそれを差し迫った”危機”として判断しなかった。突然のことでびくりと体を震わせはしたが、それ以上のことはなにも起きなかった。
じーっと目を見つめてくる。彼の瞳に自身の顔が写る。ひどくやつれていて、痩せこけている。自分で見ても不健康な状態なのがわかるほどだった。
しばらくその状態が続き、直弥が気まずさを感じ始めた頃、青年は頬から手を離し顔を遠ざけた。
「まあ目の焦点もあってるし、一旦落ち着いたみたいだな。今の気分は?」
実に久しぶりである人とのまともな会話。食事を届けてくれた兵士らとはまるで話すことはなく、そもそも全員が白人顔で言葉も通じそうになかったので、日本語すら聞くのも久々である。
「だ、大丈夫、です、、、」
「そうか。 、、、お前が眠ってる間にセルシンみたいな抗うつ剤とかパニックに効く薬飲まして、一旦は無理やり落ち着かせた。下痢とかめまいとかの副作用はあるだろうが、、、まぁ、幻聴やら幻覚やらで苦しむよりゃ幾分かマシだろ」
「、、、あ、あの、貴方は一体、、、?」
「ん?、、、ああ、言ってなかったか。俺は熊野璃久。玄武隊所属のⅠ型戦闘員だ。 、、、コード202、いや、ここでは八幡直弥と呼ぼうか。今日はなんの日かわかるか?」
「なんの、日、、、いや、わかりません。」
「まあだろうなとは思ってた。日程知らねぇもんな。 、、、まあとりあえず付いてこい、立てるか?」
「? 、、、は、はぁ、、、」
白いベットから足を下ろし、地面に足をつける。今度はふらつかなかった。
後手に手枷をはめられたまま直弥はカーテンの合間をくぐり抜け、先を行く璃久の跡をついていく。
やはりそこは病室であり、自身は6つのベットのうちの1つに寝かされていたらしい。他のベットには包帯を巻いた怪我人が数人寝かされていた。そのうちの一人が訝しげに直弥を睨みつけてきたが、それには敢えて気がついていないふりをした。
横開きの扉を璃久が開け、その後を直弥が続く。
その扉を抜けた先には武装兵二人が立っていた。璃久を見た途端直立して敬礼し、英語でなにかを報告する。璃久もそれを聞いて流暢な英語で返答した。
なにを言っているかはさっぱりだが、その滑らかな発音に驚いた。
日本語を話していたとは思えないほどスラスラ英単語を口にする姿はまるでネイティヴのようだ。凛々しい顔つきで淡々と彼は兵士らになにかを言いつけ、そして直弥に後を付いてくるよう目で促す。
璃久が道を先導し、それにゆっくり付いて行く。そしてさっきの兵士2人がその後に続いた。
黒い銃身のアサルトライフルを胸の前にかつぎ、同じ歩調、同じ歩幅で歩いている。常に真顔ではあったが、目の奥で自身に向けられている仄かな殺意が滾っているのはさっきからほんのりと感じていた。
一行はそのまま廊下を歩き、途中にあったエレベーター前で立ち止まった。
エレベーターの稼働音と、衣擦れや兵士らのカチャカチャという微かな物音以外そこには存在しなかった。誰も声を発さず、ただそれの到着を待つばかりである。
その間、直弥の胸は困惑と漠然とした緊張感で溢れていた。
俺は今からどこに連れて行かれるんだろうか。さっき思った通り、刑場で処されるのだろうか。またはさっきいた牢へと戻されるのだろうか。将又、拷問部屋へと連れて行かれ、身体の限界まで甚振られるのだろうか。様々な憶測が脳内で飛び交うが、纏まった答えは出てこなかった。
その時、ふと思い出す。四阿が言っていた事柄を。
『お前にはある会議に出席してほしいんだ。』
記憶の片隅にあったそれについて、直弥は深い事柄までは知らない。ただ、その会議内で桜田や四阿、そして自身の処遇を決めるとだけ言われていた。
ただそれ以上は彼も教えてはくれなかった。なのでそれがどこでいつ開催されるのか、全くわからなかった。
もしかすれば、その会議は今日開催されるのではないのだろうか。そう予想していた頃、エレベーターの稼働音が止まり音もなくゆっくりと扉が横に滑った。
真っ白なそのエレベーターの中はかなり広かった。全員がそれに乗り込んでもまだ隙間ができるほどだ。直弥を真ん中にして後ろに武装兵2人、そして前方には璃久が背を向けて立った。
彼が「1」と書かれたボタンを押す。扉がゆっくりと閉まり、一行は白い箱の中に閉じ込められる。一瞬の間の後、再び鳴った微かな稼働音とともにふわっとした上昇感を感じた。
どうやらさっきいたのは地下だったらしい。誰も声を発さないまま1分弱ほど箱に閉じ込められているとエレベーターは稼働音を発さなくなり、同時に上昇感も消え失せた。
目の前の扉が、また音もなく横滑りに開いた。明るい光に目をしばたたせていると、奥の方で何やら喧騒が聞こえてきた。
そこはエントランスホールのような外観で、高い天井に奥の壁はすべてはガラス張り、中にはシャンデリアが吊り下げられ、受付のような窓口に簡素なソファーが規則通りに並んでいる。
そして、ガラスの壁の一部である大きな入口周辺を白や濃灰色の、迷彩柄をした軍服を着込む兵士らが必死に抑え込む。ガラス越しに見える外には私服姿の群衆がカメラを手に持ち犇めきあっていて、直弥の姿を見た途端カメラを一斉に構えだした。
すると前にいた璃久が手をかざして直弥の姿を隠した。そして後ろ目で直弥のことを見る。
「静かについて来い。あの記者共になんか言われてもなにも答えるなよ。あと、不容易な行動したなら即撃ち殺されるからな、気をつけろ。」
そう小声でいい、彼はそのフロアに足を踏み入れた。一瞬ぼーっとその後姿を眺めていると、後ろの兵士に背中を押された。直弥はそれで焦って璃久の背中を追う。
入口までの道は複数の兵士らによって厳重に固められていた。その誰もが銃を携え、迷彩色をした戦闘服を着込みながら鋭い目で絶えず周りを警戒する。
だがそれは直弥を守るためだけではないのだろう。おそらく大半の理由は、自身がもし変な行動をしたときに即応できるからだ。そう考えると、あのバリスティックヘルメットから覗く鋭い目つきがとても恐ろしく感じられた。
だがそれは、死への恐怖ではない。自身に対する容赦の無さ、絶対に逃さないという固い意志、魔族に対する憎悪の深さ、そういったものに直弥は、恐怖というよりは圧倒されていた。
直弥の中にもはや死への恐怖はないと言ってもいい。むしろ殺してほしかった。今は一時的に落ち着いてはいるが、先の発作がまた再発したときにそれを耐える自信が無い。苦しむくらいならいっそのこと、楓と一緒に両親の元へ今すぐに逝きたい。
武装兵の後ろで、遠巻きに直弥のことを見ている白衣の大人たちが目に写った。
彼らは直弥にというより、周りを固めている隊員らに寒心の念を抱いているように見える。それをだけでも、この武装兵らが普段どれだけ冷淡かが伺い知れた
そうこうしているうちに、群衆の群がる入口手前まで近づいてきた。
そこを抑え込んでいた兵士らは一変、群衆を押し返し、なだれ込もうとする彼らを無理やり抑え込んで外への道を作る。璃久は押し返す兵士らに続き、悠然と歩みを進めた。
久しぶりに外の空気を吸った。それは日本の湿った空気ではなく、湿気のない乾いた空気であった。
車寄せエリアの奥に見える景色はビル街であり、大きな道路も見える。車通りはほとんどなく、なにやら装甲車らが道路の端に並んでいた。
そういえば、ここはどこなんだろうか。四阿はADFの名を口にしていたが、それについて詳しいことは語ってくれなかった。
ただ彼は、ADFは極秘機関だとは言っていた。しかしこの記者の量や、街中での大っぴらな装甲車の配置など、その様子はまるで極秘だとは思えない。謎が謎を呼ぶ。
兵士らの腕を掻い潜り、四方八方から記者らのマイクが差し出される。片言の日本語や流暢な英語で記者らが何かを叫んでいた。なにやら「ハイスクール」やら「デビル」やら、「マーダー」などという言葉が飛び交っているのは、ぎりぎり聞き取れた。
璃久に言われた通り記者らには取り合わず、常に顔を俯けた。そして璃久の背中を追っていると、彼は止められていた黒塗りのセダンの後部座席に乗るよう直弥に言った。指示に従い、兵士らが開けた後部座席の扉を潜り、席についた。
両隣に先程の武装兵2人が挟み込むようにして座り、璃久は助手席に座った。車は左ハンドルであり、運転席には黒スーツの男が座っている。直弥の顔見知りではなかった。
璃久が一言、出せとスーツの男に指示を出す。男はアクセルを踏み、外で群がる記者らを他所に車は発進した。
道路に出た途端、直弥が乗るセダンを中心に周りを脇に停まっていた装甲車が囲む。まるで一国の統治者のような扱いに驚いていると、前の席にいる璃久が振り返らずに話しかけてきた。
「ちゃんと言ったこと守れてたじゃねぇか、偉いな。」
そう言いつつ懐からタバコを取り出し、一本手にとってジッポーライターで火を付ける。同時にサイドウィンドウを開け、遠慮なしに吸った。
脂臭さが車内にじんわり広がる。運転席の男が前を見つつも苦情を日本語で言った。
「、、、璃久さん。狙撃の可能性もあるので、今タバコはおやめください。」
「は?別に今中心街はオリオンによる厳戒態勢下なんだろ?ナイフ一つすらも見逃されねぇ今の状況下で狙撃なんて大っぴらなこと出来ねぇよ。しかもいま四方は装甲車に囲まれてんだし、遠くからじゃまともに狙えやしねぇさ。」
「いやですが、、、」
「大丈夫だって。撃たれたところで死ぬのは俺一人だし、今はとりあえず八幡直弥が生きてりゃいいんだろ?」
「貴方が死ぬのもそれはそれで大きな損っすよ。」
「固ってぇなぁ。ちょっとしたギャンブルしてるだけだっての。」
「たかがタバコ一本に命を掛けないでください。」
璃久はふん、と鼻を鳴らし、ダッシュボードに足を乗せてタバコを吹かす。運転席の男はもはや諦めたのか、ひとつため息を付いてまた運転に集中しだした。
車内は無言になる。タイミングを見計らって、直弥は口を開いた。
「、、、あの、俺は今からどこに、、、?」
ルームミラー越しに璃久がちらりと直弥を見やった。そしてまた車外に目線を戻し、気怠そうに答える。
「寛解から聞いてただろ?例の会議ってやつだよ。佳人や寛解、そしてお前の今後が今日決まるんだ。」
どうやらさっきの予想は当たっていたらしい。牢から出された理由に少しだけ納得した。
「佳人、、、桜田のことですか。」
直弥がぽつんと呟くと、車内はまたしんと静まり返る。だが先程の沈黙とは違い、どこか重苦しくて凍てついた雰囲気が漂っているような気がする。突然のことで困惑し、直弥はあたりを見渡す。
外にこれといった以上は感じられない。だが両隣の兵士らが殺気立っている気配を仄かに感じた。それがなぜか分からずさらに困惑していると、運転席の男がにわかに口を開いた。
「、、、璃久さん、俺こいつ殺していいですか。」
抑揚のない凍てついた声だった。その声に、静かな怒りや深い憎悪などを感じ、背筋が凍る。男だけではない。隣りにいる兵士らもさっきより完全に殺気立ち、胸の前に抱えているライフルのグリップ部分を強く握り込んで銃口をこちらへ向けていた。
一触即発の状況下、本能からくる緊張感で身じろぎひとつ出来ない。璃久はちらりともこちらを見ず、ただ窓の外で流れる景色を眺めるばかりだ。
1分ほどその静寂が流れた後、璃久は持っていたタバコを車外に投げ出し深々と座り直した。そして前方の景色を見つめつつ、独り言のように言った。
「、、、その空気感でいられるとほんとタバコ不味いんだけど。貴重な一本無駄にしたわ。」
ちっ、と小さく舌打ちする璃久はそこでようやく直弥をミラー越しに見据える。
「八幡直弥、今なんでこんなキメぇ空気なってるかわかるか?」
「いや、、、えっと、、、」
「簡単なことだ。お前は佳人を本名で読んだ挙げ句彼女を呼び捨てにした。んなもん普通なら即射殺だぞ。 、、、お前は寛解に、一体何を教わったんだ?」
淡々と言葉を紡ぐ璃久は顔に表情こそ浮かべてはいないが、苛ついている雰囲気は声からひしひしと伝わってくる。
それだけ大きなことだったのだと、直弥は後悔し焦る。彼らは高官ではなく下士官兵だ、四阿ほど融通は効かない。そのことを直弥は忘れていた。それは、間違いなく致命的であった。
璃久は鼻を鳴らし、腕を組み目線をまた前方へ向ける。依然直弥が答えられずにいると、少し落ち着かせた声で彼は口を開く。
「、、、ま、『後悔先に立たず』って言うし、今回は見逃してやるよ。こっちとしてもここでお前が死なれたら困るしな。」
その言葉を聞いて、運転席の男はあからさまに不快感を示す。
「甘いです璃久さん。今ここでこいつを殺したとて理由づけは後でいくらでもできる。どう考えても大した問題じゃ…」
「大した問題だから今こうやって大げさにでも護送してる。お前は聞かされてねぇんだろうが、こいつの命は佳人や寛解を救う大きな可能性になり得る。そんなやつをみすみす殺させるわけにゃいかねぇ。」
またしんと静まり返った。直弥は困惑する。俺が四阿や桜田を救う、大きな可能性に、、、?
それは男も同様のようで、訝しむようにしてまた口を開く。
「、、、大きな可能性、ってのは?」
「知っての通り、一連の事件には白虎の連中が俺ら玄武に協力してた。そこで狂風は、その協力体制を四堂八間会議にも持ち込もうって算段らしい。まあつまりは、白虎側が佳人や寛解の死刑に反対する一方、こちら側も狂風が深い関心を持ってる八幡直弥の死刑に反対しろ、ってことだ。」
男が息を呑む気配を感じた。両隣の兵士らも同様に顔が若干引きつっていた。
「、、、こいつを殺しちまうと、白虎は特に直接的な被害は皆無なのに対し、それで彼らが約束の不履行とか言いだしたりして寛解や佳人の死刑に賛成してきたりすれば、逆にこちら側が壊滅的な痛手を負う可能性は極端に高くなる、ってことですか。」
「お前の物分りの良さは昔からだったな。まぁ簡単に言ゃそういうことだ。」
「、、、こんなの、協力じゃなくてただの脅しですよ。」
「、、、まぁな。でも考えてみろ、あの狂風だぞ?逆にこんな簡単な条件で協力してくれるなんざ前代未聞だ。」
男はため息をつき、一拍置いて兵士らに指示を出す。
「...Put the guns down. You heard what he said.」
兵らは一瞬困ったような様子を見せ、顔を見合わせる。そんな様子に男はしびれを切らし、苛立ちを込めて怒鳴った。
「PUT THE GUNS DOWN ,RIGHT NOW!!!」
その怒声が響いた途端、兵らは慌てて銃口を逸らす。男はあからさまに不満げだが、一旦は自分が殺される脅威が去った。
そのことに少しホッとする反面、落胆する自分もいた。矛盾した気持ちが胸に浮かび、微妙な表情を無意識に浮かべる。その様子を見ていた璃久が口を開いた。
「、、、お前、もしかして死にてぇとか思ってた?」
直弥は驚き、はっと顔を上げる。呆れ顔の璃久は煙草を吸うために開けていた窓を閉め、またバックミラー越しに直弥を見つめた。
「図星って顔だな。 、、、笑わせる、んな簡単にお前に死なれちゃ困んだよ。それに前寛解から言われたんだろ?『妹や死んだ奴らのためにも、俺達と一緒に戦え』、って。」
『お前のその手で、大勢の仇を取れ。最上シアってやつの首を、その手で掻き切ってやれ。』
一週間前、楓の眠る病室で四阿に言われたその言葉が、耳の中で響く。その時だけはなぜか、自分はやれる人間だ、絶対に仇を取るんだと思っていた。そしてどこか胸を張っていた
だがしだいにその気力はすっかり萎えてしまい、鳴矢高校でのあの惨劇を思い出しては肩を震わすことしかできなくなった。それがPTSDであれどうであれ、とてつもなく苦しい事実に変わりはない。
その苦しみから逃れたかった。逃れられるなら、死んでもいいとすら思っていた。いくら無責任だと言われようとも、これ以上は耐えられないと悟っていたから。
璃久が牢に訪れ、発作の後眠らされてからその思いは薄れていたが、変わったわけではない。死ねるならもうそれでいい。自暴自棄になっていると言われれば否定はできないが、このまま生きていても希望を見いだせる気がしなかった。
直弥は俯きながら、独り言のように答える。
「、、、俺が死んでも、身内は今楓以外居ないし、あいつもちゃんと目覚める確証は無い、だから悲しむ人間なんか一人としていないじゃないですか。だったら、、、」
「八幡楓がいるんだろ。だったらいるじゃねぇか、お前を必要としてる人間が。」
「いやだからあいつは、、、!」
「目覚める確証が無いのと同時に、このまま一生寝たっきりな確証も無い。もし彼女が目覚めたとき、その身勝手な考えだけでお前しか身寄りのない彼女を1人っきりにする気か?」
「それは、、、でも、、、」
「いいか?この際だから言ってやる。いい加減無責任な考えは捨てろ。お前が立派な大人じゃなく年頃の子供なのも、かなり不憫な境遇の下で生きてるのも分かる。だけどよ、さっきも言ったようにお前の命には、俺たちの生きる意味とも言うべきお二方の命が掛かってんだ。そんな大切な事柄を、お前の一存でぶっ壊されちゃ困るんでな。だから今後一切死にてぇなんて口にすんじゃねぇ。次言ったら冗談抜きで口縫い合わせるからな。」
畳み掛けるように言う璃久の、ルームミラー越しに見えるその目は先程のような気だるさではなく、仄かな怒りを感じさせる。それでも十分すぎるくらいの気迫に直弥は圧倒され、思わず口を閉ざしてしまう。
璃久も、運転席の男も誰ひとりとしてそれ以上口を開かない。また静寂が訪れた。防音加工された車内は外からの音も完全に遮断し、無がその空間を支配する。気まずいことこの上ないが、璃久の発言に返す言葉も見つからない。
そのままうつむきがちに時が過ぎるのを待っていると、運転席の男がにわかに口を開く。
「あと少しで中央特別公会堂、通称『トワイライト・パレス』に到着します、ご準備を。」
いつの間にか車外の歩道には多数の人間が犇めき合っている。皆直弥の乗る車を見た途端一斉に手元のカメラをこちらへ向けシャッターを切る。それを警察官らしき者や、時には軍人が押し留めている。
その景色を呆れながらに見ていた璃久は、ため息混じりに呟く。
「熱心なジャーナリスト共だな、全員久々の特ダネを逃さまいって気概がここからでも引くほど感じれる。治安官も隊員も、押し留めるのに必死って形相だぜ?」
「幸いこの車はスモークガラス加工になってるので車内は見えないようになってるはずです。多分写真を撮ったところで顔なんか映るはずない。」
「まあでも車外に出ちまえば、んなもん撮りたい放題にやりたい放題って感じだろ。 、、、なんで俺なんかに移送の全責任押し付けんだよお上は。」
車は大きな交差点を左折し、スピードを落としていく。周辺はバリケードで交通規制されており、いたるところに軍用ジープや装甲車、トラックなどが停められ、銃を携えた兵士が絶えず周りを警戒していた。
フロントガラス奥に巨大な宮殿のような建物が見える。日本の国会議事堂より一回り大きいその建物周辺は特に警備が厳重で、中には戦車も道端に停められていた。ピリピリとした雰囲気があたり一体を占め、車内にはより一層緊張した空気が流れる。
車は段々と減速し、そして宮殿の敷地の入口である、豪勢な門の前で停車した。周りにいた装甲車は乗っていたセダン車を取り囲み、狙撃などから厳重に守る。
黒スーツの男がギアをパーキングに替えた。それを確認して降車しようとドアを開ける璃久に、彼は言った。
「到着です。 、、、璃久さん。」
「んぁ?」
「絶対に、、、絶対に、勝ってきてくださいね」
璃久は一瞬、戸惑ったような表情を見せる。だがそれも束の間、呆れたようにふっと笑い呟くように言う。
「、、、はっ、誰に言ってんだよ。第一俺は付き添いだっての。あの場での発言権なんてまるで皆無だぜ?」
「、、、」
璃久はドアを開け、外に身を乗り出した。そしてそのまま閉めるかと思いきや、その直前で振り返らずに男へ言う。
「、、、まぁ、できることは少ないが、やれるだけやってみるさ。あの人達のためにも、組織のためにも。 、、、何より、俺のためにもな。」
彼はそう言い終えると扉を閉め、ひとりでに歩き出した。運転席に居る男の表情は見えないが、車外に見える璃久の背中を目で追っているのは分かった。男の背中はどこか小さく見え、そんな彼の不安げな様子を、直弥は複雑な思いで見つめていた。
続く、、、