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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
109/112

108話 八幡楓

「……アンナって人?」


 病院に着くなり、風音は足早に隔離病室のある区画へと向かった。

 振り返った時には、ついさっきまで背後にいたはずの黒衣の姿は、いつの間にか跡形もなく消えている。――いつものことだ。


 白い廊下の先で、彼女は一人の女医師を見つけた。

 落ち着いた佇まい、切れ長の目元。記憶を探るまでもない。H地区の秘密基地で、一度だけ見かけた顔だ。


 確信に近いものを抱き、風音はそのまま声をかける。

 女医師――アンナは一瞬、怪訝そうに彼女を見つめた。狐面に黒パーカー。即座に警備を呼ばれていてもおかしくない風体だ。


 風音は小さく息をつき、周囲を一瞥する。

 誰の視線もこちらに向いていないのを確かめると、指先でそっと狐面を持ち上げ、ほんの一瞬だけ顔を晒した。


 それだけで十分だった。


 アンナの表情が、わずかに強張り、次いで納得へと変わる。

 彼女は何も言わずに周囲を警戒するよう視線を巡らせ、声を落として囁いた。


「……着いてきてください。」


 短く、それでいて迷いのない言葉。

 風音は無言で頷き、再び狐面を戻すと、アンナの背中を追って歩き出した。


 しばらく無言のまま廊下を進み、人の気配が途絶えた一角に辿り着く。

 アンナは足を止め、躊躇なくそのうちの一つの扉を開いた。


 中には数人の看護師がいた。

 その顔ぶれを見て、風音は内心で確信する。――全員、H地区で見覚えのある人間だ。


 アンナは何も言わず、視線だけで奥を示す。

 風音もそれに倣い、自然と視線を向けた。


 ベッドの上で、ひとりの少女が上体を起こしていた。


 ぼんやりと焦点の定まらない目。

 だが、厄災の日にベピラのもとで人質にされていた頃の面影はない。腫れは引き、傷も癒え、そこにあるのは年相応の、あどけさの残る顔だった。


 ――似ている。


 目元の形、輪郭の取り方、ふとした表情の癖。

 嫌でも思い出させられる。八幡直弥の顔を。


(……間違いない)


 彼女こそが、八幡直弥の妹。

 ――八幡楓。


 風音は、ゆっくりと狐面を外した。

 その瞬間、室内の空気がわずかに強張る。看護師の何人かが、息を呑むのが分かった。


 だが――


 当の本人は、そんなことなど気にも留めず、ただぼうっと風音を見つめている。

 そして、幼い子どのように、ぽつりと呟いた。


「……きれい……」


 飾り気も、警戒もない、ただの感想だった。


 胸の奥が、きり、と締め付けられる。

 だが風音は、それを表に出さない。出してはならない感情だと、理性が告げていた。


 ――彼女を、ここまで追い込んだのは誰か。


 鳴矢高校事件。

 あの時の自分の慢心と判断ミスが、結果として637名の死者と800名以上の負傷者を生んだ。数字にすれば無機質だが、その裏には数え切れない人生と、取り返しのつかない不幸が積み重なっている。


 無論、その中に八幡楓も含まれていた。


 両親は魔族に惨殺され、父親は死してなお操られ、尊厳すら踏みにじられた。

 それらすべての引き金を引いたのは、ほかでもない自分だ。


 八幡直弥がどちら側に立っていたのか――それは、今となっては分からない。

 魔族化したという事実だけが残り、その過程や意思について考えることを、風音は意識的に避けてきた。


 だが、楓は違う。


 LOD検査の結果が示す通り、彼女は紛れもなく人間だ。

 兄が何者であろうと、家族がどうであっただろうと関係ない。彼女が一方的な被害者であることに、疑いの余地はなかった。


 風音は視線を外さぬまま、傍らのアンナに声を落として問いかける。


「……彼女が目覚めたことを知っているのは、今、どの程度です?」


 アンナは一瞬考え、慎重に言葉を選ぶ。


「この部屋にいる者たちと、黒衣の方々。それから……狂風卿です。情報漏洩がなければ、それ以上は広がっていないかと。」


「……そうですか。」


 風音は短く息を吐いた。

 そして、わずかな沈黙の後、静かに続ける。


「……少しの間、二人きりにしてもらえますか。」


 アンナはその意図を察したように、視線を伏せて小さく頷いた。

 彼女は周囲の看護師たちに合図を送り、何も言わずに踵を返す。


 看護師たちもまた、余計な詮索はせず、静かに部屋を後にした。


 扉が閉じる。

 病室には、風音と楓――二人だけが残された。



 ***



「八幡楓ちゃん、だよね?」


 風音はゆっくりとフードを外す。相手を威圧しないよう、肩の力を抜き、口元に浮かべたのは柔らかな微笑みも浮かべる。その声音もまた、地下の冷えた空気を溶かすように穏やかだった。


 楓は一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから小さく頷く。


 風音はそれを確認すると、背負っていた『花葬』を壁際に静かに立て掛けた。金属が触れ合うかすかな音すら抑えるようにしてから、折り畳みのパイプ椅子を引き寄せ、楓と同じ目線になる位置に腰を下ろす。


「警戒しないで。私は敵じゃないよ」


 そう言って、風音は両手を軽く膝の上に置いた。何も持っていないと示すような仕草だった。


「……むしろ、あなたの話を聞きに来ただけ。無理に喋らなくていい。ここでは、誰も君を責めないから」


 視線を逸らさず、けれど踏み込みすぎない距離を保ったまま、風音は静かにそう続けた。


「……誰……? モデル、さん?」


 楓は喉の奥を擦るような、かすれた声で問いかけた。


 風音は一瞬だけ瞬きをする。それから、困ったように、けれど否定するでもなく微笑んだ。


「私は桜田風音。風音でいいよ」


 そう名乗ってから、楓の言葉を反芻するように首を傾げる。


「モデルなんかじゃないよ。私は……」


 そこで言葉が途切れた。

 喉元まで出かかった「軍人だよ」という一言を、風音は意識的に飲み込む。この子に向けて、今それを差し出すべきではない――直感がそう告げていた。


 代わりに、ほんの少しだけ肩をすくめて、照れ隠しのような笑みを作る。


「……まあ、堅い仕事してる。あんまり面白くないけどね。」


 冗談めかした口調とは裏腹に、その瞳は楓の反応を静かに見守っていた。


「私もあなたのこと、楓ちゃんって言ってもいい?」


 楓は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから小さく、ほんの少しだけ口元を緩めて頷く。


「……風音……さん」


「うん?」


 名前を呼ぶ声は弱々しいが、そこに拒絶の色はなかった。


「……ここは……どこですか?」


 風音は、すぐには答えなかった。

 ほんの一拍、呼吸を置く。その間に、言葉を選ぶ。


「……安全な場所だよ」


 それだけ告げてから、補足するように続ける。


「病院…というか、身体と心の傷を治すための場所。君を守る人間がちゃんといるところ」


 嘘は言っていない。ただ、すべては語っていない。


「外のことは、今は考えなくていい。ここでは休むのが一番の仕事だから」


 そう言って、風音はわずかに視線を落とし、楓の手元――布団の上でぎこちなく組まれた指先に目をやる。


「……怖いこと、分からないことがあったら、聞いて。答えられる範囲でなら、ちゃんと答える」


 再び視線を上げ、楓の目を正面から受け止める。


「……お父さんと、お母さんは……?」


 楓の声は、あまりにも淡々としていた。

 泣きも、震えもない。ただ事実を確認するような問い。


 風音の喉が、ひくりと鳴る。


 その一言で、胸の奥に押し込めていた光景が一気に蘇る。

 鳴矢高校。血の匂い。悲鳴。魔族に蹂躙された家族。

 そして、自分の判断ミス。


 風音は、即座に答えられなかった。

 沈黙が一拍、二拍と伸びる。


 その沈黙が、何より残酷だと分かっていながら。


「……」


 目を逸らしたくなる衝動を、歯を食いしばって抑え込む。

 ここで誤魔化すことはできない。

 だが、突き刺すような真実を、そのまま投げつけていい相手でもない。


 なぜなら、その両親を二人とも―――直接的にしろ間接的にしろ、手にかけているからだ。


「……楓ちゃん」


 ようやく口を開いた声は、思ったよりも低く、掠れていた。


「……全部を、今話すことはできない」


 それは逃げではなく、選択だった。


「ただ……ひとつだけ、約束できることがある」


 風音は、膝の上で強く握っていた拳を、ゆっくりと開く。

 血が止まって、指先が白くなっていた。


「……君のご両親は、君を守ろうとしてた」


 視線を逸らさない。

 逃げない。

 それだけは、決めていた。


「しっかり、楓ちゃんのことを考えてた。それだけは、間違いない」


 胸が痛む。

 その「最後」が、どれほど惨いものだったかを知っているからこそ。


「……ごめん」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からないまま、風音はそう零した。


 楓の反応を待つ間、部屋は静まり返る。

 その沈黙は、先ほどよりもずっと重かった。


「……じゃあ……お兄ぃは?」


 その呼び方が、不意打ちのように胸を打った。


 風音は、息を吸う。

 肺の奥まで空気を送り込み、それでも足りず、もう一度。


「……」


 今度こそ、逃げ場はなかった。


 八幡直弥。

 消息不明。

 魔族化。

 粛正対象。

 ――そして、自分たちが追う側に回っている存在。


 どれを取っても、この少女に向けるには残酷すぎる。


「……楓ちゃん」


 声を落とし、慎重に言葉を選ぶ。

 一語でも間違えれば、彼女の世界を壊してしまうと分かっていた。


「……正直に言うね」


 楓の瞳が、まっすぐこちらを見ている。

 期待も、不安も、全部混ざったまま。


 風音は視線を逸らさなかった。


「……お兄さんは、今も生きてる」


 その瞬間、楓の目がわずかに見開かれる。

 胸の奥に、かすかな光が灯るのが分かった。


 だが――


「……でも」


 その一言で、その光が揺らいだ。


「今の彼は、昔のお兄さんのままじゃない」


 風音は、言葉を噛み砕くように続ける。


「何があったのか、私達も全部は分かってない。けど……危険な立場にいる。それだけは確か」


 “魔族化した”とは言わない。

 “敵だ”とも言わない。

 だが、嘘もつかない。


「……会える、んですか?」


 楓の声が、ほんの少し震えた。


 風音の胸が、ぎゅっと締め付けられる。


「……今は、分からない」


 それが、精一杯の誠実だった。


「でもね」


 風音は、少しだけ前に身を乗り出す。


「楓ちゃんがここで生きてること。こうやって目を覚ましたこと。それは、きっとお兄さんにとっても――意味がある」


 希望を与えすぎてはいけない。

 だが、希望を奪ってもいけない。


 その狭間で、風音は必死に立っていた。


「……もし、会える日が来るなら」


 一瞬、言葉が詰まる。

 自分が“会わせる側”ではない可能性が頭をよぎる。


 それでも、続けた。


「その時は……私も、一緒に向き合う」


 楓の手が、シーツをぎゅっと掴む。


「……風音さん」


 小さな声。


「お兄ぃは……悪い人、なんですか?」


 ――一番、聞かれたくなかったかもしれない問い。


 風音は、即答できなかった。

 だが、目を伏せることもしなかった。


「……それは」


 ゆっくり、はっきりと。


「私たちだけで、決めつけちゃいけないことだと思ってる」


 軍人としては失格かもしれない。

 だが、人としては――これ以上ないほど正直な答えだった。


 部屋の静寂の中で、楓の呼吸だけが、微かに響く。

 ――その均衡が、不意に崩れる。


 楓の目が、はっと見開かれた。

 次の瞬間、口元を押さえたまま前屈みになり、喉がひくりと鳴る。


 風音は一瞬で察する。

 思考より先に身体が動き、ベッドの下へ手を伸ばす。青色のポリバケツを引き抜き、迷いなく楓の口元へ差し出した。


 直後、抑えきれなかった吐瀉物が溢れ、鈍い音を立ててバケツの中へ落ちる。


 ――フラッシュバック。


 長い昏睡から覚醒したばかりの脳が、会話をきっかけに封じていた記憶を解放したのだ。


 鳴矢高校事件。

 血の匂い。悲鳴。壊れた日常。


 楓は苦しげに咳き込み、涙と嗚咽を混ぜながら身体を震わせる。

 呼吸が乱れ、幼げな声が断片的に零れ落ちた。


「お母さっ……こわ、い……よぉ……お父さ……ん……やめ……て……」


 風音は、顔色ひとつ変えなかった。

 眉をひそめることも、目を逸らすこともない。


 ただ、ゆっくりと楓の背に手を当て、一定のリズムで撫でる。

 呼吸を整えさせるための、最低限で、確かな動き。


 これは慰めではない。

 逃げでもない。


 ――受け止めるための行為だ。


 楓の声は、やがて掠れ、震えながらも一つの言葉に収束していく。


「……たす……け……て……お兄……ぃ……」


 その一言が、風音の胸を深く抉った。


 彼女は目を閉じる。

 逃げるためではない。

 この声を、自分の中に刻みつけるために。


 油断。慢心。判断ミス。

 その果てに、この少女の「今」がある。


 背中を撫でる手は止めない。

 だが、言葉はかけなかった。


 赦される資格など、ない。

 それでも――聞くことだけは、やめてはならなかった。


 楓の嗚咽が、少しずつ弱まっていく。

 バケツの中で、吐瀉物が静かに揺れていた。


 続く…

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