108話 八幡楓
「……アンナって人?」
病院に着くなり、風音は足早に隔離病室のある区画へと向かった。
振り返った時には、ついさっきまで背後にいたはずの黒衣の姿は、いつの間にか跡形もなく消えている。――いつものことだ。
白い廊下の先で、彼女は一人の女医師を見つけた。
落ち着いた佇まい、切れ長の目元。記憶を探るまでもない。H地区の秘密基地で、一度だけ見かけた顔だ。
確信に近いものを抱き、風音はそのまま声をかける。
女医師――アンナは一瞬、怪訝そうに彼女を見つめた。狐面に黒パーカー。即座に警備を呼ばれていてもおかしくない風体だ。
風音は小さく息をつき、周囲を一瞥する。
誰の視線もこちらに向いていないのを確かめると、指先でそっと狐面を持ち上げ、ほんの一瞬だけ顔を晒した。
それだけで十分だった。
アンナの表情が、わずかに強張り、次いで納得へと変わる。
彼女は何も言わずに周囲を警戒するよう視線を巡らせ、声を落として囁いた。
「……着いてきてください。」
短く、それでいて迷いのない言葉。
風音は無言で頷き、再び狐面を戻すと、アンナの背中を追って歩き出した。
しばらく無言のまま廊下を進み、人の気配が途絶えた一角に辿り着く。
アンナは足を止め、躊躇なくそのうちの一つの扉を開いた。
中には数人の看護師がいた。
その顔ぶれを見て、風音は内心で確信する。――全員、H地区で見覚えのある人間だ。
アンナは何も言わず、視線だけで奥を示す。
風音もそれに倣い、自然と視線を向けた。
ベッドの上で、ひとりの少女が上体を起こしていた。
ぼんやりと焦点の定まらない目。
だが、厄災の日にベピラのもとで人質にされていた頃の面影はない。腫れは引き、傷も癒え、そこにあるのは年相応の、あどけさの残る顔だった。
――似ている。
目元の形、輪郭の取り方、ふとした表情の癖。
嫌でも思い出させられる。八幡直弥の顔を。
(……間違いない)
彼女こそが、八幡直弥の妹。
――八幡楓。
風音は、ゆっくりと狐面を外した。
その瞬間、室内の空気がわずかに強張る。看護師の何人かが、息を呑むのが分かった。
だが――
当の本人は、そんなことなど気にも留めず、ただぼうっと風音を見つめている。
そして、幼い子どのように、ぽつりと呟いた。
「……きれい……」
飾り気も、警戒もない、ただの感想だった。
胸の奥が、きり、と締め付けられる。
だが風音は、それを表に出さない。出してはならない感情だと、理性が告げていた。
――彼女を、ここまで追い込んだのは誰か。
鳴矢高校事件。
あの時の自分の慢心と判断ミスが、結果として637名の死者と800名以上の負傷者を生んだ。数字にすれば無機質だが、その裏には数え切れない人生と、取り返しのつかない不幸が積み重なっている。
無論、その中に八幡楓も含まれていた。
両親は魔族に惨殺され、父親は死してなお操られ、尊厳すら踏みにじられた。
それらすべての引き金を引いたのは、ほかでもない自分だ。
八幡直弥がどちら側に立っていたのか――それは、今となっては分からない。
魔族化したという事実だけが残り、その過程や意思について考えることを、風音は意識的に避けてきた。
だが、楓は違う。
LOD検査の結果が示す通り、彼女は紛れもなく人間だ。
兄が何者であろうと、家族がどうであっただろうと関係ない。彼女が一方的な被害者であることに、疑いの余地はなかった。
風音は視線を外さぬまま、傍らのアンナに声を落として問いかける。
「……彼女が目覚めたことを知っているのは、今、どの程度です?」
アンナは一瞬考え、慎重に言葉を選ぶ。
「この部屋にいる者たちと、黒衣の方々。それから……狂風卿です。情報漏洩がなければ、それ以上は広がっていないかと。」
「……そうですか。」
風音は短く息を吐いた。
そして、わずかな沈黙の後、静かに続ける。
「……少しの間、二人きりにしてもらえますか。」
アンナはその意図を察したように、視線を伏せて小さく頷いた。
彼女は周囲の看護師たちに合図を送り、何も言わずに踵を返す。
看護師たちもまた、余計な詮索はせず、静かに部屋を後にした。
扉が閉じる。
病室には、風音と楓――二人だけが残された。
***
「八幡楓ちゃん、だよね?」
風音はゆっくりとフードを外す。相手を威圧しないよう、肩の力を抜き、口元に浮かべたのは柔らかな微笑みも浮かべる。その声音もまた、地下の冷えた空気を溶かすように穏やかだった。
楓は一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから小さく頷く。
風音はそれを確認すると、背負っていた『花葬』を壁際に静かに立て掛けた。金属が触れ合うかすかな音すら抑えるようにしてから、折り畳みのパイプ椅子を引き寄せ、楓と同じ目線になる位置に腰を下ろす。
「警戒しないで。私は敵じゃないよ」
そう言って、風音は両手を軽く膝の上に置いた。何も持っていないと示すような仕草だった。
「……むしろ、あなたの話を聞きに来ただけ。無理に喋らなくていい。ここでは、誰も君を責めないから」
視線を逸らさず、けれど踏み込みすぎない距離を保ったまま、風音は静かにそう続けた。
「……誰……? モデル、さん?」
楓は喉の奥を擦るような、かすれた声で問いかけた。
風音は一瞬だけ瞬きをする。それから、困ったように、けれど否定するでもなく微笑んだ。
「私は桜田風音。風音でいいよ」
そう名乗ってから、楓の言葉を反芻するように首を傾げる。
「モデルなんかじゃないよ。私は……」
そこで言葉が途切れた。
喉元まで出かかった「軍人だよ」という一言を、風音は意識的に飲み込む。この子に向けて、今それを差し出すべきではない――直感がそう告げていた。
代わりに、ほんの少しだけ肩をすくめて、照れ隠しのような笑みを作る。
「……まあ、堅い仕事してる。あんまり面白くないけどね。」
冗談めかした口調とは裏腹に、その瞳は楓の反応を静かに見守っていた。
「私もあなたのこと、楓ちゃんって言ってもいい?」
楓は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから小さく、ほんの少しだけ口元を緩めて頷く。
「……風音……さん」
「うん?」
名前を呼ぶ声は弱々しいが、そこに拒絶の色はなかった。
「……ここは……どこですか?」
風音は、すぐには答えなかった。
ほんの一拍、呼吸を置く。その間に、言葉を選ぶ。
「……安全な場所だよ」
それだけ告げてから、補足するように続ける。
「病院…というか、身体と心の傷を治すための場所。君を守る人間がちゃんといるところ」
嘘は言っていない。ただ、すべては語っていない。
「外のことは、今は考えなくていい。ここでは休むのが一番の仕事だから」
そう言って、風音はわずかに視線を落とし、楓の手元――布団の上でぎこちなく組まれた指先に目をやる。
「……怖いこと、分からないことがあったら、聞いて。答えられる範囲でなら、ちゃんと答える」
再び視線を上げ、楓の目を正面から受け止める。
「……お父さんと、お母さんは……?」
楓の声は、あまりにも淡々としていた。
泣きも、震えもない。ただ事実を確認するような問い。
風音の喉が、ひくりと鳴る。
その一言で、胸の奥に押し込めていた光景が一気に蘇る。
鳴矢高校。血の匂い。悲鳴。魔族に蹂躙された家族。
そして、自分の判断ミス。
風音は、即座に答えられなかった。
沈黙が一拍、二拍と伸びる。
その沈黙が、何より残酷だと分かっていながら。
「……」
目を逸らしたくなる衝動を、歯を食いしばって抑え込む。
ここで誤魔化すことはできない。
だが、突き刺すような真実を、そのまま投げつけていい相手でもない。
なぜなら、その両親を二人とも―――直接的にしろ間接的にしろ、手にかけているからだ。
「……楓ちゃん」
ようやく口を開いた声は、思ったよりも低く、掠れていた。
「……全部を、今話すことはできない」
それは逃げではなく、選択だった。
「ただ……ひとつだけ、約束できることがある」
風音は、膝の上で強く握っていた拳を、ゆっくりと開く。
血が止まって、指先が白くなっていた。
「……君のご両親は、君を守ろうとしてた」
視線を逸らさない。
逃げない。
それだけは、決めていた。
「しっかり、楓ちゃんのことを考えてた。それだけは、間違いない」
胸が痛む。
その「最後」が、どれほど惨いものだったかを知っているからこそ。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からないまま、風音はそう零した。
楓の反応を待つ間、部屋は静まり返る。
その沈黙は、先ほどよりもずっと重かった。
「……じゃあ……お兄ぃは?」
その呼び方が、不意打ちのように胸を打った。
風音は、息を吸う。
肺の奥まで空気を送り込み、それでも足りず、もう一度。
「……」
今度こそ、逃げ場はなかった。
八幡直弥。
消息不明。
魔族化。
粛正対象。
――そして、自分たちが追う側に回っている存在。
どれを取っても、この少女に向けるには残酷すぎる。
「……楓ちゃん」
声を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
一語でも間違えれば、彼女の世界を壊してしまうと分かっていた。
「……正直に言うね」
楓の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
期待も、不安も、全部混ざったまま。
風音は視線を逸らさなかった。
「……お兄さんは、今も生きてる」
その瞬間、楓の目がわずかに見開かれる。
胸の奥に、かすかな光が灯るのが分かった。
だが――
「……でも」
その一言で、その光が揺らいだ。
「今の彼は、昔のお兄さんのままじゃない」
風音は、言葉を噛み砕くように続ける。
「何があったのか、私達も全部は分かってない。けど……危険な立場にいる。それだけは確か」
“魔族化した”とは言わない。
“敵だ”とも言わない。
だが、嘘もつかない。
「……会える、んですか?」
楓の声が、ほんの少し震えた。
風音の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……今は、分からない」
それが、精一杯の誠実だった。
「でもね」
風音は、少しだけ前に身を乗り出す。
「楓ちゃんがここで生きてること。こうやって目を覚ましたこと。それは、きっとお兄さんにとっても――意味がある」
希望を与えすぎてはいけない。
だが、希望を奪ってもいけない。
その狭間で、風音は必死に立っていた。
「……もし、会える日が来るなら」
一瞬、言葉が詰まる。
自分が“会わせる側”ではない可能性が頭をよぎる。
それでも、続けた。
「その時は……私も、一緒に向き合う」
楓の手が、シーツをぎゅっと掴む。
「……風音さん」
小さな声。
「お兄ぃは……悪い人、なんですか?」
――一番、聞かれたくなかったかもしれない問い。
風音は、即答できなかった。
だが、目を伏せることもしなかった。
「……それは」
ゆっくり、はっきりと。
「私たちだけで、決めつけちゃいけないことだと思ってる」
軍人としては失格かもしれない。
だが、人としては――これ以上ないほど正直な答えだった。
部屋の静寂の中で、楓の呼吸だけが、微かに響く。
――その均衡が、不意に崩れる。
楓の目が、はっと見開かれた。
次の瞬間、口元を押さえたまま前屈みになり、喉がひくりと鳴る。
風音は一瞬で察する。
思考より先に身体が動き、ベッドの下へ手を伸ばす。青色のポリバケツを引き抜き、迷いなく楓の口元へ差し出した。
直後、抑えきれなかった吐瀉物が溢れ、鈍い音を立ててバケツの中へ落ちる。
――フラッシュバック。
長い昏睡から覚醒したばかりの脳が、会話をきっかけに封じていた記憶を解放したのだ。
鳴矢高校事件。
血の匂い。悲鳴。壊れた日常。
楓は苦しげに咳き込み、涙と嗚咽を混ぜながら身体を震わせる。
呼吸が乱れ、幼げな声が断片的に零れ落ちた。
「お母さっ……こわ、い……よぉ……お父さ……ん……やめ……て……」
風音は、顔色ひとつ変えなかった。
眉をひそめることも、目を逸らすこともない。
ただ、ゆっくりと楓の背に手を当て、一定のリズムで撫でる。
呼吸を整えさせるための、最低限で、確かな動き。
これは慰めではない。
逃げでもない。
――受け止めるための行為だ。
楓の声は、やがて掠れ、震えながらも一つの言葉に収束していく。
「……たす……け……て……お兄……ぃ……」
その一言が、風音の胸を深く抉った。
彼女は目を閉じる。
逃げるためではない。
この声を、自分の中に刻みつけるために。
油断。慢心。判断ミス。
その果てに、この少女の「今」がある。
背中を撫でる手は止めない。
だが、言葉はかけなかった。
赦される資格など、ない。
それでも――聞くことだけは、やめてはならなかった。
楓の嗚咽が、少しずつ弱まっていく。
バケツの中で、吐瀉物が静かに揺れていた。
続く…




