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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
108/112

107話 いつもの?

 ユートピアの、とある病室。


 真夜中のその部屋に満ちているのは、落ち着いた規則正しい寝息と、パルスオキシメーターが刻む無機質な電子音だけだった。

 人の気配はない。ただ彼女ひとりが、白いベッドの上で眠っている。


 ――彼女は、夢を見ていた。


 脳天気な母の朗らかな笑い声。

 厳格な父が、母の一言に振り回されてうろたえる、少し情けない姿。

 机の上に広げられた『32』と赤字で書かれたテスト用紙と、それを見て引きつる兄の顔。


 なにも変わらない、いつもの日常。

 誰もが笑っていて、誰もが幸せそうで――ただ、それだけの光景。


 ……幸せそう、で。


 唐突に、景色が反転する。


 荒らされた自室。

 耳元で聞こえる、必死に呼吸を抑えようとする母の震えた息遣い。

 強張ったその横顔。


 そして――床に伏せ、赤黒い液を滴らせる父の姿。


 向けられる銃口。

 その先端がわずかに揺れるたび、母が自身を庇うように抱き締める力が強くなる。


 ――いつもの、日常?


 いつも……?

 “いつも”って、何?


 私は、何をして……?


 私は……だ、れ……?


 急速に、意識が引き上げられていく。

 水の底から浮上するような感覚。ふわふわと曖昧だった思考の奥で、「意思」という輪郭が、少しずつ形を取り戻していく。


 静かな寝息が途切れ、小さなうめき声が漏れた。


 そして――彼女は、ゆっくりと目を開けた。


 最初に知覚したのは、あの無機質な電子音だった。

 それがパルスオキシメーターの音だと理解するまでに、わずかな時間を要する。


 鼻を突く薬品の匂い。

 口元と鼻元が、何かに覆われている感覚。


 息を吐くたび、視界の端で白く曇る。


 ……酸素マスク。


 そう認識した途端、取り外そうと指を動かそうとするが――力が入らない。

 思考はあるのに、身体がそれに応えない。


 面倒くさい。

 どうでもいい。


 そんな感情が、奇妙なほど自然に湧き上がった。


 視線だけを動かし、周囲を探る。

 白い壁、医療機器、整えられたベッド。どうやら病室らしい。


 夜なのだろう。

 廊下から漏れ込む光だけが、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。


 そのとき――


 廊下から、足音が近づいてきた。


 一つ、また一つ。

 規則的で、慣れた歩調。


 やがて扉が静かに開き、看護師らしき女性が部屋に入ってくる。


 彼女は何気なくベッドに視線を向け――そして、凍りついたように立ち尽くした。


 数秒の沈黙。


 次の瞬間、はっと我に返ったように壁際の備え付け電話へ駆け寄り、震える指で受話器を取る。


「ア、アンナ先生!楓さんが……八幡楓さんが……!!」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かがすとんと落ちた。


 ――ああ、そうだった。


 ぼんやりとした思考の霧が、少しずつ晴れていく。


 ――私……八幡楓って、名前だったなぁ…。



 ***



 G地区郊外。

 H地区との境界付近、表向きは瓦礫処理用の資材庫とされている一画で、桜田風音は静かに刃を研いでいた。


 闘技場では、すでに四回戦まで勝ち進んでいる。

 だが、そのすべては彼女にとって“試合”と呼ぶにはあまりに軽かった。

 いずれも歯応えはなく、長くとも一分。刃を交えた瞬間、勝敗は決していた。


 序盤こそ観客はその鮮烈な試合展開に熱狂した。

 だが回を重ねるごとに、歓声は次第に減り、代わりに場を支配したのは沈黙だった。


 それは期待が冷めたのではない。

 理解してしまったのだ。


 ――この女の前では、抗うこと自体が無意味なのだと。


 刀を振るうたび、観客席からは息を呑む気配が伝わってくる。

 歓声ではなく、畏怖。

 それはもはや娯楽ではなく、処刑を見せつけられているに等しい感覚だった。


 当然だ。


 どれほど鍛え上げられた巨漢であろうと、どれほど修羅場を潜り抜けてきた戦士であろうと、四堂に敵う道理など存在しない。

 風音自身、その事実を疑ったことは一度もない。


 無論、それは自他ともに認める彼女自身の戦闘能力に裏打ちされた自信でもある。

 だが、それだけではなかった。


 今、彼女が丹念に研いでいる愛刀――『花葬かそう』。


 それは単なる得物ではない。

 ADF開発室が、桜田風音個人の戦闘特性を徹底的に分析し、専用設計で編み出した兵装。

 いわば、彼女の存在を前提として成立する、対人・対魔殲滅用の完成形であった。


 刀身には特殊合金が用いられており、強度と柔軟性を両立させながらも、常識的な刃物の限界を逸脱している。

 さらに内部には、微細な術式回路が層状に刻まれており、使用者の人術――いや、正確には桜田風音の波長にのみ共鳴するよう調整されていた。


 これにより、彼女が刃を振るう際、その動作は単なる物理運動では終わらない。

 斬撃は力としてではなく、現象として対象に到達する。


 肉体の強度、筋力、骨密度、防御術式。

 それらすべてを「硬さ」として認識する前に、存在の連続性そのものを破壊する。


 防御は成立せず、回避も遅れる。

 斬られた瞬間に、結果だけが先に訪れる。


 だからこそ、『花葬』は振るわれるたびに命を奪う。

 花を手向けるように、静かに、等しく。


 風音は砥石から刃を離し、刀身に映る自分の顔を一瞬だけ見つめた。


 妙に整いすぎた顔。

 桜田風音は、この顔に対して、これまで何度となく小さな憎しみを抱いてきた。


 昔から、目立つことは好きではなかった。

 物心がついた頃にはすでに、育ての親――分かりやすく言えば、朽宮言真の兄の手によって士官学校への道を定められていた。三歳になる頃には、小学校低学年相当の基礎学力を叩き込まれ、同時期に――彼女は初めて、魔族を撃ち殺している。


 それが、彼女にとっての「始まり」だった。


 士官学校での生活の中でも、今ほどではないにせよ、風音は常に周囲の視線を集めていた。

 特に男たちからのそれは顕著だった。


 理由は単純だ。

 彼女は、周囲と比べてあまりにも美形すぎた。


 生みの親の顔は知らない。

 気づいた時には捨て子であり、拾われ、育てられた。それ以上の過去は、彼女には与えられていない。


 そして――厄災の日。

 魔族の襲撃を受け、彼女は一度、確かに死んだ。


 だが、なぜか彼女は生き返った。

 そして同時に、四百年ぶりとされる『神眼』に目覚めた。


 彼女は、奇跡的にチルドレンに選ばれた存在の一人だった。


 それまでの、またはそこから先の経緯を語るには、あまりにも話が長くなる。

 ただひとつ確かなのは、神眼に目覚めたことで、彼女は厄災の日を生き延びることができた、という事実だけだ。


 世間は、その作り物めいた美貌そのものが、チルドレンとして選ばれた副作用なのだと考えていた。

 だが、それは正確ではない。


 彼女の美貌は、生まれ持ったものだ。

 そうでなければ、チルドレンになる以前から、異常なほど整った顔立ちだった説明がつかない。


 本当の副作用は、別にあった。


 ――彼女は、無意識のうちに、以前と比べても異様なほど人の注目を集めてしまう。


 厄災の日以降、神眼保持者として名が知れ渡り、彼女は急速に持ち上げられた。

 流されるままに立場を与えられ、気づけば玄武隊四堂の座に就いていた。


 それは単に、神眼保持者だったからではない。

 彼女自身、あの過剰なまでの注目――それこそが、すべてを早回しにした原因だと感じていた。


 だが数年が経ち、彼女は一つの事実に気づく。


 目元を隠すと、それがいくらか和らぐのだ。


 そこから考えるに、風音はその副作用は“目”に起因していると考えた。

 神眼とともに覚醒した何かが、視線を通して周囲へ作用しているのだと。


 だからこそ、彼女は闘技場で狐の面をつける。


 顔を隠すため。

 そして何より、その厄介な副作用を、少しでも抑え込むために。


 風音は『花葬』を静かに鞘へ収め、壁際に置いてあった狐の面を手に取って立ち上がった。

 明日はいよいよ準決勝。通常であれば、出場者が地下街と地上を頻繁に行き来することは固く制限されている。だが、なぜか風音に限っては、その制約が形骸化していた。


 後藤――あの黒髪の男が言うには、「ボスに気に入られてるから」らしい。

 理由など心底どうでもいい。ただ、こうして自由が保証されるのは純粋にありがたかった。


 風音は歩き出す。

 だが、数歩進んだところで、ぴたりと足を止めた。


 次の瞬間、狐の面を顔に当て、同時に抜刀姿勢へ移行。

 ほとんど反射だった。


 振り返った先に立っていたのは、黒衣の男。


 ――見覚えがある。

 おそらくだが、言真の私兵だ。


「……ビビらせないでよ。」


 風音は舌打ち交じりに呟き、ゆっくりと抜刀姿勢を解く。

 黒衣の男は即座に膝をつき、頭を下げた。


「申し訳ございません、佳人卿。少々、緊急の用件がありまして。」


「興味ない。」


 即答だった。


「どうせろくな話じゃないでしょ。……ていうか、あんた達誰なの。名前とかないわけ? 全員おんなじ格好してるから見分けつかないんだけど。」


「そうおっしゃらないでください。本当に緊急なんですよ、佳人卿。」


「…無視?」


 風音は半眼で男を見る。


「――まあいいけど。」


 一拍置いて、興味なさそうに肩をすくめた。


「それで何? 言真でも死んだ?それならむしろ朗報なんだけど。」


 風音の軽口に、黒衣は眉一つ動かさず応じた。


「いえ。言真様は現在も表世界にて、八幡直弥の捜索を続行中です。今回の用件は、それとは別件になります。」


 そう前置きしてから、彼は一拍、間を置いた。

 その沈黙が、嫌な予感を煽る。


「先程、アンナ・ファルコン様より連絡がありました。八幡楓なる少女が――意識を回復した、と。」


「……」


 想像していたより、遥かに緊急性が高い。

 胸の奥で、嫌な音が鳴った。


 八幡直弥の血を引く存在。

 それだけで、彼女は既に標的だ。


 朱雀隊、青龍隊ら粛正派にとって、八幡楓は八幡直弥についての情報を山ほど持つ重要人物であり、同時に危険極まりない存在であろう。


 そんな彼女が目覚めたとなれば話は急を要する。

 情報を引き出すために、あるいは口封じのために、

 粛正派が早期に動き出す理由としては、十分すぎる。


 ――下手をすれば、今この瞬間にも。


 風音は無意識に、鞘に収めた『花葬』へ指先を掛けていた。


「……場所は?」


 声音は低く、冗談の色は完全に消えている。


 黒衣は一瞬だけ、その変化を見てから答えた。


「B地区。中央病院の隔離病室です。」


 風音は小さく息を吐いた。


「……最悪のタイミング。」


 狐面の奥で、彼女の視線が細く鋭くなる。


「――案内して。」



 ***



 地下街から地上へと戻ってきた青年が、一人。


 金髪に、金色のグラスコードを揺らす眼鏡。

 軽薄にも見えるその出で立ちとは裏腹に、彼の足取りは無駄がなく、どこか場慣れしていた。


 青年――柄本は、積み上げられた廃材の上にひょいと身を乗せ、腰を下ろす。

 葉巻に火を点け、深く吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。


 その視線の先――

 G地区の雑踏へと溶けていく、黒パーカー姿の少女の背中があった。


「ありゃあ……日下部、か……?」


 独り言のように呟きながら、柄本は目を細める。

 煙が風に流れ、視界が一瞬だけ白む。


「……あいつ、なんであんなに強ぇんだろうなぁ」


 低く、感情を抑えた声。


「特別枠の常連、四人全員――全部、あいつにぶっ殺されてるしよ…。運とか偶然で片付けられる数じゃねぇよなぁ…」


 葉巻を指で弾き、再び一服する。

 金縁の眼鏡の奥で、観察するような光が揺れた。


「……あいつ、まさか――」


 一瞬、脳裏をよぎった“可能性”。

 柄本は、その考えを振り払うように首を横に振る。


「……いや、ねぇか。流石に考えすぎだ」


 そう呟きながらも、

 彼の視線は、黒パーカーの少女が完全に人波に消えるまで、離れなかった。


 胸の奥に、言語化しきれない違和感を残したまま。


 続く…

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