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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
107/112

106話 影は亀裂に

「ぐブっ、ブッ゙、ぅ゙ヴ――」


 もはや言葉にもならない音だけが、部屋に鈍く響いていた。


 焔冥は、その光景を離れた位置から、冷え切った眼差しで眺めている。


 朱雀隊員たちは、頭にポリ袋を被せられた淸瑞刈逓を囲み、手にしたハンマーや鈍器を容赦なく振り下ろしていた。狙いは一様に頭部のみ。迷いも躊躇もなく、ただ作業のように殴打が繰り返される。


 ポリ袋の内側はすでに赤黒い液体で満たされ、淸瑞の頭部は半ばその中に沈んでいた。曇ったビニール越しにも、脳と思しき肉片が内側に貼りついているのが見て取れる。


 先ほどまでか細く漏れていた呻き声は、いつの間にか途絶えていた。

 自身の血に沈んだ鼻や口から泡が漏れることもない。ただ変形した頭部を力なく垂らし、淸瑞は完全に物言わぬ骸と化している。


 ポリ袋を被せたのは、単純な理由からだ。

 ――部屋を汚したくなかった。


 血液の飛散を抑えるには、これが最も効率的だった。


 彼を殺すことは、最初から決定事項だった。

 老いぼれに情けをかける理由など、焔冥には一切ない。


 そもそも――過去に八幡直弥の入学を許可した時点で、この男は信用に値しない存在だった。

 焔冥の中では、その瞬間から淸瑞刈逓は「処理されるべき対象」に過ぎなかったのだ。


 彼は一言、淸瑞の死体を持っていくよう伝える。

 朱雀隊員は彼の足と肩を持ち、部屋の外へ連れて行く。


 やがて、白伊涼菟を残し、他の朱雀隊員も全員退出する。

 室内に残ったのは、焔冥と白伊、そしてまだ生温かい血の匂いだけだった。


 焔冥はゆっくりと視線を巡らせ、白伊に向ける。

 白伊は無表情のまま、床や壁に点々と残る血の跡を静かに眺めていた。


「……白伊涼菟、といったか。」


 名を呼ばれ、白伊はちらりと焔冥を見る。

 その瞳には恐怖も緊張もなく、ただ何も映していないかのような無機質さがあった。


 その態度に、背後で控えていた藤田寛嗣――永縛公が、思わず顔を歪める。


「お゙い白伊! てめぇ゙、どの゙面さげで閻魔卿に゙そん゙な態度とってん゙だよ!」


 唾を飛ばすような怒声が響く。

 だが、焔冥は軽く片手を上げ、藤田を制した。


「よいよい、寛嗣。」


 低く、しかし有無を言わせぬ声だった。


「我は――奴を信用しておる。」


 その一言で、室内の空気がさらに重く沈んだ。

 白伊は一拍置き、静かに口を開く。


「……ええ。」


 焔冥は、仮面の奥から白伊を値踏みするように見つめた。


「貴様は、自らの在籍する学校の学長を、ああして殺すことに――何の躊躇いもなかったか?」


「ありません。」


 白伊は即答した。


「教師から教え込まれた五原則の鋼条に従って行動したまでです。感情抑圧、絶対統制、唯果論……それらを遵守した結果が、先ほどの処置です。」


 彼は一度、焔冥へ視線を向ける。


「隊は違えど、閻魔卿は俺にとって手の届かぬ上官。命令不履行は、軍人として最も忌むべき行為です。」


 淡々と、事実を列挙するように言葉を重ねる。


「魔族、あるいは魔族に与する者に、慈悲は不要。俺はただ――鋼条で示されたその義務を、遂行したに過ぎません。」


 それは弁明でも忠誠の誇示でもなく、

 そうであるのが当然だとする、思考の報告だった。


 焔冥は、その様子を面白がるように、わずかに身を乗り出す。


「――魔族、と申したな。それは八幡直弥のことか?」


「……はい。」


 白伊の声は平坦だったが、その奥に、微かな濁りが混じった。

 嫌悪とも、後悔ともつかぬ色。彼が初めて覗かせた、感情と呼べるものだった。


「だが貴様は、そいつとバディを組んでいたのであろう?そうであるなら――貴様自身も“与する者”ではないか?」


「ご指摘の通りです。」


 即答だった。


「……ほう?」


「俺は、奴に騙されながら、この数ヶ月を過ごしてきました。」


 白伊は視線を伏せることもなく、言葉を重ねる。


「八幡直弥は悪魔です。魔族でありながら人間を装い、協力者と手を取り合い、ADFへ潜り込んだ。疑念を避けるため、仲間であるはずの魔族すら、躊躇なく切り捨て――」


 一瞬、唇がわずかに歪む。


「……挙げ句、俺が大切に思っていた人間を傷つけ、そして尻尾を巻いて逃げた。」


 その声に、かすかな震えが混じった。

 だが、白伊はそれを即座に押し殺す。


「この惨状を招いた原因は、奴だけではありません。俺自身の判断力の欠如、危機感の不足――それが招いた結果でもあります。」


 そして、静かに言い切った。


「ご希望とあらば……ここで、自害いたしましょうか。」


「…つくづく面白い男だ。」


 焔冥は低く笑い、乾いた拍手を送った。

 その音は称賛というより、よくできた道具を見つけた時の反応に近い。


「自らを罪人と断じ、生殺与奪を他者に委ねるか。忠誠でも信仰でもない――自己否定を基盤にした従属。実に良い。」


 白伊は眉一つ動かさない。


「…だが、却下だ。」


 その一言で、空気が張りつめる。


「貴様は死ぬには惜しい。貴様には利用価値が十二分にある。まだやってもらうことがあるのでな。」


 焔冥はそう言って、指先で軽く合図を送る。


「寛嗣。」


 藤田は無言で立ち上がり、背後の扉へと姿を消した。


 数拍の沈黙。

 やがて、再び扉が開く。


 藤田はひとりの男を連れ戻してきていた。

 いや、“連れてきた”というより、引きずってきた、と言う方が正しい。


 男の髪を鷲掴みにし、まるで鎖を付けた獣でも扱うかのように、藤田は乱雑に歩を進める。そのまま腕を振り抜き、前方へ放り投げた。


 男は白伊の足元でよろめき、膝から床へ崩れ落ちる。


 濃灰色の軍服。

 耳元と口元に無数に穿たれたピアス。

 伸び放題で脂気のない髪、削げ落ちた頬。

 かつての精悍さは影も形もなく、そこにあるのは消耗し尽くした肉体と、空洞のような眼差しだけだった。


「……寛解、公……」


 白伊が、思わず息を呑むように呟く。


 焔冥は、その反応を楽しむかのように嗤った。


「八間の“矯正”には、随分と骨が折れたわ。」


 肘掛けに身体を預け、淡々と言葉を続ける。


「一般人とは違う。八間ともなれば、技量だけでなく精神の鍛え方も常軌を逸しておる。尋問も、拷問も、生半可では効かぬ。」


 焔冥の声に、感情の起伏はない。


「完全に折れるまで――二ヶ月。……いや、それ以上かもな。」


 その言葉が落ちた瞬間、

 世間で寛解公と呼ばれる“それ”は、わずかに肩を震わせた。


 だが、顔を上げることはない。

 視線は床に縫い付けられ、そこにかつての誇りや意思の残滓は見受けられなかった。

 もはやそこにあるのは、自我を削がれ、命令を待つだけの器に過ぎない。


「……それで、」


 白伊は四阿へと視線を向けたまま、静かに口を開く。


「俺に、何をしろと?」


「今の其奴は従順だ。」


 焔冥は指先で肘掛けを叩きながら言う。


「肉体も精神も弱りきってはおるが、それでも八間の名に恥じぬ力は残っている。――貴様が飼い慣らせ。」


「……俺が、ですか?」


 一瞬だけ、白伊の声に戸惑いが滲む。


「ああ。」


 即答だった。


 そのやり取りを聞き、藤田が小さく舌打ちをする。

 一般隊員である白伊に、八間を“預ける”という扱いを待遇を与えられることが、どうにも気に食わないのだろう。


 だが焔冥は、そんな反応など意にも介さず言葉を続けた。


「いずれ、以前話した通り、青龍の連中と合同で例の作戦を始動させる。その際、部隊は大きく二班に分けるつもりだ。」


 焔冥の視線が、白伊と藤田を順に射抜く。


「指揮官は――貴様と寛嗣。副官は、其奴と空夜に任せる。」


「……指揮官、ですか。」


 白伊はわずかに眉を動かす。


「俺はⅤ型戦闘員です。階級的にも、経験的にも――」


「それがどうした。」


 焔冥は遮るように言い放つ。


「肩書きや型式で人を量るほど、我は愚かではない。先ほども言ったであろう。」


 一瞬、仮面の奥から覗く視線が鋭く光る。


「――我は貴様を信頼しておる、と。」


 焔冥は満足げに息をつき、白伊へと向き直る。


「期待しておるぞ、白伊。貴様がこの駒をどう使うか――それ次第で、作戦の成否も、貴様自身の価値も決まる。」


 逃げ道はない。

 拒否権もない。


 白伊は、静かに頷いた。


「……承知しました。」


 続く…

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