105話 炎の裁定
淸瑞はブリッツツークを下車し、駅舎を抜けてベンサレムの地に足を踏み入れた。
眼前に広がるのは、ユートピアでは決して見ることのできない光景。
地上まで露出した巨大なユグドラシルの葉群が、地下であるはずの空間に空そのものを体現していた。
厄災の日――
かつて世界に八本存在したユグドラシルは、その半数を失い、今や四本のみが残されている。
そのうち、ユートピアに根を張る一本を除く三本は、いずれも樹齢が長い。
太い幹は地上へと達し、枝葉はこの閉ざされた地下空間において、人間が生きるために必要な空気を無尽蔵に生み出し、同時に、それらの葉は擬似的な空と太陽を顕現させていた。
よく目を凝らせば分かる。
葉が風に揺れるのに合わせ、空の色も、光の角度も、微かに揺らいでいる。
それは造形物ではない。紛うこと無き生きた空であった。
対して、ユートピアのユグドラシルは樹齢が浅く、地上に露出しているのは上部の葉のみである。
それでもなお空と太陽が成立しているのは、ADF開発室が総力を挙げて築き上げた科学技術の結晶によるものだ。
淸瑞自身、詳細までは知らない。
ただ、ユグドラシルの葉に含まれる擬似空間形成成分を解析・結晶化し、それを人工的に配置することで、本来のユグドラシルと遜色ない環境再現を可能にしている――そんな説明を、かつて耳にした覚えがある。
理屈では理解していても、こうして実物を前にすると、圧倒されずにはいられなかった。
ユートピアとは似て非なる、原初に近いベンサレムの景色。
その異質さに目を奪われていると――
不意に、視界の端で黒い影が動いた。
黒服姿の男たちが数名、無言のまま淸瑞へ向かって歩み寄ってくる。
つかつかとした足取りに、淸瑞は思わず肩を強張らせ、ぎょっとした表情で彼らを見つめた。
だが男たちは彼の前で足を止め、揃って軽く一礼する。
「淸瑞刈逓様でいらっしゃいますね」
「あ、ああ……そうだが……」
声がわずかに裏返るのを自覚しながら答えると、男の一人が淡々と続けた。
「炎華の宮にて、閻魔卿がお待ちです。――我々がご案内いたします」
拒否という選択肢は、最初から用意されていなかった。
***
ベンサレムがユートピアと決定的に異なるもう一つの要素を、淸瑞は男たちの用意した車の車窓越しに、否応なく肌で感じ取っていた。
それは、人々の顔色であり、彼らが交わす日常的な交流の空気そのものだった。
ユートピアでは、商業の盛んなC地区やD地区を中心に、人々は自然に笑顔を交わしながら日々を送っている。行き交う会話や視線には一定の余裕があり、その光景は概ね平和と呼べるものだ。
無論、G地区のように治安が著しく悪化し、半ばスラム化した区域も存在する。
だがそれはあくまで例外であり、多くの住民は――少なくとも表層的には――安定した生活を享受しているように見えた。
一方、ベンサレムの街を行き交う人々は、誰もがどこか顔色を重くしている。
交流が存在しないわけではない。
談笑する姿も、笑い声も、確かにある。
しかし、その笑顔の奥底には、言葉にしがたい重苦しさが沈殿しているように、淸瑞には感じられた。
それは個々人の性格や事情によるものではなく、街そのものが纏う空気――集団的な緊張とでも呼ぶべきものだった。
理由は、すぐに視界へと入り込んでくる。
街の至るところに、赤い軍服を纏ったオリオンの朱雀隊員や治安官が配置され、銃器を携えながら周囲を警戒している。
住民たちは慣れた様子でその傍らを通り過ぎていくが、ふとした瞬間に覗く目の奥には、明確な警戒と緊張が宿っていた。
独裁国家で暮らす人々は、日々を生きているのではない。
日々を――管理されながら消費しているに等しい。
時間は国家によって細分化され、
言語は検閲によって脱脂され、
思考は「自己検閲」という名の内面化された装置によって、静かに、しかし確実に拘束されていく。
表層的には秩序が保たれているように見えるその社会は、逸脱の可能性を徹底的に排除した、極めて安定した閉鎖系だった。
人々は笑う。
だがそれは感情の自然な発露ではなく、社会的安全性を担保するための反射運動に近い。
沈黙は美徳とされ、
同意は忠誠へと読み替えられ、
疑問は口にされる前に自壊する。
国家が真に恐れているのは反乱ではない。
思考の自律化であることを、人々自身が無意識のうちに理解していた。
独裁国家で暮らす人々は、自由を奪われているのではない。
自由という概念そのものを、徐々に想起不能にされていく過程の内部に置かれている。
淸瑞は、その特徴を、このベンサレムの街に明確に見出していた。
街中に扇動的な標語が掲げられているわけではない。
ADFの方針上、少なくとも形式的には言論の自由も保障されているはずだ。
それでもなお、朱雀隊という存在――
その圧倒的な軍事力を背景にした“在り方”そのものが、人々の意識を静かに縛りつけている事実は否定しようがなかった。
この街は、声を奪うのではない。
声を上げる必要そのものを、人々に感じさせなくする場所なのだ。
淸瑞は車窓の向こうに流れていくベンサレムの街並みを見つめながら、そう結論づけていた。
ほどなくして、景色が切り替わる。
高い塀と装飾的な鉄門に囲まれた豪邸が、視界の先に姿を現した。
車はゆるやかに減速していく。
淸瑞は背もたれに身を預けたまま、無意識に喉を鳴らした。緊張が、静かに胸の内側を締めつける。
やがて車は門をくぐり、南国の花が咲き乱れる庭園へと入り込む。色鮮やかな花々とは裏腹に、その静けさはどこか人工的で、歓迎というよりも管理を思わせた。
車は庭園を抜け、豪邸の正面に横付けされて停車する。
入口前には、執事然とした男が待ち構えていた。
彼は無駄のない所作で車の扉を開け、軽く一礼する。
黒服たちに促されるまま、淸瑞は車外へと足を踏み出した。
その一歩が、引き返せない線を越えたように感じられる。
屋敷の内部は、目を見張るほど豪奢だった。
重厚な家具と精緻な装飾が並び、床には深紅のレッドカーペットが敷かれている。廊下の壁には、炎を思わせる色彩が渦巻く抽象画が掛けられ、どれもがこの屋敷の主の嗜好と権力を無言で誇示していた。
先導する執事は、振り返ることなく奥へと進んでいく。
淸瑞は黒服に挟まれながらその後に続いた。歓迎されているはずなのに、感覚はどこか連行に近い。
やがて、奥まった位置にある重厚な扉の前で執事が立ち止まる。
彼は一拍置き、恭しく扉を開け放った。
その先は、謁見室とも応接室ともつかぬ広間だった。
淸瑞は一度だけ深く息を吸い、胸の内に渦巻く緊張を押し殺すようにして、静かにその中へと足を踏み入れた。
窓一つ存在しないその広間には、過剰とも言えるほど豪奢な装飾灯が等間隔に並び、天井からは巨大なシャンデリアが重々しく吊り下がっている。無数の光は床と壁に反射し、赤と金を基調とした輝きが空間そのものを染め上げていた。
壁面には、まるで炎が這い回るかのような意匠が施されている。静止しているはずの装飾は、揺れる灯りを受けてゆらめき、今にも燃え広がりそうな錯覚を与えた。――ここが「炎華の宮」と呼ばれる理由を、淸瑞は肌で理解する。
その広間の中央。
一段高く設えられた場所に置かれた高背の椅子に、一人の人影が悠然と腰掛けていた。足を組み、指先を肘掛けに預けたその姿は、まるで玉座に座す王そのものだ。
赤胴色の軍服に包まれた巨躯。鍛え抜かれた肉体が布越しにも主張している。顔を覆うヴェネツィアンマスクは、感情の一切を遮断し、ただ異様な威圧感だけを前面に押し出していた。
――朱雀隊四堂。
――閻魔卿、熊野焔冥。
空気が、そこで一段重くなった気がした。
焔冥は淸瑞を値踏みするように見下ろし、低く鼻を鳴らす。その音だけで、場の支配権が完全に彼のものであることが伝わってくる。
「……久しいな、淸瑞。」
地の底から響くような低音が、広間にゆっくりと広がった。
「ごっ……ご無沙汰しております……! 閻魔卿!」
反射的に背筋を伸ばし、淸瑞は声を張る。言葉の端がわずかに震えたのを、自分でも自覚していた。
焔冥の背後には、二つの影が控えている。
朱雀隊八間――
ひとりは、柄の悪さを隠す気すらない藤田寛嗣。鋭い目つきと歪んだ笑みを浮かべ、邪悪な雰囲気を纏う男――通称、永縛。
もうひとりは、感情という概念そのものが抜け落ちたかのような無表情の青年、空夜凪。視線の焦点すら曖昧で、生きているのかどうか判別がつかない――通称、空虚。
三者三様の圧が、焔冥を頂点にして淸瑞へと注がれていた。
逃げ場はない。
ここに立った時点で、淸瑞は炎の中に足を踏み入れてしまったのだ。
「それで?」
焔冥は、前置きも雑談も一切挟まず、淡々と切り出した。
「貴様の掴んだ事実とは、何だ?」
その一言で、淸瑞の喉がひくりと鳴る。
指先がわずかに震えたが、彼はそれを必死に押さえ込み、言葉を絞り出した。
「……えと……わ、私の……士官学校の教師の一人が、その……璃久様に……」
「それは聞いたぞ。」
焔冥は肘をつき、興味を失ったかのように白けた声を返す。
まるで「それ以上のものを出せ」と言外に突きつけるように。
淸瑞の心拍が、一気に跳ね上がった。
「え、ええと……そ、その……話していた内容が……」
舌がもつれる。呼吸が浅くなる。
「……狂風卿を中心とした、謀反計画で……その……閻魔卿が、近いうちに攻めてくると断定し……それを受けて……亡命計画を……」
「――亡命だと?」
焔冥の声が、わずかに低くなる。
その瞬間、広間の空気がさらに張り詰めた。
永縛が口元を歪め、空虚の視線が、初めて淸瑞に定まる。
「……え、ええ!」
淸瑞は反射的に声を張った。
「七年前の……玄武政変の際に……当時、八間だった罌粟須三津が、地上世界へ逃亡した件がありまして……」
焔冥は何も言わない。ただ、聞いている。
「その時に噂された……秘密裏の脱出ルートを……再利用する計画だと……」
言葉を吐くたび、淸瑞の喉は焼けるように痛んだ。
「……粛清される前に、地下を離れ……亡命を……」
「……」
焔冥は沈黙したまま、指先で椅子の肘掛けを軽く叩く。
その微かな音が、やけに大きく響いた。
「……それを主導しているのは……狂風卿……それに、佳人卿、烈火公、海月公……」
淸瑞は息を吸い、続ける。
「……加えて……私が先ほど申し上げた、士官学校の教師の一人……医療関係者……その他……直接、あるいは間接的に……八幡直弥と関わりを持つ一般人らも……協力者として含まれていると……」
そして、最後の一押し。
「……彼らは……ユートピアの、厄災の日以降に荒廃した……H地区にアジトを構え……そこで……亡命計画を……現在進行形で、進めていると……」
言い終えた瞬間、淸瑞の肺から空気が抜け落ちた。
広間に、重い沈黙が落ちる。
焔冥は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙こそが、淸瑞にとって何よりの拷問だった。
「……それで?」
低く、短い問い。
淸瑞は反射的に問い返してしまう。
「……へ?」
「それで、それを知ったお前は――」
焔冥の声に、感情はない。ただ事実を削り出す刃のような冷たさだけがあった。
「どのような対策を取った?
どのように、その計画加担者を粛清するつもりなのだ?」
「え、は……ええと……」
言葉が、出てこない。
考えていなかった。
淸瑞に戦闘経験がないわけではない。かつては前線に立ち、血の匂いの中を生き抜いたこともある。
だが、年齢とともに身体は鈍り、そして厄災の日を境に、彼は戦場から退いた。
それ以降は、立ち回りと人脈だけで生き延びてきた。
誰に取り入ればいいか、どこに頭を下げれば安全か。
常に“より強い側”“より有利な側”を見極め、そこに身を寄せてきた。
自主的に何かを決断し、責任を負ったことなど、ほとんどない。
オリオン隊員としての保証を失ったあと、彼に残ったのは肩書きと――金への執着だけだった。
生きるために、誇りを切り売りし、誰かの傘の下に潜り込む。
虎の威を借る狐。
その自覚は、痛いほどあった。
「……私は……」
淸瑞は、ようやく声を絞り出す。
「……私自身で、粛清を行うつもりは……ありませんでした……」
その瞬間、永縛の口元が歪んだ。
「はァ゙?」
短く、荒い声。
空虚は無言のまま、視線だけを淸瑞に突き刺す。
「……情報を……閻魔卿にお伝えすることが……最善だと……」
言い訳めいた言葉が、喉を滑り落ちる。
「……私一人で動けば……事が漏れる可能性も……それに……」
焔冥は、そこで初めて身じろぎした。
椅子の軋む音が、やけに大きく響く。
「つまり――」
低い声が、淸瑞の言葉を断ち切った。
「貴様は最初から、汚れ仕事を我々に委ねるつもりだった、と?」
淸瑞は弾かれたように顔を上げ、必死に首を振る。
「い、いえ! そのようなことは……!」
「では何だ?」
焔冥の声は一段、落ちる。
「貴様は、我らに虚偽の報告をしたというわけか?」
「嘘……など……!」
「反論するのか?」
焔冥は身じろぎ一つせず、淸瑞を見下ろす。
「――貴様が、我に?」
喉がひくりと鳴る。
息が乱れ、脂汗が首筋を伝った。
「そ、そのようなことは……っ!!」
叫びは、悲鳴に近かった。
「士官学校の生徒が聞けば、さぞ落胆するだろうな」
焔冥は冷ややかに言い捨てる。
「やはり貴様も、脳の腐った玄武の端くれよ」
その瞬間、焔冥は片手を上げた。
合図だった。
直後、背後の扉が荒々しく開かれる。
淸瑞は思わず振り返り、目を見張った。
赤色の軍服に身を包んだ兵士たちが、鈍器を携え、雪崩れ込んでくる。
だが――淸瑞の視線は、その中央に立つ一人に吸い寄せられた。
濃灰色の軍服。
無表情。
片手に握られた、薄いポリ袋。
「し……白伊涼菟……っ!」
名を呼んだ声は、掠れていた。
なぜ、彼がここに。
――理解したくない予感が、背骨を這い上がる。
淸瑞は後ずさり、そのまま尻餅をついた。
床を蹴って逃げようとするが、赤い軍服の壁がそれを許さない。
包囲は、あまりにも早かった。
「ど、どうか……! お許しを!!」
声が裏返る。
「閻魔卿! 閻魔卿ォ゙!!!」
縋るような叫びも、焔冥の耳には届かない。
白伊が、無言で歩み寄ってくる。
その動きに一切の躊躇はなかった。
次の瞬間、淸瑞の頭にポリ袋が被せられる。
「や、やめ――っ!」
暴れた拍子に、白伊の膝が容赦なく鳩尾へ叩き込まれた。
「――ぐっ……!!」
息が、一気に抜ける。
身体が折れ、床にうずくまった隙を逃さず、白伊は慣れた手つきで袋の口を結び上げた。
空気が、薄い。
荒く、浅い呼吸に合わせて、ポリ袋が内側から膨らみ、また萎む。
視界は曇り、輪郭が歪んでいく。
その濁った視界の向こうで――淸瑞は見た。
赤い軍服の兵士たちが、無言のまま鈍器を構え、じりじりと距離を詰めてくるのを。
逃げ場はない。
叫びも、命乞いも、ここにはもう意味を持たない。
炎の裁定は、すでに下されていた。
続く…




