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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
105/113

104話 どっちなんです

 實妥はただ、不安に苛まれていた。


 白伊涼菟が長期の休暇申請と外出許可を提出してから、すでに数日が経つ。

 その間、彼とは一切の連絡が取れていない。


 白伊は元来、社交的な人間ではない。

 ましてや地上世界出身である以上、ユートピアの外に個人的な知己を持つ可能性は極めて低い。そうした関係を築く時間も、環境も、彼には与えられてこなかったはずだ。

 それでも狂風卿の話では、白伊はブリッツツークに搭乗し、ユートピアの外へ向かったという。


 ――嫌な予感が、脳裏を離れない。


 實妥の思考は、否応なく三田沙紀の現状へと引き寄せられる。

 白伊が彼女に好意を抱いていたことには、ずっと以前から気づいていた。普段は感情を表に出さない白伊が、三田と話すときだけは柔らかな表情を見せ、ぎこちないながらも確かに「幸せそう」に笑っていたからだ。


 士官学校では原則として恋愛は禁止されているが、男女間の交流そのものを厳しく制限する校則はない。加えて、三田沙紀の社交的で人懐こい性格もあり、周囲が二人の関係を咎めることはなかった。結果として、彼らは自然な形で親交を深めていった。


 やがて、そこに八幡直弥が加わる。

 当初、白伊は三田の視線が八幡へと移っていくのを、複雑な感情を隠しきれない様子で見つめていた。しかし吉林省事件を境に、白伊の中で何かが変わった。

 彼は、かつて三田に向けていた眼差しを、次第に八幡にも向けるようになった。それは嫉妬ではなく、信用と信頼――あるいは、戦友としての受容だったのだろう。


 だが、その均衡を無惨に打ち砕いたのが、例のシチリア動乱事件だった。


 吉林省事件で負った傷を癒すため、白伊がユートピアに留まっている間に、任務でイタリアへ赴いていた三田沙紀は全身に大火傷を負い、昏睡状態に陥った。そして八幡直弥は魔族化し、彼女を残したまま消息を絶った。


 現在、朱雀隊を中心に世界規模で捜索が行われている。

 無論、その目的は「救出」ではない。討伐対象として、だ。


 朽宮言真もまた、八幡を追うため数日前に姿を消していた。

 彼が八幡を見つけたとき、何をするつもりなのか――實妥には分からない。だが、この不穏な情勢の中で、ある程度の権限を持ち、なおかつ信頼できる上司と呼べる存在は、彼しかいなかった。


 ……白伊涼菟は、あの一連の出来事以降、まるで生気を抜き取られたかのように日常を過ごしていた。

 そして先述の通り、彼はブリッツツークに乗り、行き先も告げぬまま、どこか遠くへと去ってしまった。


 その事実が、實妥の胸に重くのしかかって離れなかった。


「……おい、實妥?」


 はっとして顔を上げる。目の前には杖をついた熊野璃久が立っていた。

 士官学校の訓練場に響く銃声と怒号、その合間を縫うように、彼の低い声が届く。


「え? ああ……すみません。少し、考え事をしていました。」


「おお……そうか。」


 それだけ言って、璃久は再び視線を前へ戻す。

 二人はいま、士官学校の模擬戦を監督する立場として並んで立っていた。戦場を模したフィールドでは、生徒たちが必死に動き回っている。


 ――無論、そこに白伊涼菟の姿はない。三田沙紀も、八幡直弥も。


「おいおい、そこはもうちょい踏み込めただろ……ああ、C班の回り込みは悪くないな。ただ、部屋突入時のクリアリングの射角が甘い。挟撃も警戒しないと。」


 璃久は淡々と、しかし的確に戦況を分析していく。

 声色はいつも通りで、何一つ変わらない。まるで欠けたピースなど最初から存在しなかったかのように。


 實妥は、その横顔をじっと見つめていた。


 最近、彼をどこまで信用していいのか、分からなくなってきている。


 熊野璃久は、現朱雀隊四堂・熊野焔冥の次男だ。

 その血筋を、彼自身が誰よりも忌み嫌っていることは知っている。厄災の日の直後、璃久は他の弟妹たちと共にベンサレムを離れ、ユートピアへ逃れた。


 同じ厄災の日に両親を失い、行き場をなくしていた自身に手を差し伸べたのも、他ならぬ璃久だった。

「自分が家を空けている間、弟妹の面倒を見ること」――その条件付きではあったが、衣食住を与えられ、居場所を用意してくれた。


 感謝してもしきれない。

 その思いは、今も昔も変わらない。


 当時の璃久に、金も余裕もなかったことは明白だ。それでもなお、自分を見捨てなかった。その事実だけで、實妥は今でも頭が上がらない。


 實妥自身、彼を信頼したい気持ちは十二分にある。

 だが――。


 現状は、あまりにもきな臭い。

 朽宮言真を筆頭とする八幡直弥擁護派として、朱雀隊や青龍隊から露骨に白い目を向けられているこの状況で、熊野の血を引く璃久の存在を、完全に無視することはできなかった。


 疑心暗鬼が、じわじわと心を蝕んでいく。


 それを決定的に加速させたのが、ベンサレムで朱雀隊による軍事パレードが開催されたという報だ。

 どう考えても、あれは「こちら側」への圧力示威に他ならない。


 事実、映像の中では未公表の新型兵装がいくつも確認できた。

 性能も用途も伏せられたまま、ただ誇示するように並べられた兵器群。


 ――あれは、警告だ。


 實妥はそう直感していた。

 そして、その警告の矛先が誰に向けられているのかも。


 再び視線を戻すと、璃久は変わらぬ調子で模擬戦を見つめ、淡々と指示を飛ばしている。

 その姿は、あまりにもいつも通りで。


 だからこそ、實妥の胸には、拭いきれない不安が残り続けていた。



 ***



 模擬戦が終わり、實妥はひと足先に休憩へ入った。


 士官学校の一角に設けられたビオトープ。その水面は不自然なほど静かで、人工的に配置された水草が、作り物の自然であることを主張している。實妥はそのほとりに腰を下ろし、一本だけ、と自分に言い訳するようにタバコを咥えた。


 長らく禁煙していた。

 だが日々積み重なる神経の摩耗が、結局その誓いを破らせた。


 火を点け、浅く吸う。


 ――やはり、味気ない。


 煙は肺に入る前から軽く、舌に残るのは苦味とも違う、ただの空虚だった。吸い始めたこと自体が良くないのは分かっている。それでも、以前のように「うまい」と感じた瞬間は、一度として訪れなかった。


 紫煙を吐くたび、どうしても“今”が頭をよぎる。

 過去でも未来でもない、どうにもならない現在。


 實妥はゆっくりと視線を落とし、水面に映る自分の影を見つめた。揺らぎもしないその像が、逆に息苦しい。


 行き詰まり感が、胸の奥に澱のように溜まっていく。

 吐き出した煙のように、簡単に消えてくれればいいのに――そんなことを思いながら、彼はもう一度だけ、意味のない一服をした。


「――ヤニは吸わないって言ってなかったか?實妥」


 背後から投げられた声に、實妥は肩を揺らすこともなく、ただ煙を吐いた。振り返る必要はなかった。声の主が誰か、分かりきっている。


 璃久は咎めるでもなく、杖をつきながらも自然な動作で實妥の隣に腰を下ろした。そして懐からタバコを取り出し、一本だけ指に挟む。


 實妥は視線を上げぬまま、さっとライターを差し出した。

 璃久は一瞬だけ目を瞬かせ、意外そうにその手元を見たが、


「……悪いな」


 短くそう言って、火を受け取る。


 小さな炎が揺れ、先端が赤く灯る。

 またひとつ、煙が空へ昇った。


 しばらく、言葉はなかった。

 水面のかすかな音と、風に散る紫煙だけが、その沈黙を埋めている。


 實妥はゆっくりと息を吐き、煙と一緒に言葉を零した。


「……璃久さんは、授業とか大丈夫なんすか」


「え? …ああ、俺が持ってる次の授業は午後からだからな。問題ない」


 そう言ってから、璃久はちらりと横目で實妥を見る。


「……お前の方こそ、大丈夫か?」


 實妥は苦笑ともつかない表情で、タバコを指先で回した。


「大丈夫……ではないです。ほんとは、さっきの模擬戦で成績不十分だったやつの補習、見なきゃいけないんですが」


 一拍置いて、視線を落とす。


「……後輩に、任せちゃいました」


 璃久は少しだけ間を置き、煙を吐く。その横顔は、責める色も諭す色もなかった。


「……まあ」


 短くそう前置きしてから、


「聞かなかったことにしとくわ」


 それだけ言って、再びタバコに口を付けた。


「……最近どうしたんだ、お前。鬼教官がしていい顔じゃねぇぞ。」


「鬼教官って…やめてくださいよ。璃久さんに比べたらまだ優しい方です。」 


「よく言う。お前が前、八幡にしてた特訓聞いたぞ。周りが引くぐらい過酷だったらしいな。」


「…」


 實妥は押し黙る。反論できない事実なのには変わりないが、理由は他にあった。

 言うまでもない。八幡直弥という名は、今の實妥にとってあまりにもセンシティブだった。

 口にされただけで、胸の奥がきしむ。


「……なるほどな。」


 璃久は實妥の表情から察したのか、紫煙を吐きながらそういった。


「八幡たちのことか。お前が最近元気ない理由。」


 半分正解、半分不正解といったところだろう。


 璃久は狂風卿が言っていたように、秘密基地や亡命の計画を知らない。

 理由は先述した通り、熊野の血をわけた者に言う危険性を鑑みてのことだ。同じ理由で、佳人卿を心の底から慕っている血沼亜沙実――豊麗公もまた、その計画の外にいる。


 實妥の精神を蝕んでいる理由の半分は、璃久の言う通り、八幡たちの存在だ。

 だが、もう半分はあの計画そのものだった。


 玄武政変で囁かれた、真偽すら定かでない噂話。

 空事のような情報をただ信じ、脱出ルートを探る行為が、どうしても現実的とは思えなかった。


 藁にも縋る思いなのは、實妥も同じだ。

 だが、八方塞がりであるという感覚だけは、どうしても拭えない。


 璃久は、そんな内情を知る由もなく、灰を落としながら言葉を続けた。


「俺だって同じだ」


 淡々とした声だったが、その奥に沈んだものがあった。


「むしろ、シチリア動乱事件に同行した俺のほうが重いかもしれねぇ。あいつらを――守れなかった。その後悔なんて、今も底が見えねぇよ。……だからって、お前の苦しみと比べる気は毛頭ないがな」


 灰皿に短く音を立て、彼は小さく息を吐いた。


「……俺な。あの事件で、最上シアの刺客に狙われた。柏谷の野郎と一緒にな」


 實妥は思わず顔を上げる。

 璃久が入院していた事実は知っていた。だが、その理由までは知らされていない。


「双子の魔族だった。無制限に分身を生み出す厄介な手合いでな。数じゃねぇ、質も最悪だ。全部が同じ強さで、同じ判断力を持ってる。しかも一体一体が独立した意思で動く」


 璃久は、過去をなぞるように視線を落とす。


「気がついた時には、四方から囲まれてた。背中を何度もやられて、正直……死ぬと思ったよ」


 一瞬、言葉が切れた。


「それに――その前だ。柏谷と、仲間割れしちまってな」


 自嘲するように、かすかに口角が歪む。


「その時に左脚をやっちまった。今こうして杖をついてるのは、そのせいだ」


 璃久は自分の左脚に目を落とす。

 服の裾の奥、包帯の存在が否応なく現実を主張していた。


「……本当に、悪いと思ってる」


 低く、絞り出すような声だった。


「俺は弱い。力も、判断も、人間性も……全部だ。その弱さが、三田の今を招いた。そう言われても、否定できねぇ」


 ゆっくりと顔を上げ、實妥を見る。


「一番謝るべき相手が、あいつと八幡だってことも分かってる。謝って済む話じゃねぇってこともな」


 それでも、と前置きするように、彼は言葉を続けた。


「……だがな。俺はお前にも謝りたい」


 頭を下げるわけでもなく、ただ真っ直ぐに。


「本当にすまなかった。許せないなら殴れ。なんなら病院送りにしてくれても構わない」


 紫煙が静かに風に流れる。


「それぐらいは、俺自身への罰として受ける覚悟はある」


 實妥は、しばらく何も言えなかった。

 握ったタバコが、指の間でくしゃりと歪む。


「……璃久さん」


 低く、押し殺した声。


「殴れって言われて、殴れるほど……俺は、あなたを憎めていません。」


 顔を伏せたまま、続ける。


「今でも感謝してます。あの時、俺を拾ってくれなかったら、たぶん俺はとっくにどこかで折れてた」


 一瞬だけ、言葉に詰まる。


「だからこそ……あなたを信用していいのか、疑ってる自分が、一番嫌なんです」


 實妥は立ち上がり、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。


「……殴る代わりに、聞かせてください」


 視線を上げ、まっすぐに璃久を見る。


「璃久さんは――これから、どっち側に立つつもりなんですか」


「…どっち側…ってのは?」


 言うべきではないことであることは、實妥にも分かっていた。

 狂風卿の考えは十二分に理解できる。本来なら彼を警戒すべきだ。


 それでも。

 もう、隠し通せるほど實妥の精神は余裕を保っていなかった。


 彼は語った。

 秘密基地の存在を。

 亡命と脱出を前提とした計画を。

 玄武政変の噂と、それに賭けるしかない現状を。


 璃久は途中で遮ることも、否定することもなく、ただ黙って聞き続けた。

 驚愕は浮かべていたが、怒りも嘲笑もない。


 すべてを語り終え、實妥は息を吐く。


「――これを聞いたうえで」


 声はわずかに掠れていた。


「あなたは、あなたの父親につくのか。それとも……俺たちにつくのか。どっちなんです」


 沈黙。

 璃久はゆっくりとタバコを灰皿に押し付け、完全に火を消した。


「……正直な話をするぞ」


 低く、腹の底から絞り出すような声。


「俺は、どっちにも全面的には賛同できない」


 視線を伏せたまま、言葉を選ぶ。


「裏切り者や邪魔者を、容赦なく排除する親父のやり方には、根っから反対だ。あれは正義じゃない。恐怖政治だ」


 一拍。


「だがな……何を考えてるのか分からない狂風卿に、理由も知らされず黙って従うのも、正直言って御免だ。いつ無慈悲に切り捨てられるか分かったもんじゃない」


 彼は苦く笑う。


「佳人卿だって、本心から従ってるとは思えない。渋々、だろうな」


 そこで、璃久は顔を上げた。


「……なあ、實妥」


 真正面から、その目を見る。


「もし――もしも、だ。親父がユートピアに軍を向けるような事態になったら」


 一瞬、言葉を噛みしめる。


「俺が、必ず引き止める」


 断言だった。


「兄貴が厄災の日に死んでから、親父は俺に家督を継げって言い続けてる。その条件があったから、俺はユートピアに移れた」


 自嘲気味に息を吐く。


「無闇に俺の命を狙うことはしない……たぶん、な。少なくとも、俺の話を聞く余地は残してるだろう。」


 拳を握りしめる。


「だから、俺が直に親父に訴える。無意味な衝突はするなって。力で押すなって」


 そして、聲を落とした。


「……だから、せめてお前だけでも、その賭けから手を引け。それは、引き返せなくなる類の賭けだ」


 懇願に近い声音だった。


「八幡や三田も守れず、お前まで失うのは……正直、耐えられない。」


 風が吹き、ビオトープの水面が揺れる。

 實妥は黙ったまま、その波紋を見つめていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……璃久さん」


 声は震えていない。


「俺が怖いのは、死ぬことじゃないです」


 顔を上げる。


「何もせずに、誰かを失うことを他人事のように思うことです。」


 それだけを言い残し、實妥はゆっくりと踵を返した。

 背後で、璃久が何かを言いかけた気配がしたが――彼は振り返らなかった。



 ***



 その一連のやり取りを、物陰から見つめていた者が一人いた。


 男は静かにその場を離れると、懐から携帯端末を取り出し、迷いのない手つきで発信する。

 数コールの後、電話口から響いたのは、威圧感を孕んだ厳かな男の声だった。


『……なんだ』


「と、突然のご連絡、失礼いたします。閻魔卿」


 電話口の男――熊野焔冥は、低く、感情を感じさせない声で応じる。


『仕事は果たしておるのだろうな?』


「は、はい……それは、もちろん……」


 男の声は微かに震えていた。

 本来なら、彼自身もまた、焔冥に命を狙われていて不思議ではない立場にある。


『――それで?わざわざ我に電話を寄越したのだ。相応の理由があるのであろう』


「ええ……つい先ほど、教員の一人が、璃久……様に、いくつかの事実を打ち明けているのを確認しました」


 息を整え、続ける。


「狂風卿を中心とした……謀反の疑い。そして……彼らが拠点としている、アジトの存在も……」


『ほう』


 焔冥は、わずかに愉快そうな声音で呟いた。


『貴様はただの老いぼれと侮っておったが……なかなかやりおるな』


 一拍置き、冷ややかに言い放つ。


『まあよい。詳しい話は、直接会って聞こうぞ』


「……は、はい……承知しました……」


 電話を切る直前、焔冥は低く言い残す。


『期待しておるぞ……玄武士官学校学長、淸瑞刈逓』


 通話は、無機質な切断音とともに終わった。


 淸瑞は震える手で端末を懐へしまい込み、足早にビオトープから立ち去る。

 その背中には、重く張り付くような罪悪感があった。


「……すまないな……實妥くん……」


 その呟きは、水面を渡る風に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。


 続く…

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