104話 どっちなんです
實妥はただ、不安に苛まれていた。
白伊涼菟が長期の休暇申請と外出許可を提出してから、すでに数日が経つ。
その間、彼とは一切の連絡が取れていない。
白伊は元来、社交的な人間ではない。
ましてや地上世界出身である以上、ユートピアの外に個人的な知己を持つ可能性は極めて低い。そうした関係を築く時間も、環境も、彼には与えられてこなかったはずだ。
それでも狂風卿の話では、白伊はブリッツツークに搭乗し、ユートピアの外へ向かったという。
――嫌な予感が、脳裏を離れない。
實妥の思考は、否応なく三田沙紀の現状へと引き寄せられる。
白伊が彼女に好意を抱いていたことには、ずっと以前から気づいていた。普段は感情を表に出さない白伊が、三田と話すときだけは柔らかな表情を見せ、ぎこちないながらも確かに「幸せそう」に笑っていたからだ。
士官学校では原則として恋愛は禁止されているが、男女間の交流そのものを厳しく制限する校則はない。加えて、三田沙紀の社交的で人懐こい性格もあり、周囲が二人の関係を咎めることはなかった。結果として、彼らは自然な形で親交を深めていった。
やがて、そこに八幡直弥が加わる。
当初、白伊は三田の視線が八幡へと移っていくのを、複雑な感情を隠しきれない様子で見つめていた。しかし吉林省事件を境に、白伊の中で何かが変わった。
彼は、かつて三田に向けていた眼差しを、次第に八幡にも向けるようになった。それは嫉妬ではなく、信用と信頼――あるいは、戦友としての受容だったのだろう。
だが、その均衡を無惨に打ち砕いたのが、例のシチリア動乱事件だった。
吉林省事件で負った傷を癒すため、白伊がユートピアに留まっている間に、任務でイタリアへ赴いていた三田沙紀は全身に大火傷を負い、昏睡状態に陥った。そして八幡直弥は魔族化し、彼女を残したまま消息を絶った。
現在、朱雀隊を中心に世界規模で捜索が行われている。
無論、その目的は「救出」ではない。討伐対象として、だ。
朽宮言真もまた、八幡を追うため数日前に姿を消していた。
彼が八幡を見つけたとき、何をするつもりなのか――實妥には分からない。だが、この不穏な情勢の中で、ある程度の権限を持ち、なおかつ信頼できる上司と呼べる存在は、彼しかいなかった。
……白伊涼菟は、あの一連の出来事以降、まるで生気を抜き取られたかのように日常を過ごしていた。
そして先述の通り、彼はブリッツツークに乗り、行き先も告げぬまま、どこか遠くへと去ってしまった。
その事実が、實妥の胸に重くのしかかって離れなかった。
「……おい、實妥?」
はっとして顔を上げる。目の前には杖をついた熊野璃久が立っていた。
士官学校の訓練場に響く銃声と怒号、その合間を縫うように、彼の低い声が届く。
「え? ああ……すみません。少し、考え事をしていました。」
「おお……そうか。」
それだけ言って、璃久は再び視線を前へ戻す。
二人はいま、士官学校の模擬戦を監督する立場として並んで立っていた。戦場を模したフィールドでは、生徒たちが必死に動き回っている。
――無論、そこに白伊涼菟の姿はない。三田沙紀も、八幡直弥も。
「おいおい、そこはもうちょい踏み込めただろ……ああ、C班の回り込みは悪くないな。ただ、部屋突入時のクリアリングの射角が甘い。挟撃も警戒しないと。」
璃久は淡々と、しかし的確に戦況を分析していく。
声色はいつも通りで、何一つ変わらない。まるで欠けたピースなど最初から存在しなかったかのように。
實妥は、その横顔をじっと見つめていた。
最近、彼をどこまで信用していいのか、分からなくなってきている。
熊野璃久は、現朱雀隊四堂・熊野焔冥の次男だ。
その血筋を、彼自身が誰よりも忌み嫌っていることは知っている。厄災の日の直後、璃久は他の弟妹たちと共にベンサレムを離れ、ユートピアへ逃れた。
同じ厄災の日に両親を失い、行き場をなくしていた自身に手を差し伸べたのも、他ならぬ璃久だった。
「自分が家を空けている間、弟妹の面倒を見ること」――その条件付きではあったが、衣食住を与えられ、居場所を用意してくれた。
感謝してもしきれない。
その思いは、今も昔も変わらない。
当時の璃久に、金も余裕もなかったことは明白だ。それでもなお、自分を見捨てなかった。その事実だけで、實妥は今でも頭が上がらない。
實妥自身、彼を信頼したい気持ちは十二分にある。
だが――。
現状は、あまりにもきな臭い。
朽宮言真を筆頭とする八幡直弥擁護派として、朱雀隊や青龍隊から露骨に白い目を向けられているこの状況で、熊野の血を引く璃久の存在を、完全に無視することはできなかった。
疑心暗鬼が、じわじわと心を蝕んでいく。
それを決定的に加速させたのが、ベンサレムで朱雀隊による軍事パレードが開催されたという報だ。
どう考えても、あれは「こちら側」への圧力示威に他ならない。
事実、映像の中では未公表の新型兵装がいくつも確認できた。
性能も用途も伏せられたまま、ただ誇示するように並べられた兵器群。
――あれは、警告だ。
實妥はそう直感していた。
そして、その警告の矛先が誰に向けられているのかも。
再び視線を戻すと、璃久は変わらぬ調子で模擬戦を見つめ、淡々と指示を飛ばしている。
その姿は、あまりにもいつも通りで。
だからこそ、實妥の胸には、拭いきれない不安が残り続けていた。
***
模擬戦が終わり、實妥はひと足先に休憩へ入った。
士官学校の一角に設けられたビオトープ。その水面は不自然なほど静かで、人工的に配置された水草が、作り物の自然であることを主張している。實妥はそのほとりに腰を下ろし、一本だけ、と自分に言い訳するようにタバコを咥えた。
長らく禁煙していた。
だが日々積み重なる神経の摩耗が、結局その誓いを破らせた。
火を点け、浅く吸う。
――やはり、味気ない。
煙は肺に入る前から軽く、舌に残るのは苦味とも違う、ただの空虚だった。吸い始めたこと自体が良くないのは分かっている。それでも、以前のように「うまい」と感じた瞬間は、一度として訪れなかった。
紫煙を吐くたび、どうしても“今”が頭をよぎる。
過去でも未来でもない、どうにもならない現在。
實妥はゆっくりと視線を落とし、水面に映る自分の影を見つめた。揺らぎもしないその像が、逆に息苦しい。
行き詰まり感が、胸の奥に澱のように溜まっていく。
吐き出した煙のように、簡単に消えてくれればいいのに――そんなことを思いながら、彼はもう一度だけ、意味のない一服をした。
「――ヤニは吸わないって言ってなかったか?實妥」
背後から投げられた声に、實妥は肩を揺らすこともなく、ただ煙を吐いた。振り返る必要はなかった。声の主が誰か、分かりきっている。
璃久は咎めるでもなく、杖をつきながらも自然な動作で實妥の隣に腰を下ろした。そして懐からタバコを取り出し、一本だけ指に挟む。
實妥は視線を上げぬまま、さっとライターを差し出した。
璃久は一瞬だけ目を瞬かせ、意外そうにその手元を見たが、
「……悪いな」
短くそう言って、火を受け取る。
小さな炎が揺れ、先端が赤く灯る。
またひとつ、煙が空へ昇った。
しばらく、言葉はなかった。
水面のかすかな音と、風に散る紫煙だけが、その沈黙を埋めている。
實妥はゆっくりと息を吐き、煙と一緒に言葉を零した。
「……璃久さんは、授業とか大丈夫なんすか」
「え? …ああ、俺が持ってる次の授業は午後からだからな。問題ない」
そう言ってから、璃久はちらりと横目で實妥を見る。
「……お前の方こそ、大丈夫か?」
實妥は苦笑ともつかない表情で、タバコを指先で回した。
「大丈夫……ではないです。ほんとは、さっきの模擬戦で成績不十分だったやつの補習、見なきゃいけないんですが」
一拍置いて、視線を落とす。
「……後輩に、任せちゃいました」
璃久は少しだけ間を置き、煙を吐く。その横顔は、責める色も諭す色もなかった。
「……まあ」
短くそう前置きしてから、
「聞かなかったことにしとくわ」
それだけ言って、再びタバコに口を付けた。
「……最近どうしたんだ、お前。鬼教官がしていい顔じゃねぇぞ。」
「鬼教官って…やめてくださいよ。璃久さんに比べたらまだ優しい方です。」
「よく言う。お前が前、八幡にしてた特訓聞いたぞ。周りが引くぐらい過酷だったらしいな。」
「…」
實妥は押し黙る。反論できない事実なのには変わりないが、理由は他にあった。
言うまでもない。八幡直弥という名は、今の實妥にとってあまりにもセンシティブだった。
口にされただけで、胸の奥がきしむ。
「……なるほどな。」
璃久は實妥の表情から察したのか、紫煙を吐きながらそういった。
「八幡たちのことか。お前が最近元気ない理由。」
半分正解、半分不正解といったところだろう。
璃久は狂風卿が言っていたように、秘密基地や亡命の計画を知らない。
理由は先述した通り、熊野の血をわけた者に言う危険性を鑑みてのことだ。同じ理由で、佳人卿を心の底から慕っている血沼亜沙実――豊麗公もまた、その計画の外にいる。
實妥の精神を蝕んでいる理由の半分は、璃久の言う通り、八幡たちの存在だ。
だが、もう半分はあの計画そのものだった。
玄武政変で囁かれた、真偽すら定かでない噂話。
空事のような情報をただ信じ、脱出ルートを探る行為が、どうしても現実的とは思えなかった。
藁にも縋る思いなのは、實妥も同じだ。
だが、八方塞がりであるという感覚だけは、どうしても拭えない。
璃久は、そんな内情を知る由もなく、灰を落としながら言葉を続けた。
「俺だって同じだ」
淡々とした声だったが、その奥に沈んだものがあった。
「むしろ、シチリア動乱事件に同行した俺のほうが重いかもしれねぇ。あいつらを――守れなかった。その後悔なんて、今も底が見えねぇよ。……だからって、お前の苦しみと比べる気は毛頭ないがな」
灰皿に短く音を立て、彼は小さく息を吐いた。
「……俺な。あの事件で、最上シアの刺客に狙われた。柏谷の野郎と一緒にな」
實妥は思わず顔を上げる。
璃久が入院していた事実は知っていた。だが、その理由までは知らされていない。
「双子の魔族だった。無制限に分身を生み出す厄介な手合いでな。数じゃねぇ、質も最悪だ。全部が同じ強さで、同じ判断力を持ってる。しかも一体一体が独立した意思で動く」
璃久は、過去をなぞるように視線を落とす。
「気がついた時には、四方から囲まれてた。背中を何度もやられて、正直……死ぬと思ったよ」
一瞬、言葉が切れた。
「それに――その前だ。柏谷と、仲間割れしちまってな」
自嘲するように、かすかに口角が歪む。
「その時に左脚をやっちまった。今こうして杖をついてるのは、そのせいだ」
璃久は自分の左脚に目を落とす。
服の裾の奥、包帯の存在が否応なく現実を主張していた。
「……本当に、悪いと思ってる」
低く、絞り出すような声だった。
「俺は弱い。力も、判断も、人間性も……全部だ。その弱さが、三田の今を招いた。そう言われても、否定できねぇ」
ゆっくりと顔を上げ、實妥を見る。
「一番謝るべき相手が、あいつと八幡だってことも分かってる。謝って済む話じゃねぇってこともな」
それでも、と前置きするように、彼は言葉を続けた。
「……だがな。俺はお前にも謝りたい」
頭を下げるわけでもなく、ただ真っ直ぐに。
「本当にすまなかった。許せないなら殴れ。なんなら病院送りにしてくれても構わない」
紫煙が静かに風に流れる。
「それぐらいは、俺自身への罰として受ける覚悟はある」
實妥は、しばらく何も言えなかった。
握ったタバコが、指の間でくしゃりと歪む。
「……璃久さん」
低く、押し殺した声。
「殴れって言われて、殴れるほど……俺は、あなたを憎めていません。」
顔を伏せたまま、続ける。
「今でも感謝してます。あの時、俺を拾ってくれなかったら、たぶん俺はとっくにどこかで折れてた」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「だからこそ……あなたを信用していいのか、疑ってる自分が、一番嫌なんです」
實妥は立ち上がり、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。
「……殴る代わりに、聞かせてください」
視線を上げ、まっすぐに璃久を見る。
「璃久さんは――これから、どっち側に立つつもりなんですか」
「…どっち側…ってのは?」
言うべきではないことであることは、實妥にも分かっていた。
狂風卿の考えは十二分に理解できる。本来なら彼を警戒すべきだ。
それでも。
もう、隠し通せるほど實妥の精神は余裕を保っていなかった。
彼は語った。
秘密基地の存在を。
亡命と脱出を前提とした計画を。
玄武政変の噂と、それに賭けるしかない現状を。
璃久は途中で遮ることも、否定することもなく、ただ黙って聞き続けた。
驚愕は浮かべていたが、怒りも嘲笑もない。
すべてを語り終え、實妥は息を吐く。
「――これを聞いたうえで」
声はわずかに掠れていた。
「あなたは、あなたの父親につくのか。それとも……俺たちにつくのか。どっちなんです」
沈黙。
璃久はゆっくりとタバコを灰皿に押し付け、完全に火を消した。
「……正直な話をするぞ」
低く、腹の底から絞り出すような声。
「俺は、どっちにも全面的には賛同できない」
視線を伏せたまま、言葉を選ぶ。
「裏切り者や邪魔者を、容赦なく排除する親父のやり方には、根っから反対だ。あれは正義じゃない。恐怖政治だ」
一拍。
「だがな……何を考えてるのか分からない狂風卿に、理由も知らされず黙って従うのも、正直言って御免だ。いつ無慈悲に切り捨てられるか分かったもんじゃない」
彼は苦く笑う。
「佳人卿だって、本心から従ってるとは思えない。渋々、だろうな」
そこで、璃久は顔を上げた。
「……なあ、實妥」
真正面から、その目を見る。
「もし――もしも、だ。親父がユートピアに軍を向けるような事態になったら」
一瞬、言葉を噛みしめる。
「俺が、必ず引き止める」
断言だった。
「兄貴が厄災の日に死んでから、親父は俺に家督を継げって言い続けてる。その条件があったから、俺はユートピアに移れた」
自嘲気味に息を吐く。
「無闇に俺の命を狙うことはしない……たぶん、な。少なくとも、俺の話を聞く余地は残してるだろう。」
拳を握りしめる。
「だから、俺が直に親父に訴える。無意味な衝突はするなって。力で押すなって」
そして、聲を落とした。
「……だから、せめてお前だけでも、その賭けから手を引け。それは、引き返せなくなる類の賭けだ」
懇願に近い声音だった。
「八幡や三田も守れず、お前まで失うのは……正直、耐えられない。」
風が吹き、ビオトープの水面が揺れる。
實妥は黙ったまま、その波紋を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……璃久さん」
声は震えていない。
「俺が怖いのは、死ぬことじゃないです」
顔を上げる。
「何もせずに、誰かを失うことを他人事のように思うことです。」
それだけを言い残し、實妥はゆっくりと踵を返した。
背後で、璃久が何かを言いかけた気配がしたが――彼は振り返らなかった。
***
その一連のやり取りを、物陰から見つめていた者が一人いた。
男は静かにその場を離れると、懐から携帯端末を取り出し、迷いのない手つきで発信する。
数コールの後、電話口から響いたのは、威圧感を孕んだ厳かな男の声だった。
『……なんだ』
「と、突然のご連絡、失礼いたします。閻魔卿」
電話口の男――熊野焔冥は、低く、感情を感じさせない声で応じる。
『仕事は果たしておるのだろうな?』
「は、はい……それは、もちろん……」
男の声は微かに震えていた。
本来なら、彼自身もまた、焔冥に命を狙われていて不思議ではない立場にある。
『――それで?わざわざ我に電話を寄越したのだ。相応の理由があるのであろう』
「ええ……つい先ほど、教員の一人が、璃久……様に、いくつかの事実を打ち明けているのを確認しました」
息を整え、続ける。
「狂風卿を中心とした……謀反の疑い。そして……彼らが拠点としている、アジトの存在も……」
『ほう』
焔冥は、わずかに愉快そうな声音で呟いた。
『貴様はただの老いぼれと侮っておったが……なかなかやりおるな』
一拍置き、冷ややかに言い放つ。
『まあよい。詳しい話は、直接会って聞こうぞ』
「……は、はい……承知しました……」
電話を切る直前、焔冥は低く言い残す。
『期待しておるぞ……玄武士官学校学長、淸瑞刈逓』
通話は、無機質な切断音とともに終わった。
淸瑞は震える手で端末を懐へしまい込み、足早にビオトープから立ち去る。
その背中には、重く張り付くような罪悪感があった。
「……すまないな……實妥くん……」
その呟きは、水面を渡る風に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。
続く…




