102話 面白ぇ女
「ボス。」
G地区地下の闇市を一望できる執務室。その重厚な扉をノックすることもなく、一人の男が足を踏み入れた。
黒髪のオールバック。体に吸い付くように仕立てられたスーツ。その左の口角から耳元へと走る一本の傷痕が、彼の過去を無言のまま誇示している。服の上からでも分かるほど、肉体は無駄なく鍛え抜かれていた。
ボスと呼ばれた男は、男の存在を一瞥しただけで興味を失ったように視線を逸らすと、机の上に無遠慮に両脚を投げ出した。
金色のジッポーライターが軽やかな金属音を立て、葉巻の先に火が灯る。甘く重い煙が、ゆっくりと室内に広がっていった。
その代わりに口を開いたのは、脇のソファに深く腰掛けていた側近の一人だった。
金髪を撫でつけ、金色のグラスコードを揺らした眼鏡の青年が、からかうような声音で言う。
「ああ? ボスは今忙しいんだよ。後にしてくんね?」
男は一切表情を変えず、低く告げる。
「急ぎの用件です。放置すべきではないと判断しました」
「だーかーらーぁ、忙しいっつってんじゃん。」
青年は大げさに肩を竦め、指先で眼鏡のフレームを弾いた。軽薄な仕草とは裏腹に、その声音と視線には――逆らうなという、露骨で冷たい圧が滲んでいる。
「ですが――」
言い終えるより早く、黒髪の男の頬を何かが掠めた。
一瞬遅れて、金属音。
ナイフが、背後の壁へと深々と突き刺さっていた。
金髪の男は、自分の投げたそれが狙い通りの位置に収まったのを満足げに一瞥すると、今度は残りのナイフを数本、指の間に器用に挟み込む。冷え切った瞳で、黒髪の男を見据えた。
「いい加減理解しなよぉ。ボスは、お前に、興味ないの。……分かる?」
空気が張り詰める。
黒髪の男は一歩も退かず、ただ沈黙したままその視線を受け止めていた。
「――柄本。」
低く、抑揚のない声が割って入る。
そこでようやく、ボスと呼ばれた男が口を開いた。
「この部屋に凶器は持ち込むなと、前にも注意したはずだが?」
柄本は一瞬だけ肩をすくめ、軽い調子で笑った。
「ああ〜、そうでしたっけ。申し訳ねぇっす。」
「……いい加減、罰を与えるぞ。柄本。」
「……はーい。」
不服そうに唇を歪めながらも、柄本はナイフを懐へと仕舞い込む。
その様子を眺めていた幹部の一人、長い髪を無造作に垂らした女が、愉快そうに笑った。
「やーい、怒られてやんの。」
「うるせぇ〜、弥勒耶。お前も前に、碁琵の息子逆レイプして怒られてたじゃねぇか。」
弥勒耶は肩をすくめ、悪びれる様子もなく言い放った。
「別にいいでしょ。どうせ碁琵一家とか処刑目前だったし。……どうせなら、顔の良いガキくらい味わっとかないと。」
「確かにな。しかも家族の目の前でヤったんだろ?」
柄本が下卑た笑みを浮かべ、思い出すように舌打ちする。
「終わったあとも酷かったらしいじゃねぇか。母親は声が枯れるまで泣き叫んで、そんで結局目ん玉も希望も潰されたとか。」
「綺麗な顔だったからさ。」
弥勒耶は淡々と続ける。
「壊すなら、ちゃんと価値のある部分から残したくてね。あ、あと目だけじゃないよ。乳削ぎ落として腹切って子宮丸ごと引きずり出してやった。……まあ、女の身体の一部とかコレクションにもならないし、残したところで意味ないんだけど。」
二人は顔を見合わせ、堪えきれないといった様子で笑い声を漏らした。
乾いた、理性の欠片もない笑いだった。
一般人が聞けば、即座に吐き気を催すような内容。
だが、黒髪の男は微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。
眉一つ動かさず、視線すら逸らさない。
その異様な平静さに、ボスは興味を惹かれたらしい。
葉巻をゆっくりと吸い、紫煙の奥から黒髪の男を値踏みするように見つめる。
「……お前」
低く、腹の底に響く声。
「名は、なんて言う。」
黒髪の男は一拍置き、静かに答えた。
「——後藤大昌です。今は第三入口付近の闇市のシマの管轄長をしています。」
ボスの目が、わずかに細くなる。
「…ほう。後藤、か。…いいだろう。興味が湧いてきた。一体何のようだ。」
「はい。数十分前、部下の数名がある女を私怨で襲ったそうなのですが、即時に無力化されました。」
「それで?」
「その女の名は日下部純麗。本人曰くG地区に住んでいるとのことですが…彼女の戸籍は、一見したところ見当たりませんでした。ここの世界にいる以上複雑な理由があるのかも知れませんが…それでは説明のつかないことがありまして…」
室内の空気が、ぴたりと凍りつく。
柄本が笑みを消し、弥勒耶が興味深そうに口角を上げた。
「……ほう?」
ボスは葉巻の灰を落とし、静かに言った。
「続けろ。」
黒髪の男は頷く。
「その女は、闇市のど真ん中で、騒ぎも血も出さずに部下を気絶させたのです。目撃者曰く――見えなかったと。」
その言葉に、ボスは初めて、はっきりと笑った。
「……面白い。」
低く、喉の奥で鳴るような笑みだった。
ボスは葉巻を唇から外し、指先で軽く振って灰を落とす。その仕草ひとつで、室内の視線が自然と彼に集まった。
「目撃者ってのは?」
「はい。二名の目撃情報です。いずれもクラン末端の運び屋で、虚偽を述べる理由はありません。」
「人術の線は?」
ボスの問いに、後藤は即座に首を横に振った。
「詠唱の痕跡は確認されていません。気配の乱れも、術式反応も無し。……少なくとも、我々の知る人術では説明がつきません。」
一瞬の沈黙。
その沈黙を破ったのは、柄本だった。
「へぇ……じゃあ何だよ。化け物か?」
軽口のようでいて、そこに含まれる警戒は本物だった。
弥勒耶は顎に指を当て、楽しげに目を細める。
「戸籍なし、来歴不明、瞬間制圧……ふふ……中々面白い女だわ。」
その言葉に、ボスはゆっくりと頷いた。
「俺もそう思う。」
椅子から身を起こし、机に両肘をつく。
「後藤。その女は今、どこにいる。」
「……闘技場へ向かったと、部下から。」
「自分からか?」
「はい。チケットも正規のものを所持していました。」
ボスの口角が、わずかに吊り上がる。
「なるほど。肝も据わっている、と。」
葉巻を灰皿に押し付け、完全に火を消す。
「いいだろう。今夜の闘技場には特別枠を用意しろ。」
室内の空気が、微かにざわめいた。
「観客にも知らせる。“面白い新人が出る”とな。」
後藤は一瞬だけ逡巡し、それでも一歩踏み出して言った。
「……よろしいのですか。相手次第では、こちらの損失も——」
「構わん。」
即答だった。
「壊れるなら、その程度だったというだけだ。もしそれでもシードを生き残るってんなら……」
ボスの目が、獣のように細まる。
「——俺が、直接会う。」
その言葉に、柄本がニヤリと笑い、弥勒耶が楽しそうに舌なめずりをした。
闘技場の夜は、ただの賭博では終わらない。
それを、この部屋にいる全員が理解していた。
***
闘技場の周辺に、襤褸布を纏った貧民の姿はほとんど見当たらなかった。
行き交うのは皆、高級そうなスーツに身を包み、腕や耳、首元には金色に光る装飾品をぶら下げた連中ばかりだ。
――ここで賭場を張っているのはクランの高官や幹部クラスなのだろう。
桜田風音はそう結論づける。
誰もが煙草や、葉巻、あるいは薬物めいたものを燻らせ、舌を青に染めた者も少なくない。
金を持つ者も、持たぬ者も、本質は変わらない。下層であれ上層であれ、民度の差など誤差の範疇だ。
欲望に忠実で、理性を脱ぎ捨てた視線が、獣のように風音へと注がれる。
その目は明確に「値踏み」をしていた。
――全員犯罪者なら、この場で片っ端から斬り捨てても構わないのではないか。
そんな衝動が、刃のように胸裏を掠める。
だが同時に、鳴矢高校で投げつけられた言葉が、否応なく脳裏に蘇る。
『感情的に動くのは得策じゃねぇ、なんてことは小学生でも分かることだぞ、桜田風音。』
魔族であるベピラ・ルシファーの言葉だ。
思い出すだけで不快感が込み上げるが――否定しきれない正論であることが、なおさら風音の苛立ちを煽った。
風音は、今日何度目か分からない溜息を吐き、歩調を早めた。
溜め込んだ鬱屈なら、この先いくらでも吐き出せる。
闘技場という名の掃き溜めで、血と骨の軋む音に変えて。
それまでは――耐えるだけだ。
「そこのお嬢さん。」
……そもそも、なぜ私がここまでして闘技場に来なければならないのだろう。
行くなら言真が行けばよかった。いや、行くべきだったのはあいつだ。
「お嬢さん?」
そうだ。悪いのは全部あいつだ。
無理やり引っ張り回して、危ない橋を渡らせて、結果として私だけが泥を被る。
小さい頃からずっとそうだった。
私が嫌がることばかり選んで、平然と笑って――。
「……ちょっと、お嬢さん。」
肩を掴まれた瞬間、思考が断ち切られる。
風音は反射的に身を捻り、その手を強く払い除けた。
溜め込んでいた苛立ちをそのまま乗せ、狐面の奥から鋭い視線を突き刺す。
声をかけてきたのは、黒髪の男だった。
口元から左耳にかけて走る古傷が目立つ、鍛え上げられた体躯の男。
その外見に似合わず、彼は感情を表に出さず、淡々と一歩下がる。
「突然、申し訳ございません。」
低く、抑制の効いた声。
男は軽く頭を下げ、続けた。
「不躾ながら、ご確認させていただきたい。――あなたは、日下部純麗様でしょうか?」
その問いは丁寧だったが、逃がす気のない響きを帯びていた。
風音は警戒しつつも、声は出さずに頷く。
「――先程は部下がご無礼な真似をしてしまい、大変申し訳ございません。お急ぎのところ申し訳ございませんが、少しだけお話よろしいでしょうか?」
風音は目線を自然に男の後ろへ滑らす、何人かのスーツ姿の男の後ろに、襤褸布を着た細身の男とふくよかな男が、怯えたように彼女を見つめていた。
風音は何となく察する。おそらくさっき襲ってきた男どもは、この黒髪の部下だったのだろう。そして一連の出来事を、どこか影で見ていたのか、そこにいる骨とデブが黒髪に報告し、怪しんだ黒髪がここまで来た。
風音の苛立ちは募るばかりだった。今すぐにでも刀を抜きたくなる。
だが今すぐにでもそうすれば、この場は一瞬で沈黙する。
それほどまでに、彼女の忍耐は限界に近づいていた。
――どう出る。
風音は狐面の奥で目を細め、次の言葉を待った。
その緊張を察したのだろう。
黒髪の男は一瞬だけ視線を後方へやり、低く短く命じた。
「……下がれ。」
その一言で、背後にいたスーツの男たちは無言のまま距離を取る。
襤褸布の二人も、空気に押し潰されるようにさらに奥へと引いた。
黒髪の男は、改めて風音へと向き直る。
「誤解なさらないでください。私は、部下を傷つけられた件について、あなたを糾弾するつもりはございません。」
言葉を選ぶように、わずかに間を置く。
「むしろ――あの状況で手を出した部下の判断こそが軽率だった。責任は私にあります。お望みであれば、彼らは今この場で処分いたしましょう。」
男はさらに続ける。
「お話と言っても、難しい取引や不利な条件を押し付けるものではありません。貴女にとっても得のある、提案をしにきました。」
周囲の喧騒の中で、そこだけが切り取られたように静かだった。
「もしご了承いただけるのであれば――ここで簡潔に、ご説明いたします。」
黒髪の男は一歩も踏み込まず、しかし退きもせず、その場に静止したまま待ち続ける。
それは獲物を追い詰める捕食者の姿勢ではない。
相手の出方を見極める、観測者のそれだった。
風音は警戒を解かぬまま、ゆっくりと懐へ手を伸ばす。
周囲の空気が一瞬だけ張り詰めたが、彼女が取り出したのは武器ではなく、小さなメモ帳だった。
狐面の下で視線だけを男に向け、風音は無言のまま手のひらを上に返し、人さし指を小さく動かす。
男は一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐに意図を理解したらしい。
スーツの内ポケットからペンを取り出し、両手で差し出す。
風音は礼を言うでもなくそれを受け取ると、メモ帳に短く文字を走らせた。
やがて、彼女はその紙面を男の前に掲げる。
『さっさと要件を言え』
あまりにも端的で、感情の入り込む余地のない文字だった。
男はその文言を一読し、わずかに目を伏せると、深くも浅くもない、実務的な一礼を返す。
「ありがとうございます。」
そして、声の調子を変えることなく、淡々と続けた。
「――では、簡潔にご説明いたします。」
続く…




