101話 見え…なかった…
「…ふーん。闘技場、ねぇ。」
H地区の荒廃した地下鉄ホーム。
朽宮言真が秘密基地と称するこの場所で、彼と桜田風音は、錆びついたベンチに肩を並べて腰掛けていた。天井の照明はところどころ死に、遠くで水滴が落ちる音だけが反響している。
風音は言真のほうを見ようとせず、線路の闇を真っ直ぐ見据えたまま言う。
「チケットはもう持ってる。あとは順当に勝ち進めば、ルートは確保できる。」
「違法賭博は粛正の対象じゃなかったっけ?」
言真の軽い調子に、風音は一瞬だけ唇を噛み、吐き捨てるように返す。
「今は法云々でごちゃごちゃ言ってる暇ないでしょ。こだわりなんて捨てなきゃやってらんない。」
「謹慎中とはいえ、ユートピアの統治者とは思えない発言だねぇ…」
言真はそう言いながらも、責める色は見せない。ただ楽しげに、どこか試すような声音だった。
「でも、私が警戒してるのはそこじゃない。」
「…というと?」
「亜沙実から連絡があったの。今朝、氷雨野与一とアリス・ヴァイオレッタを含む青龍隊の一行が、ユートピアの総督府に乗り込んできたらしい。名目は夏芽との面談。でも――」
そこで一瞬、言葉を切る。
「多分、あれは私たちに対する示威行動だろうね。じゃなきゃわざわざ大人数で来る必要ないもん。」
「まあねぇ。この調子だと、夏芽もあっち側になるかもだね。」
言真は軽い調子で相槌を打ちながら、荒廃した天井を見上げ、だらしなく両足を前に伸ばした。
「急がないと、ほんとにまずいことになるかもねぇ」
そう言いながらも、声音にはどこか投げやりな響きが混じる。
「あーあ……なぁんで直弥くん、魔族化なんてしちゃうかなぁ」
独り言のように呟き、言真は小さく息を吐いた。
「僕の部下を総動員して世界中をひっくり返しても、影も形も見つからないしさ。彼がああならなければ、こんな面倒な綱渡り、しなくて済んだのに」
軽口の体裁を保ったまま、その言葉の端々には、隠しきれない苛立ちと焦りが滲んでいた。
風音はそれを背中で聞き流しながら立ち上がる。腰に差した愛刀――日本刀の鞘を確かめるように掴み、そのまま改札へと通じる階段へ向かった。
「――まあ、とりあえず。私が闘技場で勝ち上がるのが先決」
振り返りもせず、淡々と言い放つ。
「それまでに、外堀は埋めといて」
「まるで他人事みたいに言うよねぇ……」
言真のぼやきにも応えず、風音は階段を上っていく。
上方から差し込む白い光が、彼女の背を細く切り取る。地下の湿った空気と地上の乾いた気配の境目で、風音は一瞬だけ足を止め――
小さく、息を吐いた。
***
風音は、暗い、暗い階段を下っていく。
はるか地下深くから響いてくる喧騒を耳に受け止めながら、彼女は静かに顔を伏せていた。
その装いは、チケットを手に入れたあの日と同じ。
黒いパーカーに、下は黒のジャージ、足元は運動靴。
ただ一つ違うのは――目元を覆う、黒い狐のマスクだった。
違法な闘技場で刃を交える以上、自身の素性が露見することは致命的だ。
ましてやそれが、玄武隊四堂にしてユートピアの統治者、桜田風音であると知れ渡れば、事態は一瞬で制御不能に陥る。
ここでは名も肩書きも意味を持たない。
求められるのは、ただ力だけ。
風音は階段の手すりに指先をかけ、深く息を吸った。
地下の空気は重く、湿り気を帯び、血と汗、そして剥き出しの欲望が入り混じった匂いが鼻を刺す。
やがて、彼女は階段を降りきった。
すぐ目の前には、即席の受付のようなスペースが設けられている。
その内側には、顔に大きな傷を走らせた男が一人、椅子に腰掛け、降りてきた風音を値踏みするように睨めつけていた。
風音は一切臆することなく、男の眼前にチケットを差し出す。
それは木札だった。
特有の切れ込みが入っている以外、文字や印は一切ない。
男は無言のまま、ブルーライトを当て、虫眼鏡を使って木札の表面と切り口を丹念に確認していく。
しばしの沈黙ののち、男はようやく視線を上げた。
「……名前は」
「日下部純麗」
即座に返したその名は、偽名だった。
正直、名乗る名前など何でもよかった。思いつかなかった結果、鳴矢高校でも使っていた仮の名を、そのまま口にしていただけだ。
本来であれば、もう少し慎重になるべき場面だ。
任務で用いていた偽名を、再び使うのは決して賢明とは言えない。
だが――ここはG地区。
情報の流通は底辺まで落ち込み、集まるのは素性も経歴も曖昧な最下層の人間ばかりだ。
この程度で正体が露見することはない。
風音はそう判断し、表情ひとつ変えずに男の視線を受け止めていた。
「……通れ」
男は無愛想にそう告げると、木札を投げ返した。
風音はそれを受け取り、特に気にした様子もなく奥へと足を踏み入れる。
内部は、想像していた以上に無秩序だった。
至るところで男や女が下卑た笑い声を上げ、肩をぶつけ合いながら怒声を張り上げている。
人混みを掻き分けるように他者を押しのける者、壁際に座り込み、得体の知れないものを口に運んで空腹を誤魔化す少年少女。
あるいは、怪しげな粉末を指先に乗せ、虚空に向かって笑い、突然発狂したように喚き散らす者もいる。
その光景は、地上のG地区など比べものにならない。
数十倍――いや、数百倍は濃縮された、悲惨な掃き溜めの現実だった。
風音は視線を落とし、目立たぬように鞘を肩に掛け直す。
人々の視線や熱気を避けるように、彼女は雑踏の隙間を縫いながら、静かに奥へと進んでいった。
チケットについて教えてくれた男が言うに、ここは闇市だという。
表の市場では決して扱えない商売、商材、あるいは暗殺請負の斡旋まで――ありとあらゆる犯罪行為が、何の躊躇もなく日常として行われている場所。
ここに巣食う者たちは、統治機関から追われた者、あるいはG地区ですら居場所を失った社会的弱者たちだ。
実際、ほんの少し歩いただけで、治安局の指名手配者情報で見覚えのある顔を、二人も見かけた。
殺しも、暴行も、薬物乱用も、ここでは当たり前。
むしろそれらの行為こそが評価の対象となり、力を示した者には地位が与えられる。
秩序はなく、倫理もない。
あるのはただ、人間の闇と本能が剥き出しのまま渦巻く、アナーキーな社会。
そして、風音が目指す違法闘技場は、その闇の中心とも言える一角にあった。
人波を避けるように歩いていたそのとき、不意に足元が取られ、風音は体勢を崩す。
転倒こそ免れたものの、数歩よろめいた。
何につまずいたのか――振り返った瞬間、答えはすぐに分かった。
そこには、無造作に転がされた腐乱死体があった。
濃厚な人の匂いに、腐臭が混じり合い、鼻腔を容赦なく刺す。
風音は顔をしかめることも、笑うこともなく、ただ静かに視線を切り、前を向いた。
――だが、前には進めなかった。
行く手を塞ぐように、大柄な男が立ちはだかっていたからだ。
その背後には数名の取り巻き。揃って獣じみた目で、風音を値踏みするように睨みつけている。
男は鼻を突く口臭も気に留めず、低く唸るように言った。
「おめーか?日下部純麗っちゅー女は。」
風音は答えない。ただ黙って視線を返す。
その無反応さが気に障ったのか、男のこめかみに血管が浮かび上がった。
「おめーのよぉ、せいでなぁ、うちの野郎が、腕の骨ぇ、粉々にされてんだワ。どう落とし前ぇつける気だ?身体でも売るか?お?」
…どうやらこいつは、風音が半ば無理やりチケットを勝ち取ったときに、風音によって上腕を捩じ上げられたあの男の、上司的な存在らしい。
それも、チケットの件を教えてきた男から、あらかじめ聞いていた話だ。
G地区には「クラン」と呼ばれる勢力が存在する。
腐敗した地区行政機関と深く癒着し、莫大な資金力を背景に、裏社会の主導権を争う集団。
そして――この闇市と闘技場を実質的に支配しているのが、その最大勢力であった。
さらに興味深いことに、風音が会おうとしている闘技場の主催者こそ、そのクランの頂点に立つ人物だという。
風音は依然声を上げない。
ここで事を荒立てるのは得策ではない。
喧嘩は避ける。目立つ行動も、できる限り控える。
だが、相手にその理性は通じなかった。
「おう無視かよ、このクソアマぁ!!」
怒号とともに、男たちは一斉に懐へ手を伸ばす。
折りたたみ式のナイフが次々と展開され、鈍い金属音を立てながら、風音の眼前で威嚇するように揺れた。
――所詮は素人。
風音は内心で冷静に状況を分析する。
彼らは全員、ナイフを逆手に握っている。刺突に特化した持ち方だ。確かに密着戦や不意打ちには有効だが、この距離、この人数、この構図では合理性を欠く。
眼前の相手に圧をかけ、制圧するなら、順手での斬撃の方が圧倒的に有効だ。皮膚と筋肉を裂く恐怖と痛覚は、刺突よりも視覚的・心理的効果が高い。
それを選ばない時点で、彼らは慣れていない。
おそらく――
彼らの目に映っているのは、黒いパーカーに身を包んだ、細身の少女。
少し腕の立つ獲物程度の認識なのだろう。
その認識を、風音は否定する気はなかった。
だが、それと現実の齟齬こそが、彼らにとって致命的だった。
普通の年頃の少女と、桜田風音。
その隔たりは、力量差という言葉では表現しきれない。
それはもはや「同一の物差しで測ること自体が誤り」と言っていいほどの断絶だった。
風音は、わずかに息を整える。
狐のマスクの奥で、瞳が静かに細まった。
――やれやれ。
ここまで来てなお、黙って通してもらえると思った自分が甘かったか。
ならば仕方がない。最小限で、最大効率。
彼女の指先が、無意識のうちに鞘へとかかる。
その動作はあまりにも自然で、あまりにも静かだった。
周囲の誰一人として、それを「攻撃準備」として認識できなかったのも無理はない。
次の瞬間――
闇市の喧騒の只中に、ほんの一拍の、不穏な静寂が落ちる。
刹那。
風音は、すでに男たちの背後にいた。
刀身は完全に抜かれてはいない。刃を鞘からわずかに浮かせた、中途半端な状態。
「……ぁ゙」
間の抜けた声を上げたのが、最後だった。
男たちは、何が起きたのか理解する暇すらなく、ひとり、またひとりと崩れ落ちていく。
派手な音も、血の飛沫もない。ただ、力を失った肉体が、順番に地面へ倒れるだけだ。
風音は、最後の動作として、静かに刀の柄から手を離した。
乾いた小さな音とともに、刀身は完全に鞘へと収まる。
それは、ほんのコンマ数秒の出来事だった。
彼女はその間に、男たち全員の頸部――正確には延髄と頸動脈周辺に、峰打ちを叩き込んでいた。
致命には至らせず、しかし意識と運動機能だけを確実に遮断する、極めて精密な制圧。
殺してはいない。
だが、戦闘不能であることに疑いはなかった。
風音は一度だけ周囲を見渡す。
誰も、何も言わない。
闇市の住人たちは、倒れ伏す男たちを助け起こそうとすらせず、ただ視線を逸らし、それぞれの用事へと戻っていく。
――余計な騒ぎは、起こらなかった。
おそらく、クラン構成員と関わること自体が命取りだと、彼らは本能的に理解しているのだろう。
そして彼女もまた、何事もなかったかのように歩き出す。
倒れ伏す男たちを一瞥することすらなく、雑踏を割り、闇の中心へと足を運ばせた。
***
「……おい、今の見たかよ」
市場の影。
細身の男が、喉を鳴らしながら小声で言った。
「お、おう……見てた、はずなんだが……」
隣にいた、ふくよかな男が、乾いた笑いともつかない息を漏らす。
「……見え、なかったよな……?」
「だよな……? 見え……なかった……」
二人は呆然としたまま、影から動けずにいた。
目の前の通路には、つい先ほどまで彼らの上役だった男たちが、折り重なるようにして気絶している。
彼らはクランの末端だ。
運び屋、雑用係、使い走り――要は名前のない歯車である。
家計の破綻でG地区の住処を追われ、差別と迫害に晒されるまま、この地下へと流れ着いた。
生きるためにクランにぶら下がり、命じられるままに仕事をこなしてきた。
そして今日もまた、さきほどまで「少女の死体処理」を命じられていた。
――その少女が、今しがた、上司らを圧倒した。
いや、圧倒という言葉すら生温い。
二人の視界にすら、まともに映らないまま。
手品か、幻覚か、あるいは錯乱していたのか――そう疑いたくなるほどの速度で、男たちは沈んだ。
戦慄が、背骨を這い上がる。
「……人術、か……?」
細身の男が、震える声で呟く。
だがすぐに、首を横に振る。
「……いや……違う…だろ……」
詠唱がなかった。
術式の気配も、生力の変動も、何ひとつ感じられなかった。
「じゃあ……フィジカル……?」
ふくよかな男が、呆然としたまま呟く。
だがそれも、現実味がない。
体格差は歴然だった。訓練の有無以前に、質量とリーチが違いすぎる。
「……あり得ねぇ……」
理解が、追いつかない。
彼らの脳裏に浮かんだのは、ひとつの結論だった。
――あれは、触れてはいけない存在だ。
名前も、素性も知らない。
だが確信だけはあった。
「……と、とりあえず……上に、上に報告しよう。な?」
ふくよかな男の声は、自分に言い聞かせるように震えていた。
細身の男は、喉の奥で何かを呑み込んだまま、結局返事を返せなかった。
ただ、闇の奥へと消えていった彼女の背中を、いつまでも見つめていた。
続く…




