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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
102/113

101話 見え…なかった…

「…ふーん。闘技場、ねぇ。」


 H地区の荒廃した地下鉄ホーム。

 朽宮言真が秘密基地と称するこの場所で、彼と桜田風音は、錆びついたベンチに肩を並べて腰掛けていた。天井の照明はところどころ死に、遠くで水滴が落ちる音だけが反響している。


 風音は言真のほうを見ようとせず、線路の闇を真っ直ぐ見据えたまま言う。


「チケットはもう持ってる。あとは順当に勝ち進めば、ルートは確保できる。」


「違法賭博は粛正の対象じゃなかったっけ?」


 言真の軽い調子に、風音は一瞬だけ唇を噛み、吐き捨てるように返す。


「今は法云々でごちゃごちゃ言ってる暇ないでしょ。こだわりなんて捨てなきゃやってらんない。」


「謹慎中とはいえ、ユートピアの統治者とは思えない発言だねぇ…」


 言真はそう言いながらも、責める色は見せない。ただ楽しげに、どこか試すような声音だった。


「でも、私が警戒してるのはそこじゃない。」


「…というと?」


「亜沙実から連絡があったの。今朝、氷雨野与一とアリス・ヴァイオレッタを含む青龍隊の一行が、ユートピアの総督府に乗り込んできたらしい。名目は夏芽との面談。でも――」


 そこで一瞬、言葉を切る。


「多分、あれは私たちに対する示威行動だろうね。じゃなきゃわざわざ大人数で来る必要ないもん。」


「まあねぇ。この調子だと、夏芽もあっち側になるかもだね。」


 言真は軽い調子で相槌を打ちながら、荒廃した天井を見上げ、だらしなく両足を前に伸ばした。


「急がないと、ほんとにまずいことになるかもねぇ」


 そう言いながらも、声音にはどこか投げやりな響きが混じる。


「あーあ……なぁんで直弥くん、魔族化なんてしちゃうかなぁ」


 独り言のように呟き、言真は小さく息を吐いた。


「僕の部下を総動員して世界中をひっくり返しても、影も形も見つからないしさ。彼がああならなければ、こんな面倒な綱渡り、しなくて済んだのに」


 軽口の体裁を保ったまま、その言葉の端々には、隠しきれない苛立ちと焦りが滲んでいた。


 風音はそれを背中で聞き流しながら立ち上がる。腰に差した愛刀――日本刀の鞘を確かめるように掴み、そのまま改札へと通じる階段へ向かった。


「――まあ、とりあえず。私が闘技場で勝ち上がるのが先決」


 振り返りもせず、淡々と言い放つ。


「それまでに、外堀は埋めといて」


「まるで他人事みたいに言うよねぇ……」


 言真のぼやきにも応えず、風音は階段を上っていく。


 上方から差し込む白い光が、彼女の背を細く切り取る。地下の湿った空気と地上の乾いた気配の境目で、風音は一瞬だけ足を止め――


 小さく、息を吐いた。



 ***



 風音は、暗い、暗い階段を下っていく。

 はるか地下深くから響いてくる喧騒を耳に受け止めながら、彼女は静かに顔を伏せていた。


 その装いは、チケットを手に入れたあの日と同じ。

 黒いパーカーに、下は黒のジャージ、足元は運動靴。

 ただ一つ違うのは――目元を覆う、黒い狐のマスクだった。


 違法な闘技場で刃を交える以上、自身の素性が露見することは致命的だ。

 ましてやそれが、玄武隊四堂にしてユートピアの統治者、桜田風音であると知れ渡れば、事態は一瞬で制御不能に陥る。


 ここでは名も肩書きも意味を持たない。

 求められるのは、ただ力だけ。


 風音は階段の手すりに指先をかけ、深く息を吸った。

 地下の空気は重く、湿り気を帯び、血と汗、そして剥き出しの欲望が入り混じった匂いが鼻を刺す。


 やがて、彼女は階段を降りきった。

 すぐ目の前には、即席の受付のようなスペースが設けられている。

 その内側には、顔に大きな傷を走らせた男が一人、椅子に腰掛け、降りてきた風音を値踏みするように睨めつけていた。


 風音は一切臆することなく、男の眼前にチケットを差し出す。


 それは木札だった。

 特有の切れ込みが入っている以外、文字や印は一切ない。

 男は無言のまま、ブルーライトを当て、虫眼鏡を使って木札の表面と切り口を丹念に確認していく。


 しばしの沈黙ののち、男はようやく視線を上げた。


「……名前は」


「日下部純麗」


 即座に返したその名は、偽名だった。

 正直、名乗る名前など何でもよかった。思いつかなかった結果、鳴矢高校でも使っていた仮の名を、そのまま口にしていただけだ。


 本来であれば、もう少し慎重になるべき場面だ。

 任務で用いていた偽名を、再び使うのは決して賢明とは言えない。


 だが――ここはG地区。

 情報の流通は底辺まで落ち込み、集まるのは素性も経歴も曖昧な最下層の人間ばかりだ。


 この程度で正体が露見することはない。

 風音はそう判断し、表情ひとつ変えずに男の視線を受け止めていた。


「……通れ」


 男は無愛想にそう告げると、木札を投げ返した。

 風音はそれを受け取り、特に気にした様子もなく奥へと足を踏み入れる。


 内部は、想像していた以上に無秩序だった。


 至るところで男や女が下卑た笑い声を上げ、肩をぶつけ合いながら怒声を張り上げている。

 人混みを掻き分けるように他者を押しのける者、壁際に座り込み、得体の知れないものを口に運んで空腹を誤魔化す少年少女。

 あるいは、怪しげな粉末を指先に乗せ、虚空に向かって笑い、突然発狂したように喚き散らす者もいる。


 その光景は、地上のG地区など比べものにならない。

 数十倍――いや、数百倍は濃縮された、悲惨な掃き溜めの現実だった。


 風音は視線を落とし、目立たぬように鞘を肩に掛け直す。

 人々の視線や熱気を避けるように、彼女は雑踏の隙間を縫いながら、静かに奥へと進んでいった。


 チケットについて教えてくれた男が言うに、ここは闇市だという。

 表の市場では決して扱えない商売、商材、あるいは暗殺請負の斡旋まで――ありとあらゆる犯罪行為が、何の躊躇もなく日常として行われている場所。


 ここに巣食う者たちは、統治機関から追われた者、あるいはG地区ですら居場所を失った社会的弱者たちだ。

 実際、ほんの少し歩いただけで、治安局の指名手配者情報で見覚えのある顔を、二人も見かけた。


 殺しも、暴行も、薬物乱用も、ここでは当たり前。

 むしろそれらの行為こそが評価の対象となり、力を示した者には地位が与えられる。


 秩序はなく、倫理もない。

 あるのはただ、人間の闇と本能が剥き出しのまま渦巻く、アナーキーな社会。


 そして、風音が目指す違法闘技場は、その闇の中心とも言える一角にあった。


 人波を避けるように歩いていたそのとき、不意に足元が取られ、風音は体勢を崩す。

 転倒こそ免れたものの、数歩よろめいた。


 何につまずいたのか――振り返った瞬間、答えはすぐに分かった。

 そこには、無造作に転がされた腐乱死体があった。

 濃厚な人の匂いに、腐臭が混じり合い、鼻腔を容赦なく刺す。


 風音は顔をしかめることも、笑うこともなく、ただ静かに視線を切り、前を向いた。


 ――だが、前には進めなかった。


 行く手を塞ぐように、大柄な男が立ちはだかっていたからだ。

 その背後には数名の取り巻き。揃って獣じみた目で、風音を値踏みするように睨みつけている。


 男は鼻を突く口臭も気に留めず、低く唸るように言った。


「おめーか?日下部純麗っちゅー女は。」


 風音は答えない。ただ黙って視線を返す。

 その無反応さが気に障ったのか、男のこめかみに血管が浮かび上がった。


「おめーのよぉ、せいでなぁ、うちの野郎が、腕の骨ぇ、粉々にされてんだワ。どう落とし前ぇつける気だ?身体でも売るか?お?」


 …どうやらこいつは、風音が半ば無理やりチケットを勝ち取ったときに、風音によって上腕を捩じ上げられたあの男の、上司的な存在らしい。


 それも、チケットの件を教えてきた男から、あらかじめ聞いていた話だ。


 G地区には「クラン」と呼ばれる勢力が存在する。

 腐敗した地区行政機関と深く癒着し、莫大な資金力を背景に、裏社会の主導権を争う集団。


 そして――この闇市と闘技場を実質的に支配しているのが、その最大勢力であった。

 さらに興味深いことに、風音が会おうとしている闘技場の主催者こそ、そのクランの頂点に立つ人物だという。


 風音は依然声を上げない。

 ここで事を荒立てるのは得策ではない。

 喧嘩は避ける。目立つ行動も、できる限り控える。


 だが、相手にその理性は通じなかった。


「おう無視かよ、このクソアマぁ!!」


 怒号とともに、男たちは一斉に懐へ手を伸ばす。

 折りたたみ式のナイフが次々と展開され、鈍い金属音を立てながら、風音の眼前で威嚇するように揺れた。


 ――所詮は素人。


 風音は内心で冷静に状況を分析する。

 彼らは全員、ナイフを逆手に握っている。刺突に特化した持ち方だ。確かに密着戦や不意打ちには有効だが、この距離、この人数、この構図では合理性を欠く。

 眼前の相手に圧をかけ、制圧するなら、順手での斬撃の方が圧倒的に有効だ。皮膚と筋肉を裂く恐怖と痛覚は、刺突よりも視覚的・心理的効果が高い。


 それを選ばない時点で、彼らは慣れていない。


 おそらく――

 彼らの目に映っているのは、黒いパーカーに身を包んだ、細身の少女。

 少し腕の立つ獲物程度の認識なのだろう。


 その認識を、風音は否定する気はなかった。

 だが、それと現実の齟齬こそが、彼らにとって致命的だった。


 普通の年頃の少女と、桜田風音。

 その隔たりは、力量差という言葉では表現しきれない。

 それはもはや「同一の物差しで測ること自体が誤り」と言っていいほどの断絶だった。


 風音は、わずかに息を整える。

 狐のマスクの奥で、瞳が静かに細まった。


 ――やれやれ。


 ここまで来てなお、黙って通してもらえると思った自分が甘かったか。

 ならば仕方がない。最小限で、最大効率。


 彼女の指先が、無意識のうちに鞘へとかかる。

 その動作はあまりにも自然で、あまりにも静かだった。

 周囲の誰一人として、それを「攻撃準備」として認識できなかったのも無理はない。


 次の瞬間――

 闇市の喧騒の只中に、ほんの一拍の、不穏な静寂が落ちる。


 刹那。


 風音は、すでに男たちの背後にいた。

 刀身は完全に抜かれてはいない。刃を鞘からわずかに浮かせた、中途半端な状態。


「……ぁ゙」


 間の抜けた声を上げたのが、最後だった。


 男たちは、何が起きたのか理解する暇すらなく、ひとり、またひとりと崩れ落ちていく。

 派手な音も、血の飛沫もない。ただ、力を失った肉体が、順番に地面へ倒れるだけだ。


 風音は、最後の動作として、静かに刀の柄から手を離した。

 乾いた小さな音とともに、刀身は完全に鞘へと収まる。


 それは、ほんのコンマ数秒の出来事だった。


 彼女はその間に、男たち全員の頸部――正確には延髄と頸動脈周辺に、峰打ちを叩き込んでいた。

 致命には至らせず、しかし意識と運動機能だけを確実に遮断する、極めて精密な制圧。


 殺してはいない。

 だが、戦闘不能であることに疑いはなかった。


 風音は一度だけ周囲を見渡す。


 誰も、何も言わない。

 闇市の住人たちは、倒れ伏す男たちを助け起こそうとすらせず、ただ視線を逸らし、それぞれの用事へと戻っていく。


 ――余計な騒ぎは、起こらなかった。

 おそらく、クラン構成員と関わること自体が命取りだと、彼らは本能的に理解しているのだろう。


 そして彼女もまた、何事もなかったかのように歩き出す。

 倒れ伏す男たちを一瞥することすらなく、雑踏を割り、闇の中心へと足を運ばせた。



 ***



「……おい、今の見たかよ」


 市場の影。

 細身の男が、喉を鳴らしながら小声で言った。


「お、おう……見てた、はずなんだが……」


 隣にいた、ふくよかな男が、乾いた笑いともつかない息を漏らす。


「……見え、なかったよな……?」


「だよな……? 見え……なかった……」


 二人は呆然としたまま、影から動けずにいた。

 目の前の通路には、つい先ほどまで彼らの上役だった男たちが、折り重なるようにして気絶している。


 彼らはクランの末端だ。

 運び屋、雑用係、使い走り――要は名前のない歯車である。


 家計の破綻でG地区の住処を追われ、差別と迫害に晒されるまま、この地下へと流れ着いた。

 生きるためにクランにぶら下がり、命じられるままに仕事をこなしてきた。


 そして今日もまた、さきほどまで「少女の死体処理」を命じられていた。


 ――その少女が、今しがた、上司らを圧倒した。


 いや、圧倒という言葉すら生温い。

 二人の視界にすら、まともに映らないまま。

 手品か、幻覚か、あるいは錯乱していたのか――そう疑いたくなるほどの速度で、男たちは沈んだ。


 戦慄が、背骨を這い上がる。


「……人術、か……?」


 細身の男が、震える声で呟く。


 だがすぐに、首を横に振る。


「……いや……違う…だろ……」


 詠唱がなかった。

 術式の気配も、生力の変動も、何ひとつ感じられなかった。


「じゃあ……フィジカル……?」


 ふくよかな男が、呆然としたまま呟く。


 だがそれも、現実味がない。

 体格差は歴然だった。訓練の有無以前に、質量とリーチが違いすぎる。


「……あり得ねぇ……」


 理解が、追いつかない。


 彼らの脳裏に浮かんだのは、ひとつの結論だった。


 ――あれは、触れてはいけない存在だ。


 名前も、素性も知らない。

 だが確信だけはあった。


「……と、とりあえず……上に、上に報告しよう。な?」


 ふくよかな男の声は、自分に言い聞かせるように震えていた。


 細身の男は、喉の奥で何かを呑み込んだまま、結局返事を返せなかった。

 ただ、闇の奥へと消えていった彼女の背中を、いつまでも見つめていた。


 続く…

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