100話 他愛もない話
「ああもう……なんで……」
ユートピア総督府。
青龍隊八間にして、現在は玄武隊八間代理も兼任している夏芽遼は、深く椅子にもたれ、両手で頭を抱えていた。
「なんで四堂の方々って、揃いも揃って……」
彼の眼の前にあるモニターには、玄武隊四堂であり、現在謹慎処分中である佳人卿・桜田風音が、籠もっていたはずの道場から連日外出している様子が、町中の監視カメラから映し出されていた。
彼女の謹慎処分には特に外出制限など設けていなかった。彼女自身、しばらくそこから出てこなかったこともあり、誰もそれを咎めることはなかった。
だがそこに狂風卿・朽宮言真が訪れてから、彼女は頻繁に外出するようになった。無論夏芽は狂風卿を問い詰めたが、彼は素知らぬ顔でこう言ってきた。
「ああ別に、もうちょっと散歩したほうが体にいいんじゃない?って言っただけだよ。あー、あと別に見張りつけないであげて。彼女、プライバシーはないのかって、僕に竹刀突きつけてきたし。」
――謹慎中である以上、プライバシーも何もない。
十二分な監視を行うのが当然だ。
それにもかかわらず、狂風卿は外出した彼女を執拗に追跡する必要はないという、事実上の制限解除とも取れる命令を出したのだ。
部下である以上、命令には従わねばならない。
だが、こればかりは――夏芽にはどうしても飲み込めなかった。
彼は密かに一部の部署と協力し、非公式に彼女の追跡を試みた。
だが、結果は芳しくない。追跡要員はことごとく撒かれ、断片的な映像以外、確かな情報は一切掴めなかった。
フラストレーションが、静かに、しかし確実に溜まっていく。
思えば以前から、狂風卿には振り回されてばかりだった。
……そういえば。
夏芽はふと、記憶の奥を掘り起こす。
前回の四堂八間会議。あの場で、狂風卿と佳人卿は揃って八幡直弥を擁護していた。
いや、それだけではない。
会議の前段階で、狂風卿は青龍隊に対し、八幡直弥の処遇決議を棄権しろと、はっきり要求してきていたではないか。
――裏がある。
そう考えざるを得なかった。
もしや、今なお魔族化し失踪中の八幡直弥と、狂風卿は繋がっているのではないか。
夏芽の中で、一つの推論が形を成す。
鳴矢高校事件以前から、佳人卿と狂風卿――この二人を中心に、最上シアと接点を持っていたのではないか。
そして、その流れの中で、八幡直弥という駒をADFへ引き入れた……。
胸の奥で、不吉な感触が静かに脈打った。
――考えすぎかもしれない。
だが、それを一笑に付して切り捨てられるほど、状況は単純ではない。
夏芽はもう一度、深く、重たい溜息を吐いた。
そのときだった。
執務室の外から、明らかに様子の違うざわめきが押し寄せてくる。
指揮系統の整った総督府では滅多に起こらない、雑音に近い喧騒だ。
「……何だ?」
苛立ちを滲ませながら立ち上がり、夏芽は扉を開けて声を荒げる。
「おい、うるさいよ。ちょっと静かに――」
言葉は、途中で途切れた。
視界に映った存在を認識した瞬間、夏芽の背筋を冷たいものが走り、思考よりも先に身体が反応する。
彼は反射的に身構え、無赦の環を取っていた。
「――久しぶりじゃのう、夏芽。」
穏やかで、どこか余裕を含んだ声。
そこに立っていたのは、青龍隊四堂。
氷帝卿――氷雨野与一、その人だった。
「なっ……」
氷雨野の後ろの、青い軍服を着た青龍隊員の取り巻きが、夏芽に向かって一斉に無赦の環を取る。
息を呑み、夏芽は一瞬言葉を失う。
だがすぐに背筋を正し、明らかな動揺を必死に押し殺して問い返した。
「氷帝卿……!なぜ、ここにおられるのですか?」
その問いに答えたのは、氷雨野ではなかった。
彼の隣に立つ、青龍隊八間――アリス・ヴァイオレッタが一歩前に出る。
「夏芽。少し話よ。」
短く、しかし有無を言わせぬ調子だった。
周囲に控えていた濃灰色の軍服――玄武隊員たちが、明らかに動揺した様子で視線を交わす。
事態が通常ではないことを、全員が理解していた。
夏芽は一瞬だけ逡巡し、それから小さく息を吐く。
「……分かりました。」
彼はアリスの横に並び、先導する氷雨野の背中を追った。
足音が廊下に規則正しく響く。
だが、そう長くは進めなかった。
前方から、別の気配が押し寄せてくる。
重なり合う足音、緊張を孕んだ視線――玄武隊員の一団だ。
やがて両者は、総督府の要衝で向かい合うことになる。
青龍隊と玄武隊。
二つの組織が、ユートピアの中枢で静かに睨み合った。
玄武隊側の先頭に立っていたのは、玄武隊八間・血沼亜沙実。
鋭い視線で青龍隊を見据え、彼女は一歩も退かずに声を張る。
「止まりなさい。」
張り詰めた空気を切り裂くように、言葉が落ちた。
「なぜ、ここに青龍隊の方々が?」
張り詰めた声が、広い廊下に反響する。
「夏芽と話をしにきただけよ、豊麗公。そんなに睨まなくてもいいのよ。」
アリスは肩をすくめ、あくまで軽い調子で応じた。しかし、その足運びも視線も、一切の隙を見せていない。
「話をしにきただけで、なぜここまでの大人数で来る必要があるのですか。」
血沼亜沙実は一歩も退かず、淡々と続ける。
「しかも氷帝卿まで随伴されている。事前通告もなく、これほどの規模で総督府へ踏み込めば――奇襲、あるいは示威行動と受け取られても不思議ではありません。」
その言葉に、玄武隊員たちの緊張がさらに高まる。
指先が武装に触れ、いつでも動ける距離感が保たれていた。
氷雨野与一は、そこで初めて足を止めた。
「……ほう。」
低く、冷えた声。
視線が血沼に向けられた瞬間、周囲の空気が一段階落ちる。
「奇襲とな。ずいぶん物騒な言い分じゃのう、豊麗公。」
氷雨野は、ゆっくりと振り返った。
「じゃが安心せい。青龍隊はまだ、ユートピアを戦場にする気はない。」
その一言に、亜沙実の喉がひくりと鳴る。
彼は、まだ、と言った。
「ならば――」
亜沙実が言葉を継ごうとした瞬間、アリスが間に入った。
「落ち着きなさい、血沼亜沙実。これは内部抗争でも宣戦布告でもない。」
彼女は夏芽にちらりと視線を投げる。
「……今は、でしょ。」
血沼の声に、わずかな棘が混じる。
氷雨野は小さく笑った。
「そう卑屈になるでない、豊麗公。じゃが状況が状況でな。お主らも知っての通り、ADF中できな臭い噂が飛び交っておる。」
その視線が、今度は夏芽に突き刺さる。
「――ので、最近の玄武隊をよく知る儂の部下と話をしにきた、ただそれだけじゃ。」
血沼は一瞬だけ目を伏せ、やがて短く息を吐いた。
「……分かりました。」
そう言ってから、彼女は玄武隊員たちに目配せする。
「5分間の滞在を認めます。ただし我々も武装解除はしません。許可なくこれ以上の前進はしないでください。」
「結構。」
アリスが微笑む。
こうして、二つの隊は刃を抜かぬまま、ぎりぎりの距離で均衡を保った。
***
「さて……」
氷雨野は、先ほどまで夏芽が使っていたモニター室の椅子に、音も立てずゆっくりと腰を下ろした。
深く背凭れに身を預け、組んだ指の上から、立ったままのアリスと夏芽を静かに見据える。
その視線には、焦りも苛立ちもない。
ただ、長年戦場と政争の中心に立ち続けてきた者特有の、冷え切った余裕だけがあった。
室外では、依然として緊張状態が続いている。
廊下を挟み、青龍隊と玄武隊が対峙。
青龍隊は、このモニター室を中心に半円状の防衛陣形を敷き、入口を完全に抑えていた。
対する玄武隊は、血沼亜沙実を先頭に、一歩も引かず正面から睨み合っている。
銃口も術式も向けられてはいない。
だが、どちらが先に息を乱したか――それだけで、即座に流血に転じかねない状態だった。
「……なかなか、物々しいのう」
氷雨野は、モニターに映る廊下の監視映像にちらりと視線を走らせる。
「随分と神経質になっておるようじゃな」
「それは……」
夏芽が言いかけ、言葉を飲み込む。
今の状況を作り出した張本人を前に、軽率な反論はできない。
代わりに、アリスが口を開いた。
「四堂が事前通告なしで総督府に踏み込めば、こうもなります。むしろ、あれで済んでいるのは、夏芽のおかげよ」
氷雨野は、くつりと喉を鳴らして笑った。
「買いかぶるでない。……じゃがまあ、確かに儂が直接出張るのは、刺激が強すぎたかもしれんの」
そう言いながらも、悪びれた様子は一切ない。
「それで…氷帝卿」
夏芽は、意を決したように背筋を伸ばす。
「改めてお聞きします。あなたが、わざわざこの規模でユートピアに来られた理由は何ですか」
氷雨野は、即答しなかった。
しばしの沈黙。
モニター越しに映る廊下の緊張が、なおさら室内の静寂を際立たせる。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……簡単に言えば、確認じゃ」
「確認……?」
「うむ」
氷雨野の視線が、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐ夏芽を射抜く。
「お主が、シチリア動乱事件で何を見、何を経験したのか。そして――」
一拍、意図的な間。
「――お主が、どちらにつくか」
空気が、はっきりと重く沈んだ。
「どちら……とは?」
絞り出すように問う夏芽に、氷雨野は淡々と答える。
「朽宮の小僧につくか、儂らにつくか、という話じゃ」
わずかに口角が上がる。
「お主が玄武の空気に当てられて、腑抜けておらぬか……少々、気になってのう」
そう言うと、氷雨野は軍服の内側――懐から一本のUSBメモリを取り出した。
それを備え付けの端末に差し込むと、即座にモニターが切り替わり、動画ファイルが再生される。
「これは、シチリア動乱時――朝8時20分頃。ローマ、ポポロ広場の監視映像じゃ」
画面には、朝日が差し込む石畳の広場が映し出されている。
「公に公開された映像は、八幡直弥が魔族化し、主犯格の魔族を殺害。その後、姿を消したところまでだったのは知っておるな」
夏芽は、無言で頷く。
「だがな……」
氷雨野は、低く続ける。
「その“後”の映像を、朱雀隊八間――藤田寛嗣が、秘密裏に入手しておった」
映像が切り替わる。
そこには、広場の一角で向かい合う二人の姿が映っていた。
一人は、少年のような外見。
粗い画質の中でも、煤に汚れた軍服らしきものを身に着けているのが分かる。
もう一人は、異様だった。
全身を覆う白いローブ。白髪、白い肌――まるで光そのものを切り取ったかのような存在感。
少年の姿を認識した瞬間、夏芽の喉が無意識に鳴る。
「……狂風、卿?」
呆然とした呟きに、氷雨野は短く頷いた。
「そうじゃ。此奴が、朽宮の小僧よ」
そう言って、氷雨野は慣れた手つきでシークバーを滑らせる。
映像が進む。
言真の背後に、黒衣のようなものを纏った複数の人物が現れ、白いローブの人物を半円状に取り囲む。
次の瞬間だった。
白いローブの人物が、唐突に、痕跡すら残さず消失した。
「っ……!」
思わず声を漏らした夏芽に、氷雨野は低く、しゃがれた声で断じる。
「――そして消えた此奴が、最上シア、なのじゃろう」
その名が落ちた瞬間、モニター室の空気は完全に凍りついた。
音も、呼吸も、どこか遠のいたように感じられる。
「……夏芽よ」
氷雨野は、視線を逸らさぬまま続ける。
「なぜ、この映像が公開されていなかったか……分かるか?」
「……なぜ、でしょうか」
喉の奥がひりつくのを感じながら、夏芽は答える。
「朽宮の小僧が、イタリア政府関係者に“圧”を掛けておったのだ」
夏芽は、思わず息を呑んだ。
「今回の騒動の対応を実質的に主導しておったのはあの小僧じゃ。イタリア政府は事件後、この映像から推察しておった」
氷雨野の声が、淡々と事実を積み上げていく。
「――戦後最悪とも言うべき犠牲者を出した事件。その発端には、最上シアと協力関係にあった朽宮言真、そして尻尾を出してしまった八幡直弥がいるのではないか、とな」
一瞬、氷雨野は目を細める。
「じゃがな。奴は得体が知れぬ。圧に屈する様子を見ても分かる通り、軍を動かしたところで、勝てる見込みはないと判断したのじゃろう」
だから、と氷雨野は静かに続ける。
「政府は直接手を下すことを諦め、我々――ADFの一派に対処を望んだ」
その言葉には、皮肉と嘲りが微かに滲んでいた。
氷雨野の目が、怪しく光る。
「あとはもう……」
一拍。
「何が言いたいか、分かるじゃろう。夏芽よ」
それは問いではなかった。
理解していることを前提とした、最終確認だった。
夏芽は、短く息を吸い、思考を整理する。
そして――覚悟を決めたように口を開いた。
「……つまり」
視線を逸らさず、言葉を選ぶ。
「朱雀隊と協力して現時点で不穏分子である狂風卿とその周りを排除し、内部改革派である朱雀隊の意図を汲み取りつつ、それを足掛かりに青龍隊のモットーである、各国政府への影響力を底上げを狙う、ということでしょうか」
言い切った瞬間、室内の空気が僅かに緩んだ。
「……見事じゃな」
氷雨野は一拍置いてから、薄く口角を吊り上げた。その笑みには称賛よりも、盤面が思い通りに進んだときの将棋指しの冷静さが滲んでいる。
「お主の分析は概ね正確じゃ。焔冥の奴と共闘するのは正直、胃の腑がむず痒くなる話ではあるが……感情論で戦争は出来ん」
椅子に深く身を預け、指を組む。
「朱雀隊は内部改革派を自称しておるが、実態は独自の指揮系統を築きつつある準独立勢力。じゃが、その独走こそが今は利用価値になる。彼奴らを前線に押し出せば、我々青龍隊は後方から政治的・外交的な制圧に集中できる」
視線が鋭く夏芽を射抜く。
「優先目標はただひとつ。最上シアと接触した朽宮の小僧だ。奴を排除できれば、ADF内部の不確定要素は大幅に削減される。――桜田風音も同時に潰せれば、なお良しじゃな」
氷雨野の声は、淡々としていながら、そこに迷いは一切なかった。
「その後は簡単じゃ。混乱の責任を朱雀隊に押し付けつつ、我々が収拾役として各国政府とのパイプを再構築する。青龍隊のモットー――国家への影響力の最大化、その地盤固めには最適の局面よ」
ふっと、低く笑う。
「無論、その過程で焔冥の連中が邪魔になるようであれば……その時はその時。用済みの部隊を処理するのも、指揮官の職責じゃからな」
氷雨野は足を組み替え、夏芽を見据えた。
「八幡直弥も後回しで構わん。混乱が収束した後、確実に洗い出し、静かに処理する。今こそが改革の時なのじゃ。――夏芽、お主は当然、こちらにつくじゃろう?」
無言。
夏芽は視線を落とし、思考を巡らせる。モニターの微かな駆動音だけが、室内に残った。
ややあって、彼は口を開く。
「……僕自身、その方針には概ね賛成です。ここまでの証拠が揃っている以上、狂風卿や、最近不審な動きの目立つ佳人卿を不穏分子と見なしても、論理的な齟齬はありません」
一度、言葉を切る。
「ですが同時に――彼らがそれを理解していないとも思えない。現に謹慎中の佳人卿、そして最近姿を見せない寛解公は、水面下で動いている可能性は高い。そんな状況で正面から一気に踏み込めば……もし返り討ちに遭った場合、被害は致命的になります」
その言葉に、氷雨野はわずかに目を細めた。
「ああ、そうじゃったな。忘れておった」
一拍。
「――寛解、四阿庸平の件じゃが」
氷雨野は淡々と続ける。
「先手は打っておる。既に焔冥の手によって、奴は確保済みじゃ」
「……殺した、ということですか」
夏芽の問いに、氷雨野は鼻で笑った。
「違うわい。死体は使い道がない。奴は既に“こちら側”に取り込まれておる」
わずかに肩を竦める。
「焔冥が何を吹き込んだかまでは知らんがな……今はベンサレムで、至って元気に過ごしておるそうじゃ」
その言葉が消えきらぬうちに、モニター室の外から鋭い声が響いた。
「――五分経過したぞ、青龍隊! いつまで籠もっている、早く出てこい!」
亜沙実の声だった。苛立ちを隠そうともせない、その調子に、室内の空気がわずかに張り詰める。
氷雨野は小さく息を吐き、壁に立てかけてあった杖を手に取ると、USBを抜き取りつつゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……まあよい」
そう前置きし、夏芽に視線を向ける。
「儂はお主を信頼しておる。賢い選択をすると、そう信じてな。――良い返事を待っておるぞ」
氷雨野は夏芽の肩を軽く叩き、そのまま彼の横を通り過ぎて入口へ向かった。その所作は柔らかだったが、拒否という選択肢を最初から想定していない圧が、確かにあった。
アリスも一度だけ夏芽と目を合わせ、穏やかな微笑を浮かべると、何も言わずに氷雨野の後を追った。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
数秒の沈黙ののち、今度はノックもなく、扉が開いた。
亜沙実を先頭に、数名の玄武隊員がモニター室へと足を踏み入れる。
「夏芽」
亜沙実は周囲を一瞥し、それから真っ直ぐ彼を見た。
「氷帝卿たちと……一体、何を話していたの?」
その問いに、夏芽は一瞬だけ視線を落とし、すぐにいつもの柔らかな表情を取り戻す。
そして、口元にわずかな笑みを浮かべながら答えた。
「――他愛もない話さ」
続く…




