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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
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99話 前触れ

「ねえ玲ちゃん、ほんとに他の隊なんて攻めてくるのかな。」


 アルカディアに設けられた八間の執務室。

 整然と並ぶ書架と無機質な照明の下で、二人きりの会話が続いていた。


 緋月玲は革張りの執務椅子に深く腰掛け、書類の山に目を落としたまま、淡々とペンを走らせている。

 その背後から、月島那海がぴたりと身体を寄せ、背中から腕を回しながら耳元で囁いた。


 緋月は一切動じない。

 視線も筆致も乱れることなく、事務的な手続きを処理し続ける。


「那海。仕事できない。一旦離れて。」


「えぇ〜。玲ちゃんいい匂いするんだもん。離れたくなぁいっ。」


 甘えた声色にも、緋月は溜め息一つ返さない。

 書類を一枚捲り、静かに言葉を重ねる。


「那海も仕事して。さっきから俺一人でやってるんだけど。」


 その声音は終始冷静で、突き放すようでありながら、どこか慣れ切った気配が滲んでいる。


 月島はその言葉を意に介さず、腕を緩めることもなく続けた。


「でもさぁ……八幡直弥、だっけ? 彼が失踪しただけで、なんで私たちまで狙われるのかな?」


「狂風卿が説明してたでしょ。ちゃんと聞いときなよ。」


「いや、それは覚えてるんだけどさぁ……でも、そんなことで閻魔卿たちが本気で私たちを排除しに来るのかな、って。」


 緋月はようやく手を止め、書類の端を揃えながら淡々と答える。


「閻魔卿に限らず、四堂がお考えになることは誰にも読めない。気まぐれで動く方々が多いしな。それに――当たり前だけど、俺たちより狂風卿のほうが閻魔卿のことをよく知ってる。部下である以上、今はあの方の判断を信じるしかないよ。」


 月島は「うーん」と小さく唸り、緋月の髪に顔を埋めるようにして呟いた。


「……玲ちゃんがそう言うなら。私もそうする。」


 月島は名残惜しそうに腕を解き、緋月の背後から一歩だけ距離を取った。

 それでも未練を断ち切れないように、ちらりと背中を見やってから書架へ向かう。

 分厚い資料束を引き抜きながら、不満を隠そうともせず呟いた。


「でもやだなぁ……最近ずぅっと仕事続きでさ。玲ちゃんといちゃいちゃする時間なくなっちゃってるもん。お家帰っても、玲ちゃんずーっと資料とにらめっこでさ。私に全然構ってくれないし。」


 緋月は一瞬だけ手を止め、しかし振り返らずに肩越しに言葉を返す。


「……那海がちゃんと仕事手伝ってくれたら、いちゃいちゃする時間も、心の余裕も増えるんだけどなぁ。」


 わざとらしく柔らかい言い回しだったが、内容は容赦がない。

 月島は小さく喉を鳴らし、資料を抱えたまま唇を尖らせる。


「……意地悪」


「事実だからね。」


 緋月は淡々と書類にペンを走らせる。その横顔には微塵の悪意もなく、ただ当然の理屈を述べているだけだった。


 月島はしばらく黙り込み、やがて諦めたように肩を落とす。


「はぁ……分かったよ。ちゃんとやる。やればいいんでしょ、仕事。」


「最初からそうしてくれれば助かるんだけどな。」


「その代わり!」


 月島は急に顔を上げ、条件交渉に出る。


「今日のノルマ終わったら、ちゃんと時間作ってよ。五分とかじゃなくて、ちゃんと。」


 緋月は一瞬だけ考える素振りを見せ――ほんのわずか、口元を緩めた。


「……進捗次第、かな。」


「もう! そこは即答で肯定してくれてもいいじゃん!」


 そのとき、控えめなノックが執務室の静寂を叩いた。


「――両八間公。連絡が入っています。」


 扉の向こうから聞こえるのは、伝令兵の張り詰めた声だった。


「入って。」


 短く答えると、扉が静かに開く。

 伝令兵は一礼し、すぐに要件だけを告げた。


「ニコ・ファラティムⅠ型戦闘員様から、連絡が入りました。なにやら、エルドラド方面で朱雀隊が急速に軍備拡張を進めているとのことです。」


「……軍備拡張?」


「はい。先日、エルドラドで開催された軍事パレードにて、複数の最新兵器が確認されています。現時点で開発室から発表済の兵器で言いますと――」


 伝令兵は携行端末を操作し、簡潔に読み上げる。


「対魔装甲歩兵用強化外骨格《Aegis-(イージス・)Ravenレイヴン》、重粒子砲搭載型多脚自走砲《Basiliskバジリスク-03(零参)》、広域制圧用無人攻撃機群《Seraph(セラフ・) Swarm(スウォーム)》などが確認されています。」


 月島が眉をひそめる。


「……全部実戦配備直前って噂だったやつじゃん。それ。」


「はい。加えて、未発表兵器と思われる個体も複数確認されています。熱源反応と生力残滓のパターンから見て、神化人術との同調運用を前提に設計されている可能性があると。」


 緋月は小さく息を吐いた。伝令兵は続ける。


「なお、ニコ・ファラティムⅠ型戦闘員様は、朱雀隊が短期決戦を想定した編成に移行しつつある点を、特に警戒すべきだともおっしゃっておりました。」


 緋月は机に手をつき、視線を落とす。


「短期決戦…」


「…玲ちゃん…」


 月島が心配そうに小さく呟く。緋月は伝令兵に伝えた。


 緋月は顔を上げ、伝令兵に告げる。


「狂風卿と佳人卿に共有。白虎隊・玄武隊両即応部隊の待機レベルを一段階引き上げて。」


「了解しました。」


 伝令兵が踵を返す。


 扉が閉まり、再び執務室に二人きりの静寂が戻る。


 月島は緋月の袖を軽く引いた。


「ねえ……嫌な予感する。」


「予感じゃない。」


 緋月は淡々と言った。


「これはもう、前触れだ。」


 アルカディアの中枢で、見えない歯車が確実に噛み合い始めていた。

 最初に動くのは誰か――それだけが、まだ定まっていない。



 ***



「……いらっしゃっ――あ……」


 声が途中で途切れ、店内の空気が一瞬だけ張りつめた。


 かつて三田沙紀が勤めていたそのパン屋に、ひとりの女性が静かに足を踏み入れていた。

 地味な外套に身を包み、視線は伏せがち。だが、その佇まいには、この場所には似つかわしくない静謐さがあった。


 ミケルとバクレンは、その顔を認めた瞬間、ほとんど同時に息を呑む。


 ――見覚えがある。


 数日前、H地区の荒廃した地下鉄ホーム。

 黒衣の者に連れられ、異様な緊張感の中に立っていた人間たち。その中の一人。


 確か、狂風卿が名を口にしていた。

 曹 夢瑤。


「……」


 二人の反応に気づいたのか、夢瑤はわずかに顔を上げる。

 その瞳が、ミケルとバクレンを順に捉えた。


「……こんにちは」


 声は小さい。だが、そこに迷いはなかった。


 バクレンが、無意識のうちに半歩だけ前へ出る。


「……お客さん、というわけではなさそうですね」


 夢瑤は一瞬、言葉を選ぶように唇を噛み、やがて静かに答えた。


「すこし……お話を、しに来ました。長くは居ません」


 店内には、焼き立てのパンの匂いと、張りつめた沈黙だけが残る。

 外の通りの喧騒が、ひどく遠く感じられた。


「ここで……?」


 ミケルの問いに、夢瑤は小さく首を振る。


「よければ……奥を、借りられますか」


 ミケルは一瞬バクレンと視線を交わし――ゆっくりと頷いた。


「……少しなら」


 夢瑤はその返答に、ほっとしたように微かに息を吐く。


 二人に通され、彼女は工房に向かい合う形で腰を下ろした。そして、持参していた包みを差し出しながら、控えめに口を開く。


「……突然すみません。こんな……」


「いえいえ……こちらこそ、こんな手狭なところで……」


「い、いえ! とても素敵なところだと思います!」


 そう言った瞬間、夢瑤ははっとして口元を押さえた。


「ご、ごめんなさい……急に大きな声、出してしまって……」


 慌てたその仕草があまりに不器用で――

 ミケルとバクレンは顔を見合わせ、思わず同時に小さく噴き出した。


「……ふふ」


「はは……いや、驚いただけですよ」


 二人の笑いにつられたのか、夢瑤の肩からすっと力が抜ける。

 先ほどまで張りつめていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……よかった」


 胸に手を当て、夢瑤は安堵の息をつく。


「正直……追い返されるんじゃないかと思ってました。ここに来るまで、何度も引き返そうとして……」


「追い返すなんて、そんなこと」


 バクレンの言葉に、夢瑤は静かに頷く。


「そう言ってもらえて……安心しました。どうしても、直接お話ししなきゃいけないと思って」


 そう言って、差し出していた手土産を改めて二人の前に置く。

 簡素な包みだったが、丁寧に選ばれたことが一目でわかる。


「これは……」


「手製のジャムです。パン屋を営まれていると伺って……。大したものじゃありませんけど……」


「いえいえ、ありがとうございます」


 ミケルはそう言って受け取り、棚の端にそっと置いた。


 一拍の沈黙。


 夢瑤は指先を組み、視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を探す。


「……三田沙紀ちゃんのこと、です」


 その名が出た瞬間、空気が再び張りつめる。


 バクレンの背筋がわずかに強張り、ミケルの表情も硬くなる。

 夢瑤はそれに気づき、慌てて首を振った。


「責めに来たわけじゃありません。まして……謝罪でも……」


 一度言葉を切り、深く息を吸う。


「ただ……感謝したかったんです」


 伏せられた瞳が、微かに揺れる。


「彼女が――どれだけ必死に、私を守ろうとしてくれていたかについて」


「……守ろうと……?」


 ミケルの低い問いに、夢瑤は小さく息を吸い、視線を落としたまま答える。


「……ええ。私は……いわゆる、地上世界の人間です。ADFの出身ではありません」


 その言葉に、バクレンの表情がわずかに引き締まる。


「本当の故郷は……中国にあります」


「中国……? ああ、もしかして……」


 ミケルが何かに思い当たったように呟くと、夢瑤は静かに頷いた。


「はい。私は、かつて存在した中国の対魔族戦闘部隊――『紅旗』の元隊員でした」


 その名を口にした瞬間、空気がぴんと張る。


「……ですが、部隊は壊滅しました。ADFを信用していない政府軍から、ADFと繋がりのある組織として狙われて……」


 淡々とした口調だったが、指先は微かに震えている。


「私たちが追い詰められていたその時期、偶然にも吉林省で魔族被害の調査を行っていたADF隊員が三人いました。紆余曲折はありましたが……結果的に、彼らは私を保護してくれたんです」


 ミケルとバクレンは、黙って耳を傾けている。


「それが、いわゆる吉林省事件です」


 夢瑤は一度言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。


「そこで、私を守ってくれたADF隊員が……八幡直弥くん、白伊涼菟くん、そして――三田沙紀ちゃんでした」


 その名を口にした瞬間、夢瑤の声はわずかに揺れた。


「私自身、戦闘の最中に直接彼女と多く言葉を交わしたわけではありません。ただ……私の兄――曹辰偉は、彼女を含めた三人に、本当に大きな恩を受けました」


 夢瑤は一度言葉を切り、こみ上げてくるものを必死に押し殺す。


「兄は……とても無茶をする人でした。私の前ではいつも強がっていて、そのくせ喧嘩は弱くて……よく、誰にも見えないところで泣いていました」


 微かに笑みとも取れる表情が浮かび、すぐに消える。


「それでも兄は、正義感だけは人一倍強くて。ひ弱な自分を心底嫌っていて……だからこそ、軍に入ったんです」


 夢瑤は胸元で指を握りしめた。


「そんな兄の背中を見て育った私は、いつの間にか――兄のような人間に、なりたいと思うようになっていました。それで……私も、兄を追いかけるように軍に入りました」


 震えを抑えた声が、工房の静けさに溶けていく。


「だから……兄を救ってくれた人たちのことを、私は忘れられません。三田沙紀ちゃんも……その一人なんです」


 夢瑤の瞳に、ついに堪えきれなかった涙が滲んだ。


「兄は……その吉林省事件で、命を落としました」


 声はかすかに震えるが、言葉は途切れない。


「でも、沙紀ちゃんから聞いた兄の最期は……とても、兄らしいものでした。……三人と共に人民解放軍に包囲されたとき、兄は自分を囮にして、彼女たちを逃がしたそうです」


 涙が頬を伝い、ぽたりと落ちる。


「それでも……彼女たちがいなければ、兄はその前に、とっくに死んでいたはずです」


 夢瑤はぎゅっと胸元を押さえ、必死に言葉を紡ぐ。


「彼女たちがいたからこそ……兄は、自分の“死に場所”を選ぶことができた。誰かを守るために、最後まで兄らしくいられたんです」


 工房に、鉛のように重い沈黙が落ちた。

 オーブンの奥で焼き上がったばかりのパンが、微かに音を立てる。

 その温かく、生活の匂いに満ちた空気が、かえって現実を突きつけるようで残酷だった。


 彼女は顔を伏せ、肩を震わせながらも、言葉を紡ぎ続ける。


「……佳人卿や……狂風卿が……脱出ルートを、探してくれてるて……あの地下ホームで…言っていましたけど……」


 嗚咽が喉を塞ぎ、言葉が何度も途切れる。


「でも……その先に……私が、帰れる場所なんて……どこにも、ありません……」


 指先が、無意識に服の裾を掴み、強く握りしめられる。


「兄は……もう、いなくて……母も、父も……たぶん今ごろは……政府軍に……」


 それ以上、言葉は続かなかった。

 掠れた声が喉の奥で途切れ、こぼれ落ちた涙が床を濡らす。

 静まり返った工房に、その雫の音だけが、やけに大きく響いた。


 バクレンは険しい表情のまま腕を組み、視線を床に落とす。

 ミケルは目に涙を滲ませながら、震える彼女の手をそっと包み込んだ。

 焼き立てのパンの温もりが残る指先が、かすかな体温を伝える。


「――夢瑤さん」


 ミケルは、できる限り穏やかな声で語りかける。


「貴女は……沙紀が、どんな人生を歩んできたか……知っている?」


 夢瑤は、小さく、しかし確かに頷いた。


「……あの子はね、どこか貴女に似ていて……同時に、貴女のお兄さんにも似ていたわ。いつだって誰に対しても笑顔で、明るくて、快活で……」


 一瞬、言葉を選ぶように息を置く。


「磊さん――沙紀の、本当のお母さんのように……本当に、強い子だった。」


 ミケルはハンカチで目元を押さえながら、言葉を継ぐ。


「でも……それ以上に、繊細な子でもあった。厄災の日の記憶をはじめとする闇を、ずっと心の奥に抱え込んだまま……」


 声が、わずかに震える。


「それでも彼女は……その闇を、何年ものあいだ、私たちに吐き出してくれなかった。きっと……私たちを思って、言わなかったのだと……そう、思っていたのだけれど……」


 一拍おいて、彼女は続ける。


「……白伊、涼菟くんが…ある時から、うちに通い始めてくれて……そこで初めて、彼女の記憶と、心の底に沈んでいた思いを…彼に打ち明けてくれたの。」


 静かな声だったが、その一語一語には確かな重みがあった。


「沙紀は……私たちのことを、大切に思ってくれていた。それは、疑いようがない。でも、それでも……彼女の中で、私たちは家族にはなりきれなかった。磊さんの代わりには……なれなかったの。」


 ミケルは、ほんのわずかに視線を伏せる。


「……もちろん、さっき話したような理由も、きっとあったと思う。でも、それ以上に……その事実が、彼女の中では大きかったんじゃないかって……今は、そう思うの。」


 唇を噛みしめ、言葉を選ぶ。


「……きっと、沙紀にとって白伊くんは、同じ境遇を生きてきた……大切な“親友”だった。厄災の日以降、心の底から……本当に信頼できる、数少ない存在だったんだと思う。」


 ミケルの声は、そこで少しだけ掠れた。


「だから……彼女は彼にだけ、弱さを見せた。誰にも見せなかった恐怖も、後悔も……生き残ってしまったことへの、罪悪感も。」


 工房の空気が、さらに重く沈む。


「……そしてね」


 ミケルは、夢瑤をまっすぐに見つめた。


「それは、貴女のお兄さん――曹辰偉さんも……同じだったんじゃないかと、私は思うの。自分がどう死ぬかじゃなく……誰を生かすかを、最後まで考えていた。それが、彼らの強さで……同時に、救われなかった弱さだった。」


 その言葉は、慰めではなく、静かな事実として工房に落ちた。


「沙紀も……そして、貴女のお兄さんも。誰かを守るために、自分を後回しにして……最後まで、それを選び続けた人たちだった。」


 ミケルは、そっと手を握りしめる。


「だから……夢瑤さん。貴女がここにいることは、偶然なんかじゃない。彼らが――命を賭して繋いだ続きを、貴女は今、生きているということなの。」


 そう言ってから、ミケルは一拍置き、静かに言葉を継いだ。


「それに……沙紀は、まだ死んだわけじゃない。確かに、目を背けたくなるほどの重傷よ。それでも……彼女の息は、確かに続いている。」


 希望を押しつけるでもなく、事実を語る声音だった。


「だから……今度は、貴女が彼女にとっての“信頼できる人”になりなさい。私たちが、最後までなりきれなかった……磊さんの代わりに。彼女が帰ってこられる場所を、貴女が用意してあげて。」


 夢瑤の肩が小さく震え、頬を伝う涙が止まらなくなる。

 それでも彼女は、唇を噛みしめながら、しっかりと――こくりと頷いた。


 その様子を見届けてから、これまで黙っていたバクレンが、ゆっくりと顔を上げた。


 険しかった表情は、どこか不器用な優しさに変わっている。


「……夢瑤さんよ」


 低く、だがはっきりとした声だった。


「うちで、働かねぇか?」


 突然の申し出に、夢瑤は目を瞬かせる。


 バクレンは腕を組み直し、少し照れ隠しのように視線を逸らしながら続けた。


「大したことはさせねぇ。パン焼いて、売って、片付けて……それだけだ。だけどよ、この店は――帰る場所がねぇやつでも、立ってていい場所でありたい。」


 工房に漂う、焼き立てのパンの匂いが、また少しだけ濃くなる。


「誰かを守れなかった過去があってもいい。逃げてきた先でもいい。それでも、ここで生きるってんなら……俺は、文句は言わねぇ。」


 バクレンは、まっすぐに夢瑤を見た。


「沙紀が戻ってきた時、“おかえり”って言える場所がある方が……いいだろ。」


 夢瑤は、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くし――

 やがて、震える声で答えた。


「……はい」


 それは、か細いながらも、確かな意思を宿した返事だった。


「……ここで、働かせてください」


 その瞬間、ミケルは安堵したように静かに微笑み、バクレンは小さく鼻を鳴らす。


「よし、そうと決まればまずは説明だ! ちょっとそこで待ってろよ!」


 そう言い残し、バクレンはそそくさと工房を出ていった。

 その背中を見送りながら、ミケルは半ば呆れたように肩をすくめて笑う。


「ごめんねぇ、夢瑤さん。あの人、熱が入るとすぐああなの。」


「いえいえ……すごく、頼もしい方だと思います。」


 夢瑤の言葉に、ミケルはくすりと笑い、彼女の持ってきた手土産を手に取る。

 それからしばらく、他愛のない話を交わし、工房には穏やかな空気が流れた。


 ――その空気を、慌ただしい足音が破る。


「……っ!」


 今度は明らかに切迫した様子で、バクレンが工房へ戻ってきた。


「何よ、そんなに慌ただしくして。」


「た、大変だ。二人とも……表に来てくれ。」


 ただならぬ声音に、ミケルと夢瑤は顔を見合わせ、バクレンの後を追って店先へ出た。


 そして――三人は、思わず息を呑んだ。


 店の前を通る大通りを、整然とした隊列が進んでいる。

 青い軍服に身を包んだその軍列は、無言のまま、圧倒的な規律と存在感を放っていた。


 夢瑤の顔から、さっと血の気が引く。


「……なんで……」


 呆然とした声が、唇から零れ落ちる。



「……青龍隊が、ここに……?」



 続く…

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