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懐かしの日々 想い出

余命10年の父 前編

作者: 池畑瑠七

 酷く輝く星

 震えながら私が追い続けていたその光は

 ずっと憧れ続けた背中だった

 ただ一人痛みを抱え 逝ったその人は

 今も空で 見守っていてくれる


 この曲聴くと その背中を思い出す

 今も憧れ続けている 強く優しい光だ

(引用:M八七 作詞作曲 米津玄師氏)


 幾度目の命日を迎えるんだろう。

 もう数えることもしなくなった。


 最後の夜

 人工呼吸器の最後の一息 微かに吸い込んだ息

 待っても、吐きだすことはなかった

 その沈黙の瞬間を 看取ったのは自分だけだった

 母を呼んであげればよかった

 でも電話に立ったその間に

 逝ってしまうかもしれない

 そう思うと その場を離れられなかった


 苦しい呼吸を見ているのが辛くて

 もういいよ、こんなに苦しんで

 もうがんばらなくていいよ

 ありがとう、おとうさん

 その瞼が開くことはなく

 言葉を交わすこともできない

 でもこの想いは父に届いていると

 きっとわかってくれていると

 そう思って 闘い続けている父の顔を

 じっと見つめていた 



 後日、遺品の整理をしていて見つけた日記代わりのスケジュール帳に、毎日のことがさらさらと几帳面な美しい字で走り書きされていた。

 灰色な肺に一面拡がる一円玉みたいな斑点が見つかった日の事も、記されていた。


 入院直前の最後の一行に書かれていた文字に、どっと涙が溢れ出た。

 それは絶筆だった。


「我が人生に悔いなし」


 父は知っていた その時が来たことを。

 入院したら帰って来れないことを、最初から覚悟していた。




 それは突然の知らせだった。

「お父さん、肺に影が見つかったんだよ」「少し前の定期健診ではなんにもなかったのにね」

「精密検査がいるから、入院だって」


 私が高校生の頃、父はB型肝炎に罹患しているのが発見された。

 当時の医療では、完治することはない病だった。けれども、その頃はまだ症状らしい症状もなかったから入院治療も出来なかった。

 日々、できる限り節制し、細くながく健康を保つこと。当時にはそれしか、出来ることはなかったんだ。


 もともとアルコールは飲まなかったが、たばこは多かった。

 罹患が分かったその日を境にタバコをピタッと止め、塩辛いものが大好きだったがそれもやめた。

 塩分控えめ、良質たんぱく質を沢山とれる肝臓に良いと言われる淡白な食事に切り替えた。

 肉は鳥のささ身を焼いて。味付けもほとんどしない。冷ややっこには醬油すら掛けなかった。

 以前とは全く違う食卓。最初は味気ないものだったろうが、父は不平も一切言わなかったし、母は工夫を凝らしてずっと、支えていた。


 それから暫く経ち。母が乳がんを患い、片側乳房切除の手術を受けた。その時には「お母さんの方が早くお迎え来るかもしれないから、心配かけないようにしないとな。母さん孝行してくれな」

 母の入院介助をしながら、ぽつりと父は私に言った。


 幸いにして母は回復し、リハビリも順調で元の生活にもどることが出来た。

 それからわずか、3年後のことだった。



 どうか、何かの間違いであってくれ。昨日も元気に仕事に行ってたじゃない。きっと大丈夫だ。

 そう強く願いながら、車で45分かかる遠方の病院へ父を送り届け、検査入院の手続きを済ませた。


 たしか、翌々日。病院から連絡があった。出来るだけ家族揃って、来てほしい、と告げられた。それは、思った以上に事態が悪いことを意味していると即座に理解した。


 兄も呼び寄せ、母と一緒に医師の説明を聴いた。

「手の施しようが、ない。重度の肝臓癌。肺にも転移している。手術は不可能。腹水が溜まり、それが破裂したら危険、いつ起こってもおかしくない。覚悟をしていてください」。

 もって、1カ月。2-3週間かもしれない、と。


 衝撃以外の何物でもなく、わたしたちは言葉を失った。


 父には言えない。あまりに突然すぎる。あと1カ月?数週間? 入院したばかりの父に、とても、告げられない。それは死刑宣告じゃないか!

 告知はできなかった。その場で、医師と家族で「本人には告げない」と決めた。


 父には「肝硬変」、これから保存的治療をしていくそうだ、と伝えた。


 病院は完全看護で家族の付き添い自体は不要だったけれど、家に一人残されてしまう母を支える為、私は幼い息子と当面のあいだ実家に帰省することにした。


 それから家族で毎日、交代で看病というか、見舞いに通った。



 時々父の好きな音楽テープを持って行った。枕元に小さなラジカセがあったから、イヤホンで聴けるように。大好きだった和太鼓チームの演奏や民謡なんかをチョイスした。


 近所の人が持ってきてくれた山で採れたキノコを、どうにかして食べさせてあげたい。

 山菜採りに毎日のように出かけ、籠いっぱいに山幸を背負って帰って来る。キノコが、山が、何よりも自然が、大好きな父だから。そう思ってキノコ汁を炊いて、父の弁当用保温ジャーに入れ、差し入れたりもした。


 父の看病と、幼い我が子の世話。母のサポート。病院と家を往復する日々。母も私も淡々と、こなした。

 淡々とするよりほか、なかった。


 今かもしれない、明日かもしれない「そのとき」を、何もできずただじっと待つという、何とも形容しがたい時間。

 さらさらと、指の隙間を零れるように透明な時が無情に、流れていく。


 それはあまりに辛い、残酷な時間だった。

 ニコニコと遊ぶ、まだ言葉数も少ない幼い息子だけが、母にも私にも唯一の救いだった。


 毎朝、父の大切にしている沢山の植木や鉢植えに、母は水やりをした。残暑の日も多く、良く晴れ明るい青空の日が多かった。


 外水道のシャワーホースから撒かれる水が、そんな日差しにキラキラ輝いて、綺麗な虹を作っていた。


 物言わず静かに水やりをする母の背中とその細やかな小さな虹を、私はいつも、じっと見ていた。



 父の病状は、日に日に悪くなっていった。黄疸は一層酷く、腹水で腹は膨らみ、食はどんどん細くなっていった。でもそんな中、少し状態が安定しているとして、医師に頼み込んで彼は一晩だけ、一時帰宅許可をもらった。


 主治医は少し躊躇いを見せた。急変の可能性が十分に、あったからだ。けれど、父の強い要望で一晩だけなら、と願いを叶えてくれた。家族が離れずにつき、調子を崩しそうならすぐに、戻って下さい、と。

 先生も、それが最後と判っていてくれたからだと思う。



 その頃は自宅の庭一杯に、趣味のエビネなどの山野草を大事に沢山育てている温室があった。もう今後は世話ができないだろうから、それをどうしても取り壊したいんだと父はいった。 

 一晩自宅の布団で眠り、翌朝早くから父は動き出した。兄と夫も早朝に駆け付け、私達は父の言う通りに、片づけを始めた。

 縁側で「ああしろ、こうしろ」と指示をしながら、家族みんなでそれを取り壊す様子を座って見ていた父の姿が、目に焼き付いてる。


 ようやく温室が取り壊された庭には、その残骸と沢山の鉢植えがむき出しになって残った。

 父は、そこから選び出して「これとこれは、誰だれにあげてくれ」「これは、誰だれが欲しがっていたから取りに来てもらってくれ」。

 大事にしてくれる人に、貰って欲しい。大事に育てていた愛する山野草たちの嫁ぎ先を、細かく母に伝えていた。



 その日の夕方、父を連れ病院に戻った。


 それから数日後。看病に顔を出す度に見る父の顔は、痛みでゆがんでいることが多くなった。けれども彼は一度たりとも「いたい」「つらい」と口にしたことはなかった。どんなに痛く、どんなにつらく苦しかったろう。

 それでも決して弱音を吐かなかった。どこまでも我慢強い人だった。


 一時帰宅から数日後。


 あさ、病院から連絡があった。腹水が破裂した、と。

 母と駆け付けると、ベッドの脇には血液混じりの水が入った袋がつるされており、父の意識は、既になかった。



 後編に続く




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