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カンショー!  作者: 安城要
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怠惰なる殺人者(事件編)~『オフィーリア』を解く~

「ええ、ではわたくし、不肖白石賢人が状況について説明させていただきます」

せめて電気くらいつけませんか、という当然の提案を却下された薄暗い美術準備室の中で例の巨大スクリーンに一枚の絵が映し出される。

「まずはこの絵をご覧ください。これはジョン・エバレット・ミレイの代表作『オフィーリア』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/John_Everett_Millais_-_Ophelia_-_Google_Art_Project.jpg)です。初心者である戸田さんと米倉さんがおられますので、まずこの絵の背景から説明させていただきます」

いや、初心者は私だけだろ、と思いつつ、七海はその絵を見つめた。

「この絵の主題はシェークスピアの戯曲『ハムレット』です。戯曲とは芝居の、いわゆる台本のことです。よく勘違いされがちなことですが、シェークスピアは小説家ではなく劇作家ということになります」

どこが違うんだ?

「何が違うのか、と思われる向きもあるかもしれませんが、小説が一人称二人称の別有れど文章の中でその情景が語られるのに対し、劇は、舞台装置と役者の動き以外の情景は、誰かのセリフを通じて語る必要がある、という特徴があります。さて、では続いて『ハムレット』についてご説明をさせていただきます。デンマーク王が急死し、王弟が王妃と再婚し王位につきます。王子であったハムレットは父王の死に疑念をいただいていましたが、ある日王の亡霊に会い、自分は弟に殺されたのだ、と聞かされます。現王は父の敵だ仇討ちをしなくては、という思いと、次は自分の命が狙われるという恐怖、そしてこの秘密を知ったことを誰にも知られてはいけない、という焦りから、何も知らない他人から見れば、ハムレットの言動は次第に狂気を帯びていくように見えました。そんな彼を気遣った許嫁のオフィーリアに対しても、ハムレットはひどい言葉を投げつけます。そしてある日、ハムレットは王の放った刺客と勘違いし、オフィーリアの父を殺してしまいます。悲しみの中でオフィーリアは心を病み、そんなある日、彼女は編んだ花輪を木の枝にかけようとして、川に落ちて死んでしまいます」

あとはしょります、と言いながら賢人はスクリーンの絵を見た。

「そのオフィーリアの死のシーンを描いたのがミレイのこの絵です」

ふ~ん、と七海はその絵を見つめた。

「この後、川におっこちちゃうわけですか?」

はあ?と四対の目が七海に注がれる。

「なんだと?」

あ、いや、と七海は睨むように見た加納に瞬きした。

「これって、水面に彼女の姿が映ってるんですよね?だからこの後水に落ちるのかと」

よく見てください、と賢人が絵をアップした。

「これは既に水に落ちて浮いている絵なんですよ」

「あ、そうなんですか。昔確かシェークスピアの本を読んだ時にこんな感じの挿絵があって、てっきり水面に映ってるんだと思ってたんですけど」

「まあ、サキちゃんが見たその絵は確かに水に落ちる前の絵だったのかもしれないですね」

「白石くん、続けたまえ」

顔をそむけた早希が口を押えて肩を震わせているのに、むすっと加納が言った。

「続けます。彼女の死の情景は『ハムレット』第4幕第7場で王妃ガートルードのセリフによりハムレットに語られます。柳の枝に花輪をかけようとして枝が折れて川に落ち、人魚のように水面を流されていった。祈りの歌を口ずさみながら。やがてその服の裾は重く水を含み泥の中に引きずり込まれていった、という風に。このオフィーリアの死の場面は、文学の中で最も詩的に書かれた死の場面の一つと言われています。このわずかに両手を広げたような姿も、まるで十字架にかけられた殉教者のようですね」

賢人が水面に浮いた花を拡大した。

「ここに描かれている花も、単に彩りとして添えられているのではなく、彼女を表すような花が描かれています。ケシは死の象徴、勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』、キンポウゲは『無邪気』、花輪をかけようとした柳は『わが胸の悲しみ』『愛の悲しみ』です。この胸の赤い鳥も象徴的ですね。ここには騙し絵的に髑髏も描かれています」

さて、と賢人が口調を改めた。

「次にこの絵がどのように書かれたか説明します。この絵の執筆は1851年から2年の間です。ミレイはまず最初に背景を完全に仕上げてから、モデルを実際に服を着たまま風呂に浮かべてこの絵を描いています。モデルの名はエリザベス・ジダル、愛称はリジーです。彼女は貧しい家庭の出身で帽子店で働いていたのですが、ある画家に見いだされたモデルとなりました。それまでの基準からすれば決して美人とは言えなかったそうですが、その個性的な容姿からそれからは多くの画家に愛されそのモデルを務めています」

そして、とそこで言葉を切った賢人は四人を見回した。

「リジーはモデルを務めた画家の一人であるロセッティと婚約します。玉の輿とまではいかないものの、それまでの貧困生活から抜け出せるチャンスがやってきたのです。ところがこのロセッティという奴がとんでもない奴でして」

とんでもない奴?

「彼はリジーと婚約しながら、別のモデルの女性に思いを寄せていたのです。婚約しながらいつまで経っても結婚してくれない。それはその女性がロセッティの弟子と結婚するまで、8年にも渡り続きました。その生殺しのような生活と帽子店時代の無理な労働がたたって、リジーはそのころには痛め止めのアヘンチンキという、常習性のある一種の麻薬のような薬が手放せなくなっていました。そして長い婚約期間を経てやっと掴んだ結婚後も愛のない生活が続き、2年後、ついに彼女はアヘンチンキの多量摂取により自殺をしています」

以上です、と賢人が告げた途端、窓の外で凄まじい稲光が光五人の陰鬱な顔を白く照らした。その後の轟音が、部屋そのものを揺らす勢いで鳴り響いた。

「自殺・・・」

じっと睨むように机の表面を見つめていた夏樹が加納を向いた。

「部長は、リジーの死に疑念を抱いておられるのでしょうか。他殺、例えば、犯人は彼女の存在が邪魔になった男、とか」

「夏樹、めったなことを言うもんじゃない。誰が聞いているかわからないだろう」

たしなめるように言った賢人に、夏樹が意地悪く頬を歪ませた。

「あら、私は彼女の存在が邪魔になった男、って言っただけよ。それとも賢人は誰か特定の男性ひとを思い浮かべたのかしら」

「邪魔になったのなら離婚すればいい。当時は絵のモデルは娼婦並みに軽く見られていた。放り出すように離婚したところで彼女には何もできなかったはずだ」

「あら知らないの。カソリックは離婚できなかったのよ。死別しない限り、再婚のチャンスは無いの」

「ロセッティの思い人のジェーン・バーデンも結婚していた。どっちにしろ結婚は無理だった」

「ジェーンの夫はロセッティの弟子のウィリアム・モリスよ。いくらでも方法はあるわ。例えば師匠に夕食に呼ばれ、その帰途に血を吐いて倒れそのまま死亡とか。そこまで思い切らなくても、ロセッティとジェーンが協力すればじっくりと殺す手もある。ナポレオンがヒ素で殺されたのは1821年のことよ」

「あれも、壁紙の顔料からや自然由来と諸説あり毒殺されたとは証明されていない」

待って、待って、と早希が手を挙げた。

「二人の話も面白いからもう少し聞いていたいけど、今回の件、そもそもが部長が殺人事件として提案したんでしたよね。部長は、この件、何か新たな証拠のようなものを見つけてるんじゃないですか」

あ、という表情で賢人と夏樹が加納の顔を見る。

それまで、目を瞑り腕を組んでじっと二人のやりとりを聞いていた加納が、うむ、とおもむろに目を開いた。

「なるほど、なかなか趣のある意見をありがとう、白石くん、南くん。しかし、今回の件、私は諸君の見解とは少し違うのだよ」

「とおっしゃると?」

「私が殺人事件と言ったのは、オフィーリアの方なのだよ、白石くん」

オフィーリア・・と、意外な言葉に賢人が口の中で呟いた。

「オフィーリアとは・・・彼女の死は偶発的な事故でしょう?」

いや、と加納が机の上に顔を突き出して小声になった。つられたように皆も顔を寄せる。

「見てたんじゃね?」

は?

「彼女が川に落ちて死ぬところ、助けもせずに誰か見てたんじゃね?」

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