絵を見る(超初心者編)
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
ぺっっ!
うわっ、と声上げて七海は飛び退いた。
「な、何すんですかっ!!」
「ぺっ!ぺっ!ぺっ!てめえ来んなよっ!とっとと出てけよっ!汚らわしいんだよっ!」
「まあ、まあ、部長落ち着いて」
「触んなよっ、白石いいっ!今俺に触ると何すっかわかんねえぞ!」
「ともかく教室の中で唾を吐かないで。それに別にサキちゃんが悪いわけじゃないでしょ?」
「ちげよ、こいつの血が穢れてんだよ!親と同じ汚れた血がこいつん中ドクドク音立てて流れてんだよ!」
「まあまあ、とりあえずあっちで話しましょ、ね?ね?」
「放せよっ、てめえっ!わかった、血だな!血ぃ見てえんだな!わかったよ、見せてやるよっ!」
まあまあまあまあ・・
賢人と夏樹にずるずると引きずられながら、加納が別室に退場する。
扉が閉まるのを見届けてから、七海はぐったりと椅子に腰かけて俯いた。
言われなくてもとっとと出て行きたい気分であった。
扉が閉まる瞬間、賢人がニコニコと、ちょっと待っててくださいね、と言い残していなければ、この隙に遁走を決めているところだ。
加納のくぐもった叫びと、賢人と夏樹がぼそぼそと喋る声が聞こえてくる扉を見つめてため息をついた七海は、ふと早希に目をやった。
ニコニコを通り越し、わずかにニヤニヤとした笑いを浮かべて、早希は楽しそうに頬杖をついて三人が消えた扉を見つめている。
こいつつえーな・・・
そういえば、加納が喚き散らしている間も、どちらかと言えば面白いことが始まったいうようなうれしそうな顔をしていたような。
どれくらいの時間が経ったか、長いようで案外短かったのかもしれない。
ドアノブが小さな音をたてて、扉が開くと目を血走らせた加納がハアハアと息を吐きながら現れ、七海の脇に立った。
額に手を当てた加納は、首を振りながら手を差し出した。
「ああ、絵画鑑賞部はきみを歓迎しよう。まあ、なんだ、そう、精進してくれたまえ」
うわ~い、うれっしいなっ。
血走った目でゼイゼイと七海を見つめながら切れ切れにそう言った加納は、今日はどうやら体調が悪いようだ、これにて失礼する、と蹌踉とした足取りで美術準備室を出て行った。
それを見送った後、さて、とあっさりとした声で賢人が七海を見た。
「まあ、紆余曲折もありましたが、無事に入部試験も終わったことですし、今日からこの五人で仲良くやりましょう」
あのう、とわずかに不安そうに、すねたように、七海は賢人を見上げた。
「部長、納得したんですか」
「ええもちろん。先ほど歓迎するとおっしゃったでしょ?」
「いや、全然歓迎されている気がしないんですけど?」
顔の前で人差し指を立てた賢人はにっこりと笑った。
「部員、ああこの場合は本当の意味で絵画鑑賞をしたいという部員が五人を割るとこの美術準備室が使えなくなる約束になっていることを、わかりやすく、丁寧に説明しただけです。前の部長は卒業、一人は加納さんが部長になることになって辞めちゃって」
それが嘘か本当か確認する方法はないが、自分だって今すぐ辞めたいわい、と口にする前に封じられた感じだ。
ニコニコを笑いながら言う賢人を見ながら夏樹もクスクス笑っている。
人の好さそうな顔をしながらこいつらもつえ~な、と七海は嘆息した。
「まあ、そんな顔しないで。部長は細かいこと根に持つ人ではありませんから、明日になったらけろっとした顔で全部忘れてますよ。それに癖が強い人ではありますが、馬鹿でも悪人でもありませんから」
他に言いようがあろうというものだ。
「あのう・・私のけじめとして、入部させてもらっていいのかどうか、疑問なんですけど」
「どうして」
「いや、こんな入部理由・・・熱心に部活に取り組んでらっしゃる皆さんに申し訳ないというか」
変人とまで言われながらも部活に取り組んでらっしゃる皆さんに申し訳ないというか。
「入部理由なんてどうでもいいんです。いろんな入り口があっていいとぼくは思いますよ。こんなものは偶然の出会いみたいなもんです。ちょっと興味あるから入ってみよう、で十二分に入部理由になりますよ」
さて、と言いながら、この話はもう終わりとでも告げるように賢人は机の上のタブレットパソコンを手に取ると七海を向いた。
「せっかく入部していただいたんですから、早速絵画の見方について勉強していきませんか」
はあ、と七海は瞬きした。
もう、なんか全てがどうでもいいような気分であった。
七海は黙って頷いた。
「結構です。じゃあ今日は基礎の基礎編、ということで。チイちゃんもやります?」
「基礎の基礎、ならいらないかなあ。私は邪魔にならない程度に見させてもらいます」
ああ、と七海は頷いた。
「チイちゃん、もういろいろ知ってるもんね。さっきもヤゴとかのこと、よく知ってたし」
それトンボの幼虫、とクスクス笑って七海を指差した後、早希はニヤリと頬を歪ませて意味有り気に夏樹を流し目で見た。
くすっと肩をすくめた夏樹がいたずらっぽく笑って、同じ目つきで早希を見つめ返す。
「わたし、ゴヤのことなんて全然知らなかったよ。つい一時間前まで、ね」
はい?
「まあ聞いてて気づいたかもしれないけど、部長はゴヤ推しがすごくってね。去年の入部試験の問題もゴヤオンリーだったから、今年もそうかな、って大急ぎで勉強してもらいまして」
ニヤリと賢人も頬を歪ませる。
「サキちゃんも、と思ったんだけど、来るのが遅かったのと、部長が来るのが早かったせいで。だから早希ちゃんの座る位置を、部長は近くの人から順番に当てる癖が有りますから、座ってもらって。いやあ、サキちゃんが機転を利かせてくれて助かりました。きみ、結構図太いというか、頭いいですねえ。ちょっと冷や冷やしましたが、うまくやってくれて助かりました」
「まあサキちゃんよりは知ってる方かもしれないけど、そんな変わんないと思うよ」
では、と賢人がタブレットパソコンと大画面のスクリーンをつないで電源を入れた。
「すごいテレビですね。部の備品ですか?」
まさか、と賢人が苦笑した。
「百インチの4Kテレビですが、残念ながら美術の備品で部の備品はゼロ、皆無と思ってください。絵画鑑賞部は学内では帰宅部の認識ですので、部費もほぼゼロの貧乏部ですから」
なんか、また不安になってきたぞ。
「まず、絵画の歴史を簡単に説明しますね。西洋絵画の始まり、いわゆる美術としての絵画が系統立てて始まった最初は宗教画です。文盲の民衆に聖書の世界をわかりやすく説くために描かれたものです」
七海は頷きながら賢人を見つめた。
説明の上手い下手はともかく、賢人の説明は淀みがなく、声音も優しいため聞きやすかった。
「そのうち、絵の対象は神話や歴史的事象、物語の世界などへと広がっています。ただし、このころの絵はあくまで貴族や金持ちのもの、画家が描いた絵が画商に並び、客が訪れて好みの絵があれば買っていく、というのではなく、まず画家は官展などに出品し、そこで評価されればパトロンがつき、このような絵を描いてくれ、と客から依頼があればそれを絵にしていくという形になります。画家が自らの感性で好きに絵を描きそれが売れる、というものではなかったのです」
ナルホド。
よくわからん。
「そのころの絵を理解するためには、聖書の知識はもちろん、ギリシャ、ローマの神話、歴史の事象、文学などの教養が必要だったのです。それにプラスして、絵が描かれる場合の約束事を理解する必要があります」
「約束事、ですか?」
「そうです。じゃあここでクイズいきますね」
言いながら賢人はタブレットを操作した。
「この三枚の絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/57/Raffaello_Sanzio_-_Madonna_del_Cardellino_-_Google_Art_Project.jpg)(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Cima_da_Conegliano,_The_Virgin_and_Child,_64.8_x_52.1_cm_,_NG_London.jpg/450px-Cima_da_Conegliano,_The_Virgin_and_Child,_64.8_x_52.1_cm_,_NG_London.jpg)(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Lorenzo_di_Credi_(c.1456-1536)_-_The_Virgin_adoring_the_Child_-_NG648_-_National_Gallery.jpg/450px-Lorenzo_di_Credi_(c.1456-1536)_-_The_Virgin_adoring_the_Child_-_NG648_-_National_Gallery.jpg)を見て気づいたことを教えてください」
大画面に映された三枚の絵は思ったよりも鮮明であった。
椅子から立ち上がった七海はテレビの前に立つとじっくりとそれを見比べた。
気付いたことって言われても・・・
雰囲気も、描かれている事象も全然違う。写実的な絵もあれば、こっちはせいぜい高校生の美術の時間の絵きみたいだ。
しばらく眺めた後、助けを求めるように早希を振り返る。早希は既に気付いているのだろうか、内緒、とでも言うかのように唇の前に人差指を立ててにっこりと目を細める。
ため息をついた七海は再びテレビに向き直りじっとそれを見つめた。
あ・・・
「これ、この人、どれも同じ服装の人がいますね。この、青と赤の服の人」
ほう、と賢人がうれしそうに小さく拍手した。
「よく気が付きましたね。さすがです。そうです、それは同じ人なんですよ」
「同じ人、ですか?」
そうなんです、と言いながらタブレットを操作した賢人が一枚の絵のその部分を拡大する。
「そもそもが、いろんな画家がいろんな画風で絵を描くわけでしょ?だから説明されないとそれがどんな絵で、描かれている人が誰なのかわからない。だから、この人を描く時はこんな服装にしましょう、こんな物を持たせましょう、というルールを決めておく。そうすれば、誰が描いてもそれがどんな誰かわかる。これをアトリビュートと言います」
「アト・・・ト?」
「アトリビュート、日本語では持物と訳します。青い上着は聖母マリアのアトリビュートなんです。実際は、赤い服の上に青い上着というのが多いですね」
そう言いながら、賢人は一冊の本を七海に差し出した。
「絵を見ながら覚えるのもいいですが、こういう本も出ていますので一度読んでみてください」
はあ、と言いながら本を受け取った七海はその表紙を見つめた。
図像の何とかのなんとか。
こうやって勧められなければ、本屋で見かけても絶対手に取ることは無いようなタイトルであった。
「まあ、今日はそんなものがあるということだけ。じゃ、次からはクイズ形式で学んでいきましょう。この絵を見てください」
画面が切り替わる。
じっ様が剣を持ったフンドシ姿の若者に襲われているような絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/57/The_Martyrdom_of_Saint_Matthew-Caravaggio_%28c._1599-1600%29.jpg)だ。周囲では人が逃げ惑っている。
「さあ、このお爺さんは助かると思いますか、それともこのまま殺されてしまうと思いますか?」
ニコニコしながら聞くことか?
さあ、と七海は首を捻った。
がっちりと腕を掴まれて今にも剣を突き立てられそうな様子から見て助かりそうにないが、上から天使が手を差し伸べている姿も描かれている。
これ、天使に助けられるのか、それとも天使が魂を持っていく、つまり死ぬっていう暗示なのか。
わからんが、道徳的にはこう答えておくべきではないだろうか。
「助かります?」
「残念でした。彼は助かりません」
だからニコニコ言うなよ。
「何故って、ほら天使が上からシュロの葉を差し伸べているでしょ?シュロの葉は殉教のシンボルなのです。彼は殉教する、つまり死ぬ、という意味なんですよ」
あんた死にますよ、って言いに来ただけかい。使えない天使だ。
「これはミケランジェロ・ダ・カラバッジョの『聖マタイの殉教』という絵です。けどシュロの葉のシンボルの意味さえ知っていれば、タイトルを知らなくても殉教シーンだとわかるわけです。ちなみに、シュロの葉は殉教者のアトリビュートでもあります」
ややこしい。
「アトリビュートの他にも、ある物が描かれていれば何かを象徴している、という物もあります。多くは聖書由来ですね。例えば、脱ぎ捨てられた履物が描かれていれば、そこは神聖な場所という意味です。これは聖書に「聖なる場所では履物を脱げ」みたいなことが書かれていることからそうなったそうです」
次行きますね、という声とともに画面が変わる。
あまり裕福とは思えない家具の少ない壁に数枚の絵がかかっただけの粗末な部屋の中で、若い男の胸に女性が顔を埋め、男の方がそれを抱きしめている。
なんとなく別れを感じさせる絵だ。
さて、と相変わらずのニコニコとした声で賢人が七海を向いた。
「この絵、どんな絵か推理してください」
は?
「この絵、どんな状況だと思いますか。描かれていることからできるだけのことを読み取ってください」
と言われても。
「なんか、別れの場面みたいですね」
「そうですね。他には?」
と言われても。
七海は再び大画面に映し出された絵を見つめた。
これだけの絵で、あと何がわかるというのか。
「降参です。わかりません」
もう少し考えて欲しかったですねえ、と苦笑しながら賢人が絵の一部を拡大した。
「絵の中に絵があれば、そこに情報が隠されているということがままあります。ほら、これ、これはどうやらナポレオンの肖像画の模造品のようですね。それとこっちは雪景色です。それに涙を流しながら抱擁する二人の様子はまるで永遠の別れを予感させます。これらのことから、この後この若者はナポレオンのロシア遠征に出征し不帰の人となるのではないかということが推測できるわけです。ただこれは先ほどまでのいわゆる約束事とは違って、あくまでも作者の『匂わせ』と鑑賞者の推測の範囲の話になりますけど」
だあ~~っ、と口の中で言いながら机に突っ伏した七海の背後から南が、もう一杯紅茶飲む?と楽しそうに囁きかける。
「西洋の絵画を見るって、実はこういうことなんですよ。もちろん、絵を見た瞬間の直感的に感動するという美的感性も大切ですが、聖書を基本とした膨大な知識を元に、その絵に描かれたわずかなヒントを頼りにその絵の意味を読み取っていく、という知的な推理ゲームが絵画鑑賞なんです。だからって難しく考える必要はないですよ。小難しいことばかりではなく、鑑賞者の“気づき”に問いかけるような作者の遊び心みたいなものが散りばめられた絵も沢山ありますよ」
「遊び心、ですか?」
「そうですよ。ほらこれ、これは『東方三博士の礼拝』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Botticelli_-_Adoration_of_the_Magi_%28Zanobi_Altar%29_-_Uffizi.jpg)という絵ですが、ほら向かって右端のここ、明らかにカメラ目線の人が一人居るでしょ?」
「ああ、そうですね」
「沢山の人の中に紛れたこういうカメラ目線の人は、大抵作者自身か発注者を紛れ込ませたものなんです」
はい?
「この絵の場合はこの手前のカメラ目線が作者の画家、少し奥の青い服の、なんとなく「オレオレ」って感じで自分を指差した感じのカメラ目線の方が発注主の商人だと言われています」
それと、と絵の一部が拡大される。
「ほら、この絵はキリスト誕生の時代が描かれているのに、この人の格好はどう見ても中世以降のヨーロッパのものですよね。画家が昔の風俗に関する資料を収集することなどあまりできなかったでしょうし、せいぜい、昔の絵から推測するしかなかった。服装から町の風景まで、時代考証なんてほとんどできてない絵も沢山あります。そういう突っ込みどころを探すのも一つの楽しみ方ですよ」
そっちの方が面白そうだな。
「既定の説に反論を考えてみたりするのも楽しいですよ。反論というか、斜めに構えて見るというか」
「斜めに構えて見る、ですか?」
また変なことを言い始めたよ、この人は。
「そうです。例えばさっきの、この『聖マタイの殉教』。これは一見、この若者がマタイを襲ったという場面に見えますが、実は逆で、この若者はマタイを襲った襲撃者から剣を奪い取り、刺されたマタイを助け起こそうとしている絵なんです」
「あ、これそういう絵だったんですか。私勘違いしていました」
「と、言われたらそう見えてきませんか?」
は?
意地悪ねえ、と夏樹が苦笑する。
自らも苦笑しながら賢人が七海の顔を覗き込んだ。
「そんなことを言い出した人がいるんですよ。それで論争にもなっています。今はやっぱり、刺したのは若者の方だ、という説が優勢ですが」
立ち上がった賢人は嬉しそうに両手を広げた。
「遊び心ですよ、遊び心。もちろん基本となる知識は必要ですけど、絵なんて、心を自由にして楽しく見ればいいんです。その先に、気づきや閃きがある。そうしたら、こうだと思い込んでいた絵が全く違うものに見えてくるかもしれませんよ」
あ、と賢人がカーテンの閉まった窓の向こうを見透かすように見た。
「ごめんなさい、もう暗くなってきてますね。今日はこれくらいにしてそろそろ帰りましょうか」
「そういえば、何で昼間っからカーテン閉めてるんですか?」
「ほら、ここに貼ってある絵のポスターとか、日光を浴びると変色しちゃいますからね。さあ、帰りましょう」