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カンショー!  作者: 安城要
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四角な船(後編)

それで、と早希が言った。

「乗り込むところの絵があって、洪水が起こるところの絵があって、船の中のムニャムニャがあって」

なんだよムニャムニャって、と呟いた七海を無視して早希は続けた。

「次は船から降りるところですな」

そうですね、と賢人も頷いた。

「確か聖書の創世記によれば水浸しになった世界は、150日目くらいに水が引き始め」

「え、賢人さんさっき40日間て言いませんでした?」

よく思い出してみれば、それは雨が降り続いた期間だったようです、と賢人は悪びれることなく言った。

「箱舟は7か月ほど後にアララト山という山に漂着したそうです」

アララト山?と早希が瞬きしながら賢人を見た。

「そんな山本当に有るんですか?」

「一応、トルコに同じ名前の四千メートル級の山があり、そこが第一候補のようですね」

ほう、と七海は頷いた。

「そんな巨大な船だったらもしかして今も残骸くらいは残ってるんじゃないですかね?」

「腐ってなくなってるんでない?」

一応神話の中の出来事ですけどね、と賢人が苦笑した。

「ただ、同じことを考えた人はいたようですね。西洋の人々にとっては、聖書の記述は“実際の出来事”ですから」

だしょ?

「随分以前から何度も探検隊が組織されて探索が行われました。かなり以前に、箱舟の残骸を発見したと発表したチームも有りましたが」

が?

「後にガイドが「旦那さん達は最初っからあの木片を持って山に登った」と暴露し、嘘がばれてしまいました」

それはいけませんね、と顔をしかめて沙織が言った。

「それは余りにも愚かな行いです」

だよね。いくら名誉が欲しいからって考古学の発見とかで偽装はだめだよな、歴史狂っちゃうから。

「少し握らせて口止めをしておくべきでしたね」

そこかよ。

「直近では2010年に香港のチームが山頂近くで4800年前の木片を発見したと発表しましたが、それが箱舟の残骸だとは確認されていません」

「中国の人とか、ふつーに偽造しそうなイメージがあるんですけど」

それはちょっと偏見が過ぎるんじゃないですかね、と苦笑した賢人はタブレットを手に取った。

「箱舟が漂着したのはイランかイラク辺りという説もありますし」

「まあ普通に考えれば、水が引くに従って低い方へ低い方へ流されていくってのが普通ですもんね。四千メートルの山の山頂付近とか、確実に座礁したって感じですよね」

そういう考え方もできますね、と賢人が笑う。

「そして水が引くと、ノアは地面が乾いたかどうか確認するために最初にカラスを放ちます。しかしまだ地面が乾いておらずカラスはすぐに戻ってきます」

「そして、途中で疲れたカラスは泥の中に降りました。そして泥だらけになったカラスの体は、それ以降真っ黒になってしまいましたとさ」

「アンデルセンか」

有りそうですね、そういう由来譚の寓話、と笑った後、賢人はタブレットを手に取った。

「そしてノアは次にハトを放しました。しばらくするとハトはオリーブの枝を咥えて戻り、船の人々は水が引いて地面が現れたことを知るのです。これによって神の罰である洪水は終わりました。こうしてハトとオリーブは神との和解の印として平和の象徴となったのです」

「んで、何も持たずに帰ってきたカラスは悪いイメージ、ハトはいいイメージになったのですな?」

「なんか胸糞悪いな。そもそも私は前から、ハトの偽善者ぶった顔が気に入らなかったんだよな」

七海さん、と言いながら沙織がにっこりと七海に手を差し出した。

「握手してください」

「なんでです?」

「なんでもいいから握手してください」

いやだよ、怖いよ。

そもそも、と早希が吐き捨てるようにして言った。

「オリーブって温かい地域の植物じゃないのか?四千メートルの山のどこにそんなもん生えてたんだよ?何十キロも飛んで咥えて来たのか」

「リョコウバトなんでないかい?」

「聖書には、アララト山の山頂付近に漂着したとは書いてはないですから、ふもとの方という可能性がないわけではないですけどね」

例えば、と賢人はスクリーンに一枚の絵を映し出した。

「フィリップ・リチャード・モリスのこんな絵(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/7d76dfa2.jpg)が有ります。これはさっき言った、水が引いたかどうか確認するために窓からハトを放す様子を描いた絵ですね」

ほうほう。

「なんか、ほら行ってこいっ!って感じに、おらああっ、て窓の外に向かってハトを放り投げているように見えなくもないっすね」

賢人の顔を見ながら言った七海に、いやいやそこじゃないぞ、と早希が首を振った。

「窓の外、まだまだ全然水浸しじゃねえか、まだ早いって。ノア焦り過ぎだよ」

どんな絵を見ても突っ込みどころを見つけるのですね、あなた方は、と賢人が嘆息する。

「そしてこれがヒエロニムス・ボスの『アララト山のノアの箱舟』(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/4f13ad07.jpg)です」

だから~、と早希がため息をつきながら言った。

「山頂付近みたいだけど、四千メートル級の山の山頂付近でもまだまだ周り水浸しじゃねえか。こんなところに放されても飢え死にしちゃうだろうが。ノア焦るなって言ってるだろが!」

いや待て、と七海が早希の肩を掴んだ。

「よく見ろ!船が安定の悪い場所で座礁したため、船がひっくり返る前に急いで動物達を逃がしてるんじゃないか、これ?そんでもって人間はまだ危険な船に残って、最後の一匹まで動物達を逃がそうとしてるんでないか?」

「うむ、なるほど!つまりキリスト教的博愛精神という奴か」

「そうだ、汝、隣人どうぶつを愛せよ、という奴だ」

この時代はまだキリストは生まれてませんて、と賢人がため息をつく。

つまりは、とここで沙織がずいとばかりに進み出た。

「ノアは、自分の妻や子供達よりも動物の方が大切だったというわけですね?里に下りてきて人を傷つけたクマを射殺したら鬼電してくるいかれた動物愛護主義者の元祖がノアというわけですね?」

それ違うと思う。

そして、と沙織を無視して七海は頷いた。

「動物達を全て下ろした後、ノアが家族にも降りるように急かしながら船を降りようとすると、息子のセムが「まだ動物が残っていないか見てくる!」と駆けだして行こうとします。いよいよ激しく揺れ今にも崩れそうな船にノアが止めようとすると、少し向こうで振り返ったセムは、片頬でニヤリを笑いながら「俺なら大丈夫だ」とノアを指差し「外で会おう、親父!」」

勝手にセムに死亡フラグを立てないでください、とため息をついた賢人は、こんな絵もありますよ、とスクリーンの絵を切り替えた。

「これはダニエル・マクリースの『ノアの生贄いけにえ』(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/02bb7130.jpg)です。船から降りたノアは神に感謝の生贄を捧げ、神は二度と大洪水は起こさないという約束の印として空に虹を掲げるのです」

いかにも希望にあふれた美しい虹のかかるその絵をしばらくじっと見つめた後、突然早希が、あれ?と言った。

「確か、箱舟には一つがいずつの動物しか乗っていなかったんですよね?」

「そうですね。それが何か?」

これって、と早希が件の絵の中央を指差す。

「そんでもって、これって動物を生贄に捧げてるんですよね?」

「だと思うぞ。よくわからないけど焼き野菜ってことはないだろう?それがどうかしたか?」

だったら、と再び早希の指がスクリーンを指差す。

「一匹が生贄にされたこの瞬間、なにかの種が1種類絶滅したことになるんでないかい?」

は?という顔で一同が一瞬考え込むような顔になったが、すぐに気まずそうに顔を見合わせた。

「たしかに・・」

「まあ、そういうことになるわな」

「ねえ」

しばらくの沈黙の後、なにかじっと考え込んでいた沙織が、目を細めて顔を上げた。

「わかりました」

はい?

これは、と沈痛な面持ちで沙織が首を振った。

「これは言っていいものかどうか迷いましたが」

「なんですか、もったいぶって?」

はい、と沙織は頷いた。

「ノアの箱舟には確かに一つがいずつの動物しか乗っていませんが、ある動物だけ4つがい乗っていると聖書には明記されています」

はい?

よく見てください、と沙織はスクリーンを指差した。

「この絵、何で人間が7人しか描かれていないのでしょうか?」

その言葉に、沙織以外の3人がじっとスクリーンを見つめる。

どれほどの時間が経ったろうか、長い静寂の後、賢人がなんとか口を開いた。

「だ、誰かの陰になって、見えないだけじゃないですかね、それ」

ね、ねえ、と七海も頷いた。

「まさか、いくらなんでも、ねえ?」

いや、と早希が目を細めてスクリーンを見つめた。

「有り得ない話ではないぞ。イサクの犠牲の話もあるからな」

再びの長い沈黙の後、賢人がため息をつきながら、この話はここまでにしましょうか、と呟くように言い、七海もがくがく頷いた。

そして、と賢人がスクリーンに一枚の絵を映し出した。

「それと、一応申し上げると、システィーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの『ノアの煩祭』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Michelangelo%2C_Sacrifice_of_Noah_00.jpg)という絵には2頭の羊が生贄にされる様子が描かれています」

「どうせ絶滅するなら2匹とも、というわけですな?」

「絵から見るとメリノ種っぽいな。こうしてメリノ種の羊は全滅しましたとさ」

「今もいるだろ、メリノ種?」

「生贄にされなかったのがオーストラリア・メリノ種、ニュージーランド・メリノ種、フランス・メリノ種とかで、されたのがスコットランド・メリノ種だ」

メリノ種の羊ばかり沢山積んでたんだな、ノアの箱舟。

そして、と賢人はそこで一度スクリーンの絵を消し、一同を見渡した。

「ノアは船から降りた後、どうしたと思います?」

は?

いや、と早希が軽く肩をすくめた。

「人類の祖先となって、再び人間は増えていったんじゃないんですか?」

まあそうなんですけどね、と賢人が笑った。

「船から降りた後のノアの生活も一応記録として残ってるんですよ」

それは、と七海が手を挙げて行った。

「ギャグやパロディーとしてじゃなくってですか?」

「逆に、なんで一足飛びにギャグやパロディーに行くのかの思考の方がわかりませんが?」

言いながら賢人は一度置いたタブレットを手に取った。

「ノアは船から降りた後、農夫となりブドウ作りを始めるのです」

は?

一度顔を顔を見合わせた七海と早希は賢人を向いた。

「あのう、牧畜の人ではなく農夫なんですか?」

「だよな。あっちの生活考えたら、牧畜人になりそうなもんだよな」

「確かにイメージ的にはそうですが、何故か彼は農夫となってブドウ作りに励みます」

ブドウ作りって、と再び七海と早希が顔を見合わせる。

「もっと穀物とか作れよ」

「なあ」

しかし何故か、と賢人はスクリーンに一枚の絵を映し出した。

「かれはせっせとブドウを作り、それを原料にせっせとワインを作り、ある日したたかワインを飲んで裸で寝てしまいます。その様子を描いたのがこれ、ジョヴァンニ・ベリーニの『ノアの泥酔』(https://libeken.com/wp-content/uploads/2020/11/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B3%A5%E9%85%94-1024x669.jpg)です」

その絵を見たとたん、だあ~、と言いながら七海が脱力して椅子に座った。

「なんだよそれ、ノアのイメージダダ下がりだな」

「だな。なんか魔王を倒した後することなくなって酔いどれになった勇者、って感じだな」

「ブドウ作ってるだけまだマシだがな」

なんだかな~、と言いながら七海はじっとその絵を見つめた。

「真ん中と左の小汚いのはノアの飲み仲間ですかね?そんでもって「爺さん、こんなとこで裸で寝ちゃだめだろが」と一見たしなめるようなことを言いながらニヤニヤし、右の若い飲み屋の店員が仕方なく御開帳ごかいちょうしたものを布で隠している」

なんですか御開帳って、と賢人が嘆息する。

そこで、うむ、と早希が腕を組んだ。

「そしてその若い店員はその様子を見ていたバチカンの幹部に見いだされ、後にミケランジェロの『最後の審判』の人々の股間に布を描く画家となるのだな」

時代考証が無茶苦茶ですね、と賢人がため息をつく。

「しかし御開帳を隠している布がなんかやけに綺麗だな」

「うむ、女性物の下着に見えないこともないぞ」

「このとっさの場面にそんなものどこから出て来たんだ?」

「だから店の若い衆が持ってたんだろさ?」

「だから、なんで店の若い者がそんなもん持ってるんだよ?」

「あくまでも可能性の一つだが、彼の出勤少し前に店の近所の家に干してあった洗濯物が一つ無くなった可能性は否定できまい」

その追及はその辺で止めませんか、というため息交じりの賢人の声に、うす、と二人は頷いた。

「それと、この3人は飲み仲間と店員ではなく、ノアの3人の息子です」

「ああ、箱舟に一緒に乗ってた?」

「はい。実はこのエピソードを経て、息子の一人ハムの息子カナンは、ノアによって呪いをかけられてしまいます」

「え、なんで?」

「だな、全裸で酔っ払った親父を介抱して布をかけようとしている孝行息子だろ?」

本当にそうですかね?とここでらしからぬ笑みを浮かべた賢人は二人を順に見た。

「その経緯については自分で調べてみてください」

「え、教えてくれないんですか?」

「たまにはこうやって宿題を出さないと自分で勉強しないでしょ?」

ケチですねぇ、と口を尖らせた七海を見て笑った賢人は、腕時計に目を走らせると、遅くなってきましたね、そろそろ帰りましょうか、とタブレットのコードを外した。

3人がてきぱきと片付けるのを横目で見ながら元座っていた席に戻った沙織は、読んでいた本を手に取って3人を見た。

「私は友人と待ち合わせをしているのでもう少し居ます。後は閉めておきますから」

「そうですか、ではお先に失礼します」

手を振りながら出て行った3人を見送ってから暫く本のページをめくっていた沙織は、そこでふと気づいたように顔を上げ、自らのスマホを引き寄せると何かを検索し始めた。



翌日。

少し遅れて美術準備室に現れた沙織は、七海の姿を見つけるとゆっくりと歩み寄り、その肩に手を置いて寂しそうな笑みを浮かべてやや俯き加減に呟くようにして言った。

「検索しても何の益もありませんでしたよ」

え、何?何の話?


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