窓辺の女
え、この絵ですか?と美術準備室に現れた途端スクリーンに大写しになった絵について問うた七海に、一度スクリーンを見てから七海を振り返った賢人は頷いた。
「これはフェルメールの『窓辺で手紙を読む女』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/Vermeer_-_Girl_reading_a_letter_at_a_window%2C_Dresden%2C_2021_Cupid_restoration.jpg)です」
実は、と賢人が悪戯っぽく言った後夏樹と顔を見合わせて笑った。
「この絵には面白いエピソードがあるのですよ」
ほう、と先にカバンを大机に置いてから七海はスクリーンの近くに寄ってその絵をじっくりと見つめた。
「何が面白いんですかね、この絵の?」
どこかの部屋の中、右側四分の一ほどを萌黄色のカーテンを手前に配し、その奥の部屋の中でカーテンと同じ色の服を着た若い女性が窓辺に立って手紙を読んでいる。奥の壁には少し大きすぎるくらいの天使の絵がかかっていた。
その絵をじっと見つめた後、七海は、わかりました、と賢人を振り返った。
「この女性は既に死んでいて、幽霊なのです」
え、と夏樹が驚いたように声をあげた。
「なんでそう思ったの?」
窓ガラスです、と七海は誇らし気に腕を組んだ。
「窓ガラスに写った彼女の姿が髑髏になっていることからそれがわかります。ガラスに写っている服の襟の白い部分の大きさも違いますし」
そう見えるだけですよ、と賢人が嘆息した。
「では、絵に描かれているおっさん臭い顔をした天使が、弓矢で天狗を倒して、やったぜ!とガッツポーズをしていることの方を言ってらっしゃるのでしょうか?」
「確かに地面に落ちているのが赤いカラス天狗のお面に見えないこともないですがそれも違います」
では、と七海は首をひねっているところに、ばかだなあ、と言いながら早希が入ってきた。
「これがそんな絵のわけないだろうが」
どもから聞いてた?と思いながら、七海は、じゃあ、と不満そうに早希を向いた。
「お前はこれがどんな絵だというのだ?」
これは、とカバンを大机に置きながら早希が頷いた後賢人を向いた。
「彼女の彼氏がユニットバスでシャワーを浴びて出てきたら、別の女性からもらった、昨日の夜は素敵だったわ、と書かれた手紙を彼女に発見された瞬間に出くわしたところなのです。これはこの後に続く修羅場を予感させる絵なのです」
「何があったんですかね、“昨日の夜”に?それと手前のはユニットバスのカーテンではありません」
嘆息した後、賢人は既に出して机の上に置いていた自分のタブレットを手に取って、検索済みだった画面を二人に向けた。
「実は、こんな絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Jan_Vermeer_-_Girl_Reading_a_Letter_at_an_Open_Window.JPG)があるのですよ」
七海は小さい画面の中のその絵をじっと見つめた。
それは、スクリーンに映っている絵と全く同じ構図、同じ色使いの絵であった。しかし、間違い探しをする必要もないほど目立つ所に、一か所だけ大きな違いがあった。
「壁の天使の絵がありませんね」
「そうなんです。これ、どういう状況かわかりますか?」
しばらくじっと賢人の顔を見つめた後、七海は、わかりまいた、と頷いた。
「これは、どちらかが羊のヘレンさんの贋作ですね?」
羊のヘレンさん?と先日の会話に参加していなかった早希が不思議そうに七海を見た。
「何者だ、それ?」
「羊のヘレンさんは、羊のシ〇ーンのおばさんでフェルメールの絵の贋作を描いていた詐欺師だ」
「ホントなのかウソなのかバカなのか、突っ込んだらいいのかボケたらいいのか感心したらいいのか全然わからないことを言うな」
本当ですね、とげんなりしたように言った後、賢人は七海を向いた。
「ちなみに、メーヘレンはフェルメールの描いた絵をそのまま写した贋作は描いてませんよ。画風は似せても構図は全く違う絵ばかりです」
ほう、と七海は首をひねった。
「んじゃあ、これはどういう状況だ?」
しばしの沈黙の後、もしかして、と早希が手を打った。
「どっかの環境保護団体の活動家が、フェルメールの絵に天使の絵を描き足したんじゃないか?」
「おおうっ!絵画テロもついにその次元まで来たか!」
違います、と賢人が嘆息した後首を振った。
「ただ、これが同じ絵だと言われた点では近づいて来ましたね」
同じ絵?と顔を見合わせた七海と早希はそのままじっと考え込んだ。
「同じ絵ということは、誰かが天使の絵を描き足したということは事実なんだよな?」
「けどどういう状況だ?描き足す前の写真が残っているということは、フェルメール自身が描き足したわけじゃないよな」
フェルメールは17世紀頃の人ですからね、と賢人が頷く。
もしかして、と今度は七海が手を打った。
「この絵を保管している美術館が「この絵の背後の壁が真っ白で殺風景なので誰か何か描き足してくれませんか?」と募集をかけて描いてもらったんじゃないか?」
「『最後の審判』にフンドシ描き足した感覚でか?何十億もする絵にそんなことするか?」
「そこまでぶっとんだことやったから“面白いエピソード”なんじゃないか?。自分の絵が1億何千万円かでオークションで落札された瞬間にシュレッダーにかけたバンクシー並みに」
あれは笑えませんでしたよ、と賢人が今日何度目かのため息をつき、えっ?と早希が目を見開いた。
「そんなことあったの?」
それがあったのだよ、と七海はしかめ面しく頷いた。
「赤い風船に手を伸ばす少女の絵(https://media.and-owners.jp/wp-content/uploads/2021/11/GwithB.jpeg)」
「おお、見たことがあるぞ」
「それをシュレッダーをつけた特製の額に入れてオークションにかけ、高値で落札されて皆が拍手している目の前で、絵が下にスライドして半分までがシュレッダーで裁断された」
うへえ、と顔をしかめた早希が舌を出した。
「なんでも、ピカソの「いかなる創造活動も、初めは破壊活動だ」という言葉を引用して、オークションの商業主義を批判するためにやったそうな」
「だからってやり方が極端だろが?」
「けどこれが注目されてバンクシーの名前が広まり、絵も更に高値で取引されたそうな。それと、半分まで裁断された絵も『Love is in the Bin(愛はごみ箱の中に)』(https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/pione1/20211016/20211016172550.jpg)というタイトルに変えて新しい芸術作品としたそうだ」
「したたかだな、バンクシー」
とりあえず、と七海は早希に頷きかけた。
「最初にネットで見つけた時はタイトルだけではどういう状況かわからなかったが、そのオークションのシーンはY〇u T〇beにも上がってるから一度見てみろ」
早速スマホで検索を始めた早希を横目に、それで、と七海は賢人を向いた。
「実際これってどういう状況なんですか?」
じゃあ1つヒントを、と夏樹がちらっと賢人の顔を見てからにっこりと口を開いた。
「描き足したところまでは当たりなんだけど、描き足したのは天使じゃないのよ」
大ヒントですね、と賢人が笑い、は?と言いながら七海はもう一度二つの絵を見比べた。
いや、他にもどこか細かいところが描き足されてはいるのかもしれないが、やっぱ一番違うところは天使の絵だろ?
バンクシーの絵の動画を繰り返し見ながら、ひえええっ、とかすげーとか叫ぶように言う早希の声以外、美術準備室はしばし沈黙に包まれた。
そこに、遅れました、と言いながら沙織が登場すると、スクリーンの前に立って一枚の絵を見ながら黙り込んでいる面々を不思議そうに見回した。
「どうしました、その絵が何かありましたか?」
七海がここまでの経緯をかいつまんで説明すると、賢人のタブレットを受け取ってじっと見つめた後、沙織はスクリーンとタブレットの画面を暫く見比べ、賢人を向いた。
「壁、ですか?」
は?
これは、と言いながらタブレットの画面を賢人に向ける。
「これは、壁を後から描き足して天使の絵を塗りつぶしたのではありませんか?」
さすが、と今日初めて賢人が感嘆の声を出した。
「さすがは沙織さんです、正解です」
ち、ちょっと、と七海が慌てて賢人と沙織の顔を見比べた。
「え、え?なんでそんなことをしたんですか?」
そうだそうだ、と早希もどこか不満そうに口を挟んだ。
「もしかして、今度こそ環境活動家がやらかしたのか?」
そうではありません、と賢人が笑った。
「塗りつぶした理由はわかりませんが、これはずっと昔にされたことです。だからこの絵はずっと、天使の絵は無いと思われていたんですよ」
ずっと昔?と七海と早希が顔を見合わせた。
「じゃあ、なんで塗りつぶされる前の写真が残っているんだ?それもカラーの?」
「なあ?」
そう言った後、あ、と早希が手を打った。
「もしかして、天使の絵のある方はずっと昔に誰かが描いたフェルメールの絵の模写ですか?それが見つかったから、フェルメールの絵にも天使の絵が描かれていたことがわかった?」
「同じ絵だって言ってたろ?」
修復したんですよ、と賢人がタブレットを操作した。
「昔X線かなにかで調査して、結構以前から天使の絵が描かれていたことはわかっていたのですが、それを近年修復して上から塗られた壁を除去したんですよ」
「そんなこと、簡単にできるんですか?」
「簡単ではありませんよ」
ほら、と言いながら賢人はタブレットの画面を七海に向けた。
そこには、絵の上の方から少しずつ削るようにして天使の絵が姿を現す連続写真が掲載されていた。
「何年もかけて、こうやって少しずつ上から描かれた壁の絵具を除去していったのです。このプロジェクトには、日本の企業だった団体だったかが資金援助かなにかの形で参加していたと思いますよ」
それで、と廊下の方から静かな声が響いた。
「その塗りつぶされた絵には、どんな秘密が隠されていたのですか?」
全員が一斉に振り返った視線の先に、廊下から顔半分だけを覗かせてじっと美術準備室の中を見つめている桜間の姿があった。
あ、あの?と七海が恐々と桜間に向かって手を伸ばした。
「桜間さん、いつからそこに?」
はい、と沙織が頷いた。
「私が来た時には、既に廊下から耳を澄ませていました」
だったら声かけて連れて入って来いよ!なにガン無視して置いてきてんだよ!
皆が見つめる視線の先でゆっくりと美術準備室に歩み入った桜間は、スクリーンの前に立ってじっくりとその絵を見つめた後、賢人を向いた。
「これは、かつてカラス天狗と天使が世界の覇権を賭けて戦ったという歴史的事実を隠ぺいするために塗りつぶされたか」
天使はともかく、カラス天狗は世界の覇権は狙わんと思うぞ?
「あるいは単に、下半身を晒したままキャッチャーミットを踏みつけ、俺スゲェ的な顔をした天使にムカついて塗りつぶしたか」
あんたもだんだん絵画鑑賞部に毒されてきたな?
バンクシーの絵がシュレッダーにかけられる動画を巨大スクリーンで鬼リピしながら、おおっ、スゲエ!、も一回、も一回見よ!と叫んでいる早希、沙織、桜間を大机に頬杖をついて横目で見ながらため息をついた七海は、それで、と彼女達を見ながら苦笑を浮かべている賢人に顔を寄せた。
「実際のところ、なんであの天使の絵は塗りつぶされたんですかね?賢人さんは知ってるんじゃないですか?」
いいえ、と賢人は苦笑しながら首を振った。
「“実際のところ”は知りません。ただ、個人的な説は持っています」
「それを是非」
七海の顔を見ながらしばらくじっと考えた賢人は、では、と口を開いた。
「当時のオランダはプロテスタントが主流派でフェルメール自身もプロテスタントでした。ご存じのとおり、プロテスタントは偶像崇拝はしませんので、普通なら天使の絵など描くとは思えません。ただ、彼は1653年に結婚しているのですが、相手の家はカソリックで、この宗教的な理由で彼女の母親はこの結婚に大反対だったとのことです。結婚後しばらくフェルメールは妻と二人で暮らしていましたが、しばらくしてこの義母と同居を始めました。そしてこの絵は結婚の数年後に描かれています。その辺りの宗教的な事情から、フェルメールは壁に天使の絵を描き、そして彼自身か、それとも彼から絵を買った誰かがこの絵を塗り潰したたのではないかとぼくは考えています」
つまりは、と七海は頷いた。
「イソノサ〇エさんと結婚したフグタマ〇オさんはイソノさん一家と一緒に暮らすことになったのですが、マ〇オさん真言宗だったにも関わらず、イソノさん家は学会員だったため、姑のフ〇さんに遠慮して自らの描いた絵の壁に立派なダイ〇クさんの絵がかかっている様子を描きました。しかし和歌山県高野町でそんな絵が売れるはずもなく、売っ払うタイミングでダイ〇クさんの絵を塗り潰しましたとさ、って感じですかね?ムコさんも大変ですね」
「その比喩はどうかとは思いますし、実際そうだったかどうかもわかりませんが、ぼくが抱いのも大体そんなイメージですかね」
「画家も案外庶民的と言うか、なんですね」
「どんな立派な人でも、家庭内の内情はそんなもんなんじゃないですかね?」