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カンショー!  作者: 安城要
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(特別番外編)渦【後編】

さあ、どうぞ、と目の前に置か得た紅茶のカップに、ありがとうございます、と礼を言った後、七海は初江の目を盗んでそっとカップを持ち上げてその下を覗き込んだ。

そして慌ててテーブルの下で賢人の脚を突く。

(マイセンですよ、これ!ねえ、マイセン!)

そうですね、と一口飲んで、はあ、と満ち足りた表情になった賢人は目を瞑ったまま答えた。

(確かにマイセンですけど、それが何か?珍しいですか?)

ふざけんなよ!珍しいよ!百貨店の売り場でしか見たことねえよ!

初江がトレーを持って戻ってくると同時に、甘い香りが室内に漂った。皿の上に乗っているのは、どうやら手作りのクッキーらしい。

「さあ、どうぞ」

いただきます、と軽く頭を下げて、七海は早速それに手を伸ばして、控え目な口でそれを頬張った。

その間、じっと初江の視線が七海を見つめていたが、それは彼女が自らのお菓子造りの腕前を心配してのものでないことは明らかであった。

黙ってクッキーを一枚食べきり、軽く舌で唇を舐めてから、さて、と七海は自分を見つめる視線をピクリとも動かさない初江を向いた。

「それで、あの絵は一体なんだったんですかね?」

さあ、と初江は微笑んだ。

「どんな絵だと思う?」

呪いの絵っすか、と賢人に聞いた七海に、ぼくに聞かないでもらえますか、と賢人は嘆息した。

そうね、と微笑んだまま俯いた初江は、やがてゆっくりと顔を上げると再び七海を見た。

「あの絵について話すと長くなるけれど、聞いてくれる?」

食べている間なら、と頷きながら答えた七海の足をテーブルの下で賢人が軽く蹴飛ばす。

そう、と呟くように言った初江はどこか懐かしそうに遠くを見つめる目つきになった。

「彼女と初めて会ったのは忘れもしない私が24歳、彼女は6歳年下で、芸術大に入学したての春のことだったわ・・・」



きっかけはほんの偶然、本当に些細なことだったの。

その当時私は祖父が創設した小さな財団で働いていたの。その当時はまだまだ女性は結婚して家庭に入るもの、という風潮が強かった時代だけど、父は先進的な考え方を持っていたのね。これからは女性も社会に出て活躍すべきだって。そのくせ、自分の近くに置いて監視いないと心配だったのでしょうね、結局家業のお手伝いみたいな立ち位置で、社会の荒波に揉まれるというのとはちょっと違ったものだったわけ。

その頃は東京とここを行ったり来たりしながら生活をしていたんだけど、東京の家は文教地区みたいな、学校や公園が近隣にいくつもあるようなところで、その公園を散歩するのが私のいつもの日課だったわ。

まだ朝早い時間に池のほとりを歩いていると、そこに“彼女”がいたの・・


そこまで話してから、初江は七海を見たが、七海はじっと初江を見返して、先を促すように軽くゼスチャーしただけだった。


まだ幼さの残る真剣な顔で、池のスケッチをしていた彼女に、なんとなく惹かれるものを感じた私は声をかけたの。彼女は決して人懐っこい性格ではなかったけれど、大学に入学して自分の夢に向かって歩み出したばかりで興奮してたのでしょうね。目をキラキラさせながら楽しそうに絵のことや、未来の夢を聞かせてくれたわ。なんていうか、親の敷いたレールに沿うようにして親の希望した女子大を卒業し、親が理事長をしている財団に就職し、そしておそらく親か親戚の持ち込んだ縁談でお見合いし、という未来しか見えなかった私には、そんな彼女がとても眩しく見えたわ。

そんなに長く話したわけではなかったわ。その場はお互いの名前も知らないまま、また会ったら話をしましょうか、とお愛想を言ってその場は別れたんだけど、その週の内にその“また”があったの。休日に近くの喫茶店でお茶を飲みながら本を読んでたら、後から入ってきた彼女に声をかけられて。今度はちゃんと名前を名乗るところから初めて、その時になって、お互いの実家がそれほど離れていないこともわかって、一気に親近感が湧いたわ。

少しずつだけど、どんどんと親しくなって、一人っ子だった彼女は、まるでお姉さんができたみたいだ、と凄く慕ってくれて、私も兄弟がなかったからそんな彼女が嬉しかった。

その間にも環境の変化はあったわ。

私は思っていたとおり親戚の持ち込んだ縁談で結婚し、子供もできた。こちらに戻ってからは夫の希望で家庭には入ったけど、財団の方には関わり続けていたし、それなりに充実した日々だった。

お見合いの結婚ではあったけれど夫は優しい人だった。私が一人娘ということもあって婿養子に入る形になったんだけど、そんな中で人が勧めるだけのことはあって、人柄も才能も申し分なく、愛情も深い人だった。生活を共にする中で、私はどんどんあの人に惹かれて行ったわ。その頃が、もしかしたら私の人生で一番充実していた時期かもしれない。

そんな中でも、私が東京の行った時や彼女が帰省した時は必ず会って話をしていたわ。その頃の私には、心許せる友人というものが少なかったから、それは楽しい時間だった。


ただね、と初江はそこでわずかに視線を逸らせた。

「少しずつ、幸せを掴みつつあった私とは対照的に、画家を目指していた彼女の人生は順風満帆とはいかなかった」

「別に、絵が下手なわけではなかったんですよね?」

ここに来て初めて口を開いた七海に、じっと七海の顔を見つめてから初江は頷いた。

「とても上手だったわ、少なくとも私の目には。風景でも、人物でも、どうしてこんなに絵の中に落とし込めるのかと思うほどに、とても写実的に綺麗に描いた。どんな美しい景色でも、彼女が絵に描けばもっと美しく見えるほどに」

「でもそれだけではダメだった?」

「ええ、そういうことになるわね」

昔は知らないっすけど、と七海はクッキーに手を伸ばしながら言った。

「今の芸大って、入学と同時に今までの自分を全否定されるところから始まるって記事呼んだことありますね。絵が上手く描けるのはヤル気が有る無しレベルに最低限のスペックで、芸大というところはそこから“次”を求められる、って」

まさにそのとおりだわ、と初江はため息をついた。

「けれど、その当時の私はそんなことはわかっていなかった。どうしてこんなに上手に絵が描けるのに認められないのか、ということが不思議でしかなかった」

いえ、と初江はそこで首を振った。

「いつか、絵に対してこんなにも情熱を持ち、こんなにも上手い絵が絵が描けるのですもの、いつか、チャンスさえ掴めばきっと認められるはずだ、と信じていた。信じ込んでいたの」

そして、と続ける。

「地方の小さなコンクールで何度か賞をもらうようなこともあったけど、趣味の画家が出すようなコンクールで次点とか、とても人の注目を集めるようなものではなかった。2年留年して、それでもいつかは卒業して次に踏み出さなければならない。自分の才能に見切りを“つけることが出来た”人は美術の教師になったり、デザイナーとして就職したり、家に余裕のある人は“その”道を続けたり。けれども彼女はそのどれも選べなかった、まだ踏ん切りが付かなかったの。下手に他人よりの多少才能が有った分、あきらめきれなかったの。そんな彼女を見て、私は夫にも相談をした上で、画業を続けるための資金援助を申し出たの」

「つまりは、タニマチとかいうやつですな?」

パトロンですよ、と賢人が小さくため息をつく。

「条件は、そう、彼女の生活と画業を続けるのに必要な資金を全て提供する代わりに、彼女がその年に描いた絵の内、気に入った1枚を優先的に買い取り交渉する権利を取得するというものだった。画家を支援する場合はありきたり条件ね」

「随分と破格ですね、まだ画家とも言えない相手に」

そうね、と初江は寂しそうに笑った。

「別に彼女の絵が欲しかったわけじゃないの。それまでだって、私が頼んだら彼女は喜んで私の注文に応じた絵を描いてくれていたんですもの。彼女のプライドを守りつつ、彼女が絵の道を進み続けられる最低必要な資金援助を行うにはどうしたらいいか、考えた結果がこれだったの」

けれど、と初江は俯いた。



短期だけれども勉強のためにヨーロッパにも留学させてあげたし、個展も開いた。それでも、彼女の絵が認められることはなかった。学生の時よりは格の有るコンクールで賞を取ることもあったし、雑誌に小さく取り上げられることもあったけど、それが生業としての画家として認められることにはつながらなかった。

本人の頑張りはいつまで経っても実を結ばず、時間だけがただ無為に過ぎていく。

その当時は、彼女は本拠を東京に置いていたし、子供のこともあって私はここで生活していた。会うのは年に数回になっていた私は、彼女の精神が静かにきしみ始めていることに気付いてあげられなかったの。

ある日、彼女から突然電話がかかってきたの。

ろれつの回らない口調ですすり泣きながらとりとめのない話を繰り返す彼女の様子に異変を感じた私は取るものもとりあえず慌てて上京し彼女のアパートを訪ねたわ。

扉を開いて目に飛び込んできたのは、荒れ果てた部屋の真ん中でげっそりとやつれて虚ろな目で座り込んでいる彼女の姿だった。

慌ててタクシーを呼んで病院に連れて行ったけど、病院で点滴を受けた後、精神病院の受診を強く勧められ、またその足で精神病院に連れて行った。すぐに、うつ病の診断が出たわ。



メランコリアって奴ですかね?と賢人を向いた七海が言った。

「確か、創造的な仕事をする人に必要な気質じゃなかったでしたっけ?」

「そういう気質であるかどうかと、病気として診断が出るのとはまた別の問題ですよ」

そう答えてから初江を向いた賢人に、初江も頷いた。

「医師は入院の上の経過観察を勧めたけれども、彼女は頑として拒否して・・・強く諭しても・・もう手が付けられないくらい暴れて。仕方なく私はアパートに彼女を連れて帰ったんだけど、戻った途端彼女はカンバスに向かって一心不乱に絵を描き始めたの。わき目も振らず、何事かとりとめないことを呟き続けながら。とても一人で置いておける状況ではなかったから数日は私もついていたんだけど、私も私の家族が有り、生活があるから、ずっとそのままというわけにもいかなかった。そんな時ふと、財団で働いていた時に知り合った女性を思い出して連絡をとったの。その当時はまだ珍しかったんだけど、その人は独居の老人や精神障碍者の人の見守りをするようなボランティアをしていた人でね、私の話を聞くと直ぐに彼女の家も定期的に訪問してくれることになったの」

けれども、と初江は再び俯いた。



彼女を訪問するたびに、その人から様子を知らせる電話をもらったんだけれども、彼女の様子はだんだん悪くなる一方だった。

何日もずっと家の中に閉じこもって絵を描いていたかと思うと、ふっと行方不明になり慌てて捜索願を出して、一週間ほどしたら大量の素描の写生を持って戻って来て、また家に閉じこもる、そんなことの繰り返しだった。

その合間にも、唐突に、昼夜を問わない時間に私に電話がかかってきて、もう無理だ、とか、助けて、とか、泣きじゃくって。そんな時は、私も時間が取れる限り東京に行って彼女を励まして。

それでも、彼女に対してもう絵は諦めようとは言わなかった。彼女を見ているととても言えなかったのよ。

そんな時間が何年か過ぎて、私の方も状況が変わってきた。

夫が体調を崩し寝たり起きたりの状態が続いたの。悪いことに子供の受験も重なって、経済的に困窮するというのではなかったけれど、私も自分の生活で手一杯になっていた。そんな時に母が急逝して一人娘だった私は葬儀なにやらその対応にも駆け回らなければならなかった。普通、そんな大変な時期なら葬儀も簡素に、ということにすればいいのだろうけれど。



そこまで言って、初江は見上げるようにしてぐるりと部屋の中を見回した後、寂しそうに七海に笑いかけた。

「“こういう”家だから、世間様がそれを許してくれなかったのよ」



そんなこんなで心身ともに疲労困憊だった有る深夜、彼女から電話がかかってきたの。

もうだめ、私はもう、助けてお姉さん、て、いつもの繰り言を繰り返す彼女に、疲れきっていた私は「いつもいつも弱音ばっかり吐かないで!あなた画家でしょ?そんなに辛いなら、そんなに苦しいなら、それを絵にしなさいよ!」と叫んで一方的に電話切ったの。



そこで言葉を切った初江は、しばらく無言で俯いた。

「数日後、彼女のことを頼んでいた人から電話がかかってきたの。彼女のアパートを訪れたら、彼女が首を吊って自殺をしていた、って、慌てた声で」

まるで様子を探るようにして初江がちらと七海に視線を向けたが、七海は左の眉をわずかに上げたしかめ面で初江を見返しただけであった。

「大急ぎで東京に駆け付けたわ。遺体は既に片付けられていたけれども、部屋の中には、まるでさっきまで絵を描いていたかのように画材が散らばり、そして、イーゼルの上にはあの絵が残されていた」

一つため息をついた初江は、再びしばらく沈黙した後、口を開いた。

「普通死んだあとは体が弛緩して・・・ごめんなさいね、便や尿が出るらしいんだけど、ずっと何も食べていなかったのか、部屋は汚れていなかったそうよ」

七海はまるで何かを想像するかのように瞑目のような長い瞬きをした。

「彼女の遺体は実家に運ばれて、死に方が死に方だったから、簡素にお葬式が行われた。お葬式に参加したわたしは、その場で、彼女の両親に、彼女の遺作となったあの絵を譲ってほしいとお願いしたの。私と彼女の関係を承知していたご両親は、無償ただで譲ると言ってくださったんだけれども、私は売って欲しいとお願いしたわ」

そこで、初江はわずかに笑みを浮かべて七海を見た。

「一千万円で」

既にしかめていた顔を更にしかめて、七海は初江の視線を受け止めた。

「ずいぶんと張り込まれましたね。あの絵に、それほどの価値はないですよね?」

そうね、と初江は笑った。

「そうね、一体なんでかしらね?」

俯きながら、初江は笑いを収めた。

「ただね、なんでかしら、そうね、そうしたかったから、としか言いようが無いわね」



もちろん夫には事前に相談し、了解を得たわ。あなたの言ったとおりあの絵にそれほどの価値はないことは夫もわかってはいたけれど、彼女と私の関係を承知していた彼は何も言わずに了承してくれたわ。

そうね、そのとおりだわ。あなたの言ったとおりあの絵にそんな価値はなかったかもしれない。彼女の絵は何枚かは売れはしたけれども、それでも数十万円止まりだったから。

私は何をしたかったのかしらね。それは、本来ならば画業など続けられるはずのなかった彼女を資金援助して困難な絵の道に進ませて最後には自殺させたことへの贖罪だったのかしら。それとも、その作品が一千万円で売れた画家にしてあげたかったのかしら。何度も何度もあの時の気持ちを思い出しながら考えたんだけど、自分でもわからないのよ。

それ以降、あの部屋のずっとあの絵を置いて時々眺めているの。

ほら。



言いながら初江は一方の壁を指差した。

池のほとりを描いた緑の美しい風景画が壁を飾っていた。

「あの絵は、彼女と私が初めて会った時に書いていた絵よ。彼女はスケッチだけのつもりだったみたいだけど、私がお願いしてちゃんと絵にしてもらったの。でも」

そこで初江は、壁を見通して見つめるかのように、あの絵の飾ってある部屋の方を見た。

「あの絵だけはどうしても、部屋に飾る気になれないのよ。

夫が亡くなり、子供達も独立していって、一人残されてこうやって有り余る時間を過ごしていると、思い出すのは彼女のことばかり。よく考えてみれば彼女と一緒に過ごした時間はそれほど長くはないの。私は働いていたし彼女は学生、会えても月に数回、私がこちらに帰ってからは尚更、会うのは年に数回になったわ。それなのに、なぜか彼女が私の人生の中で大きな意味も持ってたと感じられて仕方ないの」

そこで一度言葉を切ってから初江は再び口を開いた。

「彼女はいつも風景や静物などの、実際に存在するものを描いていた。心象風景を絵にすることはなかった。そんな彼女が初めて、最後に描いた絵があの絵だった。私が気付かなかっただけで、彼女の心の中ではいつからかあんな真っ黒なものがずっと渦を巻いていた。それは一体いつからなの?それは何故?もしかしてそれは私のせいなの?そんなことばかりが頭を巡った」

初江はしずかに目を瞑った。

「そしていつ頃からかしら、あの絵の前に座って、あれを描きながら彼女は何を考えていたのだろうとぼんやりと見つめていると、なんだかあの渦の中心から、彼女がじっとこちらを見つめているような気がしてきたの。その目は無表情にただ見つめているようで、恨みに満ちた目で私を睨んでいるようで、静かに私を観察しているようで・・・その時々で違うけれども、ただ、はっきりとこれだけは感じたわ。その目はこう言っていた、お前を見ているぞ、と」

そこで何か意見を求めるかのように七海を向いた初江だったが、七海はその視線に気付かないふりをして

あの絵のある部屋の方を見つめたままであった。

「私は間違っていたのかしら。資金援助などして甘やかせず、早く彼女に絵の道を諦めさせた方がよかったのかしら。そうして甘やかすことによって、逆に彼女は止めるにやめられなくなって追い詰められ、限界を迎えてしまったのかしら。彼女がいつも言っていた、もう無理、は、もう止めさせてというSOSの叫びだったのかしら。そして私は追い詰めるだけ追い詰めた挙句、最後に彼女を突き放してしまったのかしら。そんなことばかりが頭をよぎる。そしてあの渦から見つめてくる視線は、そんな私に、今度は逆にお前がどう生きていくのか見ているぞ、と彼女が言っているように感じて仕方がないのよ」

「お言葉を返すようですが、あれはただの絵ですよ」

初江が七海を見た。

「あれは、木と布と絵具でできた、ただの物です。“あっち”から誰かが見てるとかないですから」

けど、と初江はじっと七海を見つめた後、視線を逸らせた。

「けれども、あなたも、あの絵から視線を感じるとおっしゃったわよね」

それは気のせいです、と七海は言い切った。

「私は適当に生きている人間ですので、私の言葉も口からのでまかせです。それはこの賢人さんが証明してくれます。ねえ?」

それはまあ確かにそうですが、突然ぼくに振らないでください、と賢人が口の中でつぶやいた。

それに、と紅茶のカップを手に持ったまま立ち上がった七海は窓際まで歩いて外を見つめた。

「幽霊なんていませんから。幽霊というのはオカ板の住人の腐った脳が生み出した幻想に過ぎませんので」

オカイタノジュウニンが何か初江さんにはわからないだろうな、と半眼になった賢人の向かいの席で何か言おうと口を開きかけた初江にかぶせるように、それに、と七海が続けた。

「その人、何か初江さんのこと恨む理由なんてあるんですかね?一生好きな絵を描いて生活させてもらって、文句なんてあるんですかね?自分の生きたいように、自分の一番好きなことを仕事にできる人の方が少ないんですよ?自分のしたいこともできずに生活するのが精一杯で、その上でストレスや苦悩の抱えて生きている人なんてざらですよ。それに芸術家として生きていくのであれば、創作上苦悩するなんて当たり前でしょ?」

再び口を開きかけた初江を、七海は手で制した。

「それに、初江さんはさっき、その人がどういう気持ちで絵を描き続けていたか、あなたのことをどう思っていたが理解できない、とおっしゃいましたけど、少なくともあなたはその人の描いた絵の一番の理解者だったわけで、彼女の絵を一番評価していた人ですよね?それだけでも、画家としてそれ以上に感謝するべき人って、います?」

そこまで聞いて、七海を見ながら激しく瞬きした初江は、やがて俯くと静かに微笑んだ。

「ありが・・」

あの絵、と七海は続けた。

「持っとくといいですよ。ゴッホだってほかのだれかだって、死んでから絵が評価された画家なんていくらでも居るんですから。そのうち10億くらいで売れるかもですよ。それと・・・」

喋り続ける七海の声を聞きながら、俯いたまま笑みを浮かべていた初江は、何か楽しい歌でも聴くように目を瞑った。



往路と違い、帰りの車の中は終始静寂が支配していた。

やけにエンジン音を感じる車の中で、賢人も七海もどこかくつろいだ、わずかに疲れたような表情でただ車窓を見つめていた。そんな二人の様子を察したのか、賢人の父も黙ってハンドルを握っていた。

高速道路を降り、あとしばらく走れば賢人の家が見えてくるだろう辺りで、唐突に賢人が口を開いた。

初江さんは、と押さえた口調が言った。

「あの絵を見て、誰かかが渦の中から見つめているような気がする、と言った人にだけ、彼女とのことを話すそうです。まあ、めったにいないらしいですけどね、そんな人」

ごめんね、と窓ガラスに軽く頬杖をつき車窓に流れる景色をぼんやりと見つめながら七海が小さく言った。

「沙織さんや三輪さんなら、もう少し気の利いた事言えたのかもしれないけどさ、私にゃあれで精一杯だったよ」

十分ですよ、と前を向いたまま賢人は目を瞑った。

「十分ですよ。ありがとうございました」

うん、と小さく応えた七海をちらと肩越しに振り返った父が、家の門の前を通り過ぎながら、このまま駅まで行くよ、とこれも静かに言いながら車を走らせ続けた。

車の中を再び静寂が支配し、車は走り続けた。


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